Chapter 1 of 17

その第十一話です。少し長物語です。

神田明神の裏手、江戸ッ児が自慢のご明神様だが、あの裏手は、地つづきと言っていい湯島天神へかけて、あんまり賑やかなところではない。藤堂家の大きな屋敷があって、内藤豊後守の屋敷があって、ちょっぴりとその真中へ狭まった町家のうちに、円山派の画描き篠原梅甫の住いがある。

大していい腕ではないが、妻女の小芳というのがつい近頃まで吉原で明石と名乗った遊女あがりで、ちょっと別嬪、これが町内での評判でした。

そのほかに今一つ、世間町内の評判になっているものがある。住いの庭にある生き埋めの井戸というのがそれです。

勿論この住いは、篠原梅甫が今の妻女の小芳を吉原から身請したとき、場所が閑静なのと、構えの洒落ている割に値が安かったところから買い取ったものだが、安いというのも実はその生き埋めの井戸というあまりぞッとしない景物があったからのことでした。その井戸のある場所がまた変なところで、玄関の丁度右、寒竹が植わって、今は全く井戸の形も影もないが、人の噂によると、昔、ここは神谷なにがしというお旗本の下屋敷で、その某の弟君というのが狂気乱心のためにここへ幽閉されていたところ、次第に乱行が募ったため、三河以来の名門の名がけがされるという理由から、むざんなことにもこの井戸へ生き埋めにされたと言うのです。

だから出る。

いいや、出ない。

出たとも。ゆうべも出たぞ。日の暮れ頃だ。あの寒竹の中から、ふんわり白い影が、煙のようにふわふわと歩き出したとかしないとか、噂とりどり。評判もさまざま。

「馬鹿言っちゃいけねえ。惚れた女と一緒になって、むつまじいところを見せてやりゃ、幽霊の方が逃げらあな。それに井戸はもう埋めてあるし、家だって造りは変っておるし、出て来りゃ、おまえとふたりでのろけをきかすのさ。これが二十たア安いもんだ。新世帯にかっこうだぜ」

買って住み出したのが五月のつゆどき。

画はそんなにうまくはないが、篠原梅甫、真似ごとにやっとうのひと手ふた手ぐらいは遣って、なかなかに肝が据っているのです。

「よそで食ってもうまくねえ。おまえのお給仕が一番さ。おそくなっても晩にゃ帰るからね。やっこ豆腐で、一本たのんでおくぜ」

出来あがった画を浅草へ持っていって、小急ぎに帰って来たのが六月初めのむしむしとする夕まぐれ……。

ひょいと玄関の格子戸へ手をかけようとすると、ふわりと煙のような影だ。寒竹の繁みがガサガサと幽かにゆれたかと思うと、うす白い男の影がふんわり浮きあがりました。

「誰だッ」

「………」

「まてッ。誰だッ」

そのまにすうと煙のように向うへ。

肝は据っていたが、いいこころもちではない。少し青ざめて這入ってゆくと、妻の小芳が湯あがりの化粧姿もあらわに、胸のあたり、乳房のあたり、なまめかしい肉の肌をのぞかせながら気を失って打ち倒れているのです。

「どうした!」

「俺だ! 小芳! どうしたんだ!」

「あッ……」

ふッと息を吹きかえすと、

「怕い!……。怕い怕い!……」

かきすがりざま訴えた言葉がまた奇怪でした。

「白い影が……、煙のような男の影が……」

「のぞいたか!」

「そうざます。お湯からあがって、身仕舞いしているところへ、あのうす暗い庭さきからふうわりとのぞいて、また向うへ――」

梅甫、ききながらぎょッと粟つぶ立ちました

「アハハ……。気のせいだよ」

「いいえ、ほんとうざます。ほかのことはぬしにさからいませぬが、こればっかりは――」

ぞッと水でも浴びたように身ぶるいさせると、もう懲りごりと言うように訴えました。

「このようなうちに住むは、もういっ刻もいやざます。今宵にもどこぞへ引ッ越してくんなまし」

「馬鹿言っちゃいけねえ。俺もちらりと、――いいや、ちらりと見たという奴が目のせい、気のせい、みんなこっちの心で作り出すまぼろしさ、今御繁昌のお江戸に幽霊なんかまごまごしておってたまるかよ。それよりいい話があるんだ。おまえの兄さんに会ったぜ」

「まあ! いつ、どこで?」

脅えていた小芳の顔が、急にはればれと晴れ渡りました。

「兄さんなら、下総にいらっしゃる筈、嘘でありんしょう」

「嘘なもんか? 用を足して、来たついでだからと、観音さまにお詣りしていたら、ぽんと肩を叩いて、篠原の先生、という声がするじゃないかよ。ひょいとみたら田舎の兄さんさ。よいところじゃ、小芳も会いたがっておりますから、一緒にどうでござんすと誘ったが、ぜひにも今夜足さなくちゃならない用が馬道とかにあるから、今は行かれない、その代りあしたの朝早く行こうと言うからね。あすならなお幸い、小芳とふたりで森田座へ行くことになっているから、じゃ御一緒にあんたも芝居見はどうでござんすと言ったら大よろこびさ。朝早く起きぬけにこっちへやって来ると言ったよ」

「でも、不思議でござんすな。江戸へ来るなら来るとお便り位さきによこしておきそうなものなのに、忙しいお身体の兄さんがまた、何しに来たんでござんしょう」

「何の用だか知らないが、今朝、早立ちしたと言ってたよ。それから、こんなことも言ってたぜ。小芳め、さぞかし尻に敷くことでござんしょうな、とね。アハハ……」

「ま! いけすかない……。でも、兄さんが来るときいてすこうし胸がおちつきました。もういや! これから、わちきひとりにさせたらいやざんすよ。今のような怕いことがあるんだから……」

丸あんどんの灯影の下を、小芳のむっちりとした湯上がりの肉体が、不気味な生き物かなんかのように、ぐいと梅甫の両腕の中にいだきよせられました。

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