Chapter 1 of 36

主人の頭を打つ女

むかしは男は月代といふものを剃つたものだが、それは髭を剃る以上に面倒くさいものであつた。伊勢の桑名に松平定綱といふ殿様があつた。気むづかしやで、思ふ存分我儘を振舞つたものだが、とりわけ月代を剃るのが嫌ひであつた。

「我君、だいぶお頭が伸びましたやうでございますが……」

家来がかう言つてそれとなく催促しても、殿様は余程気軽な時でないと、滅多に月代を剃らうとは言ひ出さなかつた。やつと口説き落して、家来が剃刀を持つて後に立つと、気むづかしやの殿様は螻蛄のやうに頭を振つてどうしても剃らさうとしなかつた。

「我君、お危うございます。」と剃刀を持つたまま泣き出しさうに家来が言ふと、殿様はなほ調子に乗つて頭を振立てた。

「俺の頭はこんなにぐらぐらするのが癖だからの。」

とど終ひには、家来が粗忽をして、家来にとつて余り大事でない殿様の頭によく傷をつけたものだ。すると、気儘な殿様は、主人の頭に傷をつけた不届者だといつて、すぐに立ち上りざま手打にしたものだ。

かうした理由で、家来の幾人かが手打にせられたので、終ひには誰一人月代を剃らうと言ひ出す家来はなくなつた。で、殿様の頭は荒野のやうに髪が伸び放題に伸びた。

殿様の頭が、だんだんむさくろしくなるのを見た奥方は、訳を聞いて初めて驚いた。そしてその次の日には、奥方自身殿様の月代を剃らうと言ひ出した。殿様はその日も螻蛄のやうに頭を振つた。まさか剃刀傷をつけたと言つて、奥方を手打にする気はなかつたらうが、この頭は剃刀の前には、ぐらぐらしないではゐられなかつたのだ。

奥方はそれを見ると、矢庭に拳をふり上げて、二つ三つ殿様の頭を敲きつけた。まるで締めの弛んだ古釘を打ち直しでもするやうに。殿様はびつくりした。

「何をする。」

「何も致しません、あなたのお悪いお癖を直したいばつかりでございます。」

奥方はそれを機に、殿をたしなめた。殿は黙つて言ふなりになつた。

女にも色々ある。貧乏人の女房になるものは、頭を敲きつけられる辛抱が必要だが、富豪や大名の奥方になるものは、時々主人の頭を敲きつける程の気力が無くて叶はぬ。

Chapter 1 of 36