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偉大な医師たち 伝記による医学史
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偉大な医師たち 伝記による医学史
シゲリストヘンリー・E
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 9 of 59

7 エペソスのソラノス(紀元2世紀)

アスクレピアデスのように強い個性と独創的見解を持つ男が医学の発展に影響し学派を作ったのは当然なことであった。彼の忠実な弟子としてラオディケア(シリア北西部)のテミソンがいた。テミソンは永年にわたり先生の方針を固く守っていた。しかしアスクレピアデスが死去すると老齢ではあったがテミソンは突如として新しい方針を採用し始めた。アスクレピアデスの教えは体系的でなく充分に精確ではないと彼は考えた。したがって臨床医師たちにも役立つように簡単な方法を作りあげた。

病気の治療には何が決定的であり決定的であるべきだろうか? 病気の原因ではなく一般的症状として認めることができる基本的な型である。この基本的な型は3つある。「緊張状態」では間隙が小さくなっている。「弛緩状態」では間隙が大きくなっている。「混合状態」では身体のある部分で間隙が小さくなり他の部分で大きくなっている。

もしも皮膚が乾いており分泌物が少なく高熱があるときには緊張状態が関係する。もしも症状が逆だったら弛緩状態が関係する。治療の目的は前者では間隙を弛緩させ後者では緊張させるべきである。どのようにすれば良いだろうか? テミソンはアスクレピアデスと同様に一般に食養生と物理療法に依存した。しかし、これらの方法を適用するにあたってさらに2つの点に注目する必要があった。第1に介入を行う病気の時期であり、第2は病気が急性であるか慢性であるかである。テミソンは言った。慢性病は人々が信じてきたように急性時期が慢性の経過をとったものとは限らない。本質的に慢性の性質を持っている多くの病気があるからである。

これらの学説によって医学を単純な定式化することができた。法則が作られ方法が確立されて容易に習うことができるようになった。ローマで流行していたこの学派の信奉者たちは自分たちを「方法学派」と呼んた。彼らの学説は極めて単純だったのではったり屋を生む傾向があった。トラレス(トルコ南西部)のテサロスはネロ時代の方法学派の1人で6ヶ月で医師を育成できると称していた。彼はリュディアの織工の息子だった。ローマに来て主として鍛冶屋、靴屋、塗装工、などの手工芸者と付き合い患者を往診するのに彼らを連れて行ってすぐに医師とした。医学をよく勉強してきた医師はこれらの偽医師を「テサロスのまぬけ」と呼んだ。テサロス自身は非常識でうぬぼれが強かった。彼以前に医術について書かれていたことはすべてナンセンスでありヒポクラテスは嘘つき以上ではないと宣言した。真の治療術はトラレスのテサロスに始まった! と。彼は種々な著作を書きその中には食養生の1冊と外科学の1冊がある。これらは現存してはいないがネロに献辞を書いたことが知られている。死後にも名が残るように自分の墓に「イアトロニケス――医師どもの征服者」と書かせた。

「何でも知っている」男とガレノスが彼を呼んだ所から見ると欠点はあったがテサロスは頭の良い男だったのに違いない。彼は方法学派には属していたが体系を拡大し特に慢性病の治療についてはこれを2段階に分けた。慢性病でしばしば組織が非常に広範な変化を受けることをテサロスは知っていた。従って治療の目的は臓器を再び健康の方向に戻すことであった。しかしこれは容易ではなかった。多くの場合に患者は長期にわたる病気によって弱り激しい治療に耐えることができなかった。治療を始める前に鍛えなければならなかった。最初に必要なものは「快復治療」であって今日の強壮療法に相当し主として食養生であり他の物理的療法も行われた。これらの方法で患者の力があるていど回復したら特効のある刺激療法すなわち「変調治療」を始めた。これは生体を励ますものであった。このために種々の方法が用いられた。治療法のあるものは食養生であって栄養物を周期的に変えた。別の場合には強力な下剤を用いこれに続いて色々な種類の刺激を行った。さらに他の例では大気が変化するように転地療法を処方しこれによって身体の栄養過程が徹底的に変わることを期待した。

このような考えは現在でも行われていることに読者は気付くであろう。(*化学療法の無い時代に)結核患者を山の療養所に送ったのはこのような考え方に基づいていた。

もしも広範な医学経験を持つ天才がいなかったらこの「方法学派」は多分かなり以前にローマで衰退していただろう。原則を採用しながらそれに確固たる科学的基礎を与え同時に先駆者たちよりも幅広い視野を適用する幅広い医学経験を持つ天才であった。この男はエペソスのソラノスであり方法学派の最も優れた代表であった。ソラノスは教養を持たずに出発したテサロスとは多くの点で正反対であった。彼はアレクサンドリアで全般的な教育を受けて単に医師であるだけではなく哲学者であり文法学者であり魂についての詳しい専門書の著者でもあった。テサロスは以前の医師たちを馬鹿にしていたがソラノスは振り返って彼らを尊敬した。どんな傾向の人たちであろうとも彼らの経験を学ぶために彼らの著作を研究した。彼は10冊の専門書に過去の偉大な医師たちの生涯と教えを記載した。ヒポクラテスについては断片以上のものは残っていなかった。ソラノスは過去から受けた医学知識を広範囲に利用した。テサロスを別にすると当時の医学書著者たちは同じようにしていた。しかしソラノスは章や詩文についての引用が特に正確であった。

ソラノスの生涯については殆ど何も知られていない。知られているのはアレクサンドリアで学び終わった後でトラヤヌスおよびハドリアヌスの時代すなわち紀元後2世紀の初めにローマに来たことぐらいである。しかし当時の多くの医師たちに比べるとよく知られている。彼の著作の多くがギリシア語原文かラテン語訳として残っているからである。彼の著作は明瞭、簡潔、印象的で余計な誇張が無い。

既に述べたようにソラノスは方法学派として信念を持っていて、彼の本のあるものは方法学派理論の解説や詳述に捧げられていた。彼の「共通なもの」すなわち病気の基本タイプの記載は方法学派としてのものであった。彼は広範な「病理学各論および治療学」(すなわち内科学)をまとめ方法学派の立場で病気を急性と慢性に分けて取り扱った。この大著は紀元5世紀および6世紀に令名が高かったアウレリアヌスによってラテン語に訳された。この飜訳は現存していて、個々の病気について方法学派たちがどのように考え治療していたかを示しているので医学史研究者にとって宝庫である。

解剖学すなわち正常身体の構造についての知識は医術を行っている者には価値がないと方法学派は考えていた。ソラノスも他の者と同じように考えていた。しかし「毎日人体を調べ触診し聴診している医師はその構造や機能に興味を持たないわけには行かない」とソラノスは言った。[アレクサンドリアで学んだことはソラノスに強い影響を残していた!]解剖学的知識は役に立たないかも知れないし実際は役に立たないかとしても科学的医師にとって装飾の役割をする。ソラノスは非常な勉強家であって専門家がふつうに使う解剖―生理学用語の語源や定義を編集した。このような知識は必要だからではなく興味深いものだったからであった。

病因についての彼の態度も同様であった。医師は病気の原因について何も知る必要はなかった。しかし病因は調査において非常な励ましとなる領域であり病気についての知識を完成させるものであった。科学的調査の精神によって鼓舞され方法学派の厳しい教義から離れて病理学各論ならびに治療学の著作に付け加えるために臨床に直接に必要であると主張している範囲の外まで彼は研究を広げた。

これまで述べた理論的な著作に加えてソラノスは数多くの本を臨床指導のために書いた。衛生学専門書、薬理学についての著作、外科臨床のための便覧、包帯術について図示した小冊子、である。この包帯術の図は古代に描かれ9世紀の稿本に残されたものである。これらの図は今日使われている包帯術を古代の人も知っていたことを示している。むしろ現代の方法は数千年前の成果と言うべきであろう。包帯で第一に必要なことは元の場所から動かないことである。このような包帯術は単純なことが最良である。ソラノスの本の図が示すように古代の外科医たちはこれらの最良でもっとも単純な方法を見つけ出していた。

しかしソラノスは助産術および婦人科学についての教科書の著者として特に有名である。彼はふつう古代における有能な婦人科医とみなされている。この教科書の大部分は現在も残っていて素晴らしいことは間違い無い。しかし彼は婦人科の専門医ではなかったので彼よりもっと優秀な婦人科医がその時代にいたと考えられる。我々は彼が優秀な内科医であったことを知っている。さらに彼が外科医として広く治療したことを知っているが外科学についての著作は伝わっていない。古代にはソラノスの前にも後にも優秀な婦人科医がいたはずであるが不幸なことに彼らの著書は消失している。

本のスペースに余裕があってソラノスの婦人科学専門書の詳細を書くことができたらきわめて興味深い。古典時代において最高と思われるときの助産術および婦人科学を示すことができるからである。しかし著作の概略を短く述べるだけで満足しなければならない。最初にこの著者は有能な助産婦について述べている。この職業で成功するにはどんな身体および精神が必要だろうか? 彼女はまず性格について高い資性の人でなければならない。この本の残りの大部分で助産婦の実務が取り扱われている。2つの部分からなる。生理―衛生の部分と病理―治療の部分である。最初は女性性器についてであり次いで著者は機能すなわち月経、受胎、妊娠に進んでいる。それから助産婦または助産夫の援助を必要とする出産の生理学を記載している。さらに産褥の女性および新生児の介護についての記載が続く。これで生理学部分は終わる。続いて病理学の部分すなわち病気について述べている。治療は食養生、外科療法、薬物療法の別に従って考察されている。この専門書に書かれている知識の程度を知るのは興味深い。局部検査にスペキュラ(腟鏡)が使われた。余計なことをしないように警告をしているが困難なときには産科手術が必要だった。ある場合には頭位にするため、時には骨盤位にするために回転術が行われた。難産で最悪な場合には母親の生命を助けるために切胎が必要であった。もちろんソラノスの本に誤りが無かったわけではなかった。1つの例をあげると出産にさいして新生児の頭が通りやすいように恥骨が恥骨結合の所で離れると考えていた。このことはかなり近年まで信じられてきていた。

この本には図があり図が保存されてきた。この中にはここに示したように子宮の図があり赤ん坊の種々な胎位が描かれている。

この本への付録としてソラノスは生殖についての簡単な理論を書いた。また問答の形式で要約を行った。助産婦のための問答はラテン語に翻訳され図示されていて中世を通じて使われた。

ソラノスは方法学派の絶頂を表現していてこの古典古代[古典システムはすでに衰弱し始めていた時期にあたる]のずばぬけた人物は中世初期を通して医学において優位を占め続けた。

第7章図1 One of the Illustrations in Soranus' Treatise on Bandaging ソラノスの包帯術書に掲載されている図

第7章図2 One of the Illustrations in Soranus' Treatise on Midwifery 助産婦用の本にある図

Chapter 9 of 59
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