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「ごらんなさい。あの男ですよ」
村役場の楼上で老村長と対談中の鮫島校長は早口に叫んで荒涼とした高原を指さした。
なだらかに傾斜する見果てない衰微。白樺の葉は落ちて白い木肌のみ冷めたい高原の中を、朽葉を踏み、紆るやうに彷徨ふ人影が見えた。
「毎日ああして放課後の一二時間も枯枝のなかをぶら/\してゐるのですよ。椿といふ、あれが先刻お話した赤い疑ひのある訓導です。間違ひの起きないうちに、出来れば二学期の終りに転任させたいものですがね。うまく欠員のある学校がみつかるといいのだが……」
「はつきりした左傾の証拠はあるかね?」
老村長はぶつきらぼうに訊いた。
「必ずしも。はつきりしたことは言へませんが。この間違ひに限つて一度おきたら取返しのつかない怖ろしいことになりますからね。学校も。村も」
校長は分別くさい顔付をして、その顔付をでつぷりした上体ごと村長の前へ突き延した。
老村長は顔をそむける。その分別くさい顔付は見たくもないと言ふやうに。そして茫漠と夕靄のおりそめてきた高原の奥を眺めふける。
窓硝子に迫まる重苦しい冬空。冬空の涯は遠景の奥で夕靄につづき、そして地上へ茫漠と垂れ落ちてゐた。そこでは大いなる山塊も古い記憶の薄さとなり、靄の底へ消え沈もうとしてゐた。流れ寄る黄昏にせばめられた荒涼。なほ大股にうねる人影が隠見した。
「はつきりしない嫌疑であの男を転任させるのは儂は好まない。左傾する者はどこへ行つても左傾する。そして一人の校長先生が迷惑する。一人の校長先生がな。同じことではないか」と呟いた。
「今夜僕の家へあの男をよこしたまへ。儂はあの男と話してみやう。万事はそれからで遅くない」
老村長はたどたどしい足どりで帰つていつた。
猪首の校長もぶり/\しながら学校へ戻る。外へ出ると興奮してゐる。なんて物好きな、わけの分らない老耄なんだ、あいつは!
老村長は氷川馬耳といつた。五十五だが六十五にも七十にも見え、老衰が静かな哀歌となつてゐる。彼の顳の奥では、彼自身の像が希望と覇気を失ふて、永遠に孤独の路を帰へらうとする無言の旅人に変つてゐる。
馬耳老人は家へ帰つた。村の旧家であるが貧困のために極度の節約をしてゐたので、がらんどうの大廈には火気と人の気配が感じられなかつた。
弟の妻、三十になる都会の女。爽やかな美貌の女が出迎へにでて、帽子と外套をとる。
「今夜は来客がありますからね。闘犬のやうな荒々しい若者がくる筈だから……」
馬耳は病妻の寝室へ行つた。病妻は挨拶のために数分も費して僅かに頭の位置をうごかす。その部屋の縁側へ出て、いつものやうに馬耳は籐椅子に腰をおろした。
妻が病んでもう三年。彼が此の椅子に腰を下して遠い山脈と遥かの空を無心に仰ぎだしてから、もはや三年すぎてゐる。
病妻もやがて死ぬだらう。そして、妻は死んだといふ言葉となり、一つの概念となることによつて彼を悲しますかも知れない。今、生きてゐても死のやうな病妻。言葉も動作も、そして存在すらも已に失つてゐるかのやうな妻。已に現実の中で彼女は死滅し、彼女は已に無のやうであるが、やがて、彼女は死んだといふ言葉となり、一片の言葉となることによつて現実のなかへ彼女は寧ろ蘇生する。さうして、馬耳を悲しますに違ひない。
弟の妻、三十になる都会の女が縁側の籐椅子へお茶を運んできた。そして、病妻の寝室の隣り部屋、彼女の部屋へ帰つていつた。馬耳は彼女に、今夜は来客がありますよ、闘犬のやうな荒々しい若者がな、と言つたのである。そして、白樺の高原を踏む荒い単調な跫音に就て考へた。
籐椅子に凭れずに、尠し上体を前こごみにすると、隣の部屋に編み物をする弟の妻、ことし三十になる女の半身が見えるのである。もう二尺籐椅子を前へ動かすと、こごまずにも女の全身が見えるであらう。併し馬耳にはその勇気がない。この三年、それは長い習慣によつて定められ、庭の立木や妻の寝姿への角度を通して然あるべきやうに慣れてしまつた古い場所で、もし椅子を二尺動かしたなら、恥と叱責に満ちた傷口のやうな真空が二尺の場所へ発生して、寒い冬空へ混乱を、そして馬耳へ混乱を与へるに違ひない。
馬耳は籐椅子に身をもたせ、女の姿が見えない位置に身を置いたとき、安心して隣室の方をながく眺め、編み物をする白い手頸を想像した。さうして、前こごみとなり、隣室のなかが見える時には庭の黄昏を眺め、高原を踏む荒い跫音を考へた。
「今宵、荒々しい闘牛士の訪れ」
馬耳は考へる。自分はなぜ椿と呼ぶ若い教師に会ふ気持になつたのだらう。何を話し、何を尋ねるつもりなのだ。
恐らく――彼は思つた。
――若い生き生きした世界に興味を感じてゐるのだ……
左傾。彼はそれを憎む気持になれなかつた。理論は問題にならないのだ。迫害のなかにも自分の情熱を守らうとする白熱した生活力が、彼には不思議な驚きに見え、讃歎に見えた。馬耳は自分に失はれた若い生き生きした世界に就て考へてみる。
もう二尺籐椅子を前へ動かしたら、女の姿が見えるのである。
女の夫は毎日二連銃を肩にして猟にゆく。女の夫は前文部参与官であつた。内閣が変り閑地について彼は実家へ遊びに来てゐた。そして、自慢のエアデルを従へ、濡れた冬空の下では鈍い灰色にぶす/\と光る銃身を提げて毎日高原を歩き黄昏に帰つてきた。前参与官は龍夫と呼んだ。龍夫には肥つた腹と、よく刈り込まれた鼻髭があつた。鼻髭は濡れた白樺の林を歩き潤んだ朽葉をひそ/\と踏んで、冬空の隙間を通つてゐるに相違ない。ときどき高原の奥から鉄砲の音がきこえてくるのである。
もう二尺前へ動けば女の姿が見える。女は編み物をしてゐる。ときどき雑誌を読んでゐることもあるが、今は毎日猟に行く龍夫のために温いセエターを急いでゐるので、終日白い手頸を動かしてゐる。ときどき手を休めて、左手の拇指を帯にはさめ、充血して表情を忘れた顔をまつすぐに挙げて、冷めたい庭先を見てゐることがあるかも知れない。そしてその時鉄砲の音がきこえたなら、女は大理石の彫像となつて幽かな微笑を泛べるに違ひない。
きりつめた生活ではまだ炬燵をかけるにやや早い初冬なので、馬耳は弟夫妻のためにも小さな火鉢で我慢してもらつてゐるが、それだけの乏しい火気では少し膝を崩しても寒さが身にしむに相違なく、部屋の空気が僅かにちり/\と揺れてさへ痛むやうに冷めたいだらう。女はさういふ環境のため、殊更堅く、つめたく、寒々と端坐してゐるに相違ないのに、その洞窟のやうに広く冷めたい部屋のなか、その中央に竦むやうに動かずにゐて、女は、なんといふ生き生きとした多彩のものを燻蒸してゐるのであらうか?
女には秘密の香気と秘密の色彩と、そして秘密の流れがある。流れは静かな花粉となつて舞ひ、そしてめぐり、無数の絹糸の細さとなつて空気の隙間をひそ/\と縫ひ、部屋の片隅に流れ寄ると壁と空気の間を伝ひ、そして、花やかな靄となつて縁側の方へ漂ふてくる。
女。……隣部屋には秘密の靄を燻蒸する一人の女がゐるのである。
そして、籐椅子へ凭れたまゝ直ぐさま横へ顔をそらせば、そこにも――一つの「もの」がある。それは昔女であつた。それはこの三年越しそこに睡むり、そして馬耳はそれのみを女と信じ、それから受ける全ての思ひ、たとへば冷淡な死と悲しい無関心さへ女の属性の一つであると信じつゝ、決して疑念の起らなかつたもはや現実には死滅した「もの」がゐる。それはもう一つの「もの」に還つてゐる。馬耳は悲しい心を感じた。
――悲しい妻よ。お前の生涯は不幸であつた。私のやうに……
――悲しい妻よ。お前は男を知らなかつたに違ひない。なぜなら、私も亦お前のやうに生命のない「もの」だつたから……
馬耳には漢民族の鼻髭があつた。それは垂れ、そして死んでゐた。
龍夫には良く刈り込まれた鼻髭があつた。そしてそれは男の飾りであつた。装飾のある男。そして、男。馬耳は龍夫に男を感じた。時雨に濡れた高原を踏み、濡れた冬空の下では濡れた灰色にぶす/\光る二連銃を担ひ、静かに白樺の間を通る鼻髭を思つた。冷めたい部屋に端坐して多彩なものを燻しながら濡れた鼻髭を思ふ一人の女。そして馬耳に、男と女の静寂な秘密が分つてきた。……
その黄昏。――
もう高原も茫漠とした靄の底へ沈んでから。龍夫は漸く帰つてきた。
龍夫は裏門をくゞり、玄関へは廻らずに、築山をぬけて、庭先から、馬耳と籐椅子のある縁側へ辿りついた。
龍夫は縁側の前に立ち止り、そして佇み、出迎への女と籐椅子の馬耳を代る代る眺め廻して笑ふのである。二人の顔を剽軽に眺め、ながいあいだ笑つてゐた。そして漸く女が笑ひだしたとき、肥つた男は声をたてゝ哄笑し、漸く馬耳がその意味を悟つたとき、笑ふ男は後手に廻して背中に隠しておいた大きな獲物をあらわして、縁側の上へそつと置き、そして置き乍ら、笑ふ顔を突きあげて二人の顔を交互に眺め、置き終へて、冬空高く哄笑した。
縁側の上に、柔らかい、そして重みあるコトリといふ物音がした。音がしたのである。柔らかい、まるみのある物音が。そして多彩な羽毛に覆はれた大きな肉塊が床板の上に絵となつてゐた。
笑ふ男の背中から取り出された円みある柔らかい音。馬耳はその音に新鮮な力を、そして甘美な新鮮そのものを感じた。見知らなかつた微妙な世界が、また一つ展らかれたのだ。馬耳は新鮮な音に就て反芻した。
「うまく、とれたな……」
馬耳は笑つた。そして三人は声をたてゝ笑ひだした。茫漠たる黄昏の靄のなかにて、哄笑する三人のひとびと。
女は雉を膝へ載せ、綺麗な鳥ね、これ雉なのねと言ひながら、塵紙をだして掌についた血を拭ひ、わりに血の出ないものね、これつぽちかしらと呟いた。そして鳥を持ちあげて傷口をしらべ、これつぽつちか出ないんだわと又膝へのせて、綺麗な鳥だわ、それにちつとも怖くないのねと男の顔を媚びるやうに見上げた。
「怖いものか。生きてゐるより、よつぽど無邪気ぢやないか」
「ほんとうにさうね」
女は顔をかゞやかして答へた。
馬耳は静かに立ち上る。そして黄昏の庭を見る。馬耳は又不思議に新鮮な言葉をきいた。そして新鮮な言葉を反芻する。生きてゐるよりも無邪気ぢやないかといふ男の言葉。馬耳はその言葉に異様な同感を覚え、同感の奥深くに死んだ鳥の多彩な羽毛を思ひ浮べて、それを確かに綺麗だと思つた。そして、指の又の凝血を拭ふ女の花車な指つきを感じた。
「アポロン! アポロン!」
龍夫は縁側に腰をおろして、エアデルを呼ぶ。犬は夕靄の彼方から龍夫の足もとへ走つてくる。
――HALLOO――
――HALLOO――
黄昏が帰滅へ誘ふ遥かな言葉。茫々たる愁ひが流れる。愁ひは枯れ果てた高原を舞ひめぐり、静かな興奮となつて馬耳の胸に一とひらの冷めたい血液を落した。犬が夕靄のなかを走つてゐる。そして、夜が落ちた。
その夜、果して珍客が来た。
珍客は生活に窶れ、太い皺が彼の額を走つてゐた。彼の顔立は教育のない農夫のやうな鈍感な印象を与へるが、その大きな厚い唇は強情な意志を表はして、くひまがつてゐた。併し彼の眼は痛々しく憶病であつた。そして、鋤を握るにふさわしい頑健な骨格をしてゐた。武骨な青年は額に垂れる毛髪を掻きあげながら、怒るやうな顔付をして、堅く坐についてゐた。
「君は左翼に関係してゐるのではないかね?」
村長は気軽な笑ひを泛べながら、いきなり斯う訊ねた。青年は吃驚して馬耳の顔を視凝めたが、
「べつに関係してゐません。それに」――青年は疑ぐり深い目付をして考へながら言つた。
「たとへ関係してゐたにしても、関係してゐないと言ふでせう」
馬耳は青年の返事があまり生真面目で突きつめてゐたので、寧ろびつくりしたほどであつた。そして左翼といふことを世間話の気軽さに考へてゐた自分に気付いた。
「成程、僕のきゝかたが悪かつたね。併し君、儂は左翼といふものを、とりわけ愛してもゐないが、とりわけ憎んでもゐないね。あちらの部屋には前文部参与官がゐるが……」
馬耳は笑ひ出した。笑ひをひとり愉しむやうに、窶れた頬に細い筋肉がふるへた。
併し馬耳の笑ひは青年教師を親しますよりも脅やかすことに役立つた。教師は怪訝な面持で、わけが分らないと自答するやうに馬耳の顔を見凝めてゐたが、愚直な顔に猜疑と、つづいて臆病な怒りをあらわした。
「君はマルクスを読むかね?」
「読みました」
「それで、感想は?」
椿は幾分激昂した顔色の底で疑ぐり深く考へをまとめてゐるやうに見えたが、
「誰が読んでも現在よりはいいと言ふでせう」
彼はぶり/\して答へた。
椿教師は生真面目な情熱的な青年のやうに見受けられた。いはば融通が利かないとか血のめぐりが悪いとか呼ばれがちな、頭脳の閃きによつて人を感動せしめることの絶対にないたちの人間である。そして、この種の人間が生活苦にもまれると得てして成りがちのやうに、彼は何事に対しても憶病な猜疑と、結局は物の役に立たない狡猾とを一応は働かせて物の真相を見破らうと努力する。そして自分では狡猾に立ち廻つたつもりでゐながら、結局自分の底を割るほかに仕方のないたちの人間なのだ。
椿はむつとした顔付の奥で、自分の態度を狡猾にまとめやうとあせつた。併し結局狡猾に擬装した怒りの中へ我知らず捲き込まれてゐた。
「いつたい、何のためにこんなことを訊ねるのです?」
老人は部屋の一ヶ所へ茫然と目を置いて、ゆるく煙草をくゆらせてゐた。そして煙を噛むやうに、いつまでも口をもく/\やつてゐた。
「併し僕はコンミュニストではありません。理想的にはより以上のものを望んでゐますが、現実的には殆んど僅かの向上でも感激することのできる愚かな生活人ですよ。僕は犬の生活を寧ろ望むでせう。「理性的」といふ尤もらしい人間の特権を僕はあまり有難がらないのです。理性のおかげで僕等は痛みを感じつづけてゐるやうなものです。さうかと言つて、僕等が理性的であるまいとしたら、なまじひに人間であるおかげで、犬よりもひどくやつつけられるでせうからね。僕の言ふことも極端かも知れませんが、併し僕は人間の憎悪や愛にあきあきしてしまつたのです。あきあきしたといふことは、つまり僕がどんなにしても其れから脱けきれないと言ふことですよ。なまじ斯んなてあひが――むろん僕もそのてあひですが、仮面を被つて偽善的な共同生活を営むよりも、いつそむきだしの動物同志になつたらとさへ思ふのです。むろん僕が醜い動物でなかつたら、斯んな浅間敷いことを考へる筈はないでせう」
椿は自分の興奮に負けてゐた。
「貴方は何のために僕を呼び寄せたのです。左翼の嫌疑で転任させるためですか?」
「心配することはない……」
老村長はたど/\しい手付で煙管に煙草をつめながら呟いたが、軽い笑ひを泛べた頬からは、尚もぐ/\と口を動かすたびにほの白い煙が零れてゐた。
椿は唇を歪めて、しつかりした皮肉な冷笑を刻んでみせたいと思つた。併し不安とも安心ともつかない妙に勝手の違つた感じが、彼の興奮や思惑をうまく軌道へのせなかつた。彼は荒々しく毛髪を掻きあげた。
「君はどんな書物を読んでゐるかね。いや、君の思想系統を探索するのではないから安心したまへ。儂も長い一生の、いはばディレッタントで、人にひけをとらないほど読書生活に身をくすぼらせてきたのだが、儂が一生読み捨ててきた精神科学、歴史・文学・哲学・宗教、皆たわいないものだと思ふやうになつてね――」
老人は打ち解けた友達に話すやうに好機嫌な微笑を泛べて、腰を落した。
「儂は自然科学の知識に乏しいことを近頃歎いておる。精神科学――人間を単位にした学問には所詮解決は見当るまいと思はれるが。結局、人間の年齢といふものが余儀なく人間を解決してくれる。そして死ぬる。僕には数字や記号や分子の方が生き生きとしてゐるやうでね――」
老人は音にだしてくつ/\笑つた。
「儂等老人が今更数学を学びだすわけにもゆかないが。君等若い人達は皆ひと通り自然科学の知識があるだらうね。羨しいことだ」
「いいえ、僕はまるで学問のない男です」
若い教師は告白するやうな激しさで言つた。
「僕は理想といふものを持たないのです。言ひ訳けではありませんが、自分のくだらない生活苦にせめられてその日その日の小さな満足を求めるほかに、大きな明日を考へる根気さへないのです。生活に負けるといふこと、理想のない生活といふものが、どんなに人間を卑しくするかといふことを痛感してゐるのですが、一度自分の周囲を見、自分の醜さ、弱さ、汚なさを考へるとき、大きなものを追ふ勇気は持てなくなるのです。小さな今日に縋りつくだけで勢一杯になるのです。理想は人を慰めるでせう。そして人を屈辱から救ひ出してくれるでせう。併し僕は犬の生活を望むだけの卑屈な敗残者ですよ」
馬耳は青年の荒々しい語気が、水に投げられた小石のやうに、落ちて消え落ちて消える大きな夜を感じながら、ながく煙管をかみしめてゐた。そして、白樺の高原をうねる荒い単調な跫音に就て考へた。
「君は毎日白樺の林を歩くさうだが、ああいふ時に何を考へてゐるのかね?」
「あれはただ同僚に顔を合はせたくないからです。生活を豊富にしない集団に媚びるのは凡そ無意味ですからね。傷をうけるか、人を傷つけるか、そのどちらかです。無意味な集団よりは孤独の方が豊富であたたかいに違ひないのです。僕はなるべく職員室にゐないやうにしてゐるのです。その代り、僕は同僚のひけたあとで仕事をします。誰もゐない部屋、沢山人のゐるべくして誰もゐない部屋、そして、ゐない人々によつて荒らし残された乱雑の中で一人ぼんやり坐つてゐると、はぢめて何かシインとした静かなものが分りかけてくるのですよ。それは意味のあるもの、はつきりしたもの、積極的なものではないのです。たとへば。椿了助……さう言つて、僕の名を呼ぶ幽かな気配が、静かな呟きが、乱雑な部屋のどこからともなく聞えてくるのです。たとへば、投げ捨てられた紙屑の皺の間から。柱時計の裏側から、書籍の頁の間から。さうです。僕はがつかりしたやうに、ほつと溜息をつくのですよ。懐しい自分といふものに、随分久振りでめぐり会つたものだといふ和やかな気持になるのです。母、ふるさと、睡り、揺籃、そんな懐しい一聯の歴史に似た優しい気配が、この和やかな孤独のとき、僕を豊富にするために其の美くしい窓を展らいてくれます。一人とり残された孤独の時は僕がしみじみ懐かしい自分に還へる時間です。僕の一番幸福なときは、その時ですよ」
青年は初めてはにかむやうな、親しみのある微笑を泛べて、臆病に老人の顔を見上げた。
「君のやうな若い生き生きとした青年でさへ――」
馬耳は無心に煙草をつめてゐた。
「――若い生き生きした人でさへ、人間の生活はさういふものかね……」
馬耳は煙管に火を点けて、長いあいだ口へ運ばずに火鉢の上で玩んでゐた。
「どうしたわけで、また君は左傾の嫌疑なぞを受けたものかね?」
「それは――」
青年は臆病な上眼をあげたが、唇を歪めて自分さへ嘲るやうな冷笑を泛べた。
「ある女教師に校長が惚れてゐるためかも知れませんね。それに、僕は校長と昔から意見が合はないのです」
老人は返事の代りに煙管を叩いた。そして幾分伏眼にして、口をもく/\動かしながら煙を噛むやうにして吐き出してゐた。
「その婦人と君は恋仲かね?」
「いいえ、僕が好いてゐるだけです」
青年は笑はうとして其の表情を失つた。
「僕は黙つてゐるのです。そして黙つてゐる方が愉しい苦痛に富んでゐるやうに思はれるのです。僕は自分の醜い容貌や風采や、才能や生活にも自信の持てない男です。併し、人間の感情は、自分とのバランスを飛躍して、勝手に飛び去つてしまふのですね。僕に今必要なのは宗教ですよ。むづかしい、ひねくれた教義は僕にとつて空文に等しいもので問題にならないですが、抑制するといふ悲惨な形式が、僕の唯一の住宅に見えます。あの暗いみぢめな、宗教に本質的な傷ましさが僕にしみじみするのです。僕は最近魚鱗寺の房室へ下宿を移したのです」
「若い生き生きした人でも……」
馬耳は又煙を吐いて、その口を長いあいだもく/\動かしてゐた。
笑ふ男の背中から取り出された円るみのある柔らかい音。そして、生きてゐるよりも可愛いではないかといふ鼻髭。指の又の凝血を拭ふ花車な女の指つき。多彩な羽毛に隠された傷口は花びらよりも小さく、冬空よりも冷めたかつたに違ひない。
ある冷めたい朝のことであつた。高原の冷気が濡れた流れとなつて冷え冷えと運ばれてくる庭先で、馬耳は女と立話を交したことがあつた。まだ朝靄がこめてゐて、間近い人像も深い水中のものに見えた静かな早朝のことである。女はひつそりした水底から浮かびでてくる。模糊として遠く高原の靄へ掠れてゐる其の輸廓を近づけてきて、そして女は朝の挨拶を述べた。早朝の挨拶。挨拶は冷え冷えとした花粉をつけて、冷めたい朝霞の隙間を縫ひ、もや/\と揺れちらめいて馬耳の顳へ漂ふてきて、細い数多の絹糸となり、頸から耳、耳から肩へ舞ひめぐり、足に泌み、地肌を這ふて流れていつた。
「君はなぜ動物にならないかね!」
馬耳は危ふくさう言ひかけてやめた。
或ひは此の青年の言ふやうに、動物になれないことが人間の最大の不幸であるかも知れないと思はれもした。併し若さは? そして男。已に自分の失つた「男」――或ひは一生持たなかつたかも知れない「男」、此の地上で唯一の奇蹟に思はれる若い生命を恵まれた此の青年が。……自分の生涯は「もの」であつた、併し若い人々が現に「もの」であることは夢のやうな話だ。激しい生命にめぐまれた此の若者が、結局自分と同じやうな「もの」であると言ふことは、馬耳にとつて信じられないことであつた。
青年を玄関へ送つて出たとき、馬耳は其処の暗がりを利用して遂に言つた。
「君はなぜ動物にならないのかね! 動物になりたまへ。動物に!」
青年は驚く。そして理解することが出来なかつた。彼は訝しげに馬耳を見凝め、それから茫然と振向き、むつつり口を噤んで靴の紐を結んでゐた。
やがて青年は立ち上る。垂れ落ちた毛髪を無意識に荒々しく掻きあげてゐる。そして、睡りから覚めきらぬやうな険しい顔付のまま、不器用に四十五度の敬礼をした。
「又遊びに来たまへ。僕は君のやうな若い人と話すことが大好きになつたよ」
木訥な青年教師は持前の荒々しさで闇の方へ振向いた。そして、やや項垂れがちに、大股に暗闇の奥へ歩き去つた。
馬耳はふと自分にかへる。大いなる虚しさ。異様な落胆に似た寂寥がひろがりはぢめてゐる。馬耳は寂寥を噛むやうにする。馬耳は沓脱へ降り、戸に閂をおろした。尨大な夜の深さが、馬耳の虚しい寂寥を漂白するために、ひえびえと身体を通過していつた。
馬耳は茫然として病妻の寝室へはいつた。
歴史よりも尚遠い旅の果から帰つてきたやうに、長いあいだ中絶してゐた懐しい現実の中へ、ふと戻りついた気持になる。心が、そして侘しさが彼の中へ帰つて来た。
酸つぱい、そして疲れきつた電燈。鈍い光が眼に見えない無数の吹雪となり、虚しい畳の上へひそ/\と降りしきつてゐた。そして、鈍い光の吹雪のために頬肉が殺がれてしまつたかのやうな「もの」が、その巣の中で野獣の眼を覚した。
「もの」は馬耳を迎へるために、光の中の死面を動かさうと試みる。懐しい二つの「もの」が顔を見合はせた。馬耳は枕元へ坐つた。
「お客様はお帰りになりましたか?」
「ああ、今帰つたところだよ。気分はどうかね? 儂はね……」
馬耳は暫く口を噤んでゐた。
「――お前は気の毒な一生だつた」
病人は、もう、表情の変化さへ失ふほど衰弱しきつてゐた。そして心の感動を長い長い言葉の中絶によつて表現した。長い沈黙ののち、病人は呟いた。
「私は満足して死んでゆけますよ。三年前には日光へも参詣してきたし、今夜は大好きな胡蘿蔔も食べることが出来たし……」
時間経て、馬耳の老衰した頬に古い古い昔の泪が滲み溢れてきた。
あまりの悲しさに、馬耳は慟哭したいやうな、無限の激しさを感じる。
二つの「もの」は長いあいだ、その痩せ衰へた手を握りあつてゐた。