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チェーホフは自伝というものが嫌いだった。――僕には自伝恐怖症という病気がある。自分のことがかれこれ書いてあるのを読んだり、ましてやそれを発表するために書くなどということは、僕には全くやりきれない。……そんな意味のことを、一八九九年の秋、つまり死ぬ五年ほど前に、同窓のドクトル・ロッソリモに書き送っている。
これが単なるはにかみであるか、それともほかに何かわけがあるのか、その辺のことはあとで改めて考える機会があるだろう。けだしチェーホフという人間を見ていく場合、これは見のがすことのできぬ根本問題の一つだからである。それはとにかく、彼がそんな但書をつけてロッソリモに送った自伝というのは、おおよそ次のようなものである。(あらかじめお断わりしておくが、チェーホフの文章の飜訳は版権の関係から今日のわが国では許されていない。従って以下すべてチェーホフ及びその同時代人からの引用文は、大意を伝えるだけにとどまる。)
――私アントン・チェーホフは一八六〇年タガンローグに生まれた。一八七九年モスクワ大学の医学部に入学した。学部というものについてこれと云った深い考えはなく、どんな積りで医科を選んだものか覚えがないが、べつにこの選択を後悔しなかった。一年生の頃から週刊雑誌や新聞に書きはじめ、八〇年代の初めには既にこの仕事は職業的性格を帯びていた。一八八八年にプーシキン賞を得た。一八九〇年サガレン島へ赴き、流刑地および徒刑に関する一書を著わした。その日その日に書きなぐった雑文類を除き、私が文学生活二十年間に発表した小説は、印刷全紙にして三百台分を超える。ほかに戯曲も書いた。医学を学んだことが私の文学上の仕事に重大な影響を及ぼしたことは疑いない。それがどれほど私の観察をひろめ私の知識を豊かにしたかは、医者でなければ分るまい。……
あとは医学の功能の礼讃になって、自然科学とか科学的メトードとかいうものが彼を慎重ならしめたこと、科学的なデータを常づね考慮に入れるべく努めたこと、それが不可能なときは筆を執らぬことにしたこと、自分は科学に対して否定的な態度をとる文学者には属しないこと、臨床方面では既に学生時代から郡会病院で働らき、そののち郡会医を勤めた経験もあること、などを述べている。簡潔をきわめたこの履歴書のうち、医学に関する記述が半ば以上を占めていることは、よしんばそれが医師互助会の需めに応じたものであったにしても、一応は注目すべきであると思う。けだしこれより十年ほど前にも、医学は正妻で文学は情婦だと、チェーホフは述べているからである。ついでにこの情婦性が、帝国学士院からプーシキン賞を与えられた頃のものであったことも、記憶しておいていいだろう。
彼の言動や手紙に現われている限り、今しがた見たような臨床医家としての誇り、ひいては自然科学者としての矜持は、チェーホフの生活で意外に大きな場所を占めていたと見なければならない。科学的手法をはじめて文学へ採り入れた人というと、われわれはゾラを思いだしがちだが、その『医師パスカル』はチェーホフを激怒させたものである。――ゾラはなんにも知らない、みんな机上ででっち上げたものだ。このロシヤへ引っぱって来て、わが国の郡会医の働きぶりを見せてやるがいいのだ……と、彼は興奮のあまり咳をしながら語ったとクープリンは伝えている。ゾラだけではない。科学的データを無視した点では、トルストイの『クロイツェル・ソナータ』もブールジェの『弟子』も、ひとしくチェーホフを憤慨させずにはおかなかった。自分の顕微鏡や探針やメスを使える場所でなければ真理を求め得ないのは必然だ――と彼は主張するのである。彼はみずから唯物論者と称していた。――死体を解剖して見たら、いかな唯心論者のこちこちでも、どこに霊魂があるか?――という疑問を起さずにはいられないだろう。肉体の病気と精神の病気がいかに酷似しているかを知り、両方とも同じ薬品で直せることを知ったら、人はもはや精神と肉体を分けて考えはしまい。――唯心論者は学者ではなくて、名誉職にぞくする。……などといった言葉なら、チェーホフの手紙から無数に拾いだせるはずである。
この自然科学的唯物論者は、その当然の結果として無宗教であった。しかも彼の場合、単に理智的に反宗教なのではなくて、宗教的感覚がきれいに欠けていたのである。いわゆるアテイストではなくて、いわば宗教不感症なのである。これはロシヤの文学伝統の上では、恐らく異例にぞくするであろう。神ありやなしや――という問題は、あのイヴァン・カラマーゾフの執拗な追求を絶頂として、前世紀ロシヤ精神の中心的な課題であった。それは一方に幾多の世界文学大の作品を生みだす母胎をなしたと同時に、その反面また尖鋭なロシヤ的反神論者を簇出させたのである。その際、当時のロシヤでは宗教と反動とは殆ど区別しがたい同義語をなしていたという指摘(メレジコーフスキイ)は考慮に入れておく値打があるだろう。それはともあれ、チェーホフに見られる徹底した無宗教、つまり宗教的感覚の皆無は、明らかに彼をロシヤ的精神の風土から切り離すものである。そこには鋭い切断がある。それを見落してはいけない。それはまた同時に、彼から一切の政治的感覚を奪ったと想像しても、甚だしい誤りはあるまいと思う。
「神あり」と「神なし」との間には、非常に広大な原野が横たわっている。まことの智者は、大きな困難に堪えてそれを踏破するのだ。ロシヤ人は、この両極端のうちどっちか一つは知っているが、その中間には興味をもたない。だからロシヤ人は普通まるっきり無知か、乃至は非常に無知なのだ。――そんな意味のことが、チェーホフの『手帖』に書いてある。これは彼のいわゆる「唯物論」的態度の、おそらく最も完璧な表現である。彼の眼からすれば、有神論も無神論もともに科学的根拠のない迷妄にすぎない。彼に言わせれば、現代の全文化は一切の宗教運動とは別個に、従属関係においてではなしにこれと対立する。そして人類は「真の神の真理」を、当て推量したりドストイェーフスキイの中に捜しまわるのではなしに、「二二が四」を明かに認識すると同じく明かに認識せんがために、努力しなければならぬ。今日の文化はこの努力の端緒にすぎない。いっぽう宗教運動はどうかと云うと、それは既に生命を終らんとしているものの終末なのだ。……
チェーホフがドストイェーフスキイに全然興味をもたなかったことは、あらためて断わるまでもないだろう。反撥するだけの関心すらなかったことは、この重要な作家についてのまともな言及が、彼の手紙の中にほとんど見当らないところからも知られる。一八八九年版のドストイェーフスキイ全集がチェーホフの蔵書目録に載っているが、恐らくそれを買いこんだ直後のものと思われる感想は、――冗長だ、はったりが多い、などという数語にすぎない。トルストイになると、当時まだ健在で、ひどくチェーホフを可愛がってくれた関係もあるので、別の星の住み手として放って置くわけにいかなかったらしい。だからと云って、彼はこの老人の前でいつも大人しくしていたのではない。こんな挿話がある。――トルストイが「カント的な見方で」不滅を認めて、人間も動物もある神秘な原理(理性、愛)によって生きていると主張したのに対し、チェーホフは、その原理とやらは何かどろどろしたジェリーの塊りみたいに思えてならない、じぶんの自我や個性や意識がそんな塊りと融合するのが不滅なら、平に御免をこうむると言い放って、ヤースナヤ・ポリャーナの聖者を唖然たらしめた。一八九七年春のはなしである。
こんな風に一切の絶対主義の敵として躍りだす際の彼の面だましいには、われわれが習慣的に抱いているチェーホフの概念とはひどく懸けはなれた、爽快なまでに不敵なものがある。そこには信念的な実証論者がおり、断乎たる不可知論者がいる。ところでフランス革命のあとでは、「理性」の神像を教会堂へ担ぎこんで祭壇に祀ったという話があるが、同様にして科学にしろ「唯物論」にしろ、祭り上げられたら最後すでに宗教に化けてしまうぐらいのことなら、チェーホフは若い頃からちゃんと心得ていた。
『わびしい話』(一八八九)は、周知のように精神的破産に陥った老医学教授の長い独白だが、その中に出てくる解剖助手はちょっと、『ファウスト』のワグネルを思わせる役どころで、この男の「科学の正確さへの狂言」や「権威に対する奴隷的崇拝」は、老教授の顔をしかめさせるに十分であった。のみならず別の登場人物の口には、――科学の命数はもう尽きた、今ではもう錬金術や形而上学や哲学などと同様、偏見から生まれた「第五元素」に成り下ってしまった……などというなど手きびしい宣告までが托されているのだ。
とはいえ勿論これは、チェーホフが科学そのものに愛想をつかした証拠にはならぬ。彼が斥けているのは狂言であり偏執であり成心であり盲従であって、求めているのは冷静な客観の自由であり、公平な立会人たる権利なのである。事実、すくなくも老教授自身は依然として科学に対する愛を失ってはおらず、百年したらまたこの世に生き返って、その後の科学の成行きを一目なりと覗いてみたいなどと、悠暢なことを考えているのだ。ところで『六号室』(一八九二)の中の気の毒な医者は、百万年後の地球には牛蒡一本生えまいと考えているが、あれは一体どうなるのだ。それとこれとは結局同じことではないのか? いや、そう先廻りをされては、話がこんがらかって困る。今のところ話はまだ、チェーホフが科学というものを素直に信じ且つ愛していたこと、従って一切の先入主や功利観念からの自由を力強く望んでいたことを、きわめて素朴に確かめようとしているにすぎない。それでも尚、とにかく何とか返事をしろと言われるのなら、地球が百万年はおろか僅々数千年を出でずして何かほかの天体と衝突して絶滅することは既定の事実であり、そのあとでは牛蒡という植物は生えないはずだという冷やかな科学的予測を、チェーホフはその作中人物に言わせる自由を確保しているだけにすぎまい――、まあそんな風にでもお答えするほかはない。
チェーホフには「芸術家の自由に関する宣言」とでも名づけていい文章があって(一八八八年十月、プレシチェーフ宛の手紙)、よく方々に引用されて有名である。それによると、彼は自由主義者でも保守主義者でもない。漸進論者でも坊主でもなく、無関心派でもない。自由な芸術家であるほかに望みはない。偽善や蒙昧や専横がのさばっているのは、何も商家や監獄にかぎらない。科学にも文学にも青年の間にも無いとは言えない。だから自分は憲兵も肉屋も学者も文士も青年も、べつだん贔屓にしてはやらない。制服やレッテルは偏見だと思う。自分にとって聖の聖なるものは、肉体、健康、智力、才能、感興、愛、絶対的な自由、一切の暴力や虚偽からの解放……ということになって、誰だかが悪口を言ったとおり、まさしく無い無いづくしの観がある。だが要点は、この素朴ないし可憐な宣言、あるいは願望のうちに、どの程度までチェーホフの本音を認めるか――ということにある。その度合によってチェーホフの像が千変万化することは言うまでもない。僕はこの宣言をそっくりそのまま頂戴する立場に立つ。その結果引き出されるものがペシミストの像であるか、それともオプチミストの像であるかなどということも、差当り心配しないことにする。成心を嫌ったチェーホフを考える場合、やはりなるべく成心を避けた方が自然でもあり、礼儀にもかなうように思われるからである。
のみならず僕は、チェーホフがその教養において、ダーウィン流の進化論的倫理説の信奉者であったこと、一種のスペンセリアンですらあったことを、率直に認めてかかりたいと思う。大学を出る前の年(一八八三年春)、チェーホフは「性権消長史」ともいうべき労作を思いたって、兄アレクサンドルに共同研究を提言している。これが、当時西欧から北欧へかけて異常な昂揚を示していた婦人問題熱に対するチェーホフの敏感な反応を示すものであることは明らかだが、彼が兄に送った長い手紙によると、それは大よそ次のような構想をもつものだった。――目的は博物学と人類史との間の空白を埋めることにある。一般的方法としては、帰納法より寧ろ演繹法による。各論の部のプログラムとしては、まず動物学であり、これは自分の大好きなダーウィンの方法による。つづいて、人類学――一般史・科学史・女子大学史――解剖学――比較病理――倫理問題――犯罪統計――売淫――ザッヒェル・マゾッホ――教育問題――最後にスペンサーの名論……という仕組みで、要するに進化論に出でて進化論的綜合哲学に終るかなり大がかりな体系をなすはずのものであった。この計画は結局着手されずにしまったらしいが、それがもはや単なる滑稽雑文や小品の作者ではなしに、すでに『生きた商品』とか『おくれた花』(ともに一八八二)とか、あるいは後段で触れる機会があるかも知れないがあの『未発表の戯曲』(一八八一)などという重要な作品を書き上げた当時の彼の立案だというところに、見のがせない興味がある。
一八八九年といえば『わびしい話』を書いた年で、普通チェーホフが最も暗澹たる精神的危機に瀕していた年代とされているが、その年の手紙の一つ(五月、スヴォーリン宛)には、――知識の諸部門は平和のうちに共存して来た。解剖学も純文学もともに名門の出で、同じ目的をもち、悪魔という同じ仇敵をもっている。互いに争う理由はなく、したがって生存競争もない。つまりわれわれは常にプラスをめざして行くのだ。天才は決して争闘なんかしなかった。現にゲーテのうちには詩人と自然科学者が仲よく住んでいたではないか……という意味のことが述べてある。そして彼は、「戦いのないところに戦いを見るのは慎みたい」と希望している。進化論がチェーホフの生活にどれほど強い支配力を振るったかは別問題として、少くもそれへの信念が彼のうちに根づよく巣くっていた証拠にはなるだろう。