十
お筆は漸々顔を上げまして、
筆「はい左様で」
甲「何うじゃ町役人」
藤「全くは是から訴えようと内々下話もございましたので、処を盗み取られましたんで」
甲「これ下話が有ったら何故訴えぬ」
藤「いえ是から下話を致そうかと考えて居りましたんで」
甲「なんだ、筆なる者は罪もなく殊に孝心な者故助け度いとて訴え出でたる幸十郎は最と神妙の至りで有る、筆儀は咎も申し付けべき処なれども、其の親孝心に愛でゝ上に於ても格別の思召を以て此のまゝ免し遣わす、立ちませえ」
筆「はい」
と立とうとする途端にびいんという仮牢の錠の開く音が頭上に響いて、恟りする中に大戸をガラ/\と開けて仮牢から引出されましたは、禿げた頭の月代は斑白になりまして胡麻塩交りの髭が蓬々生え頬骨が高く尖り小鼻は落ちて目も落凹み下を向いて心の中に或遭王難苦、臨刑慾寿終、念彼観音力、刀尋段々壊、或囚禁枷鎖、手足被械、念彼観音力、釈然得解脱、と牢の中でも観音経を誦んで居たが今ヒョロ/\と縄に掛って仮牢から引出されるを見ますると、三年以前に別れた実父の下河原清左衞門でございますから何う云う訳で此の有様はと、はッと思いまして、
筆「お父さん」
と云い掛けると清左衞門が、むゝと眼で知らせますから、
筆「はい」
と泣き度い程悲いのを耐えて砂利の処へぺたぺたと坐りました。明奉行だから早くもそれと見て取って、
甲「筆暫く控えろ」
筆「はい/\」
甲「是なる浪人者を其の方は見知り居るか」
筆「はい、い、え」
甲「隠すな、隠すと為にならんぞ、是なる浪人下河原清左衞門は、長谷川町の番人喜助を毒殺致した罪に依って長らく入牢仰せ付けられ、再度の吟味に逢うと雖も白状致さぬ、毛頭覚えはないとのみ、然れば主名を明かせと云えば武士の道が立たん、士道が立ち難いに依って主家のお名前は仮令身体が砕けても白状を致さぬと申し張って居るが、是は其の方の伯父か」
筆「いゝえ」
甲「父か」
筆「いゝえ」
甲「何故隠す、主家の名前を申せば免して遣わす、其の方見知りの者で有れば申せ此の者が助かる事で有るぞ、其の方は元築地辺に居って何か災難に依って入水致した処を助けられたのが只今の孫右衞門で有る由上に於て篤と其の辺は調べが届いて居る、孫右衞門は養父じゃな、是なる清左衞門は其の方の実父で有ろう」
筆「はい、……いゝえ」
云わんと致しますると清左衞門が目で知らせるから口を開く事が出来ません。
甲「何故言わぬ、此の者は其の方と面体恰好が能う似て居るぞ、其の方が強て隠すと此の者は重き刑に行われるが、其の方の実父なれば、清左衞門の口から士道立ち難いに依て申せまいが、其の方が申すに仔細はない、其の方の実父ならば実父だと申せば宜しい、実父と申すが悪いならば此の者の主家の名前を申せ、其の方が申すに仔細は無い事で有る、何処までも云わんで居ると此の儘此の者を無実の罪に苦むるは不孝で有ろうが」
筆「はい/\申し上げます」
側から藤兵衞が低い声で、
藤「云いなよ/\、あゝやってお柔かに仰しゃる事だから、云わないと宜けないよ、隠し立てをしちゃア彼方も盗賊、此方も盗賊、然う幾らも盗賊と心易くしちゃア困るから云いなよ」
筆「はい、実は私の血を分けました親共でございます」
と白状を致しました。其の時御奉行は、
甲「うむ、然うじゃろう、何れの藩じゃ主名を申せ」
筆「はい、巣鴨傾城ヶ窪の吉田監物の家来下河原清左衞門と申す者でございます」
甲「うむ、何故屋敷を出て浪人致した、主人の不興でも受けて追放を仰せ付けられたか何う云う事じゃ」
筆「少々御主人様の事に就きまして親共が諫言を申した事がございます、其の諫言が却って害に相成りまして不興を受けてお暇になりましたが、父は物堅い気性故、仮令主でも家来でもお家の為を思う者を用いなければ止むを得んから主家を出る、飢死しても此の屋敷には居らんと、重役の者と争論を致しまして家出を致しまして四ヶ年程浪人致して居りました」
甲「うむ、主家に何の様の事が有ったか其の方弁まえて居るか」
筆「深い事は存じませんが、御妾腹の」
と云い掛けると清左衞門が顔で頻りに電光をして居ります。
甲「清左衞門控えろ、此の者が申すに仔細はない、其の方が口外致せば故主の非を挙る事になるかもしれんが、筆の孝心より申すのじゃ仔細はない、控えて居れ、ふむ、主家の妾の腹に宿した子が有ったと」
筆「はい、お妾の腹に出来ました鐵之丞と申します者を世に出だそうというお妾の悪計に附きました者もございまして、御本腹の金之丞様を毒害しようと云う悪計もございましたと云う事は薄々聞きました事で」
甲「うむ、其の方に叔父が有るか」
筆「はい、ございます」
甲「是なる清左衞門の兄で有るか弟か」
筆「弟でございます」
甲「うむ、それはまだ監物の屋敷に居るか」
筆「未だ居るでございましょう」
甲「吉田監物家来下河原清左衞門、其の方は武士道が立難いに依って身体の醢になり骨が砕けても云わんと申したが娘が親を助け度いと云う孝心から此の事を申したのじゃから其の方に於て武士道の立たんと申す事は聊もない、筆、叔父の名は園八郎と申すで有ろうの」
筆「はい園八郎と申します」
甲「能く申した今日は此の儘下げ遣わす、こら町役人筆を確と預け置くぞ、明日改めて呼び出すから左様心得ろ」
○「畏りましてございます」
甲「双方立ちませえ」
と云うので双方ともに起ち、下河原清左衞門は仮牢へ這入り、お筆は町役人が預かって帰りました。孫右衞門の悦びは一通りでありません。翌日になりますと、新吉原町辨天屋祐三郎抱え紅梅并に下河原園八郎という清左衞門の弟をお呼出しに相成るという一寸一息つきまして。偖其の次の日は、吉田監物家来下河原園八郎がお呼出しに相成り、縁側の処へ上下無刀で出て居ります。曲淵甲州公は御席に就きましたが、辨天屋の抱え紅梅は白洲迄は出て居ったがまだお呼び込みにはなりません。
甲「吉田監物家来下河原園八郎」
園「はっ、罷出でました」
甲「其の方は三ヶ年以前の十一月三日、長谷川町の番人喜助に銘酒じゃと申して徳利を持参致して毒酒を置いて帰り候由、番人喜助の女房梅なる者より訴えに相成って居るが、夫に相違有るまい、何うじゃ」
之を聞くと園八郎は額へ青筋を出しまして顔色を変え、袴の間へギュッと手を入れて肩を張らし、曲淵甲州公の顔を眤と見詰めて居りましたが、
園「是は怪しからん仰せにござります、長谷川町の番人に毒酒を与えましたなどと云うは毛頭覚えない事でございます、怪からんお尋ねを蒙るもので」
甲「控えろ、其の方如何様に陳じても天命は遁れ難い事で有る、其の方は監物の妾村と申す者と密通致し、村の腹へ宿したる鐵之丞を家督に直さんが為に、本腹の金之丞へ毒薬を授け金之丞を毒殺致して妾の腹に出来たる鐵之丞を家督に直さんという企を致した事は上に於て篤と調べが届いて居るぞ」
園「是は何うも思い掛けないお尋ねを蒙りますもので何故に左様な事を」
甲「黙れ、其の方如何様に陳じてももう遁れる道はないわ、辨天屋祐三郎抱え紅梅を呼出せ」
是から紅梅が出て来ましたが娼妓などは立派に着飾って出るもので、お白洲に出るような姿ではない。前申し上げます通り阿古屋の琴責の様な姿で簪を後光の様に差かざして居るから年を取って居ても若く見えます。ずいと出まして、御奉行の方を斜に向いて坐って居ります。
甲「辨天屋祐三郎抱え紅梅、勇之助代かや、差添うたか」
かや「差添いましてございます」
甲「其の方亭主喜助に毒酒を置いて参った侍は是なる侍で有ろう、篤と面体を見い。近う寄って面体を見い」
ずいと来て、
紅「あらまア何うもまア図々しいじゃア有りまへんか、あんな高い処に昇って真面目な顔をしてえて上下を着てえてさ、何だッて此んな悪党に上下なんぞを着せて置くんですよ、牢の中へ入れたんじゃア有りまへんか」
甲「いや前に取押えて入牢申し付けたは清左衞門と申す者じゃ」
是から清左衞門をお呼出しに相成りまして、
甲「兄弟で有るから能く肖て居るが、能く見ろ違うて居るだろう、篤と面体を見定めよ」
という御沙汰で、紅梅は熟々両方を見較べて清左衞門に向い、
紅「まア何うも済まない、堪忍してお呉んなはいよ、肖てえるったって本当に能く肖て居るんだものを、成程貴方の方が少し老けて居りますが余り能く肖て居るからお前はんだとばかり思って済まない事をしましたが、此ん畜生、宅の人に毒を盛って是はお上のお上りの御酒だから惜しいんだなんぞと云やアがって、そんな高い処に上げて置かずに此処へ下してお呉んなはいよ、私ゃアしがみ附くよ」
甲「控えろ、仮令三寸不爛の舌頭を以て陳じても最早逃れられぬぞ、是なるは番人喜助の女房梅で有る、見覚えが有るか何うじゃ」
と云われ流石の園八郎も差迫って紅梅を見てこう下を向いて居ります。
甲「何うじゃ、是にても尚陳ずるか、相違有るまい何うじゃ」
園「え、恐入りましてございます」
甲「縄打てえ」
と云うとトンと縁から下へ突落されると直にバラ/\と来て縄を掛ける。最早遁れる道はない、毒薬を盛ったに相違ないと云う事が速かに分りましたから、此の者は主殺しに当りますから、磔刑になるべき処を、吉田監物の家が断絶になるから家事不取締りで、此の園八郎も妾のお村も斬罪に処せられ、吉田監物は半地に残したはお上の慈悲でございます。又下河原清左衞門が助かると云うのは、全くお筆が孝行の然らしむる処で、親子諸共に罪を免されて出る。彼の月岡幸十郎は訴え出まして、残らず事柄が分りますと云うのは、彼の伊勢銀に這入りまして家尻を切って二百両の金子を取ったのも此の者で、幸十郎は後に相当のお仕置に相成りました。下河原清左衞門親子は立帰り、主家は半地にお取立てに成りましたが、奥方の耳へも此の事が這入りまして、清左衞門親子はお召返しに相成りましたから、大恩が有るというので、かの腰の抜けた孫右衞門をも屋敷へ引取り、十分介抱して之を見送り、後孫右衞門は死去りましたが、下河原の家はお筆が養子を取って家督を致しまするというお芽出度いお話でございます。
(拠酒井昇造速記)
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