Chapter 1 of 26

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ああ玉杯に花うけて

佐藤紅緑

豆腐屋のチビ公はいまたんぼのあぜを伝ってつぎの町へ急ぎつつある。さわやかな春の朝日が森をはなれて黄金の光の雨を緑の麦畑に、黄色な菜畑に、げんげさくくれないの田に降らす、あぜの草は夜露からめざめて軽やかに頭を上げる、すみれは薄紫の扉を開き、たんぽぽはオレンジ色の冠をささげる。堰の水はちょろちょろ音立てて田へ落ちると、かえるはこれからなきだす準備にとりかかっている。

チビ公は肩のてんびん棒にぶらさげた両方のおけをくるりとまわした。そうしてしばらく景色に見とれた。堤の上にかっと朝日をうけてうきだしている村の屋根屋根、火の見やぐら、役場の窓、白い土蔵、それらはいまねむりから活動に向かって歓喜の声をあげているかのよう、ところどころに立つ炊煙はのどかに風にゆれて林をめぐり、お宮の背後へなびき、それからうっとりとかすむ空のエメラルド色にまぎれゆく。

そこの畠にはえんどうの花、そらまめの花がさきみだれてる中にこつとしてねぎの坊主がつっ立っている。いつもここまでくるとチビ公の背中が暖かくなる。春とはいえども暁は寒い、奥歯をかみしめかみしめチビ公は豆腐をおけに移して家をでなければならないのである。町の人々が朝飯がすんだあとでは一丁の豆腐も売れない、どうしても六時にはひとまわりせねばならぬのだ。

だが、このねぎ畑のところへくるとかれはいつも足が進まなくなる、ねぎ畑のつぎは広い麦畑で、そのつぎには生け垣があって二つの土蔵があって、がちょうの叫び声がきこえる、それはこの町の医者の家である。

医者がいつの年からこの家に住んだのかは今年十五歳になるチビ公の知らないところだ、伯父の話ではチビ公の父が巨財を投じてこの家を建てたのだが、父は政党にむちゅうになってすべての財産をなくなしてしまった、父が死んでからかれは母とともに一人の伯父の厄介になった、それはかれの二歳のときである。

「しっかりしろよ、おまえのお父さまはえらい人なんだぞ」

伯父はチビ公をつれてこのねぎ畑で昔の話をした。それからというものはチビ公はいつもねぎ畑に立ってそのことを考えるのであった。

「この家をとりかえしてお母さんを入れてやりたい」

今日もかれはこう思った、がかれはゆかねばならない、荷を肩に負うて一足二足よろめいてやっとふみとどまる、かれは十五ではあるがいたってちいさい、村ではかれを千三と呼ぶ人はない、チビ公のあだ名でとおっている、かれはチビ公といわれるのが非常にいやであった、が人よりもちびなのだからしかたがない、来年になったら大きくなるだろうと、そればかりを楽しみにしていた、が来年になっても大きくならない、それでもう一つ来年を待っているのであった。

かれがこのあぜ道に立っているとき、おりおりいうにいわれぬ侮辱を受けることがある。それは役場の助役の子で阪井巌というのがかれを見るとぶんなぐるのである。もちろん巌はだれを見てもなぐる、かれは喧嘩が強くてむこう見ずで、いつでも身体に生きずが絶えない、かれは小学校でチビ公と同級であった、小学校時代にはチビ公はいつも首席であったが巌は一度落第してきたにかかわらず末席であった。かれはいつもへびをふところに入れて友達をおどかしたり、女生徒を走らしたり、そうしておわりにはそれをさいて食うのであった。

「やい、おめえはできると思っていばってるんだろう、やい、このへびを食ってみろ」

かれはすべての者にこういってつっかかった、かれはいま中学校へ通っている、豆腐おけをかついだチビ公は彼を見ると遠くへさけていた、だがどうかするとかれは途中でばったりあうことがある。

「てめえはいつ見てもちいせえな、少し大きくしてやろうか」

かれはチビ公の両耳をつかんで、ぐっと上へ引きあげ、足が地上から五寸もはなれたところで、どしんと下へおろす。これにはチビ公もまったく閉口した。

かれが今町の入り口へさしかかると向こうから巌がやってきた、かれは頭に鉢巻きをして柔道のけいこ着を着ていた。チビ公ははっと思って小路にはいろうとすると巌がよびとめた。

「やいチビ、逃げるのかきさま」

「逃げやしません」

「豆腐をくれ」

「はい」

チビ公は不安そうに顔を見あげた。

「いかほど?」

「食えるだけ食うんだよ、おれは朝飯前に柔道のけいこをしてきたから腹がへってたまらない、焼き豆腐があるか」

「はい」

チビ公が蓋をあけると巌はすぐ手をつっこんだ、それから焼き豆腐をつかみあげて皮ばかりぺろぺろと食べて中身を大地にすてた。

「皮はうまいな」

「そうですか」とチビ公はしかたなしにいった。

「もう一つ」

かれは三つの焼き豆腐の皮を食べおわって、ぬれた手をチビ公の頭でふいた。

「銭はこのつぎだよ」

「はい」

「用がないからゆけよ、おれはここで八百屋の豊公を待っているんだ、あいつおれの犬に石をほうりやがったからここでいもをぶんどってやるんだ」

チビ公はやっと虎口をのがれて町へはいった、そうして悲しくらっぱをふいた。らっぱをふく口元に涙がはてしなくこぼれた。

どうしてあんなやつにこうまで侮辱されなきゃならないんだろう、あいつは学校でなんにもできないのだ、おやじが役場の助役だからいばってるんだ、金があるから中学校へゆける、親があるから中学校へゆける。それなのにおれは金もない親もない。なぐられてもだまっていなきゃならない、生涯豆腐をかついでらっぱをふかなきゃならない。

かれの胸は憤怒に燃えた、かれはだまって歩きつづけた。

「おい豆腐屋、売るのか売らないのか、らっぱを落としたのか」

職人風の男が二人、こういってわらってすぎた。チビ公はらっぱをふいた、その音はいかにも悲しそうにひびいた。町にはちらちら中学生が登校する姿が見えだした、それは大抵去年まで自分と同級の生徒であった。チビ公は鳥打帽のひさしを深くして通りすぎた。

「おはよう青木君」と明るい声がきこえた。

「お早う」とチビ公はふりかえっていった、声をかけたのは昔の学友柳光一という少年であった、柳は黒い制服をきちんと着て肩に草色の雑嚢をかけ、手に長くまいた画用紙を持っていた。かれはいかなるときでもチビ公にあうとこう声をかける、かれは小学校にあるときにはいつもチビ公と席を争うていた、双方とも勉強家であるが、たがいにその学力をきそうていた、これといって親密にしたわけでもないが、光一の態度は昔もいまもかわらなかった、一方が中学生となり一方は豆腐屋となっても。

「ぼくはね、きみを時計にしてるんだよ」と光一はいった。「きみに逢った時には非常に早いし、きみにあわなかったときにはおそいんだ」

「そうですか」

「重たいだろうね、きみ」

光一はチビ公の荷を見やっていった。

「なあになれましたから」

「そうかね」と、光一はチビ公の顔をしみじみと見やって、「ひまがあったら遊びにきてくれたまえね、ぼくのところにはいろいろな雑誌があるから、ぼくはきみにあげようと思ってとっておいてあるよ」

「ありがとう」

「じゃ失敬」

チビ公は光一にわかれた、なんとなくうれしいようななつかしいような思いはむらむらと胸にわいた、でかれはらっぱをふいた、らっぱはほがらかにひびいた、と一旦わかれた光一は大急ぎに走りもどった。

「このつぎの日曜にね、ぼくの誕生日だから、昼からでも……晩からでも遊びにきてくれたまえね」

「そうですか……しかし」とチビ公はもじもじした。

「かまわないだろ、日曜だから……」

「ああ、そうだけれども」

「いいからね、遠慮せずとも、ぼくは昔の友達にみんなきてもらうんだ」

「じゃゆきましょう」

光一はふたたび走って去った。雑嚢を片手にかかえ、片手に画用紙を持ち両ひじをわきにぴったりと着けて姿勢正して走りゆく、それを見送ってチビ公は昔小学校時代のことをまざまざと思いだした。なんとなく光一の前途にはその名のごとく光があふれてるように見える、学問ができて体力が十分で品行がよくて、人望がある、ああいう人はいまにりっぱな学者になるだろう。

そこでかれはまたらっぱをふいた、嚠喨たる音は町中にひびいた。チビ公が売りきれるまで町を歩いてるその日の十二時ごろ、中学校の校庭で巌はものほしそうにみんなが昼飯を食っているのをながめていた、かれは大抵十時ごろに昼の弁当を食ってしまうので正午になるとまたもや空腹を感ずるのであった。そういうときにはかならずだれかに喧嘩をふきかけてその弁当を掠奪するのである。自分の弁当を食うよりは掠奪のほうがはるかにうまい。

「みんな集まれい」とかれはどなった。だが何人も集まらなかった、いつものこととて生徒等はこそこそと木立ちの陰にかくれた。

「へびの芸当だ」とかれはいった、そうしてポケットから青大将をだした。

「そもそもこれは漢の沛公が函谷関を越ゆるときに二つに斬った白蛇の子孫でござい」

調子面白くはやしたてたので人々は少しずつ遠くから見ていた。少年等はまた始まったといわぬばかりに眉をしかめていた。

「おいしゃもじ!」とかれは背後を向いて飯を食ってる一人の少年をよんだ、しゃもじはおわりの一口をぐっとのみこんで走ってきた、かれはやせて敏捷そうな少年だが、頭は扇のように開いてほおが細いので友達はしゃもじというあだ名をつけた。かれは身体も気も弱いので、いつでも強そうな人の子分になって手先に使われている。

「おい口上をいえ」と巌がいった。

「なんの?」

「へびに芸をさせるんだ」

「よしきた……そもそもこれは漢の沛公が二つに斬った白蛇の子孫でござい」

調子おもしろくはやしたてたので人々は少しずつ集まりかけた。

「さあさあ、ごろうじろ、ごろうじろ」

しゃもじの調子にのって巌はへびをひたいに巻きつけほおをはわし首に巻き、右のそで口から左のそで口から中央のふところから自由自在になわのごとくあやなした。

「うまいぞうまいぞ」と喝采するものがある。最後にかれはへびを一まとめにして口の中へ入れた。人々は驚いてさかんに喝采した。

「おいどうだ」

かれはへびを口からはきだしてからみんなにいった。

「うまいうまい」

「みんな見たか」

「うまいぞ」

「見たものは弁当をだせ」

人々はだまって顔を見合った、そうして後列の方からそろそろと逃げかけた。

「おい、こらッ」

いまにぎり飯を食いながら逃げようとする一人の少年の口元めがけてへびを投げた。少年はにぎり飯を落とした。

「つぎはだれだ」

かれは器械体操のたなの下にうずくまってる少年の弁当をのぞいた、弁当の中には玉子焼きとさけとあった。

「うまそうだな」

かれは手を伸ばしてそれを食った。そして半分をしゃもじにやった。

「つぎは?」

もうだれもいなかった、投げられたへびはぐんにゃりと弱っていた。かれはそれを拾うと裏の林の方へ急いだ。そこには多くの生徒が群れていた、かれらの大部分は水田に糸をたれてかえるをつっていた。その他の者は木陰木陰に腰をおろして雑誌を読んだり、宿題を解いたりしていた。巌はずらりとかれらを見まわした、これというやつがあったら喧嘩をしてやろう。

だがあいにく弱そうなやつばかりで相手とするにたらぬ、そこでかれは木の下に立って一同を見おろしていた、かれの胸はいつも元気がみちみちている、かれは毎朝眼がさめるとうれしさを感ずる、学校へいって多くの学生をなぐったりけとばしたり、自由に使役したりするのがさらにうれしい。かれはいろいろな冒険談を読んだり、英雄の歴史を読んだりした、そうしてロビンソンやクライブやナポレオンや秀吉は自分ににていると思った。

「クライブは不良少年で親ももてあました、それでインドへ追いやられて会社の腰弁になってるうちに自分の手腕をふるってついにインドを英国のものにしてしまった、おれもどこかへ追いだされたら、一つの国を占領して日本の領土を拡張しよう」

こういう考えは毎日のようにおこった、かれは実際喧嘩に強いところをもって見ると、クライブになりうる資格があると自信している。

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