二
「今の男、口ぢやあんなことを言つても、氣は至つていゝんだよ、もつともあの鼻の上のこぶがくせ物だが、今日からこのお銀ちやんがついてゐるんだから、安心してりやいゝよ。」
辰つアんが歸つたあと、お銀ちやんはさう前置きをして、おきみの方へ、
「それでどう? 今晩からでも働いて見たら。」
「……え、でも、こんななりぢや」とおきみは、目を膝の上へ落した。それはボカ/\になつたメリンスの羽織と着物で、膝のあたり、地がすけて見えてゐた。
「着物なんか何だつていゝのよ。厭ぢやなかつたら、この羽織を着ちやどう。模樣さへパツとしてりや、男の目なんかごまかせるのよ。」
「でも、あなたが困るでせう。」
「だからね、代りばんこに着ませうよ。實はね、あたしは、名義はこの家の主人だけど、ほんたうの主人は、この表通りの自轉車屋なのよ。それであたしは、この家の呼び込み口一つと二階の一間だけを、毎日二圓の日拂ひで借りてるのよ。だからあたしはあんたのほんたうの主人ぢやないし、つまり二人で共同に働くといふわけになるのだからね、この羽織も共同で使へばいゝのさ。ね、その代り、さういふ譯だから、お金もなし、あんたにもさうたんとは貸せないのよ。それにあの辰つアんにも周旋料を拂はなけりやならないし……」
「それぢや當分、それを拜借さして下さいね。」
「拜借なんて代物ぢやないのよ。この裏を見てごらん」とお銀ちやんは、枯れた芭蕉の葉のやうに横切れのした裏を返して見せた。
「それはさうと、うちの奴がこんな場所の店へいきなり出て、お客が取れるでせうか?」
周三は、青白い頬を撫でながら、おど/\と訊いた。
「ところが案外よ」とお銀ちやんは聲をひそめ、「今、お店でお客を呼んでゐる娘ね、あれはやつと十七よ。こないだ目黒の方からうちへ初めて遊びに來て、店へ坐つて鏡を見てゐたら、どうだ上つてやらうか、といふ客の聲がするので、聞き覺えで、おあがんなさいな、と受けたら、それがすぐ上つて來たのよ。それが手初めであの娘はこの商賣を始めたのだけど、今ぢやもう立派に一人前よ。」
「それで、僕達は、その自轉車屋とはどんな關係なのでせう?」
「何の關係もないのよ。その點は、ちつとも心配しなくてもいゝの……あの自轉車屋も、考へると癪さ。自分ぢや表できれいな顏をしてゐて、裏へつてぼろい儲けをしてゐるんだからね。そんな家が外にもいくらもあるのよ。表ぢや、酒屋をしたり、荒物屋をやつたり、煙草屋をしたりしてゐる家がね。人のふんどしぢやない、人の腰卷で角力を取らうつて奴さ。」
お銀ちやんは、初めは、狡猾な意地惡のふて/″\しい女に見えたが、かうして話して行くうちに、腹の底まで平氣で見せるあけすけのお人好しに見えて來た。おきみと周三はいくらか氣樂な氣持ちになつた。
お銀ちやんは二人をまた下の三疊へ下した。そしておきみへ言つた。
「ぢや、お化粧を直して坐つてごらんよ。髮は、今晩はそれでいゝわ。あしたの朝、髮ゆひさんへ行つてらつしやい。あんたはきつと結ひ綿が似合ふわね。」
おきみは鏡臺へ向つた。その鏡へ映つた眼の細い下ぶくれの顏を、周三はこつちからとき/″\ぬすみ見て、そして泣きさうな顏をした。
お銀ちやんは、おきみの背に向つて、店へ坐つてお客を呼ぶ方法を教へた。その中に二つの××があつた。××を呼び込まぬこと、ひやかし客と長話をせぬこと。
「××の顏はあとで教へるけど、ひやかし客と長ばなしをしてゐると、やつぱり××に踏み込まれるのよ。そしたら、主人名義のあたしとあんたが三日の拘留を喰つた上に二十六圓づゝの金刑だからね。表の自轉車屋が、あたしのやうなものを主人として屆けとくのも、そんな場合の用心なのだが、それで一番馬鹿を見るのはあたしなんだからね。そこはしつかりやつておくれよ。」
おきみは、髮を直し、顏の化粧をすますと、その顏をお銀ちやんの方へ向けて、
「これでようございますか?」と言つた。
周三はそれを見ると、顏を赤くしてうつ伏した。
「さうね」とお銀ちやんは、出來上りの品物を吟味するやうに、「眉をもつと濃くして、頬紅ももつと染めなさいよ。何でもいゝから、うんと若く見せる算段をしなきや駄目よ。そんなこと御承知でせうが。」
やがておきみは、店へ――やつと一人が坐れるほどの場所へ出て行つて坐つた。そして、音もなく左右へ流れる人の影へ聲を掛けた。
が、その聲は泣くやうに顫へた。
「駄目よきみちやん、そんなことぢや」とお銀ちやんは茶の間から呶鳴つた。「もつとかう力のある聲で、歩いて行く野郎をうしろからねぢ伏せるやうな勢ひでなくちや。……いろんな野郎が通るだらう。みんな雜魚野郎なんだから、こつちもそのつもりで、この馬鹿野郎と呶鳴るつもりで呼びアいゝんだよ。」
さう言はれると、おきみはます/\聲がふるへて來た。夕方、外から見たときは、男を呼び込む女の聲が、惡寒を感じたほど哀れな悲鳴にきこえたが、かうして内から覗いて見ると、窓先を群がり過ぎる男共が、一種奇怪な原始動物に見えた。
おきみは窓の下に怯えちゞまつて、一人ほろ/\涙をこぼした。