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黎明
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黎明
島木健作
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 6 of 6

6

殘る火箸の一本を右手に、熊吉は仁王立ちに立上つた。

「熊吉! 岩田熊吉はゐるか?」

とたんに表に聲がきこえ、靴の足音がした。佩劍の音がし、這入つて來たのは顏見知りの村の駐在所の巡査だつた。

「あゝ、松本の旦那もこゝでしたか。」と彼は急ににこにこしながら云つた。「熊吉、分署までちよつと連れ立つて行つてけれや。少し訊きたいことがあるんだ。」

公務執行妨害、及び傷害の罪で收容せられた岩田熊吉の公判の日が近づきつゝあつたころ、太田健造はN市警察署の留置場内にゐた、熊吉の身に變事の起つた事を少しも知らなかつた太田が、かねて約束の神無部落の集會は今日と、勇んで起きたその朝、突然事務所からN署に連行せられそのまゝ止められてしまつたのである。熊吉の犯罪は太田の教唆によるものであらうとの疑ひからであつた。少くともそれが表面の理由であつた。――數へがたいほどに多くの今までの留置場生活の經驗のうち、今度ほどはげしい焦躁と混亂とにつきおとされたことはかつてなかつた。農村に働くやうになつて最初の、小さくはない蹉跌のいろいろな原因が深く省りみられたのである。

太田が釋放されたのは熊吉の公判の日の二日前の夕方であつた。

あらゆるものが、一時にどつと彼の上に押しかぶさつて來た。わづか二月あまりの留置ではあつたけれど、はじめての經驗者であるかのやうに興奮してゐた。捕はれた熊吉のことが何よりも氣がかりだつた。組合では勿論、運動の犧牲者として取扱ひ、差入もし、本部の人々が時々面會にも行つて元氣づけてゐるとのことだつたが、出身の村そのものに組織がないので不充分であることをまぬがれぬふうであつた。「どんな樣子です?」と事件擔當の組合の顧問辯護士に訊いてみると、「うん――いつ逢つて見てもむすつとして、ものもろくすつぽういはないんだ。動轉してしまつていへないのかも知れんがね、きよろきよろあたりを見まはして何をいつても、へえ、へえいつてるだけなんだ。」といひ、「もともとあんな人間なのかね。引つぱられて腑拔けになつたわけでもあるまいが。」と笑つた。突然おちこんだ陷穽と、慣れない生活に半ば動轉しまだ落つきを取戻してゐない熊吉の顏がありありと思ひ出され、檻になじまない野性の動物に似たものを心に感じ、自然目頭が熱くなつた。

「はじめのうちは君の事ばかりしきりに訊くんだ。返事のしやうがなくて弱つたよ。」

「ほんとうの事は言つてないんですか。」

「うん、病氣だと言つてあるんだが――何でもないことのやうだがちよつとありのまゝはいへなかつたんだ。なにせ、今にも君が助け出しに來るものと信じ切つてゐるらしかつたんだね。警察よりも何よりも君がえらいものになつてゐるんだ。農民組合の先生がみんな知つとりなさるんぢやけに、とそれ一點張りさ。僕らの言ふことを餘り聞かんのもそのせいかとおもふ。もとつも此頃は餘り言はなくなつたが。」

釋放された翌日は折あしく日曜日であつたので、公判前に刑務所に行つて面會する機會は全く失はれてゐるのだつた。――

藤澤は引つゞき家屋明渡の訴訟を提起し熊吉に戰ひをいどんで來てゐたが、殘された老父と妹にたいしては、部落の人々がかはるがはる、松本のきびしい監視の眼をぬすんでは朝晩の世話をみてゐるとのことだつた。今いいオルグさへ居れば、この事件を機會に部落ぢゆうを固めるのは朝飯前の仕事なのに、と自分の留守中に本部が神無にたいしてとつた消極的な態度を殘念がり、太田は本部の書記をあつめてその夜おそくまで討論を重ねた。

岩田熊吉の公判は月曜日の午後に開かれた。太田は峠を越えてわざわざやつて來た神無部落の人々と一緒に、傍聽席の片隅に坐つた。脚氣の氣味で足がむくみ、息切れのするからだを持ちあつかひかねてゐるふうに彼は見えるのであつた。太田たちにおくれてほかの村の人たちがぼつぼつ姿を見せ、開廷までには小都市のこの狹い公判廷の傍聽席は滿員だつた。――十二月の中旬で雨か雪が今にも降り出しさうな底冷えのする曇り日だつた。古風なシヤンデリアにはもう明りがついて、日暮れまへのひとときのやうな靜けさがそこにはあつた。

時間が迫つてくるにつれ、ますます濃くなつて行く重苦しいけはひがその時ふいに破られ、公判廷の左側の入口が左右に開いた。その入口は廊下をもつて、刑務所から送られてくる收容者の溜り場に通じてゐた。――二人の役人に左右を護られ、手錠編笠の男がづんぐりした姿をそこにあらはした。洗ひざらしの盲縞の筒つぽの袷は袖も丈もつんつるてんで、大きな子供のやうな滑稽な感じを見る人々に與へた。骨太な手首から手錠がはづされ、編笠を取つた瞬間、彼は茫然としてそこにつつ立つてゐた。口を半ばひらいてまぶしさうに顏をあげ、目の前のものも目にははいらず、自分が今どこに連れて來られたかも知らぬふうであつた。やがてうながされて正面へ行き、そこの椅子に腰をおろし、けげんさうにきよろきよろとあたりを見まはし、しきりに伸びあがつて後ろの傍聽席を見るのだつた。――太田は何ヶ月ぶりかで熊吉の顏を見た。顏の赤味がややうすらぎ、頬が心もち削げてゐた。からだ全體が横も縱も少し小さく縮まつたやうだと太田はおもつた。

正面の扉がひらき、判事が、つぎに檢事があらはれ、それぞれ設けの席についた。

「立つて……」と裁判長がいつた。熊吉はものうげに立上つた。檢事が立つて簡單に公訴事實を述べた。それが終ると裁判長は型のごとくに訊問を開始した。住所姓名から過去の經歴をたづねそれからいよいよ犯罪の内容にまではいつて行つた。裁判長は一つ問ひをいろいろに噛みくだきいくどもくりかへさなければならなかつた。熊吉は、「ええ」とか「うう」とかいひ、その都度、首を縱にふつたり、横にふつたりした。立入禁止の公示札にもかゝはらず、田の中へ這入つて稻を刈つた前後の事情に及ぶと、

「何しろわしは四角い字はちつとも讀めんのやつて。」とおなじ言葉を何度も低聲に繰り返した。傍聽席の一隅からはかすかな笑ひがあがつた。

「そこへ坂口源吾と、岡本と、松本と――この三人が訪ねて來たといふのだね?」と裁判長がいつた。

「その時坂口がお前になんといつたかね?」

熊吉はうなだれたまゝだまつてゐる。

「坂口はその時何かお前にいつたらう、何といつたかおぼえてゐる通りいつてごらん。」

裁判長はものやはらかな調子でくりかへした。

熊吉は依然だまつてゐる。うなだれてゐる後姿は何か考へてゐるふうなのだ。裁判長がふたゝび答辯をうながさうと心もち上體を前へのり出したとたん、熊吉は叫ぶやうな大聲をあげた。

「あゝ、お上の旦那!」

深い溜息とともに吐き出したやうな、高いけれども何かを訴へるやうに重く沈んだ聲だつた。いつかうなだれてゐた首をしやんと立てて、上體は眞直にのばしてゐた。彼は今はじめて我にかへり、自分自身を取り戻したかに見えた。自分自身がどこに連れ出され、どんな目に逢はうとしてゐるかを――そして一段高いところに坐つてゐる四人の人達が誰であるかを、今はじめて悟つたかに見えた。彼の内部の奧ふかく閉ぢこめられてゐた一つの感情を呼びさます何ものかが裁判長の問のなかにはあつたのである。おどろくべき精悍さで彼はあらためて自分の周圍を見まはした。すぐに彼はまつすぐ前になほり、裁判長の顏を正面に見た。それから叫びはじめた。

「わしが一體、何をしたといふんや! お上の旦那、まあ聞いてくれろ。わしが藤澤の旦那に借りて作つとる田はわしらが部落でも一番に出來のわりい田圃ぢや。峠の裾つゞきの、ちよつこら高いところを拓いて作つた田圃ぢやけに、水はよくあがらんし、ちつとばし大けえ雨あ降れば、上の山から砂まじりの水どつとと流れて甘土をどこぞへ持つて去ぬし、それこそしよもない田圃ぢや。でもおらあその田を作らせてもらうてからは、ほんまに一生懸命ぢやつたぞう。堆肥ぎようさん入れて一寸でも二寸でも甘土あ肥やすし、上手の方さ土手作つて雨降つても大丈夫のやうな工夫もした。そしてやつとこさ四俵はとれるやうになつたんや。けど四俵とれる田に年貢あいくらだとおもんなさるか? 一石ちつとも缺けんのぢや。旦那! そななこつてわしがやつて行けるとおもんなさるか? 五俵とることもそりやでける、けどそれにやもちつと金肥も入れにやならんわ。そしてそれにや借金をせにやならんわ。んでおらあ、藤澤の旦那さ話して年貢まけてもらふやう、農民組合の先生さたのんだ、それなんでわるいんや?」

太田をはじめ組合側の人々はおもはず腰をあげたが、すぐにまたおろした。ざわめきがきこえそれが消えたあとの水を打つたやうな靜けさのなかに、天井に、四邊の壁に、熊吉のこゑがひびきわたつた。しどろもどろな言葉のなかにふしぎな秩序が保たれてゐた。

「今年は差配の松本さたのんで、肥料叺を四叺ほどわしが方へもまはしてもらうた。借金の證書さそんだけ附け増しになり、利息のつくなあわかつとるんやけど、ちつとばしでも實入りを多くしたいよつてなあ。――金の力はえらいもんや。今年の稻のでけのよかつたといふたら! 一株刈つてかうつかんで見てもいつもの年たあ重さがちがふんぢや。――そのわしの田さへ(原文三字缺)、なんのことや! その稻(原文六字缺)なんのことや!」

裁判長は手をあげ何事かを言つて制止した。けれどもそれは被告の激情を呼びさますのほかなんの働きもしなかつた。

「源吾の奴がわしに何といつたかお役人はいまききなすつたな? 源吾の奴アわしを(原文五字缺)といひよつたのぢや。(原文六字缺)が赤い着もの着たざまあさぞ見ものぢやらうに、と嗤ひくさつたのぢや。んだからわしや奴のどたまを火箸で割つてくれた。駐在所の旦那さへあの時來んぢやつたら、おらあ源吾の奴を(原文五字缺)くれたやらうものを――」

「旦那! お上の旦那! おらあとこを出してくれろ! とつとと今すぐおらとこをこつちから出してくれろ! おらあなにもこつたら目にあふよんたわりいことはしとらんに。――おらあ病氣で寢とるお父うのことが氣になつてならんのぢや。年のいかねえおとよのことが氣になつてならんのぢや。……旦那! お上の旦那! おらとこをたつたいまこつから出して――」

突然、岩田熊吉はおどりあがるやうな身ぶりをし、荒々しく目の前の陳述臺をおしのけ前へ進み、手をのばして訊問臺の縁を引つつかんだ。のびあがり、のびあがり彼は喚きつづけるのであつた。人々は立ち上つた。あわててとんで來た法廷警固の看守たちが彼の兩腕をおさへ、折重なるやうにしてそこへ引き据ゑたあとあとまでも苦しい息の下から彼は喚きつゞけてゐた。

(一九三五・二・改造)

●図書カード

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