四 寝言
正月も終りに近いころだった。次郎が学校から帰って来ると、茶の間でお針をしていたお延が、いかにも意味ありげな微笑をもらしながら、言った。
「お帰り。……今日は次郎ちゃんに嬉しいことがあるのよ。」
次郎は、土間に突っ立ったまま、きょとんとしてお延の顔を見ていたが、
「はやくお座敷に行ってごらん。お祖母さんが待っていらっしゃるから。」
と、お延にせき立てられ、あわてたようにカバンを茶の間に放り出して、座敷の方に走って行った。
「お祖母さん、ただいま。」
次郎は元気よく座敷の襖をあけた。が、その瞬間、彼は全く予期しなかった人の眼にぶっつかって、そのまま立ちすくんでしまった。――座敷には、こないだの女の人が、お祖母さんと火鉢を中にして坐っていたのである。
「お帰り。どうしたのだえ、そんなところに突っ立って。」
お祖母さんがにこにこしながら言った。次郎があわてて襖をしめようとすると、
「おはいりよ。そして、お辞儀をするんですよ。」
次郎は、敷居に坐って、お辞儀をした。
「まあ、おかしな子だね。いつもにも似合わない。ちゃんと中にはいって、お辞儀をするんだよ。」
次郎は、しぶしぶ膝をにじらせて敷居の内側にはいった。そしてもう一度お辞儀をしたが、それをすますと、急いで立って行こうとした。
「ここにいてもいいんだよ。お客様ではないのだから。……もっと火鉢のそばにおより。」
お祖母さんは、そう言って立ち上り、自分で次郎のうしろの襖をしめた。次郎は監禁でもされたかのように、窮屈そうに坐っていた。
「どうしたのだえ、次郎。お客様ではないと言ってるのに。……この方はね……」
と、お祖母さんは、もとの座にかえりながら、
「この方は、これからうちの人になっていただくんだから、そんなに窮屈にしないでもいいのだよ。そばによってお菓子でもおねだり。」
すると女の人がはじめて口をきいた。
「次郎ちゃん、こちらにいらっしゃい。お菓子あげますわ。」
何だか張りのない声だった。彼女は、そう言いながら、お菓子鉢から丸芳露を一つ箸にはさんで次郎の方に差し出した。
次郎は、しかし、手を出さなかった。
「おきらい?」
次郎は、伏せていた眼をあげて、ちらと相手の顔を見た。相手は笑っていた。右頬の笑くぼがこないだ見た時よりも、一層大きく見える。ふっくらした頬の形は、どこかに春子を思わせるものがあった。しかし吸いつけられるような感じには、ちっともなれなかった。
「おいただきなさいよ。」
お祖母さんがうながした。それでも次郎は手を出そうとしない。女の人は箸にはさんだ丸芳露を、ちょっともちあつかっている。
「まあ、ほんとにどうしたというんだね。いつもはお菓子に眼がないくせに。……くださるものは、すなおにいただくものですよ。」
次郎は、お祖母さんにそう言われると、だしぬけに手をつき出して、丸芳露を受取ったが、いかにも厄介な預り物でもしたように、すぐそれを膝の上においた。
「はじめて、お目にかかるものですから、きまりが悪いのですよ。」
と、お祖母さんは取りなすように言って、
「次郎、おたべよ、……お芳さんもひとついかが。次郎が一人ではきまりが悪そうだから、あたしたちもお相伴いたしましょうよ。」
「ええ、いただきますわ。」
二人は次郎の様子に注意しながら、丸芳露をたべだした。次郎は、しかし、食べようとしない。
彼は「お芳さん」という女の名を何度も心の中でくりかえした。そして、さっきお祖母さんが、
「これからうちの人になっていただくんだから――」と言ったのを思いだして、変だなあと思った。
誰もしばらく物を言わない。二人がむしゃむしゃ口を動かしている音だけが聞える。
次郎は畳のうえに落していた眼をあげて、もう一度、そおっとお芳の顔をぬすみ見た。ほんの一瞬ではあったが、相手が都合よく彼の方を見ていなかったので、かなりこまかに観察することが出来た。下唇が少し突き出ている。顎の骨も、肉で円味を帯びてはいるが、並はずれて大きい。その唇と顎とが盛んに活動している様子は、次郎の眼にあまり上品には映らなかった。
「たべたくないのかえ。」
お祖母さんがもどかしそうに言った。
「ううん」
「じゃあ、おたべよ。」
次郎はやっと丸芳露を口にもって行った。しかし、たべだすと、またたくうちに平らげてしまった。
「もう一つあげましょうね。」
お芳が、丸芳露を箸ではさみながら言った。次郎は返事をしなかったが、差し出されると、今度はすぐ受取って、ぱくぱく食べ出した。
お祖母さんとお芳とがいっしょに笑い出した。
「さあ、もうきまり悪くなんかなくなったんだろう。もっとそばにおより。」
お祖母さんが火鉢を押し出すようにして言った。
次郎の気持は、しかし、まだちっとも落ちついてはいなかった。彼は、一刻も早く部屋を出て行きたいと思った。
「僕、宿題があるんだけれど――」
彼はとうとうまた嘘を言った。が、この時は不思議に気がとがめなかった。
「そう?」
と、お祖母さんはちょっと思案してから、
「じゃあ、宿題をすましたら、すぐまたおいでよ。お話があるんだから。」
次郎は、お話があると言われたのが気がかりだったが、それでも、何かほっとした気持になって、座敷を出た。
茶の間には、お延が微笑しながら彼を待っていた。
「次郎ちゃん、どうだったの、いいことがあったでしょう?」
次郎はむっつりして、お延の顔を見た。そして、返事をしないで、放り出しておいたカバンを乱暴にひきずりながら、二階の方に行きかけた。
お延の顔からは、すぐ微笑が消えた。
「どうしたの、次郎ちゃん。」
彼女は縫物をやめ、次郎のまえに立ちふさがるようにして、その肩をつかまえた。
「まあ、ここにお坐りよ。」
次郎はしぶしぶ坐った。しかし顔はそっぽを向いている。
「どうしたのよ、次郎ちゃん。何かいやなことがあったの。叱られた?」
次郎はそれでも默っている。
「まあ、おかしな次郎ちゃん。この叔母さんにかくすことなんかありゃしないじゃないの。」
すると、次郎は急にお延の顔をまともに見ながら、
「お芳さんって、どこの人?」
お延は、ちょっとあきれたような顔をした。が、すぐわざとのように笑顔をつくって、
「まあ、お芳さんなんて、駄目よ、そんなふうに言っちゃあ。」
「どうして?」
「どうしてって、お祖母さんは何ともおっしゃらなかったの。」
「言ったよ。これからうちの人になるんだって。」
お延はちょっと考えてから、
「そう? いいわね。うちの人になっていただいて。」
「うちってどこ?」
「うちはうちさ。」
「ここのうち?」
「そうよ。」
「どうしてうちの人になるの。」
「さあ、どうしてだか、次郎ちゃんにわからない?」
お延は探るように次郎の眼を見た。
「うちの何になるの?」
「あたしのお姉さん。……あたしより年はおわかいのだけれど、お姉さんになっていただくの。」
お延の姉――亡くなった母――と、次郎の頭は敏捷に仂いた。もう何もかもはっきりした。彼は、しかし亡くなった母の代りに、いま座敷にいる「お芳さん」を「母さん」と呼ぶ気にはむろんなれなかった。
「じゃあ、僕、あの人を何て言えばいいの、やっぱり叔母さん?」
「そうね――」
と、お延はちょっと考えていたが、すぐ思い切ったように、
「叔母さんでもいけないわ。――ほんとはね、次郎ちゃん、あの方は次郎ちゃんのお母さんになっていただく方なの。あとでお祖母さんから次郎ちゃんに、よくお話があるだろうと思うけれど。……」
お延はそう言って次郎の顔をうかがった。
次郎は、しかし、もうちっとも驚いてはいなかった。また、そう言われたために、まえよりも不機嫌になったようにも見えなかった。彼はただ考えぶかそうな眼をして、じっとお延の顔を見つめていた。
「ね、それでわかったでしょう?――」
と、お延は、いくらか安心したような、それでいて一層不安なような顔をしながら、
「だから、叔母さんなんて言ったら、可笑しいわ。今のうちは叔母さんでも構わないようなものだけれど、今度いよいよお母さんになっていただいた時に、すぐこまるでしょう。だから、はじめっから、お母さんって言う方がいいわ。」
次郎は、あらためて「お芳さん」の顔を思いうかべてみた。しかし、その顔が母らしい顔だとはどうしても思えなかった。
「恥かしがったりして、はじめにぐずぐずすると、あとでよけい言いにくくなるのよ。きょうから思いきってお母さんって言ったら、どう?」
「だって――」
と、次郎は、火鉢にさしてあった焼鏝を灰の中でぐるぐるまわしながら、
「だって、母さんのようじゃ、ちっともないんだもの。」
「そりゃあ、はじめてお目にかかったばかりなんだから、そうだろうともさ。だけど、きっと次郎ちゃんを可愛がってくださるわ。次郎ちゃんのために来ていただいたんだもの。」
「僕、もう、お母さんなんか、なくてもいいんだがなあ。」
次郎は歎息するように言った。お延はしばらくじっと次郎の顔を見ていたが、
「でも、もう間もなくよ、次郎ちゃんが町に帰るのは。……町にかえったら、ひとりで淋しかあない?」
「町にはお父さんがいるからいいや、それに恭ちゃんや、俊ちゃんだって、このごろ仲よく遊んでくれるんだもの。」
彼は、その時、万年筆のことを思い出していたのである。
「だけど、女の人はお祖母さんだけなんでしょう。お祖母さんだけだと――」
お延は言いかけて、口をつぐんだ。そしてしばらく考えたあと、急にお針の道具を片方に押しやって、次郎の皹だらけの手をにぎりながら、
「ねえ、次郎ちゃん、お父さんはね、次郎ちゃんが可愛いばっかりに、お母さんをお迎えになるのよ。だから、もし次郎ちゃんが、どうしてもお母さんがいらないってお言いなら、お父さんは無理をしてもお止しになると思うわ。だけど、どう? ほんとうにいらない? 町に帰っても大丈夫? 女の人、お祖母さんだけでもいいの?」
次郎はだまりこんだ。それは、しかし、町での生活が心配だからではなかった。正木の老夫婦と、父とが、自分のために考えてくれたことを、ぶちこわしてしまうのが、何となく大へんなことのように思えて来たからである。
「そりゃあ、次郎ちゃんがどんな気持だか、この叔母さんにもよくわかるわ――」
と、お延は、あたりを憚るように声をおとして、
「誠吉のように、この家で生れてさえ、まだあんなだからね。何といったって他人だもの、そりゃあほんとうの親子のような気持にはなれないだろうともさ。だけど、あの方は、本田のお祖母さんよりか、きっと次郎ちゃんを可愛がって下さるわ。」
次郎は、お延がいくぶんかでも自分の気持に同情してくれているのが、妙に嬉しかった。
「それに――」
と、お延は、次郎の手をなでながら、
「もし次郎ちゃんが、嘘でもいいから、今日から思いきってお母さんと呼んであげたら、どんなにお喜びでしょう。あの方はね、そりゃお気の毒な方よ、ちょうど次郎ちゃんと俊ちゃんぐらいな男のお子さんがお二人あったんだけれど、お二人とも、お亡くなりになってしまったんだってさ。だから、誰かにお母さんて呼ばれてみたいのよ。」
次郎は、はっとしたように、伏せていた眼をあげて、お延を見た。
「だのに、次郎ちゃんが寄りつきもしないようだと、どんなにあの方、がっかりなさるでしょう。……それにね、次郎ちゃん、あの方はもう正木の人になっておしまいになったんだよ。お祖父さんと、お祖母さんとでね、亡くなったお母さんの代りをしていただく方なんだから、そうしてもらった方がいいっておっしゃってね。わからない? わかるでしょう。」
次郎はうなずいた。
「だから、もしかして、あの方が次郎ちゃんとこに行けなくなったら、そりゃ大変なことになるのよ。だいいち、あの方どこにどうしていていいか、わからなくなっておしまいになるわ。せっかく、次郎ちゃんのために来てくださろうとおっしゃっているのに、お気の毒じゃないの? お祖父さんや、お祖母さんだって、もしかそんなことにでもなったら、どんなにおこまりでしょう。」
次郎は、もう、世間というものがまるでわからない子供ではなかった。むしろ、そうしたことでは、兄弟や従兄弟たちの誰よりも、ませているともいえるのだった。それに、彼の持ちまえの侠気というか、功名心というか、そうしたものが、彼自身でも気づかない間に、そろそろと頭をもたげていた。
「僕、じゃあ、母さんって言うよ。」
彼はいかにも無雑作に答えた。しかし、答えてしまって妙な味気なさを覚えた。それはちょうど精いっぱい力を入れて角力をとっている最中、何かのはずみで、がくりと膝をついたような気持だった。
お延には、次郎の返事があまりにだしぬけだった。彼女は、もっと何か言うつもりでいたらしかったが、一瞬、あっけにとられたように眼を見はった。それから膝をのり出し、次郎の顔を下からのぞくようにして、
「そう? ほんとう?」
と、念を押した。
次郎は念を押されると、何だかあともどりしたくなって来た。そのくせ、首を強く縦に動かした。そして、お延がまだ疑わしそうな眼をして、自分の顔をのぞいているのを見ると、
「ほんとうさ。」
と、おこったように言って、ぷいと座を立った。
「じゃあ、お祝いに、叔母さんがこれから御馳走をこさえるわ。」
お延は、追っかけるようにそう言って、お針の道具をしまいはじめた。
次郎は、ふり向きもしないで土間におり、門口を出たが、足はひとりでに墓地に向かっていた。
墓地をかこむ女竹林は、暮近い風に吹かれて、さむざむと鳴っていた。次郎は、母の墓がきょうは妙に寄りつきにくいような気がして、しばらくは、五六間もはなれたところから、じっとそれを見つめていた。
そのうち、彼はふと、去年の夏休みに、恭一と俊三とが久方ぶりに母の見舞に来ていたのを、本田のお祖母さんが、いろいろと口実を設けてつれ帰った時のことを思い起こした。
彼は、恭一たちが帰ったあと、母の眼尻から、彼の全く予期しなかったものが真珠のようにこぼれ落ちたのを、今でもはっきり覚えている。ことに、うるんだ眼で微笑しながら、「次郎だけはいつもあたしのそばにいてもらえるわね」と言った、あの悲しい言葉は、忘れようとしても忘れられない言葉だった。
(次郎だけは――次郎だけは――)
と、彼は何度も心の中で母の言葉をくりかえした。そして、ひきつけられるように墓に近づいて行った。
墓はまだ土饅頭のままだったが、ところどころに、しめった落葉がぴったりとくっついていた。彼は手で一枚一枚それをはがして行くうちに、急に悲しさがこみあげて来た。
彼はしゃがんで掌を合わせ、額をその上にのせて眼をつぶった。そして、このごろ忘れがちになっていた母の顔を、一心に思い浮かべようとした。
しかし、彼の眼にすぐ浮かんで来たものは、母の顔ではなくて、「お芳さん」の顔だった。えくぼがはっきり見える。彼はそれを払いのけるように頭をふった。そして、小声で、
「母さん――母さん――」
と呼んでみた。しかし母の顔はどうしてもはっきり浮かんで来ない。浮かんで来たと思った母の顔は、いつも「お芳さん」の幅の広い顔にかくれてぼやけていた。
彼は、もう、悲しいというよりは、何か恐ろしいような気になって来た。そして、手の甲でやけに眼をこすりながら立ち上ったが、一瞬、土饅頭に視線を落したあと、逃げるように墓地の入口に向かって走り出した。
*
夕飯には、お芳も台所に来て、みんなといっしょにちゃぶ台についた。ご馳走は大したこともなかったが、赤飯が炊いてあり、酢のものがついていた。次郎はお芳とならんで坐らされたが、始終むっつりしていた。
お芳の方は、はた目には物足りないほど平気な顔をしていた。強いて次郎にちやほやするのでもなく、さればといって、次郎のむっつりしているのを不快に思うようなふうもなかった。彼女は、ただ、自分の食べるものだけを食べてさえいればいい、といったふうに、はた目には見えた。
お祖母さんとお延とが、おりおり、気をきかして、
「次郎のお母さん、これいかが。」
と、丼のものなどを二人の前に押しやったりした。お芳は、それでも、
「はい、ありがとう。」
と言ったきり、次郎の皿にそれをわけてやろうとする気ぶりも見せなかった。
次郎には、丼のものはどうでもよかった。彼は、しかし、「次郎のお母さん」という言葉をきくごとに、従兄弟たちの視線を顔いっぱいに感じて、気が重くなり、物を噛むのでさえおっくうになった。
夕食後、「次郎のお母さんのお土産」だといって、みんなに煎餅がふるまわれた。大人たちも子供たちも茶の間に集まって、それを食べた。
お祖父さんは朝から留守だったが、ちょうどその最中に帰って来た。そして、
「ほう、にぎやかだのう。」
と、みんなのなかに、次郎とお芳の顔をさがしながら、座敷の方に行った。お祖母さんとお芳とがすぐそのあとについた。
しばらくすると、お芳がまた茶の間の入口に来て、例のえくぼを見せながら、
「次郎ちゃん、ちょいと。」
と手招きした。
次郎は相変らずむっつりしていたが、呼ばれるままに立っていった。するとお芳は、襖のかげの小暗いところで、包紙にくるんだ平たい箱を次郎に渡しながら言った。
「これはね、次郎ちゃんへのお土産。きょうお祖父さんが町にいらしったので、お頼みして買って来ていただいたの。」
次郎は、顔を真赧にして、茶の間に帰った。お芳もそのあとからついて来た。みんなの視線がいっせいに次郎のさげているお土産の包にそそがれた。次郎は、もとの場所に坐るには坐ったが、その包の置き場に困って、膝にのせたり、尻のあたりに置いたりしていた。
「次郎ちゃん、あけて見せろよ。」
源次が言った。次郎はすぐそれを源次の前につき出した。
源次はさっさと包の紐を解いた。中は文房具の組合わせだった。赤、黄、青、金、緑などの色が眩ゆくみんなの顔を射た。
「いいなあ。」
誠吉が、心から羨ましそうに、まず言った。それから、下男や婢たちまでがいっしょになって、「くずすのは惜しい」とか「そのまま飾物にしてもいい」とか、「これだけあったら何年もつかえるだろう」とか、口々にほめそやした。
次郎も嬉しくないことはなかった。しかし、はしゃぐ気にはなれなかった。彼は、お延と何度も視線をぶっつけあっては、顔を伏せた。そして、お芳がほとんど自分の方に注意を向けていないのを、不思議にも思い、気安くも感じた。
間もなく、座敷からお祖父さんとお祖母さんとが出て来た。お祖父さんはにこにこしながら、言った。
「次郎にはちと上等すぎたようじゃのう。」
すると源次が、
「僕のにちょうどいいや。」
それで、みんながどっと笑い出した。次郎も思わず笑った。
「次郎、誰も知らないところにしまっておかないと、みんなにとられてしまうよ。」
お祖母さんが言った。それでまたみんなが笑った。次郎の気持は、いつとはなしに少しずつほぐれて行くようだった。
寝る時刻になった。
次郎の寝床は、従兄弟たちとはべつに、座敷の次の間に、お芳のとならべて敷かれてあった。次郎はそれを知った時には、きまりが悪いような、淋しいような、変な気がしたが、何も言わずに、お芳よりさきに、ひとりで床についた。
しばらくは眼がさえて寝つかれなかった。それでも、お芳がいつ寝たのかは、ちっとも知らないで眠っていた。
翌朝は、いつもより一時間あまりも早く眼をさました。お芳は、もう起きあがって帯をしめているところだったが、次郎が眼をさましたのを知ると、例の大きなえくぼを見せながら言った。
「次郎ちゃんは、ゆうべ夢を見たんでしょう。」
「ううん。」
「でも、何度も寝言を言っていたのよ。」
次郎は何だか気がかりだった。しかし、どんな寝言だったかを問いかえしてみるだけの楽な気持には、まだなっていなかった。するとお芳が、またえくぼを見せながら、
「どんな寝言だったと思うの。」
「わかんないなあ。」
「教えてあげましょうか。」
「ええ。」
「それはね――」
とお芳は少し間をおいて、
「母さん、母さんって。――」
次郎は、はっとしてお芳を見た。お芳のえくぼは、まだ消えていなかった。しかし、次郎の眼には、そのえくぼが妙にゆがんでいるように見えた。
次郎は、いそいでふとんを頭からかぶってしまった。するとお芳が枕元によって来て、
「次郎ちゃんは、きっと亡くなったお母さんを呼んでいたのね。でも、あたしもうれしかったわ。」
次郎はふとんの中で、思わず身をちぢめた。そして、心のうちで、
「うそつけ!」
と叫んでみた。しかしそれはまるで力のない叫びだった。彼は生まれてこのかた感じたことのない妙な感じに包まれていた。それは嬉しいような、それでいて腹が立つような感じだった。
(どうして母さんと呼ばなければならないのだろう。もし叔母さんと呼んでもいいのなら、どんなにでも気安く話が出来るのに。)
彼はそんな気がしていた。そして、いつまでもふとんから顔を出そうとしなかった。