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ああ玉杯に花うけて
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ああ玉杯に花うけて
佐藤紅緑
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 9 of 26

9

「伯父さんどこへいってきたの」と光一はきいた。

「ああ光一か、おれは今町会傍聴にいってきた、おもしろいぞ、うむ畜生! おもしろいぞ、畜生め、うむ畜生」

おもしろいのに畜生よばわりは光一に合点がゆかなかった。

「なにがおもしろいの?」

「なにがっておまえ、くそッ」伯父さんはひどく興奮していた。

「どろぼうめが、畜生」

「どろぼうがいたの?」

「どろぼうじゃねえか、一部の議員と阪井とがぐるになって、道路の修繕費をごまかして選挙費用に使用しやがった、それをおまえ大庭さんがギュウギュウ質問したもんだから、困りやがって休憩にしやがった、さあおもしろい、お父さんがいるか」

「ぼくはいま学校の帰りですから知らない」

「知らない? ばかッ、そんならそうとなぜ早くいわないのだ、そんな風じゃ出世しないぞ」

伯父さんはぶりぶりして足を急がせたが、なにしろふとってるので頭と背中がゆれる割合に一向足がはかどらなかった。

そういう政党の争いは光一にとってなんの興味もなかった、かれが家へはいると、もう伯父さんの大きな声が聞こえていた。

「どろぼうのやつめ、畜生ッ、さあおもしろいぞ」

父はげらげらわらっていた、母もわらっていた、伯父さんが憤慨すればするほど女中達や店の者共に滑稽に聞こえた。伯父さんはそそっかしいのが有名で、光一の家へくるたびに帽子を忘れるとか、げたをはきちがえるとか、ただしはなにかだまって持ってゆくとかするのである。

光一は父と語るひまがなかった、父は伯父さんと共に外出して夜晩く帰った、光一は床にはいってから校長のことばかりを考えた。

「停学された復讐として阪井の父は校長を追いだすのだ」

こう思うとはてしなく涙がこぼれた。

翌日学校へいくとなにごともなかった、正午の食事がすむと委員が校長に面会をこう手筈になっている。

「堂々とやるんだぞ、われわれの血と涙をもってやるんだ、至誠もって鬼神を動かすに足るだ」

と小原が委員を激励した。

委員はそこそこに食事をすまして校長室へいこうとしたとき、突然最敬礼のらっぱがひびいた。

「講堂へ集まれい」と少尉が叫びまわった。

「なんだろう」

人々はたがいにあやしみながら講堂へ集まった、講堂にはすでに各先生が講壇の左右にひかえていた、どれもどれも悲痛な顔をしてこぶしをにぎりしめていた。もっとも目にたつのは漢文の先生であった、ひょろひょろとやせて高いその目に涙が一ぱいたまっていた。

「あの一件だぞ」と委員達は早くもさとった、そうして委員は期せずして一番前に腰をかけた。ざわざわと動く人波がしずまるのを待って少尉はおそろしい厳格な顔をして講壇に立った。

「諸君もあるいは知っているかもしらんが、こんど久保井校長が東京へ栄転さるることになりました、ついては告別のため校長から諸君にお話があるそうですから謹聴なさるがいい、決して軽卒なことがないように注意をしておく」

この声がおわるかおわらないうちに講堂は潮のごとくわきたった。

「なぜ校長先生がこの学校をでるのですか」

「栄転ですか、免官ですか」

「先生がぼくらをすてるんですか」

「先生を追いだすやつがあるんですか」

小さな声大きな声、バスとバリトンの差はあれども声々は熱狂にふるえていた、実際それは若き純粋な血と涙が一度に潰裂した至情の洪水であった。

「諸君?」

小原捕手は講壇の下におどり出して一同の方へ両手をひろげて立った。

「校長先生が諸君に告別の辞をたまわるそうだが、諸君は先生とわかれる意志があるか、意志があるなら告別の辞を聴くべしだ、意志のない者は……どうしても先生とわかれたくないものはお話を聴く必要がないと思うがどうだ」

「そうだ、無論だ」

講堂の壁がわれるばかりの喝采と拍手が起こった。

「小原、おねがいしてくれ、先生におねがいしてくれ」

だれかがすきとおる声でこういった。校長はまっさおになってこの体を見ていた。自分が手塩にかけて教育した生徒がかほどまで自分を信じてくれるかと思うと心の中でなかずにはいられなかった。

「先生!」

小原は校長の方へ向きなおっていった、そのまっ黒な顔に燃ゆるごとき炎がひらめいた、広い肩と太い首が波の如くふるえている。

「先生!」

かれはふたたびいったが涙が喉につまってなにもいえなくなった。

「校長先生!」

こういうやいなやかれは急に声をたててすすりあげ、その太い腕を目にあててしまった。講堂は水を打ったようにしずまった、しぐれに打たるる冬草のごとくそこここからなき声が起こった、とそれがやがてこらえきれなくなって一度になきだした。漢文の先生は両手で顔をかくした、朝井先生は扉をあけて外へでた、他の先生達は右に傾き左に傾いて涙をかくした。

校長はしずかに講壇に立った。低いしかも底力のある声は、くちびるからもれた。

「諸君! 不肖久保井克巳が当校に奉職してよりここに六年、いまだ日浅きにかかわらず、前校長ののこされた美風と当地方の健全なる空気と、職員諸氏の篤実とによって幸いに大瑕なく校長の任務を尽くし得たることを満足に思っています、今回当局の命により本校を去り諸君とわかれることになったことは実に遺憾とするところでありますが事情まことにやむを得ません。おもうに離合集散は人生のつね、あえて悲しむに足らざることであります、ただ、諸君にして私を思う心あるなら、その美しき友情をつぎにきたるべき校長にささげてくれたまえ、諸君の一言一行にしてもし道をあやまるようなことがあれば、前校長の久保井は無能者であるとわらわれるだろう、諸君の健全なる、剛毅果敢なる、正義にあつく友情に富める、この気風を失わざればそれはやがて久保井克巳の名誉である、私は諸君が、いかに私を愛してくれるかを知っている、諸君もまた私の心を知っているだろう、雲山煙水相隔つれども一片の至情ここに相許せば、わかれることはなんでもない、私を思うなら、しずかにしずかに私をこの地から去らしめてくれたまえ、私も諸君を思えばこそこの地を去るのだ……」

声はしずかなしずかな夕波が岸を打つかのごとくであったが、次第に興奮して飛沫がさっと岩頭にはねかかるかと思うと、それをおさえるごとく元のしずかさに返るのであった、一同は大鳥の翼にだきこまれた雛鳥のごとく鳴りをしずめた。

「もし諸君にして私を思うあまりに軽卒な行動をとると、私が六年間この浦和町につくした志は全然葬られてしまうことになる、諸君は学生の分を知らなければならん、学生は決して俗世界のことに指を染めてはならん、ただ、私は諸君にいう、ジョン・ブライトは『正しきを踏んでおそるるなかれ』といった、私はこの格言を諸君に教えた、私が去るのもそれである、諸君もまたこの格言をわすれてはならぬ、五年生は来年だ、一年生も五年の後には卒業するだろう、そのときにはまた会える、はるかに浦和の天をながめて諸君の健全を祈ろう、諸君もまたいままでどおりにりっぱに勉強したまえ」

小原はぐったりと頭をたれてだまった、もう何人もいうものがない、校長がいかにも悲しげに一同を見おろして一礼した、生徒はことごとく起立しておじぎをした。そうしてそのままふたたびなきだした。

後列の方から扉口へくずれだした、いとしめやかな足取り、葬式のごとく悲しげに一同は講堂をでた。

「だめかなア」

光一は人々とはなれてひとりなきたいと思った、かれは夢のごとく町を歩いた、かれは自分の背後からいそがしそうにあるいてくる足音を聞いた、足音は次第に近づいた、そうして光一を通りすごした。

「青木君」かれは呼びとめた。

「ああ柳さん」

「どこへゆく?」

光一はチビ公が豆腐おけもかつがないのをふしぎに思った。

「ぼくのおじさんを見ませんか」と千三はうろうろしていった。

「いや、見ない」

「ああそうですか、今朝から家をでたきりですからな、また阪井の家へどなりこみにいったのではないかと思ってね」

千三はなきだしそうな顔をしていた。

「心配だろうね、ぼくも一緒にさがしてあげよう」

五

チビ公と光一は裏門通りから清水屋横町へでた。そこでチビ公は知り合いの八百屋にきいた。

「家の伯父さんを見ませんか」

「ああ見たよ」と八百屋がいった。

「さっきね丸太ん棒のようなものを持ってね、ここを通ったから声をかけるとね、おれは大どろぼうを打ち殺しにゆくんだといってたっけ」

「どこへいったでしょう」

「さあ、停車場の方へいったようだ」

「酔ってましたか」

「ちとばかし酒臭かったようだったが、なあチビ公早くゆかないと、とんだことになるかもしれないよ」

「ありがとう」

チビ公はもう胸が一ぱいになった、ようやく監獄からでてきたものがまたしても阪井に手荒なことをしては伯父さんの身体はここにほろぶるよりほかはない、どんなにしても伯父さんをさがしだし家へつれて帰らねばならぬ。

ふたりは足を早めた。停車場へゆくと伯父さんの姿が見えない、チビ公は巡査にきいた。

「ああきたよ」

「何分ばかり前ですか」

「さあ三十分ばかり前かね」

「どっちの方へゆきましたか」

「さあ」と巡査は首をかしげて、「常盤町通りをまっすぐにいったように思うが……」

ふたりは大通りへ道を取った。

「どうしてこういやなことばかりあるんだろうね」と光一はいった。

「ぼくが思うに、この世の中にひとり悪いやつがあると世の中全体が悪くなるんです」とチビ公はいった。

「だがきみ、社会が正しいものであるなら、ひとりやふたりぐらい悪いやつがあってもそれを撃退する力があるべきはずだ」

「それはそうだが、しかし悪いやつの方が正しい人よりも知恵がありますからね、つまり君の学校の校長さんより阪井の方が知恵があります、どうしても悪いやつにはかないません」

「そんなことはない」と光一は顔をまっかにして叫んだ。「もしこの世に正義がなかったらぼくらは一日だって生きていられないのだ、ぼくは悪いやつと戦わなきゃならない、この世の悪漢をことごとく撃退して正義の国にしようと思えばこそぼくらは学問をするんじゃないか」

「それはそうだが、しかし強いやつにはかないません、正義正義といったところで、ぼくの伯父は監獄へやられる、阪井は助役でいばってる、それはどうともならないじゃありませんか」

ふたりは警察署の前へきた、いましも七、八人の人々がひとりの男を引き立てて門内へはいるところであった。チビ公は電気に感じたようにおどりあがって人々の後を追うた。とまたすぐもどってきた。

「伯父さんかと思ったらそうでなかった」

かれは安心したもののごとく眼を輝かした、そうしてこういった。

「喧嘩して人をきったんですって、それはいいことではないが、ぼくはああいう人を見ると、なんだか、その人の方が正しいような気がしてなりません、時によるとぼくもね、ぼくがもし身体がこんなにチビでなかったら、もう少し腕に力があったら、悪いやつを片っ端から斬ってやりたいと思うことがあります、身体が小さくて貧乏で、弱い母親とふたりで伯父さんの厄介になっているんでは、いいたいことがあってもいえない、いっそぼくの頭がガムシャラで乱暴で阪井のように善と悪との差別がないならぼくはもう少し幸福かもしらないけれども、学校で先生に教わったことをわすれないし、道にはずれたことをしたくないために、人に踏まれてもけられてもがまんする気になります、そんなことでは損です、世の中に生きていられません、そう思いながらやはり悪いことはしたくないしね」

チビ公は涙ぐんで歎息した、光一はなにもいうことができなくなった。かれはいままで正義はかならず邪悪に勝つものと信じていた。それが今日もっとも尊敬する久保井校長が阪井のためにおいはらわれたのを見て、正義に対する疑惑が青天に群がる白雲のごとくわきだしたところであった。かれはいまチビ公の嗟歎を聞き、覚平の薄幸を思うとこの世ははたしてそんなにけがらわしきものであるかと考えずにいられなかった。

ふたりはだまって歩きつづけた。と米屋の横合いから突然声をかけたものがある。

Chapter 9 of 26
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