二
これから元名村の所へ来ると丹波屋という茶漬屋がありますが、此処も客が一杯で彼れから右へ切れて、川崎へ掛る石橋の所、妻恋村へ出ようとする角に葭簀張が有って、其の頃は流行ました麦藁細工で角兵衛獅子を拵え、又竹に指た柿などが弁慶にしてあります。床几には一寸煙草盆があって、店の方にはに捻鉄松風に狸の糞などという駄菓子が並べてございます。唯今茶を汲んで居る娘は年が十八九で、眼元が締り、色くっきりと白くして豊頬の愛敬のある、少しも白粉気の無い実に透通る様な、是が本当の美人と申すので、此の娘が今襷掛で働いて居ります、余り美しいから人が立停って見て居る様子。
馬「もし旦那一寸御覧なさい、素晴しい別嬪で、御覧なさいあの何うも前掛などが垢染みて居るが何うも別嬪で」
圖「成程是は美人だ」
馬「木地で化粧なしで綺麗だから、何うも得て何処か悪い所の有るもんだが、こりゃア疵気なしの尤い玉で」
周玄は中々の助平だから先刻から途々女を見て悦んで居る所へ、
馬「先生何うです彼の娘は見事じゃアありませんか」
周「はゝア成る/\いやこれは美人、こりゃア恐入った代物だ、もし彼の床几に腰を掛けてる客ね、茶は呑みたく無いが、あの娘を見たい計りで腰を掛けて居ますわ、実に古今無類の嬋妍窈窕たる物、正に是れ沈魚落雁閉月羞花の粧いだ」
馬「はゝ当帰大黄芍薬桂枝かね、薬の名のような賞め方だからおかしい、何しろ一寸休んで近くで拝見などは何うでげしょう」
皆々「それがよかろう」
馬「はい御免」
娘「入らっしゃいまし」
(先から居る客)「こりゃア大きにお邪魔を致しやした、どれ出掛けましょう」
娘「まア御緩りと遊ばしまし左様なら有難う」
馬「旦那御覧じろ今の三人連は顔附でも知れるが皆な助平連で、此家の娘を見たばっかりでもう煙草入を忘れて往きましたぜ」
圖「そりゃア困るだろう、返して遣んな」
馬「返せたッて此の人込の中で知れやアしません、へゝゝゝこりゃアお祖師様から私への授かり物で、有難い、いえさ、向でもこの人込の中だから気が附きゃア仕ません、忘れて居ますわ」
と懐の中へ入れる。
圖「止せといえばよ、手前お祖師様の罰が当るぜ、止しなよ」
と云う所へ前の客はきょろ/\眼で遣って来まして、
客「只今此処へ煙草入を忘れましたが後で気が附きましたので、もし此処にゃア落ちていませんでしたか」
馬作は不性無承に懐から煙草入を出しまして、
馬「はい今追懸けて返して上げようと思って居たが、是ですか」
客「へいこれでございます、有難うございました、いえも詰らん煙草入ですが途中で煙草が無いと困りますから、左様なら有難うございます」
とずいと往ってしまう。馬作は後で口を明いて向を眺めて、
馬「あゝあれだ、取りに来ようが余り早い取りに来ようだ」
圖「狡い事をするとつまり損をするぜ」
馬「損をするってえ旦那是迄私は何にでも損をした事はございません、そりゃアもう、からッきし酔ってお座敷を勤めてもね、物を忘れた事はありません、そりゃアもう其処らに有る物を何でも拾って袂へ入れてね、お肴でも何でも構やア仕ません、それだから家へ帰るとね何時でも手拭の八本位袂から出るので、そりゃア実に慥なもので…いや待てよ…あゝ珠数の釣を取るのを忘れた」
圖「はゝゝゝそれ見ろ、直に罰が当った」
馬「いや忌えましい、時に兼ちゃんは何うしたろう、まだ来ねえ、だが旦那あの妓ぐれえ買喰の好きな妓はありませんぜ、先刻も大きな樽柿と蒸し芋を両方の手に持って、歩きながらこう両方の喰競べを為ながら…あゝ来た/\…兼ちゃあん此処だ/\、あんまり遅いから待って居たので」
兼「おや左様、今頼まれた物を買ってる中遅くなったの」
馬「頼まれ物だと、なんだ串柿かね、おい姉さんお茶をおくれ」
茶碗も沢山はございませんから、お客の帰る傍から其の茶碗を洗ってしとやかに茶を汲んで出す。
娘「貴方お茶をお上り遊ばせ」
と出すのを見ると元小兼の主方の娘で、本多長門守様の御家来岩瀬某と申し、二百石を頂戴した立派な所のお嬢様で何う零落てこんな葭簀張に渋茶を売って居るかと、小兼はじっと娘の顔を見詰めた切り、暫くは口もきけません。
兼「お嬢様まア何うなすった」
娘「兼や誠に面目次第も無い、お母様と私と一昨年からこんな業をして」
兼「ほんにまアねえ、私も御存じの母が亡くなりまして其の亡くなる前にも、何うぞして入らっしゃる所が知れ無いかと申して、何うか尋ねて御恩に成ったお礼を申してと、もう此方に斯うやって入らっしゃる事が知れゝば、及ばずながら疾うにお力にも成って上げましたものを、もう此方に入らっしゃるとは知りませんもんですから…本当にまア好く……馬作さん何だって勿体ない、お嬢様にお茶など戴いて好い気になって、彼方へお出でよう」
馬「だって茶店の姉さんに此方から茶を汲んで出す奴が有るものか」
兼「こりゃア私の御主人様だよう」
娘「お母様兼が参りましたよ、一寸お逢い遊ばせ」
破れた二枚屏風の中に年齢五十五六の老母、三年越し喘息に悩みこん/\咳をしながら、
母「兼や誠に暫く」