3
「けがしなかったか、柳君」と生蕃はまっさおな顔をしていった。
「なんでもないよ」
光一は手からしたたる血汐をハンケチでふいていた。
「早いことをするな」
「柳にあんな勇気があったのか」
同級生はあっけに取られてささやきあった。双方ともふたたび戦う気もなくなった、犬はいつのまにか戦いをやめて逃げてしまった。
五分間の後、木俣は回気した。生蕃と光一は水を飲ませて介抱した。
「今日はやられた」と木俣はいった。
「明日もやられるよ」と生蕃がいった。
「いずれね」
「堂々とこいよ」
木俣は去った、三年生が去った、二年生ははじめてときの声をあげた。
「きみのおかげだよ」と生蕃はしみじみと光一にいった。「きみは強いんだね」
「いやぼくは弱いよ」
「そうじゃない、あの場合きみがライオンのまたぐらへ飛びこんでくれなかったら、ぼくはあの小刀で一つきにされるところだったんだ」と生蕃がいった。
「もしぼくがつかれて死んだらきみはどうするつもりだ」と光一は友の顔をのぞくようにしていった。
「君が死んだらか」と生蕃はいった。「おれも死ぬよ」
「そうしてぼくを殺した木俣も生きていられないとすれば……三人だ……三人死ぬことになる、つまらないと思わんか」
「うむ」
生蕃はしばらく考えたが、やがて大きな声でわらいだした。
「おまえおれに喧嘩をよさせようと思ってるんだろう、それだけはいけない」
同級生は一度にわっとわらいだした。
「だが柳」と生蕃はまたいった。「ぼくはきみに頭があがらなくなったね」
二
商売を早くしまってチビ公はやくそくどおり柳光一の誕生日にいくことにした。豆腐屋のはんてんをぬぎすててかすりの着物にはかまをはいたときチビ公はたまらなくうれしかった。一年前まではこうして学校へいったものだと思うとかれは自分ながら懐旧の情がたかまってくるように思われた。母はてぬぐいと紙をだしてくれた。
「柳さんの家は金持ちだからね、ぎょうぎをよくして人にわらわれないようにおしよ」
こうくりかえしくりかえしいった、それからご飯のときの心得や、挨拶の仕方までおしえた。そういうことは母は十分にくわしく知っていた。
「かまわねえ、豆腐屋の子だから豆腐屋らしくしろよ、なにも金持ちだからっておせじをいうにゃあたらねえ」と伯父の覚平がいった。覚平は元来金持ちと役人はきらいであった、かれは朝から晩まで働いて、ただ楽しむところは晩酌の一合であった。だがかれは一合だけですまなかった。二合になり三合になり、相手があると一升の酒を飲む。それだけでやまずにおりおり外へでて喧嘩をする、かれは酔うとかならず喧嘩をするのであった。そのくせ飲まないときにはほとんど別人のごとく温和でやさしくてにこにこしている。
「じゃいってまいります」
「いっておいで」
チビ公はあたらしいてぬぐいをはかまのひもにぶらさげ、あたらしいげたをはいて家をでた。光一の家へゆくとすでに五、六人の友達がきていた、その中には医者の子の手塚もいた、光一の家は雑貨店であるが光一の書斎ははなれの六畳であった。となりの六畳室のふすまをはずしてそこに座蒲団がたくさんしいてあった。先客はすでに蓄音器をかけてきいていた。
「よくきてくれたね、青木君」と光一はうれしそうにいった。
「今日はおめでとう」とチビ公はていねいにおじぎをした。あまりに礼儀正しいので友達はみなわらった。
「やあ青木君」
「やあ」
一年前の同級生のこととてかれらは昔のごとくチビ公を仲間に入れた。次第次第に客の数がふえてもはや十二、三人になった、かれらは座蒲団を敷かずに縁側にすわったり、庭へでたりしたがお菓子やくだものがでたので急に室内に集まった。手塚はこういう会合にはなくてならない男であった。かれは蓄音機係として一枚一枚に説明を加えた。
「ぼくはね、カルメンよりトラビヤタの方がすきだよ」とかれがいった。
「ぼくは鴨緑江節がいい」とだれかがいった。
「低級趣味を発揮するなよ」と手塚はいった。そうしてトラビヤタをかけてひとりでなにもかも知っているような顔をして首をふったり感心した表情をしたりした。
片隅では光一をとりまいた四、五人が幾何学によって座蒲団二枚を対比して論じていた。
「そら、角度が同じければ辺が同じだろう」とひとりがいう。
「等辺三角形は角度も相等しだ」と光一がいった。
チビ公に近いところにたむろした一団は物体と影の関係について論じていた、洋画式でいうと物体にはかならず光の反射がある、どんなに影になっている点でもかすかな反射がある、この反射と影とは非常にまぎらわしいので困るとひとりがいった。するとひとりは影そのものにも反射があるといいだした。
チビ公はびっくりしてものがいえなかった、かれはたった一年のあいだに友達の学問が非常に進歩し、いまではとてもおよびもつかぬほど自分がおくれたことを知った。幾何や物理や英語、それだけでもいまでは異国人のように差異ができた、こうして自分が豆腐屋になりだんだんこの人達とちがった世界へ墜落してゆくのだと思った。
「ねえきみ、ぼくらにはなんの話だかわからないね」
かれは隣席の豊松という少年にこうささやいた。豊松は八百屋の子で小学校を卒業するまでに二度ほど落第した、チビ公よりは二つも年上だが、そのかわりに身体が大きく力が強い、そのわりあいに喧嘩が弱く、よく生蕃になぐられては目のまん中から大粒の涙をぽろりと一粒こぼしたものだ、今日集まった人々の中で中学校へもいかずに家業においつかわれているものは豊公とチビ公の二人だけであった、かれは学問やなにかの話よりも昔の友達がみな制服を着てるのに自分だけが和服でいるのがはずかしかった。
「あの人達は学者になるんだよ、おれ達とはちがうんだ」とかれはいった。
「そうだね、おれ達はなんになろうたって出来やしない」とチビ公がいった。
「金持ちはいいなあ」と豊公は嗟嘆した。「いい着物を着ておいしいものを食べて学校へ遊びにゆく、貧乏人は朝から晩まで働いて息もつけねえ、本を読みかけると昼のつかれで眠ってしまうしな」
「きみ、お父さんがあるの?」とチビ公がきいた。
「ないよ、きみは?」
「ぼくもない」
「親がないのはお金がないよりも悲しいことだね」
「それにぼくは力がない、きみは力があるからいいさ」
「力があってもだめだ」と豊公は急に腹だたしく、「おれは毎朝生蕃になぐられるんだ、そしていもだの豆だのなしだのかきだのぶんどられるんだ、それでもおれはだまってなきゃならない」
「ぼくも毎朝豆腐を食われるよ、きみなぞは力があるからなぐりかえしてやるといいんだ」
「だめだよ」と豊公はあやうくこぼれようとする涙をこらえていった。「あいつのお父さんは役場の役人だろう」
チビ公はだまって溜め息をついた。向こうではいま手塚が得意になって活動弁士の口まねをしていた。
「主はだれ、むらさきの覆面二十三騎くつわをならべて……タララララタ、タララララタ、プカプカプカララララララ」
「うまいぞうまいぞ」と一同が喝采した。
「もう一つもう一つ」
手塚は得意になってうぐいすのなき声、やぎ、ペリカン、ねこ、ねこが屋根から落ちて水たまりにぴしゃりとおちた音などをつづけざまにやった。かれはものまねがじょうずでなにごとについても器用であった。それからかれはハイカラなはやりうたをうたった。
「ぼくらにゃわからない」とチビ公はいった、実際見るもの聞くものごとにかれは旧友達よりはるかにおくれたことに気がついた、朝は学校へゆく、必要な書籍や雑誌はお金をおしまず買ってもらう、学校から帰ると活動写真を見にいっていろいろなことをおぼえてくるのだ、てんびん棒をかついで家をいで、つかれて家へ帰りそのまま寝てしまう自分等とはあまりに身分の差がある。
お膳が運ばれた、チビ公は小さくなって室の隅にすわった、かれは今日この席へこなければよかったと思った。いろいろな空想は失望や憤慨にともなって頭の中に往来した。人々はさかんにお膳をあらした、チビ公はだまってお膳を見るとたいの焼きざかなにきんとん、かまぼこ、まぐろの刺身は赤く輝き、吸い物は暖かに湯気をたてている。かれは伯父さんを思いだした、伯父さんはいつも口ぐせにこういった。
「まぐろの刺身で一杯やらかしたいもんだなあ」
これを伯父さんへ持っていったらどんなに喜ぶだろう、かれはこう思いかえした、そうしてたいは伯母さんと母が好きだからかまぼこだけは家へかえってからぼくが食べよう。
食事がおわってからまたもや余興がはじまった、チビ公はいとまをつげてひと足早く光一の家をでた、かれはてぬぐいに包んださかなの折り箱を後生大事に片手にぶらさげ、昼のごとく明るい月の町をひとりたんぼ道へさしかかった。道のかなたに見える大きな建物は一年前に通いなれた小学校である。月下の小学校はいま、安らかに眠っている。はしご形の屋根のむねからななめにひろがるかわらの波、思いだしたようにぎらぎら反射する窓のガラス、こんもりとしげった校庭の大樹、そこで自分は六年のあいだ平和に育った、そこにはあらい風もふかず冷たい雨も降らず、やさしい先生の慈愛の目に見まもられて、春の草に遊ぶ小ばとのごとくうたいつ走りつおどりつわらった、そこには階級の偏頗もなく、貧富の差異もなく、勉強するものは一番になりなまけるものは落第した、だが六年のおわり! おおそれは喜ぶべき卒業式か、はたまた悲しむべき卒業式か、告別の歌をうたうとともに同じ巣のはとやすずめは西と東、上と下へ画然とわかれた。
親のある者、金のある者はなお学府の階段をよじ登って高等へ進み師範へ進み商業学校へ進む、しからざるものはこの日をかぎりに学問と永久にわかれてしまった。
チビ公は月光をあびながら立ちどまって感慨にふけった。
「やいチビ」
突然声が聞こえて路地の垣根から生蕃があらわれた。
「折詰をよこせ」
「いやだよ」とチビ公は折り箱をふところに押しこんだ。
「いやだ? こら豊松はおとなしくおれにみつぎをささげたのにおまえはいやだというのか」
「いやだ、これは伯父さんにあげるんだから」
「やい、こらッ、きさまはおれのげんこつがこわくないかよ」
生蕃は豊公から掠奪したたいの尾をつかんで胴のところをむしゃむしゃ食べながらいった。
「阪井君、ぼくは毎朝きみに豆腐を食われてもなんともいわなかった、これだけは堪忍してくれたまえ、きみは豊公のを食べたならそれでいいじゃないか」
「きさまは豊公をぎせいにして自分の義務をのがれようというのか」
「義務だって? ぼくはなにもきみにさかなをやる義務はないよ」
「やい小僧、こらッ、三年のライオンを退治した生蕃を知らないか、よしッ」
生蕃の手が早くもチビ公のふところにはいった。
「いやだいやだぼくは死んでもいやだ」
チビ公は両腕を組んでふところを守った。
「えい、面倒だ」
生蕃はずるずると折り箱をひきだした、チビ公は必死になって争うた。一は伯父を喜ばせようという一心にのぼせつめている、一はわが腹をみたそうという欲望に気狂わしくなっている。大兵とチビ公、無論敵し得べくもない、生蕃はチビ公の横面をぴしゃりとなぐった、なぐられながらチビ公はてぬぐいの端をにぎってはなさない。
「えいッ」
声とともにけあげた足先! チビ公はばったりたおれた。ふたたび起きあがったときはるかに生蕃の琵琶歌が聞こえた。
「それ達人は大観す……栄枯は夢か幻か……」
チビ公の目から熱い涙がとめどなく流れた、金のためにさいなまれたかれは、腕力のためにさいなまれる、この世のありとあらゆる迫害はただわれにのみ集まってくるのだと思った。
はかまのどろをはらってとぼとぼと歩きだしたが、いろいろな悲憤が胸に燃えてどこをどう歩いたかわからなかった、かれはひょろ長いポプラの下に立ったときはじめてわが家へきたことを知った、家の中では暗い電灯の下で伯父が豆をひいている音が聞こえる。
「ぎいぎいざらざら」