4
児玉にとつて幸ひなことに、震災の数年前から、ある郊外電車の沿線に土地を買つて、バラック同然ながら入院設備もある、かなり大きな病院が建ててあつた。それはS学園がその土地に学園村の開拓を目論んだとき、その学園長や主事の理想主義に大いに共鳴した児玉が、進んで校医を買つて出て、将来の学園村の発展を目算に入れて建築したものだつた。ところが、学園はとうに開校し、病院までが出来たのに、赤松の林を切り拓いた広大な文化村の予定地は、いつまでたつても裸かの分譲地のままであつた。病院は無人同様に棄ておかれて、ただ夏の休みなどに、子供たちが泊りに行くだけになつてゐた。少年も二三度は遊びに行つたことがあるが、荒れるにまかせた裏庭に、ジギタリスや日まはりや鶏頭が咲き狂つて、そろそろペンキの剥げかかつた病院の建物と、いい対照をなしてゐた。真夏の廃院とでも題をつけて外光派風の画がかけさうであつた。夏には臨時に、動物実験の仕事がここに移された。病院の裏口のところで、金井が両の手の平も指も黄褐色のどろどろで染めながら、兎の腸をしごいてゐた。「やあ臭くつて堪らねえ」と、彼はさも楽しさうに顔をしかめながら言つた。「これでね。昼のうちはまだいいけれど、夜になつて御覧なさい。向うの松林で狐が啼きますよ。こんこんこん、こんこんこん、つてね。」
この病院に手入れをして、児玉一家は引移つた。少年も一度泊りに行つたことがある。当てがはれた部屋は二階の病室の一つであつた。恐らくまだ誰も寝たことのない、ましてや誰も死んだことのないその部屋は、畳だけが妙に赤ちやけて、少年に遠い昔の別府の病院を思ひ出させた。台湾赤痢といふ腸にポツポツ穴のあく病気で、痩せこけて死んでいつた父の顔や脛を思ひださせた。
児玉はこの病院を足場にして大活躍をはじめた。例のぼろフォードは、柳澤の機転でうまく助かつてゐた。郊外のでこぼこ道を、院長を乗せて毎日東京へ往復するのが、この柔しい男に課せられた新たな運命だつた。揺れがひどいので、児玉は車を徐行させた。本が読めないからである。
一年も経たないうちに、濱町の焼跡に、バラック建ての児玉医院が復興した。こんどは総二階になつて、奥村さんが住んでゐたやうな謎めいた部屋はどこにもなかつた。火が旧い歴史を焼きほろぼしたのだ。この新しい家へは、少年はあまり足踏みをしなかつた。復興が早かつたので、病院は震災前より一そう繁昌した。そのため人の出入りがますます多くなつて、遊びに行つてもゆつくりできる片隅がどこにもなかつたからである。
ただ一度、夏休みに泊りに行つた時のことが、少年の魂の歴史に、妙に口惜しい汚辱のページとなつて残つてゐる。少年といつてもそれは彼にとつて中学生としての最後の夏休みであつた。
相変らず児玉の家には睡眠の足りない夜がつづいてゐるらしかつた。八時ごろはまだ昼のうちで、九時あたりからやつと宵の口になる感じである。少年は久しぶりで泊る気になつて、下の食堂で薬局の連中と話をしてゐた。小学の二年生になつた長男の透が、ヴァイオリンをかかへて入つて来る。みんなが拍手すると、透は真面目くさつて、アヴェ・マリアを弾いて聞かせた。金井はエルマンはだしだなどとからかふ。透は得意になつてまた一曲ひく。この子供はいつのまにか、天才気取りが身につきだしてゐたのだ。
そこへ照子が入つて来た。そして一座をろくに見廻すでもなく、台所のガラス障子の前に立つて、帯を解きはじめた。それから長いことかかつて、下腹に巻きつけてあるらしい晒の腹帯をゆつくりほどいた。固い沈黙が一座を領した。もつとも、さう感じたのは繁夫の思ひすごしで、この家の人々にはそんな光景が当り前のことになつてゐるのかも知れない。何しろ手狭な家なのである。脱衣場などありようはずもないから、風呂に入るには厭でもこの部屋で脱ぐほかはない。ましてそこにゐるのは、家の者だけなのだ。さう理窟をつけても、やはり少年には妙に不満なものが残つた。少年はひそかに一座の表情を観察した。みんなさりげなく眼をそらしてゐるなかで、甥の志郎だけが、強い近眼鏡に好奇心を反射させながら、にぶい蝋色をして貝殻骨をうつすらと浮かせてゐる、主婦の背中を、じろじろ眺めてゐた。勿論さういふ少年もその時はじめて、そして最後に、従姉の裸身を目のあたりにしたのである。神聖といふ感じはなかつた。それよりも、人を人とも思はぬ傲岸な権威が、全裸の後姿にあふれてゐた。彼女が何気ない放心したやうな物腰で、ガラス戸の向うへ姿を消したとき、少年はやつと平静をとりもどした。そして黙つて座を立つた。
その晩は、よくよく妙な廻り合せのつづく晩であつた。悪運の連続といつてもよかつた。二階の八畳のほかに寝室に使へる部屋はない。相変らず雑誌やパンフレットが散乱して足の踏み場もない院長の書斎と、狭い納戸としか表の方にはない。裏は看護婦や女中の寝間になつてゐる。少年は八畳間の一ばん奥のところに寝かされた。蒸し暑い晩だつた。おまけに家族七人の雑魚寝の端に割りこんだのだから、寝ぐるしいこと夥しい。とろとろとしたかと思ふと、隣の長男に横腹を蹴られて、少年は目がさめた。そのままいつまでたつても寝つかれない。襖があいて、誰かがはいつてきた。しばらく寝巻に着かへてゐるらしい気配がする。やがて寝床へもぐりこんだと思ふと、「繁夫さんが来てゐますよ」といふ、するどい照子の囁き声がした。するどいと少年の耳が感じたのは、しんとした夜景のせゐだつたかも知れない。それはとにかく、二燭ほどの鈍い電灯のともりきりのなかで、まもなく院長の鼾がしだしてからも、少年は眼をあけることもできず、身じろぎもせずに、じつと身を固くちぢめてゐた。
彼をさいなんだのは、何よりもまづ自責の念であつた。生地獄といふ言葉の意味を、少年はつくづく噛みしめた。だが、それだけではなかつた。明け方ちかく、少年は尿意をもよほして目を覚ました。相変らずの油のやうな、とろりとした微光。そのなかで少年は、だいぶ長いことがまんしてゐたが、たうとう起きあがつて、下へ降りて行つた。下の連中の食堂には誰も寝てゐない。そこを通つて、廊下へ出る曇りガラスの戸を引いた。意外なほど明るい外の廊下の中ほどから、とつぜん白い物影が動きだして、少年とすれちがつた。それは例によつてタオルの寝巻をだらしなく着た看護婦の中川であつた。すれちがふ拍子に唇を毒々しく反らし、ニッと嘲るやうな笑ひを浴びせてきた。少年はわざと肩をそびやかして通り過ぎた。用を足しての帰りに、少年は煌々と電灯のともつた待合室のガラス戸を爪先だちに覗いてみた。消し忘れた百燭ほどの電灯のもとに、金井と志郎とが寝みだれた姿をさらしてゐた。殊に志郎は、少年がかねてから生理的な引け目を感じてゐた現象を、これみよがしに露はしてゐた。少年は、つい先刻の中川の笑ひ顔と思ひ合はせて、身を切られるやうな自己嫌悪を感じた。
夢魔のやうなその一夜のあとでは、少年は二度と児玉の家に泊つたことがない。やがて半年ほどすると、志郎と中川の心中の噂が少年の耳につたはつた。何か薬局の劇薬を使つたらしいが、未遂に終つた。中川は妊娠してゐた。女はそのまま信州の国もとへ帰され、志郎は鳥取の父親が引取つて行つた。少年がそんなことまでも耳にしたのは、麹町の家で夜ふけてから、伯母と従兄のひそひそ話を、襖ごしに漏れ聞いたものらしい。彼は思はず耳を掩ひたいやうな衝動を覚えた。中川紀子といふあの看護婦は、どこまで自分に祟るのだらうか。それは何者かの復讐に似てゐた。嫌悪も憎念も今では去つて、あとには白ちやけた怨恨だけが残つた。
春になつて、照子が六人目の子を生んだ。女の子で、ミヨ子といふ名がついた。どういふ機会だつたか、「なんだ、千代子さんと語呂が同じぢやないか」と吐き棄てるやうに伯母の耳にささやいた従兄の言葉が、少年の耳をはげしく打つた。
分娩して五日目に、照子は産褥熱で死んだ。少年は久しぶりで濱町の家に行つて、とろりと黄ばんだ従姉の死顔を見た。その顔は相変らず放心してゐるやうであつた。八重歯をのぞかせてゐるその唇を、伯母は閉ぢてやりながら、丹念に末期の化粧をはどこしてゐた。「照子、もういいんだよ。もうこれで何もかも、すつかり済んだんだよ。わかるかい、もういいんだよ。……」伯母は手放して泣きながら、子守唄のやうに繰り返した。
告別式の式場には待合室があてられた。いよいよ出棺のとき、棺に釘を打つのに先だつて、身内の者が最後の別れをした。若い見習看護婦を殿りに、告別が一わたり済むと、児玉は再びつかつかと棺の横へ進み出た。そして、白い花に埋もれた妻の額に、じいつと手の平を当てがつた。いつも病人の体温を確かめる時に見られる、生真面目な表情である。赤ちやけた口髭が、ぴくりと動いた。何か言はうとしたのかもしれない。美しく化粧をされた照子の顔には、なんの反応も現れなかつた。ただ、真紅な口べにに彩られた唇が柘榴の実のやうにほころびて、薄紅色の歯茎をかすかに覗かせてゐた。何か名状しがたい執念が、その一点に凝つてゐるのを少年は感じた。一同は息をのんだ。やがて児玉は手をはなした。手早く釘が打たれ、霊柩車はまつしぐらに走り去つた。少年は焼場へ行かなかつた。
二三人の親戚と一緒に、二階の書斎に黙坐して、骨壺の帰りを待つた。新しい位牌の前に、ときどき思ひついたやうに線香を上げた。其の都度少年は、従姉の前に謝罪したい衝動を感じるのだつた。ひよつとするとそれは、自分の少年期を一すぢ貫いてゐる苦がい悔恨、それにたいする謝罪なのかも知れなかつた。少年はふと、片隅に寄せられた児玉の机の上から、緑いろの表紙のついた本を取りあげてみた。それは『ギタンジャリ』の訳本であつた。タゴールはその前の年に日本を訪れてゐた。児玉が持ち前の「民族主義」的な情熱から、それ以来この老詩人を夢中で崇拝してゐることは少年も知つてゐた。オイケンもベルグソンも、ぱつたり児玉の口にのぼらなくなつてゐた。少年は本をあけてみた。偶然あらはれたページには、鉛筆で二重に引いた荒つぽいアンダーラインがあつた。少年はそこに、次のやうな数行を読んだ。
はや日暮れは近し、影は地に落ちぬ。
河辺にゆき、わが水甕を満たす時なり。
…………
淋しき小路に人影なく、風は落ち、
さざ波ひとり河の面にをどる。
…………
われ果して、家に帰り着くを得るならんか。
ふと何ぴとかに行き会ふならんか。
かしこの浅瀬に、見知らぬ人ゐて笛を吹く。