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夜明け前 01 第一部上
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夜明け前 01 第一部上
島崎藤村
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 6 of 37

一

七月にはいって、吉左衛門は木曾福島の用事を済まして出張先から引き取って来た。その用向きは、前の年の秋に、福島の勘定所から依頼のあった仕法立ての件で、馬籠の宿としては金百両の調達を引き請け、暮れに五十両の無尽を取り立ててその金は福島の方へ回し、二番口も敷金にして、首尾よく無尽も終会になったところで、都合全部の上納を終わったことを届けて置いてあった。今度、福島からその挨拶があったのだ。

金兵衛は待ち兼ね顔に、無事で帰って来たこの吉左衛門を自分の家の店座敷に迎えた。金兵衛の家は伏見屋と言って、造り酒屋をしている。街道に添うた軒先に杉の葉の円く束にしたのを掛け、それを清酒の看板に代えてあるようなところだ。店座敷も広い。その時、吉左衛門は福島から受け取って来たものを風呂敷包みの中から取り出して、

「さあ、これだ。」

と金兵衛の前に置いた。村の宿役人仲間へ料紙一束ずつ、無尽の加入者一同への酒肴料、まだそのほかに、二巾の縮緬の風呂敷が二枚あった。それは金兵衛と桝田屋の儀助の二人が特に多くの金高を引き受けたというので、その挨拶の意味のものだ。

吉左衛門の報告はそれだけにとどまらなかった。最後に、一通の書付もそこへ取り出して見せた。

「其方儀、御勝手御仕法立てにつき、頼母子講御世話方格別に存じ入り、小前の諭し方も行き届き、その上、自身にも別段御奉公申し上げ、奇特の事に候。よって、一代苗字帯刀御免なし下され候。その心得あるべきものなり。」

嘉永六年丑六月

三逸作

石団之丞

荻丈左衛門

白新五左衛門

青山吉左衛門殿

「ホ。苗字帯刀御免とありますね。」

「まあ、そんなことが書いてある。」

「吉左衛門さん一代限りともありますね。なんにしても、これは名誉だ。」

と金兵衛が言うと、吉左衛門はすこし苦い顔をして、

「これが、せめて十年前だとねえ。」

ともかくも吉左衛門は役目を果たしたが、同時に勘定所の役人たちがいやな臭気をもかいで帰って来た。苗字帯刀を勘定所のやり繰り算段に替えられることは、吉左衛門としてあまりいい心持ちはしなかった。

「金兵衛さん、君には察してもらえるでしょうが、庄屋のつとめも辛いものだと思って来ましたよ。」

吉左衛門の述懐だ。

その時、上の伏見屋の仙十郎が顔を出したので、しばらく二人はこんな話を打ち切った。仙十郎は金兵衛の仕事を手伝わされているので、ちょっと用事の打ち合わせに来た。金兵衛を叔父と呼び、吉左衛門を義理ある父としているこの仙十郎は伏見家から分家して、別に上の伏見屋という家を持っている。年も半蔵より三つほど上で、腰にした煙草入れの根付にまで新しい時の流行を見せたような若者だ。

「仙十郎、お前も茶でも飲んで行かないか。」

と金兵衛が言ったが、仙十郎は吉左衛門の前に出ると妙に改まってしまって、茶も飲まなかった。何か気づまりな、じっとしていられないようなふうで、やがてそこを出て行った。

吉左衛門は見送りながら、

「みんなどういう人になって行きますかさ――仙十郎にしても、半蔵にしても。」

若者への関心にかけては、金兵衛とても吉左衛門に劣らない。アメリカのペリイ来訪以来のあわただしさはおろか、それ以前からの周囲の空気の中にあるものは、若者の目や耳から隠したいことばかりであった。殺人、盗賊、駈落、男女の情死、諸役人の腐敗沙汰なぞは、この街道でめずらしいことではなくなった。

同宿三十年――なんと言っても吉左衛門と金兵衛とは、その同じ駅路の記憶につながっていた。この二人に言わせると、日ごろ上に立つ人たちからやかましく督促せらるることは、街道のよい整理である。言葉をかえて言えば、封建社会の「秩序」である。しかしこの「秩序」を乱そうとするものも、そういう上に立つ人たちからであった。博打はもってのほかだという。しかし毎年の毛付け(馬市)を賭博場に公開して、土地の繁華を計っているのも福島の役人であった。袖の下はもってのほかだという。しかし御肴代もしくは御祝儀何両かの献上金を納めさせることなしに、かつてこの街道を通行したためしのないのも日光への例幣使であった。人殺しはもってのほかだという。しかし八沢の長坂の路傍にあたるところで口論の末から土佐の家中の一人を殺害し、その仲裁にはいった一人の親指を切り落とし、この街道で刃傷の手本を示したのも小池伊勢の家中であった。女は手形なしには関所をも通さないという。しかし木曾路を通るごとに女の乗り物を用意させ、見る人が見ればそれが正式な夫人のものでないのも彦根の殿様であった。

「あゝ。」と吉左衛門は嘆息して、「世の中はどうなって行くかと思うようだ。あの御勘定所のお役人なぞがお殿様からのお言葉だなんて、献金の世話を頼みに出張して来て、吾家の床柱の前にでもすわり込まれると、わたしはまたかと思う。しかし、金兵衛さん、そのお役人の行ってしまったあとでは、わたしはどんな無理なことでも聞かなくちゃならないような気がする……」

東海道浦賀の方に黒船の着いたといううわさを耳にした時、最初吉左衛門や金兵衛はそれほどにも思わなかった。江戸は大変だということであっても、そんな騒ぎは今にやむだろうぐらいに二人とも考えていた。江戸から八十三里の余も隔たった木曾の山の中に住んで、鎖国以来の長い眠りを眠りつづけて来たものは、アメリカのような異国の存在すら初めて知るくらいの時だ。

この街道に伝わるうわさの多くは、諺にもあるようにころがるたびに大きな塊になる雪達磨に似ている。六月十日の晩に、彦根の早飛脚が残して置いて行ったうわさもそれで、十四日には黒船八十六艘もの信じがたいような大きな話になって伝わって来た。寛永十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられ、オランダ、シナ、朝鮮をのぞくのほかは外国船の来航をも堅く禁じてある。その国のおきてを無視して、故意にもそれを破ろうとするものがまっしぐらにあの江戸湾を望んで直進して来た。当時幕府が船改めの番所は下田の港から浦賀の方に移してある。そんな番所の所在地まで知って、あの唐人船がやって来たことすら、すでに不思議の一つであると言われた。

種々な流言が伝わって来た。宿役人としての吉左衛門らはそんな流言からも村民をまもらねばならなかった。やがて通行の前触れだ。間もなくこの街道では江戸出府の尾張の家中を迎えた。尾張藩主(徳川慶勝)の名代、成瀬隼人之正、その家中のおびただしい通行のあとには、かねて待ち受けていた彦根の家中も追い追いやって来る。公儀の御茶壺同様にとの特別扱いのお触れがあって、名古屋城からの具足長持が十棹もそのあとから続いた。それらの警護の武士が美濃路から借りて連れて来た人足だけでも、百五十人に上った。継立ても難渋であった。馬籠の宿場としては、山口村からの二十人の加勢しか得られなかった。例の黒船はやがて残らず帰って行ったとやらで、江戸表へ出張の人たちは途中から引き返して来るものがある。ある朝馬籠から送り出した長持は隣宿の妻籠で行き止まり、翌朝中津川から来た長持は馬籠の本陣の前で立ち往生する。荷物はそれぞれ問屋預けということになったが、人馬継立ての見分として奉行まで出張して来るほど街道はごたごたした。

狼狽そのもののようなこの混雑が静まったのは、半月ほど前にあたる。浦賀へ押し寄せて来た唐人船も行くえ知れずになって、まずまず恐悦だ。そんな報知が、江戸方面からは追い追いと伝わって来たころだ。

吉左衛門は金兵衛を相手に、伏見屋の店座敷で話し込んでいると、ちょうどそこへ警護の武士を先に立てた尾張の家中の一隊が西から街道を進んで来た。吉左衛門と金兵衛とは談話半ばに伏見屋を出て、この一隊を迎えるためにほかの宿役人らとも一緒になった。尾張の家中は江戸の方へ大筒の鉄砲を運ぶ途中で、馬籠の宿の片側に来て足を休めて行くところであった。本陣や問屋の前あたりは檜木笠や六尺棒なぞで埋められた。騎馬から降りて休息する武士もあった。肌脱ぎになって背中に流れる汗をふく人足たちもあった。よくあの重いものをかつぎ上げて、美濃境の十曲峠を越えることができたと、人々はその話で持ちきった。吉左衛門はじめ、金兵衛らはこの労苦をねぎらい、問屋の九太夫はまた桝田屋の儀助らと共にその間を奔り回って、隣宿妻籠までの継立てのことを斡旋した。

村の人たちは皆、街道に出て見た。その中に半蔵もいた。彼は父の吉左衛門に似て背も高く、青々とした月代も男らしく目につく若者である。ちょうど暑さの見舞いに村へ来ていた中津川の医者と連れだって、通行の邪魔にならないところに立った。この医者が宮川寛斎だ。半蔵の旧い師匠だ。その時、半蔵は無言。寛斎も無言で、ただ医者らしく頭を円めた寛斎の胸のあたりに、手にした扇だけがわずかに動いていた。

「半蔵さん。」

上の伏見屋の仙十郎もそこへ来て、考え深い目つきをしている半蔵のそばに立った。目方百十五、六貫ばかりの大筒の鉄砲、この人足二十二人がかり、それに七人がかりから十人がかりまでの大筒五挺、都合六挺が、やがて村の人々の目の前を動いて行った。こんなに諸藩から江戸の邸へ向けて大砲を運ぶことも、その日までなかったことだ。

間もなく尾張の家中衆は見えなかった。しかし、不思議な沈黙が残った。その沈黙は、何が江戸の方に起こっているか知れないような、そんな心持ちを深い山の中にいるものに起こさせた。六月以来頻繁な諸大名の通行で、江戸へ向けてこの木曾街道を経由するものに、黒船騒ぎに関係のないものはなかったからで。あるものは江戸湾一帯の海岸の防備、あるものは江戸城下の警固のためであったからで。

金兵衛は吉左衛門の袖を引いて言った。

「いや、お帰り早々、いろいろお骨折りで。まあ、おかげでお継立ても済みました。今夜は御苦労呼びというほどでもありませんが、お玉のやつにしたくさせて置きます。あとでおいでを願いましょう。そのかわり、吉左衛門さん、ごちそうは何もありませんよ。」

酒のさかな。胡瓜もみに青紫蘇。枝豆。到来物の畳みいわし。それに茄子の新漬け。飯の時にとろろ汁。すべてお玉の手料理の物で、金兵衛は夕飯に吉左衛門を招いた。

店座敷も暑苦しいからと、二階を明けひろげて、お玉はそこへ二人の席を設けた。山家風な風呂の用意もお玉の心づくしであった。招かれて行った吉左衛門は、一風呂よばれたあとのさっぱりとした心持ちで、広い炉ばたの片すみから二階への箱梯子を登った。黒光りのするほどよく拭き込んであるその箱梯子も伏見屋らしいものだ。西向きの二階の部屋には、金兵衛が先代の遺物と見えて、美濃派の俳人らの寄せ書きが灰汁抜けのした表装にして壁に掛けてある。八人のものが集まって馬籠風景の八つの眺めを思い思いの句と画の中に取り入れたものである。この俳味のある掛け物の前に行って立つことも、吉左衛門をよろこばせた。

夕飯。お玉は膳を運んで来た。ほんの有り合わせの手料理ながら、青みのある新しい野菜で膳の上を涼しく見せてある。やがて酒もはじまった。

「吉左衛門さん、何もありませんが召し上がってくださいな。」とお玉が言った。「吾家の鶴松も出まして、お世話さまでございます。」

「さあ、一杯やってください。」と言って、金兵衛はお玉を顧みて、「吉左衛門さんはお前、苗字帯刀御免ということになったんだよ。今までの吉左衛門さんとは違うよ。」

「それはおめでとうございます。」

「いえ。」と吉左衛門は頭をかいて、「苗字帯刀もこう安売りの時世になって来ては、それほどありがたくもありません。」

「でも、悪い気持ちはしないでしょう。」と金兵衛は言った。「二本さして、青山吉左衛門で通る。どこへ出ても、大威張りだ。」

「まあ、そう言わないでくれたまえ。それよりか、盃でもいただこうじゃありませんか。」

吉左衛門も酒はいける口であり、それに勧め上手なお玉のお酌で、金兵衛とさしむかいに盃を重ねた。その二階は、かつて翁塚の供養のあったおりに、落合の宗匠崇佐坊まで集まって、金兵衛が先代の記念のために俳席を開いたところだ。そう言えば、吉左衛門や金兵衛の旧なじみでもはやこの世にいない人も多い。馬籠の生まれで水墨の山水や花果などを得意にした画家の蘭渓もその一人だ。あの蘭渓も、黒船騒ぎなぞは知らずに亡くなった。

「お玉さんの前ですが。」と吉左衛門は言った。「こうして御酒でもいただくと、実に一切を忘れますよ。わたしはよく思い出す。金兵衛さん、ほら、あのアトリ(子鳥)三十羽に、茶漬け三杯――」

「それさ。」と金兵衛も思い出したように、「わたしも今それを言おうと思っていたところさ。」

アトリ三十羽に茶漬け三杯。あれは嘉永二年にあたる。山里では小鳥のおびただしく捕れた年で、ことに大平村の方では毎日三千羽ずつものアトリが驚くほど鳥網にかかると言われ、この馬籠の宿までたびたび売りに来るものがあった。小鳥の名所として土地のものが誇る木曾の山の中でも、あんな年はめったにあるものでなかった。仲間のものが集まって、一興を催すことにしたのもその時だ。そのアトリ三十羽に、茶漬け三杯食えば、褒美として別に三十羽もらえる。もしまた、その三十羽と茶漬け三杯食えなかった時は、あべこべに六十羽差し出さなければならないという約束だ。場処は蓬莱屋。時刻は七つ時。食い手は吉左衛門と金兵衛の二人。食わせる方のものは組頭笹屋の庄兵衛と小笹屋の勝七。それには勝負を見届けるものもなくてはならぬ。蓬莱屋の新七がその審判官を引き受けた。さて、食った。約束のとおり、一人で三十羽、茶漬け三杯、残らず食い終わって、褒美の三十羽ずつは吉左衛門と金兵衛とでもらった。アトリは形もちいさく、骨も柔らかく、鶫のような小鳥とはわけが違う。それでもなかなか食いではあったが、二人とも腹もはらないで、その足で会所の店座敷へ押し掛けてたくさん茶を飲んだ。その時の二人の年齢もまた忘れられずにある。吉左衛門は五十一歳、金兵衛は五十三歳を迎えたころであった。二人はそれほど盛んな食欲を競い合ったものだ。

「あんなおもしろいことはなかった。」

「いや、大笑いにも、なんにも。あんなおもしろいことは前代未聞さ。」

「出ましたね、金兵衛さんの前代未聞が――」

こんな話も酒の上を楽しくした。隣人同志でもあり、宿役人同志でもある二人の友だちは、しばらく街道から離れる思いで、尽きない夜咄に、とろろ汁に、夏の夜のふけやすいことも忘れていた。

馬籠の宿で初めて酒を造ったのは、伏見屋でなくて、桝田屋であった。そこの初代と二代目の主人、惣右衛門親子のものであった。桝田屋の親子が協力して水の量目を計ったところ、下坂川で四百六十目、桝田屋の井戸で四百八十目、伏見屋の井戸で四百九十目あったという。その中で下坂川の水をくんで、惣右衛門親子は初めて造り酒の試みに成功した。馬籠の水でも良い酒のできることを実際に示したのも親子二人のものであった。それまで馬籠には造り酒屋というものはなかった。

この惣右衛門親子は、村の百姓の中から身を起こして無遠慮に頭を持ち上げた人たちであるばかりでなく、後の金兵衛らのためにも好かれ悪しかれ一つの進路を切り開いた最初の人たちである。桝田屋の初代が伏見屋から一軒置いて上隣りの街道に添うた位置に大きな家を新築したのは、宝暦七年の昔で、そのころに初代が六十五歳、二代目が二十五歳であった。親代々からの百姓であった初代惣右衛門が本家の梅屋から分かれて、別に自分の道を踏み出したのは、それよりさらに四十年も以前のことにあたる。

馬籠は田畠の間にすら大きくあらわれた石塊を見るような地方で、古くから生活も容易でないとされた山村である。初代惣右衛門はこの村に生まれて、十八歳の時から親の名跡を継ぎ、岩石の間をもいとわず百姓の仕事を励んだ。本家は代々の年寄役でもあったので、若輩ながらにその役をも勤めた。旅人相手の街道に目をつけて、旅籠屋の新築を思い立ったのは、この初代が二十八、九のころにあたる。そのころの馬籠は、一分か二分の金を借りるにも、隣宿の妻籠か美濃の中津川まで出なければならなかった。師走も押し詰まったころになると、中津川の備前屋の親仁が十日あまりも馬籠へ来て泊まっていて、町中へ小貸しなどした。その金でようやく村のものが年を越したくらいの土地柄であった。

四人の子供を控えた初代惣右衛門夫婦の小歴史は、馬籠のような困窮な村にあって激しい生活苦とたたかった人たちの歴史である。百姓の仕事とする朝草も、春先青草を見かける時分から九月十月の霜をつかむまで毎朝二度ずつは刈り、昼は人並みに会所の役を勤め、晩は宿泊の旅人を第一にして、その間に少しずつの米商いもした。かみさんはまたかみさんで、内職に豆腐屋をして、三、四人の幼いものを控えながら夜通し石臼をひいた。新宅の旅籠屋もできあがるころは、普請のおりに出た木の片を燈して、それを油火に替え、夜番の行燈を軒先へかかげるにも毎朝夜明け前に下掃除を済まし、同じ布で戸障子の敷居などを拭いたのも、そのかみさんだ。貧しさにいる夫婦二人のものは、自分の子供らを路頭に立たせまいとの願いから、夜一夜ろくろく安気に眠ったこともなかったほど働いた。

そのころ、本家の梅屋では隣村湯舟沢から来る人足たちの宿をしていた。その縁故から、初代夫婦はなじみの人足に頼んで、春先の食米三斗ずつ内証で借りうけ、秋米で四斗ずつ返すことにしていた。これは田地を仕付けるにも、旅籠屋片手間では芝草の用意もなりかねるところから、麦で少しずつ刈り造ることに生活の方法を改めたからで。

初代惣右衛門はこんなところから出発した。旅籠屋の営業と、そして骨の折れる耕作と。もともと馬籠にはほかによい旅籠屋もなかったから、新宅と言って泊まる旅人も多く、追い追いと常得意の客もつき、小女まで置き、その奉公人の給金も三分がものは翌年は一両に増してやれるほどになった。飯米一升買いの時代のあとには、一俵買いの時代も来、後には馬で中津川から呼ぶ時代も来た。新宅桝田屋の主人はもうただの百姓でもなかった。旅籠屋営業のほかに少しずつ商売などもする町人であった。

二代目惣右衛門はこの夫婦の末子として生まれた。親から仕来った百姓は百姓として、惣領にはまだ家の仕事を継ぐ特権もある。次男三男からはそれも望めなかった。十三、四のころから草刈り奉公に出て、末は雲助にでもなるか。末子と生まれたものが成人しても、馬追いか駕籠かきにきまったものとされたほどの時代である。そういう中で、二代目惣右衛門は親のそばにいて、物心づくころから草刈り奉公にも出されなかったというだけでも、親惣右衛門を徳とした。この二代目がまた、親の仕事を幾倍かにひろげた。

人も知るように、当時の諸大名が農民から収めた年貢米の多くは、大坂の方に輸送されて、金銀に替えられた。大坂は米取引の一大市場であった。次第に商法も手広くやるころの二代目惣右衛門は、大坂の米相場にも無関心ではなかった人である。彼はまた、優に千両の無尽にも応じたが、それほど実力を積み蓄えた分限者は木曾谷中にも彼のほかにないと言われるようになった。彼は貧困を征服しようとした親惣右衛門の心を飽くまでも持ちつづけた。誇るべき伝統もなく、そうかと言って煩わされやすい過去もなかった。腕一本で、無造作に進んだ。

天明六年は二代目惣右衛門が五十三歳を迎えたころである。そのころの彼は、大きな造り酒屋の店にすわって、自分の子に酒の一番火入れなどをさせながら、初代在世のころからの八十年にわたる過去を思い出すような人であった。彼は親先祖から譲られた家督財産その他一切のものを天からの預かり物と考えよと自分の子に誨えた。彼は金銭を日本の宝の一つと考えよと誨えた。それをみだりにわが物と心得て、私用に費やそうものなら、いつか「天道」に泄れ聞こえる時が来るとも誨えた。彼は先代惣右衛門の出発点を忘れそうな子孫の末を心配しながら死んだ。

伏見屋の金兵衛は、この惣右衛門親子の衣鉢を継いだのである。そういう金兵衛もまた持ち前の快活さで、家では造り酒屋のほかに質屋を兼ね、馬も持ち、田も造り、時には米の売買にもたずさわり、美濃の久々里あたりの旗本にまで金を貸した。

二人の隣人――吉左衛門と金兵衛とをよく比べて言う人に、中津川の宮川寛斎がある。この学問のある田舎医者に言わせると、馬籠は国境だ、おそらく町人気質の金兵衛にも、あの惣右衛門親子にも、商才に富む美濃人の血が混り合っているのだろう、そこへ行くと吉左衛門は多分に信濃の百姓であると。

吉左衛門が青山の家は馬籠の裏山にある本陣林のように古い。木曾谷の西のはずれに初めて馬籠の村を開拓したのも、相州三浦の方から移って来た青山監物の第二子であった。ここに一宇を建立して、万福寺と名づけたのも、これまた同じ人であった。万福寺殿昌屋常久禅定門、俗名青山次郎左衛門、隠居しての名を道斎と呼んだ人が、自分で建立した寺の墓地に眠ったのは、天正十二年の昔にあたる。

「金兵衛さんの家と、おれの家とは違う。」

と吉左衛門が自分の忰に言って見せるのも、その家族の歴史をさす。そういう吉左衛門が青山の家を継いだころは、十六代も連なり続いて来た木曾谷での最も古い家族の一つであった。

遠い馬籠の昔はくわしく知るよしもない。青山家の先祖が木曾にはいったのは、木曾義昌の時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。その後この地方の郷士として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、石田三成が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院は中仙道を登って関ヶ原の方へ向かった。その時の御先立には、山村甚兵衛、馬場半左衛門、千村平右衛門などの諸士を数える。馬籠の青山庄三郎、またの名重長(青山二代目)もまた、徳川方に味方し、馬籠の砦にこもって、犬山勢を防いだ。当時犬山城の石川備前は木曾へ討手を差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方の味方をすると聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるようになったのも、当時の戦功によるものであるという。

青山家の古い屋敷は、もと石屋の坂をおりた辺にあった。由緒のある武具馬具なぞは、寛永年代の馬籠の大火に焼けて、二本の鎗だけが残った。その屋敷跡には代官屋敷の地名も残ったが、尾張藩への遠慮から、享保九年の検地の時以来、代官屋敷の字を石屋に改めたともいう。その辺は岩石の間で、付近に大きな岩があったからで。

子供の時分の半蔵を前にすわらせて置いて、吉左衛門はよくこんな古い話をして聞かせた。彼はまた、酒の上のきげんのよい心持ちなぞから、表玄関の長押の上に掛けてある古い二本の鎗の下へ小忰を連れて行って、

「御覧、御先祖さまが見ているぞ。いたずらするとこわいぞ。」

と戯れた。

隣家の伏見屋なぞにない古い伝統が年若な半蔵の頭に深く刻みつけられたのは、幼いころから聞いたこの父の炬燵話からで。自分の忰に先祖のことでも語り聞かせるとなると、吉左衛門の目はまた特別に輝いたものだ。

「代官造りという言葉は、地名で残っている。吾家の先祖が代官を勤めた時分に、田地を手造りにした場所だというので、それで代官造りさ。今の町田がそれさ。その時分には、毎年五月に村じゅうの百姓を残らず集めて植え付けをした。その日に吾家から酒を一斗出した。酔って田圃の中に倒れるものがあれば、その年は豊年としたものだそうだ。」

この話もよく出た。

吉左衛門の代になって、本陣へ出入りの百姓の家は十三軒ほどある。その多くは主従の関係に近い。吉左衛門が隣家の金兵衛とも違って、村じゅうの百姓をほとんど自分の子のように考えているのも、由来する源は遠かった。

Chapter 6 of 37
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