Chapter 1 of 7

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大師の時代

榊亮三郎

本日は、弘法大師の御降誕に際しまして、眞言宗各派の管長の方々、並に耆宿碩學の賁臨を忝うし、又滿堂の諸君の來集の中に於て、此の演壇に立ち、宗祖大師の時代につきまして、一塲の卑見をぶることを得まするは、私にとりまして、光榮至極のことゝ存じます、演題は、茲に掲げました通り「大師の時代」と云ふのであります、從來、宗祖大師の降誕會を擧行せらるゝ度毎に、緇素の諸名流方が、此の演壇の上に現れまして、或は大師の文章につき、或は才學につき、或は建立せられた教義につき、或は功業遺徳につき、演述せられたものは甚だ多い、此等は、弘法大師の面目其のものを描き出したもので、濃淡の差はあり、色彩の別はありましやうが、謂はば、大師の御肖像を描き出す上に於て、全部又は一部の貢與をなされたものと私は信じます、由來、肖像畫は、畫の中でも、困難なものであつて、就中、宗祖大師のごとき方を言説の力で描き出して聽くもの、見るものをして、其の眉目生動の御姿を彷彿せしむるは、困難至極のことであると想像致しますが、從來發表せられた講演の筆記を拜見致しますに、中々巧にやりとげられたやうに窺はれますが、私の只今諸君の清鑒に供しまするのは、大師の御肖像ではありませぬ、大師の埀跡せられ、活動せられた時代そのものであつて、大師の御一身を、假りに龍に倫擬しますれば、今迄此の演壇に立たれた方々の御講演は、雲に駕し、雨を呼んで、九天の上に飛翔せらるゝ龍を描き出し、又は、描き出んと勉められたもので、其の苦心は、尋常一樣でなかつたことは、谷本、松本、内藤の諸博士の御演説集を一見致しましても、判然致します、此等は、孰れも、龍の全部を描出したものであるが、しかし、龍と申すも雲を得て、始めて、靈ある次第でありまして、風に駕し、雲を御して、始めて四海の上に飛翔することが出來るのである、私は、自から揣るに、到底龍其のものを描くことは、其の器でない強ひて、やれば、或は、蛇となる恐があるから、此の際、寧ろ、龍のつきものでありまする雲を描きたいと思ひ、又風を描きたいと思ひましたのが、即ち、大師の時代と云ふ題目を選擇しました所以で、大師の肖像ではないが、其の背景であり其の周圍であります、大師が、よりて以て飛翔せられた風雲であります、龍を描いて、雲を描かなかつたら、如何にして、其の靈を示すことが出來ましやうか、大師の文章才學を述べ、其の功業遺徳を讃歎しましても、大師を出した時代、大師が飛翔せられた雲霄の光景が、明かでない以上は、大師の面目が完全に描き出されんとは、云へない、此の點より申せば、私の選擇しました題目も、大師の遺徳を紹述します上に於ても决して、關係がないものとは、申されぬ次第と確信致します、私の家は、世々新義眞言宗の檀徒で、生れた故郷は、興教大師の御事跡と關係ある紀伊岩手の莊でありまして、幼少の時代から、嗜んで、弘法大師の御傳記などは、讀んだものであり、又義理は一切了解しませなんだが、般若心經や、光明眞言などは、七つ八つの時代から暗誦したもので、今でも、やつて見よと云はるれば、巧ではないが、素人仲間に伍すれば、その導師ぐらゐは、勤まる積である、かゝる次第でありましたから、弘法大師の傳記は種々讀みまするし、又傳聞もしましたが、幼少の頃は、想像に富み、空想に馳せ易いから、大師の傳記などは、字義通り、解釋し、又信じまして、自分が、小石を拾うて、紀の川に抛げても、一町とは飛ばぬに大師のごとくなりさへすれば、唐土から、三鈷杵を投げても、必ず雲山萬里の距離を飛び越して、高野山の松の枝にかゝるものと信じました、又村のはづれにある松原を、黄昏の頃に通りて、同行二人と書いた笠を戴いてひとり、とぼ/\と疲れた足を曳きづつて來る四國巡禮のものに遭ふと、かう見えても、もしや、是は、高野山の奧の院に今なほ居らるゝ大師が、假に身を扮じて、巡禮者となつて來たのではないかと思つたこともあつた、其の後、年が段々たけて、種々の學問や、種々の經驗などをしましたが、幼少の頃に、讀んだ宗祖大師の傳記は、時につれ、折に觸れて、私の心を動かし、感ぜしめたことが、尠くない、これと同時に、其の傳記に對する自分の見解が、變化して來て、最初の程は、超人間的であつたが、漸次人間的となつて來り文字通り解釋して來たものが、譬喩的に解釋する樣になり、幼少の頃は、彩霞雲の上に光明赫奕として居らるゝ大師の姿を望んで居たが、年が長ずると共に、大師の姿は、自分の身に接近せらるゝ樣に感じ、自分の師傅として、又自分の伴侶として、眉睫の間に、大師を見る樣な心地となつた次第で、以前は、「大師だから、かくかくである、自分では、とても」と思つたのが、後には、「大師がかく/\であるから、自分も」と云ふ樣になつて來た、隨つて、自分の所謂大師の面目なり、又御姿の輪廓なりが、明白になつて來たつもりである、殊に八年前、文部省の留學生となつて、佛國巴里に赴き、前後二年滯在して居つたときは、殊に、此の感が深かつた、「プラース、ド、ラ、コンコード」の廣塲から「ジヤンゼリゼー」の廣衢が、「ナポレオン」の建てた凱旋門を貫きて、「ブーローンヌ」の林につらなつてあるが、そこを午後三時から、夜にかけて輕車肥馬の來往が、織るがやうで、夜に入ると、車につけた燈火が、旁午入り亂れて、流星の亂れ飛ぶかと怪まるゝさまであつて、東海の一遊士たる自分は、此の光景を見るたび毎に、大師の長安に居られた時は、長安の大道は、坦として砥のごとく、佳人才子が、銀鞍白馬春風を渡つて、慈恩寺の塔の邊に行樂したさまは、かゝるものであつたらうと感じだ、又かの國の先輩や、同窓に親切に世話になつたときなどは、恐多い話ではあるが、宗祖大師が在唐の當時、青龍寺惠果和尚や、西明寺の志明談勝法師などに厚遇せられたことなどは、屡々心の中に浮び出た次第で、要するに、自分が今日に至るまで、理想として仰ぎ、伴侶として親み、順境の時にも、逆境に處した時にも、心裡に、慰藉を與へ、光明を放つて呉れた古今東西の偉人は、决して、鮮くないが、幼少の頃から、今に至るまで、忘れられないのは、歴史としては弘法大師の傳記で、稗史小説ではあるが、演義三國史に現はれた關羽の性格である、殊に大師の傳記が、自分の年の長ずると共に、閲歴見聞の加はると共に、了解せられ、氷釋するがごとき趣があるは、自から顧て、不思議の感がある。

大師の時代を論ずるには、當時の日本と支那とを了解せねばならぬが、當時の日本は、今日の日本とは異つて居つて、とりたて、世界に對し誇るべき程の文明はなかつた、すこし、矯激に亘る嫌はあるかも知れませぬが、當時大師の活動せられて居た奈良や京都の都は、要するに、支那の摸倣であつて、其の都に居つて、全日本を支配する位置に居られた方々の思想、並に好尚は、一に支那の摸倣に過ぎない、今日宮内省の所轄である正倉院の御物を、私は拜觀いたしたことがありましたが、同時に、近頃支那や、中央亞細亞などで、發掘した唐代のものと覺ぼしき美術文書などを見て、竊かに比較憶度致しましたが、從來、奈良の古社寺などで、何々天皇の御宸筆であるとか、何々皇后の御筆であるとか、又は何々大臣の作であるとか傳へられました古經古書などは勿論、古美術品でとりましても、果して、所傳のごとく、僞でないとすれば、實に眞に逼つた支那の摸倣であつて、如何にして、かくまで、眞物に似たものを摸倣し得たかと疑はるゝ次第であるが、これを以てしても、當時の上流社會が、如何に支那に文物を好尚したかが明瞭である、しかし、自分の考へでは摸倣にしても當時かくまで巧になし得たか否やを疑ふもので、平安朝の初は暫らく論ぜぬことにして奈良朝の中葉のつきて論して、見ますに當時の知識ある階級、即ち卿相僧侶の方々が、正倉院御物に於て、或は、奈良の古社寺などに存在する文書、繪畫等を自分の力で製作し得た程、進んで居つたか、どうか、甚だ疑はしい、自分の信ずる所では、某卿の作とか、某大臣の作だとか、或は何某の高僧の手に成つたものだとか云はるゝものゝ中に、支那朝鮮からの輸入品と認むべきものは甚だ多い、殊に古經などは、豊滿含潤、見るからに、骨董好きの人々に埀涎せしむる樣なものは、當時の純粹の日本人が書いたものでない、皆支那からの輸入したものか、支那の寫經生が書いたもので、現に正倉院の御物の中に、當時の日本人が、確かに書いた文書もありますが、比較して見ますると、書の巧拙に於て、雲泥の差があります、奈良朝の中葉に於ける支那の書風の摸倣は、未だ其の堂に上つたとは、思はれない、以上云ふたことは、必ずしも、區々たる書風につきてのみ云ふのではない、美術工藝の上でも、これに類したことゝ思ふ、今日保存せられて居る美術上の逸品は、或は、支那、朝鮮の歸化人が、作つたものか、然らざれば、輸入したものであると云ふのは、私の斷言して憚らぬ所である、もし當時の日本人が、日本にのみ居つて、支那の美術工藝の品を摸倣したものがありとすれば、これを支那の手本と比較すると、其の差は、盖し、巴里の春の「サロン」と、文部省が毎年東京の上野で開催する展覽會との差以上のものあつたと確信する次第である、しかし、繪畫と彫刻とか、工藝とかは、ともかくも、目で見れば、わかるもので、所謂胡蘆によりて、樣を畫き、支那傳來の樣式を墨守して、正直に摸倣すれば、精神はとても移すことは出來ぬとしても、形式だけは、具備することは、左程の難事でない、獨り、宗教や學術の如きは、其の主要なる所は、精神の機微に存する次第であるから、これを外國より傳へ來るにしても、傳へるものは、先づこれを會得し體得して、自分のものとせねばならぬ、殊に學術の中でも、哲學などは、たゞ/\書物ばかり讀んで、字義ばかり、たどつたとて、會得が、出來るものでなく、又宗教の中でも、形式の部分は、比較的移植され易いが、教相の部分は、哲學と同じく、暗默の中に悟入することを要する所がある、師資相對して、問ふことを得ず、教ふる事の出來ぬ部分がある、隱約の間に、双方の心が融會することを必要とする部分がある、かゝる次第であるから、如何に留學生を送り、如何に明師を迎へても、又如何に書籍を輸入しても、到底充分會得せられぬ部分があることは、免れない、奈良朝の佛教と云へば、先づ指を法相三論華嚴に屈するが、かゝる哲學的宗教は、これを輸入するには、如何に書籍を輸入し、又留學生を送りたりとて、完全に、會得せられ、領解せらるゝには、幾多の歳月を必要とする次第でありて、要は、俊邁達識の士が、良書を得て、其の中に於て、自己を發見するか、然らざれば、明師に遭うて、其の意見は、自己の考へと默契する所があつて、始めて、完全に、教は了解せられ、師資相傳するものである、しかし良書は、孰れの世でも得難い、明師と俊邁達識の士とは、遇ひ難きものである、されば、奈良朝の佛教と云ふものは、輸入佛教ではあるが、其の當時、輸入の困難であつたことは、想見に餘ある次第で、早い話が法相宗の輸入である、これは、更めて申すまでもなく、玄奘三藏が、渡天の上、戒賢其の他の論師から受けて、唐土に輸入したものであるが、かゝる教義は、本來發生の土地の語で書いたものならば、其の語に通したものが、讀めば比較的了解には困難ではなからうが、日本がこれを傳へたは、玄奘の支那から傳へたもので、支那語の學習が、當時已に日本の人々には、一大事業であるに加へて、衣裝は支那語であつても、中身は、印度思想であるから高遠な概念を有した哲學上の術語が多い、故に、日本から、支那に出掛けて學ぶにも、一人や二人の力の及ぶ所でない、第一には、孝徳天皇の白雉四年に、元興寺の道照が入唐し、玄奘につきてこれを學んだが、次には、觀音寺の、智通智達が、齊明天皇のときに、入唐して、同じく玄奘につきて、これを受け、又も、文武天皇の大寶三年に、智鳳だとか、智鸞だとかと云ふ連中が、入唐して、智周から學んで、日本に傳へ、又も、元正天皇の靈龜二年に、玄が入唐して、同じく、智周から受けたとの事であるが、かくの如く、一法相宗の輸入でも、道照から始まつて、玄に至るまで、我が國の俊才の士が、數度入唐し、時代は六十有餘年からかゝつて居る、其の後とても、屡々留學生を送つて、法相宗の教義を學習さして居るが、これでも、當時、果して完全に、玄奘や慈恩大師の著作が、日本に於て、了解せられたか否やは、私どもの大いに疑ふ所である、もし了解されて居つたと云ふ人があれが、何時でも、其の然らざる所以を擧證し得る積りである、宗教にしても、文學にしても、美術にしても、奈良朝の全部平安朝の初期のものは、要するに、支那朝鮮よりの輸入品でなくば、其の摸倣であることは、私の確信する所であり、又世間一般の定説であると信ずるから、特に喋々する必要はなきことゝ思ふ、しかし、其の輸入又は摸倣の迅速であつたことは、世間一般の想像するよりも、一層迅速であつたことは、私の又信じて疑はぬ所であります、玄奘が、印度から歸りて、戒賢論師から法相宗を傳へると、日本から早速道照が出掛けて、其の弟子の窺基、即ち慈恩大師と同宿の上で、教旨を學ぶとか、義淨三藏が印度から歸りて來て、一切有部の律が翻譯せられ、從來支那で闕けてあつた律も、漸く補足せられた爲めと、又其の少々以前で、道宣や懷素等の、諸高僧が、律のことを、喧しく唱導した爲とであるが、支那には、律宗の氣勢が加はつたと思ふと、やがて、義淨の入寂後、十五年とすぎぬ間に、開元十四年大安寺の普照と、元興寺の永叡とが、國主の命、即ち聖武天皇の勅命で、支那に赴き、僧伽梨幾領かを以て、中國即ち支那國に於ける高行律師達に施す旨が、佛祖統記第四十卷に見えてある、して見れば、其の少し以前、義淨三藏の入寂後間もなく、又は、在世中、既に初唐の律宗の流行が、日本にも、影響したものと斷言出來る、是れやがて、鑑眞律師の來朝の動機となり、又律宗の本山たる唐招提寺の建築の動機となつた次第で、其の外、唐僧道律師が、賢首大師の後を承けて、聖武天皇の天平八年、西暦で云へば、七百三十六年、華嚴宗を始めて、日本に傳へたことは、何人も知悉せる事實であるが、假りに、賢首大師の入寂を、西暦七百十二年とすれば、華嚴宗が日本に傳はるには、僅に二十四年の間である、交通不便の當時にあつては、思想の傳播に要する時日としては、二十四年は僅少の時間と云はねばならぬ、思ふに遣唐使の來往以外に、留學生の來往、唐の諸高僧并に碩學の來朝、又は、史乘に現はれてあるよりも、なほ多くあり、此等の媒介によりて、唐代の新思想、新衣冠、新風尚は、波蕩響應して我が國の上流社會の思想風尚を、比較的短日月の間に、變化せしめたことは、奈良朝より、平安朝の初期に至つて、文明波及の大勢であつたと見える、當時の上流社會は、唐代の文明を模倣することを以て、如何に自から高とし、自から榮として、誇つたかは、今日の如く、日本が世界に誇るべき特種の文明を有する時代の吾々には、殆んど想像が出來ぬ程甚しかつたと思ふ、奈良の奠都と云ひ、平安の奠都と云ひ、寺院の建立と云ひ、官制の制定と云ひ、皆然りと云ふことは、出來ると、私は、信じます、かの法相の本山たる興福寺でありますが、藤原氏の建立した寺があることは、今更申し上ぐる要もありませぬが、最初は、今の山科にあり、山階寺と申しましたが、天武帝の時代に、大和の高市に移りまして、廐阪寺と申し、奈良の奠都と共に、奈良に移つて、興福寺と申すことになつた次第でありますが、其の寺號は、何故に、かく興福寺と云ふに至つたかと云ふことにつきては、私の寡聞によることと思ひますが、別に説明をした人がありませぬ、然し、法相宗の本山であつて、かく名稱を改めたは、當時、建立者たる藤原氏の人々の中には、慥に、唐の玄奘三藏が居つた三寺の隨一たる興福寺の名稱を、其の儘に用ひたものと私は確信致します、長安の興福寺には、唐の大宗の御製で、東晋の王羲之が書いたと云ふ、一寸聞くと妙に思ふ、かの大唐三藏聖教の序があつた所で、大宗が太穆皇后の追福の爲に、建立した寺で、其の聖教序は、今もなほ西安府學の文廟の後にある碑林にあるとの事である、尤も唐の興福寺は、最初弘福寺と云ふたが、高宗皇帝の時に、興福寺と改めたものであります、日本の興福寺は、其の改名後の名を採用したことは云ふまでもない、其他、唐僧道慈が建てた大安寺も、當時の長安の西明寺に規したものである、其他唐招提寺なども、唐代の建築に則り、唐より來朝した工匠の手に成つたことは言を待たない、私共が奈良で、古き時代の寺院を見ると、其の中に、一種の感想が、起つて來る、それは、日本人の手になつた事業、又は製作品に於て、見ることを得ないものであつて、外でもないが、堅牢壯大と云ふ感想で、英語で云へば、「ソリダリテイ」の考へである、これが建築の上に表現されて居るやうな氣がする、奈良朝の時代に成り、又は、奈良朝の時代のものに摸した寺院は、其の起原は、唐代にあり、又支那の大陸にあるのであるから、日本の土地に存在するが、其の實、支那の建築であり、且つ支那でも、最も氣宇廣大であつた、唐代の人々の精神が、現はれて居るから、かゝる感想を起させるものと私は思ふ。

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