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日本史に女性時代ともいうべき一時期があった。この物語は、その特別な時代の性格から説きだすことが必要である。
女性時代といえば読者は主に平安朝を想像されるに相違ない。紫式部、清少納言、和泉式部などがその絢爛たる才気によって一世を風靡したあの時期だ。
けれども、これは特に女性時代というものではない。なぜなら、彼女等の叡智や才気も、要するに男に愛せられるためのものであり、男に対して女の、本来差異のある感覚や叡智がその本来の姿に於て発揮せられたというだけのことだ。
つまり愛慾の世界に於て、女性的心情が歪められるところなく語られ、歌われ、行われ、今日あるが如き歪められた風習が女性に対して加えられていなかったというだけのことだ。とはいえ、今日に於ては、歪められているのは男とても同断であり、要するに男女の心情の本性が風習によって歪められている。
平安朝に於てはそれが歪められていなかった。男女の心情の交換や、愛憎が自由であり、愛慾がその本能から情操へ高められて遊ばれ、生活されていた。かかる愛慾の高まりに、女性の叡智や繊細な感覚が男性の趣味や感覚以上に働いたというだけのことで、古今を問わず、洋の東西を問わず、武力なき平和時代の様相は概ね此の如きものであり、強者、保護者としての男性の立場や作法まで女性の感覚や叡智によって要求せられるに至る。要求せられることが強者たる男性の特権でもあるのであって、要求する女性に支配的権力があるわけではない。いわば、男女各その処を得て、自由な心情を述べ歌い得た時代であり、歪められるところなく、人間の本然の姿がもとめられ、開発せられ、生活せられていただけのことなのである。特に女性時代ということはできない。
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皇室というものが実際に日本全土の支配者としてその実権を掌握するに至ったのは、大化改新に於てであった。
蘇我氏あるを知って天皇あるを知らずと云い、蘇我氏は住居を宮城、墓をミササギと称し、飛鳥なる帰化人の集団に支持せられて、その富も天皇家にまさるとも劣るものではなかった。畿内に於けるこの対立ほど明確ではなかったにしても、地方に於ける豪族は各土地を私有して、独立した支配者として割拠しており、天皇家の日本支配は必ずしも甘受せられていなかった。
大化改新は、先ず蘇我一族を亡すことから始められたが、その主たる目的は、天皇家の日本支配の確立、君臣の分の確立ということだ。口分田とか租庸調の制度は、土地私有の厳禁、つまり天皇家の日本支配の結果であって、目的ではない。
蘇我氏を支持する帰化人の集団は飛鳥の人口の大半を占め、当時の文化の全て、手工業の技術と富力をもち、その勢力は強大であった。真向からこれを亡す手段がないので、天智天皇は皇居を近江に移してこの勢力の自然の消滅を狙ったが、この勢力の援助なしには新都の経営も自由ではない。その弟の後の天武天皇が兄の天皇の憎しみを怖れて吉野に逃げたのも、この勢力の支持を当にしてのことであった。
持統天皇は藤原遷都によってこの勢力との絶縁を志して果し得ず、奈良の遷都によって始めて絶縁に成功した。天皇家の日本支配がこのときに確立したので、古事記や書紀の編纂がこの時期に行われたのも、天皇家の日本支配を正統づける文献が必要であった為であり、その必然の修史事業の企てによっても、この時期に於ける天皇家の地盤の確立を推定し得るであろう。
爾来、天平の盛時、諸国に国分寺がたち、聖武天皇が大仏の鋳造に勅して、天下の富をたもつ者は朕なり、天下の勢力をたもつ者も朕なり、堂々宣言のある日まで、日本は主として女帝によって孜々として経営がつづけられていた。天皇家の日本支配は女帝によってその意志が持続せられた。聖武天皇はかかる女帝の経営の結実であり精霊であり、そして更にその結実は孝謙天皇の血液へ流れる。史家は当時をさして、仏教政治という。否、表に於ては、そうである。内実に於て、その支配者の血液の息吹に於て、まさしく、女性政治であった。
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天智天皇は当然継承すべき帝位に即かず、皇極、孝徳、斉明、三帝のもとに皇太子として暗躍した。斉明は皇極の重祚であり、天智の生母、舒明の皇后であり、孝徳はその弟、天智の叔父に当る。
この時まで女帝ということは推古の外には例がない。然し、この時には女帝に意味があるのではなく、中大兄皇子(天智天皇)が自らの意志によって皇太子であったところに意味があり、皇子は大改革、むしろ天下支配の野心のもとに、その活躍の便宜上、ロボットの天皇を立て、自らは皇太子でいたものだ。その腹心は鎌足であり、全ては二人の合議の上で行われたものであった。
自分自ら号令を発しても威令は却々行われるものではない。一つの神格的な天皇というものを自分の一段上に設定する。そして自分の号令を天皇の名に於て発令し、自分自身がその号令に服して見せる。そして、自分が服したことによって、同じ服従を庶民に強制するのである。この方法は平安朝の藤原氏が、武家時代の鎌倉政府が足利氏が、そして昭和の今日には軍閥政府が、行ったところである。天皇はロボットであった。その号令は天皇の意志ではなしに、藤原氏の、鎌倉幕府の、軍閥政府の意志であった。然し、彼等は天皇の名に於て自らの意志を行う。そして自ら真ッ先にそれに服従することによって、同じ服従を万民に強要するのである。これは利巧な方法であった。そして、この原形を発案したのは中大兄皇子であった。皇子は、皇極、孝徳、斉明三天皇を立て、自らは皇太子として、大改革に着手した。
従って皇極(斉明)という女帝は中大兄皇子のロボットであり、女帝自体に意味はなかった。女性時代ともいうべき女帝時代は持統天皇から始まる。
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天武天皇崩御のとき皇太子(草壁皇子)がまだ若かったので(当時は幼帝を立てる例がなかった)皇太后が摂政した。三年の後、皇太子も亦薨じ、その子珂瑠皇子は極めて幼少であったから、皇太后が即位した。持統天皇であった。
持統天皇の在位は皇孫珂瑠の保育にあったが、太政大臣に高市皇子を任じ、補佐するに葛野王あり、家族政府として極めて鞏固な団結であった。持統天皇が強烈沈静の性格の持ち主であったことは、彼女が自らの遺言によって、天皇の火葬の始めであることによっても考えられる。
死後の世界は、今日科学によって死後の無を証明せられてすら、尚我々の知性に於てもその空想と恐怖から解放されてはいない。原形のまま地下に横たわり他日の再生を希うことは人間本来の意志であるが、その仏教に対する信仰の結果とは云え、自ら意志して、肉体を焼き無に帰すことを求めるのは凡人の為し得るところではない。持統天皇は天智天皇の娘であるが、その夫大海人皇子(天武)が天智天皇に厭われて吉野に流浪のときも従属しており、その強烈沈静な性格は知り得るであろう。
皇孫珂瑠は譲を受けて即位し文武天皇となる。このときの詔に、
「現御神と大八島国所知天皇が大命らまと詔りたまふ大命を集待れる皇子等王臣百官人等天下公民諸聞食さへと詔る」(下略)と。
自らを現御神と名のり、大八島しらす天皇と名のる、この堂々の宣言を読者諸氏は何物と見られるであろうか。私はこれを女と見る。女の意志を見るのである。
私は一人の強烈沈静なる女の意志を考える。その女は一人の孫の成人を待っていた。その孫が大八島しらす天皇、現御神たる成人の日を夢みていた。その家づきの宿命の虫の如き執拗さをもって、夢み、祈り、そして、育てていたのだ。人はすべて子孫の繁栄を祈るものであるかも知れぬが、別して女は、別して強烈沈静なる女は、現実的、肉体的な繁栄や威風をもとめてやまないものである。北条政子と同じ意志がここにある。そして、政子の如く苦難に面していなかった。順風に追われていた。
我々がここに見出すのは、政府ではなく、家であり、そして、家の意志である。
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文武天皇は二十五で夭折した。皇子首は幼少であったから、その生長をまつまで、文武天皇の母(草壁皇子の妃)が帝位についた。元明天皇である。天智天皇の娘であり、持統天皇の妹であった。
つづいて元正天皇に譲位した。首皇子が尚成人に至らなかったからである。元正天皇は元明天皇の長女であり、文武天皇の姉であり、首皇子の伯母であった。
こうして、祖母と伯母二代の女帝によって現人神としての成人を希われ祈られ待たれた首皇子は、後の聖武天皇であった。
女帝達の意志のうちに、日本の政治、日本の支配、いわば天皇家の勢力は遅滞なく進行していた。大宝、養老の律令がでた。風土記も、古事記も、書紀もあまれた。奈良の遷都も行われた。貨幣も鋳造された。
然し、女帝達の意志と気力と才気の裏に、更に一人の女性の力が最も強く働いていた。橘三千代であった。天武以来、持統、文武、元明、元正、聖武、六代にわたって宮中に手腕をふるった女傑であった。
男の天皇に愛せられた女傑の例は少くない。然し、男の天皇にも、別して女の天皇により深く親しまれ愛されたという女傑の例はめったにない。
三千代は始め美努王に嫁して葛城王(後の橘諸兄)を生み、後に、藤原不比等に再嫁して光明皇后を生んだ。元明女帝の和銅元年、御宴に侍した三千代の杯に橘が落ちたのに因んで橘宿禰の姓を賜ったのである。
史家は推測して、三千代は文武天皇のウバの如きものではなかったか、又、首皇子に就ても同じような位置にあったのではないか、という。とまれ六朝に歴侍して宮中第一の勢力を持ち、男帝女帝二つながら親愛せられて、終生その勢力に消長がなかったという三千代の才気は、いささか我々の理解を絶するものがある。
然し、こういうことが云える。六朝に歴侍して終生その宮中第一の勢力に消長がなかったという三千代の当面の才気に就ては分らない。然し、三千代の地位と勢力に変りがなかった半の理由は宮中自体の性格の中にも在るのだ、と。
天武天皇までの歴朝はお家騒動の歴史であった。天武天皇自体、兄天皇に憎まれ、逃走、流浪、戦乱の後に帝位に即いた人である。然し、つづいて持統より聖武に至るまで、持統の初期にお家騒動の多少のきざしが有っただけで未然に防がれ、それより後は「家」という足場自体に不安のきざしたことはない。たまたま男の継嗣は長寿にめぐまれず、幼児を擁して女帝の摂政がつづいたとはいえ、その成人にあらゆる希願と夢を托して、一方に朝家の勢力、日本支配は着々と進み、すべては順潮であった。六朝の意志に変化はなく、六朝の性格は一貫していた。
夫(天武)より妻(持統)へ。
祖母(持統)より孫(文武)へ。(まんなかの父草壁太子は夭折したのだ。然し、母は残り、これ又、次に天皇となる)
子(文武)より母(元明)へ。(この母は同時に持統の妹でもあった)
母(元明)より娘(元正)へ。(この娘は文武の姉に当っていた)
伯母(元正)より甥(聖武)へ。
文武を育てる持統の意志は、聖武を育てる元明、元正両帝の意志の原形であり、全く変りはなかった筈だ。元明は持統の妹だ。そして、元正は元明の娘であった。
二人の幼帝の成人を待つ三人の老いたる女は同じ血液と性格を伝承し、ひたすら家名の虫の如き執拗な意志を伝承していた。時代と人は変っても、その各の血と意志に殆ど差異はなかったのだ。
家名をまもる彼女等の意志は、男の家長の場合よりも鞏固であった。なぜなら、彼女等の自由意志は幼帝を育てるという事柄のうちに没入し、彼女等の夢の全てがただ幼帝の成人に托されていたからである。女達がその自由意志、欲情を抑え、自ら一人の犠牲者に甘んじて一つの目的に没頭するとき、如何なる男も彼女等以上に周到な才気と公平な観察を発揮することはできないものだ。
史家は三千代を女傑という。女傑という意味にもよるが、三千代はたぶん策師ではなかった筈だ。なぜなら私情を殺した女支配者の沈静な観察に堪えて最大の信任を博したのだから。彼女は貞淑であり、潔癖であり、忠誠であったに相違ない。もとより、すぐれた才気はあったが、善良であったに相違ない。温和であったに相違ない。
沈静な女支配者の周到な才気と観察の周囲には男の策略もはびこる余地はなかった。大臣は温和であった。藤原不比等は正しかった。彼等は実直な番頭だった。すべての意志が、天皇家の家名のために捧げられ、一途に目的を進んでいた。