Chapter 1 of 3

風の寒い黄昏だった。勝子は有楽町駅の高い石段を降りると、三十近い職業婦人の落着いた足どりで、自動車の込合った中を通り抜けて、銀座の方へ急いだ。

勝子は東京郊外に住んではいても、銀座へは一年に一度か二度しか来なかった。郊外の下宿から、毎日体操教師として近くの小さい女学校に通うほかには、滅多に外に出たことがなかった。

やや茶色がかった皮膚には健康らしい艶があって、体全体の格好がよくて背の高い彼女は、誰が見てもどちらかと云えば美人に違いなかったが、それでもまだ家庭と云うことを考えたことはなかった。それには別に変った理由があるわけではない。ただ彼女は結婚と云うものを、そんなに楽しいものと思わないまでである。世の中の大部分の人は、みないいかげんな結婚をして、とにかく表面だけは楽しげに見えても、立入ってみればそれぞれ不幸を抱いている。それより冷徹した冬の大空を昇る月のように――この月に自分を例える時には彼女はいつも涙ぐましいほど浄化された気持になれた――自由に純潔でありたいと思った。彼女は淋しいのが好きだった。それに彼女には仕事と云うものがある。彼女は満身の愛を生徒たちに捧げた。また実際それらの生徒たちは、愛さずにいられぬほど可愛らしかった。小さい学校が彼女の世界の総てであった。毎日の生徒の世話、運動会、試験、校友会、遠足、父兄会、対校競技、修学旅行、講習、それに自分自身の修養、女教師の生活もなかなか忙しいのである。だから散歩がてらに銀座へ買物に来るようなことは彼女にとって珍らしい出来事だった。

勝子は数寄屋橋を渡ると、五六台続いて横切る自動車を立止って待って、それから電車道を通り抜けて、滑らかな人道の上を静に銀座の方へ歩き始めた。

すると向うから、黒い外套に灰色の絹の襟巻をした一人の紳士が来て、じろじろ彼女を見ながら通りすぎたのであるが、その男の細長い顔は血の気がなくて紙のように白く、濃い眉の下の鋭い眼には気味悪いほどの光があって、美しいと云うよりはむしろストライキングなその顔立から、彼女は瞬間ではあったが妙な印象を受けたのであった。

まだ明るいのに華やかな銀座の店々には電燈がついて、そぞろ歩く人々の顔も何となく晴やかであった。

勝子は暖い百貨店へ入ると、誰でもするように暫らく物珍らしげに当てどもなく歩きまわり、やっと毛糸ばかり並べた場所を見つけると、そこでフライシャーの白いのを一ポンド半買って、いつも大切な買物をする時に必ず持って来る紫色のメリンスの風呂敷を出して包んで、目的を果したものの微かな満足を感じながら昇降機の方へ行った。

そして下りの昇降機を待つ間、そこにあった大きな姿見の前に立って、暖かそうな駱駝色のコートと、同じ色の緑色の頸巻にくるまった自分の姿を映して、光線のぐあいか髪の恰好やからだったが、いつもより美しく見えるのに軽い誇りを感じた。

が、その時、彼女は同じ鏡に先刻橋のそばで会った男が映っているのを見てぎょッとした。而も男はやや離れた処に立って彼女の後姿を見ているらしく、明るい電燈を受けた顔が凄いほど白かつた。

彼女は振向きもしないで、鏡のそばを離れると、急いで一群の人とともに昇降機に乗って下へ降りた。

街へ出るとすっかり日が暮れて、時々吹く風がぞッとするほど身にしみた。

彼女は風呂敷包を小脇に抱えて、さっさと歩きながら鏡に映った男のことを、思うともなく思い出した。途中で出会ったのにまた引返して自分と同じ店に入ったのだから、あるいは自分の跡をつけて来たのかも知れぬ。もし左様だとすれば何の為であろう。

明るい電燈の点った飾窓を見るような風をして、彼女はふと後ろを振向いてみた。

すると彼女の想像通り、五六間離れた処を歩くその男の姿が見えたので、はッと胸轟かせながら、いそいで向き直って今までより歩度を速めて歩きだした。

そして尾張町の角を曲ると、一直線に有楽町の停車場の方へ向かった。

もはや彼女は黒い外套の男が、自分の跡をつけていることを疑わなかった。けれども何が目的で跡をつけるのであろう。一体彼は誰であろうか。掏摸とも見えなければ、不良青年とも見えず、それかと云って、今まで何処かで会ったような記憶もなかった。年のころは三十から四十までと云うことは解っても、確かには判断できなかった。勝子はもう一度振返って見ようかと思ったが、その男の視線とぶつかるのが嫌だったので、振向かずに歩いた。

だが、橋を渡って停車場の前まで来ると、とうとう男が追いついて、慇懃に帽子をとって、

「失礼ですが、ちょっとお話がしたいのですが」

勝子は男の態度が意外に丁寧だったので、やや安堵して立止ってしげしげその顔を見守った。鋭い感受性を表したような高いととのった鼻、死人のように蒼白い皮膚の色、潤ってぎらぎら光る眸には、臆病さとともに異常な精神力が輝いて誰でも一目見たら忘れられぬ顔であった。

「あなたはどなたですか?」

こう勝子が訊いた。

すると男はどう切り出していいか迷っているらしく、暫らく黙っていたが、落着きのないおどおどした調子で、

「私は宮地銀三と云うものです。お初めてで紹介もなしに呼びとめるのは失礼かも知れませんが、大変なお話があるのです」

こう云う彼の言葉に、ほとんど哀願的と云っていいほどの熱心がこもっていて、息使いを烈しくしているのを見ても、彼がこれから話そうとするのが何か大変な話であることは解った。

そして不思議にも、勝子は相手のどぎまぎしているのを見ると、却ってそれに反比例した心の落着きがたもてて、単なる好奇心のほかに、憫れみと同情の念さえ起きるのであった。

「なんでございますか、大変なお話って?」

「一口には云えないのです」

「なんですか?」

「順序を追って話さなくては解りません。寒いですから歩きましょう。歩きながら話しますから、公園の方へ行きましょう」

勝子はこの狂人のような男と別れて、早く停車場へ入りたい気がしたが、なんだか大変な話と云うのが気にも懸るので、渋々彼とならんで公園の方へ歩いて行った。

しばらく二人は黙っていた。

まず重くるしい沈黙を破ったのは勝子であった。

「大変な話って何ですか?」

「私は宮地銀三と云いまして」と、男は二度目に自分の名を繰返して、「友人と二人で郊外に宮地製氷所と云う小さい工場を持っている男ですけれども商売のほうは、この頃は友人にまかせきりで、私は一日の大部分を散歩についやしているのです」

「散歩?」

耳を疑うように勝子が問いかえした。

「ええ、散歩についやしているのです」

「なぜ?」

「なにも考えず、街をぶらぶら歩きながら、通りすがりの人の顔を見るのが私の道楽なのです。私は絵を見るよりも骨董品をつつくより、いろんな人の顔を見て歩くのが好きなのです」

「まア!」

おどろいたようにこう云って、彼女はくすくす笑うのであった。

が、男は彼女が笑うのには頓着せず、低い力のこもった臆病げな声で続けた。

「日本人の顔も悪くはないが、本当に陰影があって面白いのは外国人の顔です。ことに白人や印度人の顔はいつまで見ていても倦きませんね。そこへ持って行くと、日本人の顔は未製品です。深味がない。日本人の顔よりまだ支那人の顔の方が面白い。少くも日本人のように、かさかさしていなくて、油を塗ったような丸味があるです。それは丁度、日本の焼物と支那の焼物の差と同じですね。私は明るい顔は好きですがいつも冷笑を浮かべた狡猾な顔は好きません。日本人にはそれがよくあるです。それよりも寧ろ陰気な淋しい顔の方が真面目で気持がいいと思います」

「失礼ですが御用事と云うのはなんでございますか? あたし、早く帰りたいのですけれど――」

「いや、これが要点に入る前置きなのです。前置きなしには話せない。だしぬけに要点を話したら、屹とあなたが吃驚なさって、私を信用して下さらないと思います」

こう云って、男が口を噤んだ。

二人はいつのまにか、静な夜の公園を歩いていた。

しばらくして勝子が独言のように低い声で、

「わかった!」と呟いた。

「なんですか?」

「あなたは私の顔に興味をお感じになって、絵をかくためにモデルになってくれと仰有るのでしょう?」

「いいえ、少し違います。まア、もすこし辛抱して聞いて下さい。私は夜なぞじッと自分の顔を鏡に映して見るのが好きです。そして長い間、自分の顔を見ている中に、私は自分の運命を予言できるようになりました」

「どうして?」

「予言と云うのは少々大袈裟ですが、とにかく、自分の顔色や、眼元に表れた口では云えぬ繊細な感じで、長い未来のことまでは解らなくても、二三日後の運命ぐらいは、どうにかこうにか読めるようになったのです。私は東洋の易や人相学や、西洋の骨相学や手相学も一通りは研究してみましたが、それらからは何の得るところもありませんでした。私の方法は人の顔をちょっと見た時の感じ、その感じからいろんなことを端的に直感するのです。そしてまたそれが、非常によく当るのです。そして私は毎日沢山の人の顔を見て歩いている中に、ふと今日あなたの顔を見たのです。私はあなたの顔を見た時、自分の目を疑うほど驚きました」

「死の相でも表れていたのですか?」

「いいえ」

「ではどうして?」

「私はあなたの顔を一目見て、これが私の妻となる人だと知りました」

すると勝子が静な夜の空気を震わして、だしぬけに高い声でからから笑い、笑い終った時にこう訊ねた。

「あなたはブレークのようなことを仰有るのね。あたしの顔のどんな処を見て、そんな判断をなさったのです?」

けれども男は真面目であった。寒いのに額の汗をハンケチで拭きながら、声を顫わして云うのであった。

「ブレークの場合とは違います。彼は突発的に妻を直覚したのですが、私のは今日だけは直覚でも何でもない。実は以前に幾度もあなたを見たことがあるのです。今夜はじめて見るのではないのです」

「どこで見たのです?」

「幻で見ました。私には随分前から、時々自分の妻の顔を見ようと思って、静な部屋で眼をつぶる習慣があったのです。すると私の眼の前に、何時も同じ幻が現れて来ました。それは右手に高い黒い倉庫のような建物があって、あたりが黄昏のように暗いのに、向うの空が青く晴れて、その空を背景にして、一人の女が立って、私の方を見ながら招くように微笑しているのです。私はその女の顔をいつでもはっきり見ることが出来ます。巴旦杏型のぱっちりした眼はどこか私が子供の時に死んだ母の眼に似ていて、頬から頤にかけた線に、何とも云えぬ素朴な優しみがあります。そしてその顔全体が、あなたの顔とちっとも違わないのです」

彼女は何と云っていいか解らなかった。男の云うことは常識ではとても信じられないが、それかと云って、彼の態度や話の調子から判断して、出鱈目を云っているものとは決して思われなかった。

彼女が黙って聞いていると、男は調子にのって何時までも喋りつづけた。そして男の云うことは、すべて彼女に取って信じられないほど不思議で耳新しく、それも全然荒唐無稽であるなら、正確に相手を批判することも出来たが、彼の云うことは突飛ではあっても、まんざら一つの系統がないことはないので、余計に判断に苦しんだ。

どうせ聞いていても、別に損になるわけではないと思って、勝子は狐につままれた心地で、ただぼんやりと、恰度波に揺られる気持で相手の言葉に耳を貸していた。愛の言葉と云うものは、たとえそれがどんな形式で語られようと、女の耳にピアノと同じ響きを持つものであらねばならぬ。

あたりは静で、葉の落ちた高い梢の上の電燈が、湿っぽい夜の闇を照していた。

Chapter 1 of 3