上
法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固まつてある。其の中の一軒の大黒屋といふうちに車屋は梶棒を下ろした。急がしげに奥から走つて出たのは十七八の娘である。色の白い、田舎娘にしては才はじけた顔立ちだ。手ばしこく車夫から余の荷物を受取つて先に立つ。廊下を行つては三段程の段階子を登り又廊下を行つては三段程の段階子を登り一番奥まつた中二階に余を導く。小作りな体に重さうに荷物をさげた後ろ姿が余の心を牽く。
荷物を床脇に置いて南の障子を広々と開けてくれる。大和一円が一目に見渡されるやうないゝ眺望だ。余は其まゝ障子に凭れて眺める。
此の座敷のすぐ下から菜の花が咲き続いて居る。さうして菜の花許りでは無く其に点接して梨子の棚がある。其梨子も今は花盛りだ。黄色い菜の花が織物の地で、白い梨子の花は高く浮織りになつてゐるやうだ。殊に梨子の花は密生してゐない。其荒い隙間から菜の花の透いて見えるのが際立つて美くしい。其に処々麦畑も点在して居る。偶燈心草を作つた水田もある。梨子の花は其等に頓着なく浮織りになつて遠く彼方に続いて居る。半里も離れた所にレールの少し高い土手が見える。其土手の向うもこゝと同じ織り物が織られてゐる様だ。法隆寺はなつかしい御寺である。法隆寺の宿はなつかしい宿である。併し其宿の眺望がこんなに善からうとは想像しなかつた。これは意外の獲物である。
娘は春日塗りの大きな盆の上で九谷まがひの茶椀に茶をついで居る。やゝ斜に俯向いてゐる横顔が淋しい。さきに玄関に急がしく余の荷物を受取つた時のいき/\した娘とは思へぬ。赤い襦袢の襟もよごれて居る。木綿の着物も古びて居る。それが其淋しい横顔を一層力なく見せる。
併しこれは永い間では無かつた。茶を注いでしまつて茶托に乗せて余の前に差し出す時、彼はもう前のいき/\した娘に戻つて居る。
「旦那はん東京だつか。さうだつか。ゆふべ奈良へお泊りやしたの。本間になア、よろしい時候になりましたなア」
と脱ぎ棄てた余の羽織を畳みながら、
「御参詣だつか、おしらべだつか。あゝさうだつか。二三日前にもなア国学院とかいふとこのお方が来やはりました」
と羽織を四つにたゝんだ上に紐を載せて乱箱の中に入れる。
余は渇いた喉に心地よく茶を飲み干す。東京を出て以来京都、奈良とへめぐつて是程心の落つくのを覚えた事は今迄無かつた。余は膝を抱いて再び景色を見る。すぐ下の燈心草の作つてある水田で一人の百姓が泥を取つては箕に入れて居る。箕に土が満ちると其を運んで何処かへ持つて行く。程なく又来ては箕に土をつめる。何をするのかわからぬが此広々とした景色の中で人の動いて居るのは只此百姓一人きりほか目に入らぬ。
娘は椽に出て手すりの外に両手を突き出して余の足袋の埃りを払つて又之を乱箱の中に入れる。
「いゝ景色だナア」
といふと直ぐ引取つて、
「此辺はなア菜種となア梨子とを沢山に作りまつせ。へー燈心も沢山に作ります。燈心はナー、あれを一遍よう乾かして、其から叩いてナー、それから又水に漬けて、其から長い錐のやうなもので突いて出しやはります。其から又畳の表にもしやはりまつせ。長いのから燈心を取りやはつて短かいのは大概畳の表にしやはります」
「畳の表には藺をするのぢやないか。燈心草も畳の表になるのかい」
「いやな旦那はん。燈心草といふのが藺の事つたすがな」
と笑ふ。余は電報用紙を革袋の中から取り出す。娘は棚の上の硯箱を下ろして葢を取る。
「まア」
といつて再び硯箱を取り上げてフツと軽く硯の上の埃りを吹いて薬缶の湯を差して墨を磨つて呉れる。墨はゴシ/\と厭やな音がする。
電報を認め終つて娘に渡しながら、
「下は大変多勢のお客だね。宴会かい」
と聞く。娘は電報を二つに畳んで膝の上に置いて、
「いゝえ。皆東京のお方だす。大師講のお方で高野山に詣りやはつた帰りだすさうな。今日はこゝに泊りやはつてあした初瀬に行きやはるさうだす。今晩はおやかましうおますやろ」
と娘は立たうとする。電報は一刻を急く程の用事でも無い。
「初瀬は遠いかい」
とわざと娘を引とめて見る。
「初瀬だつか」
と娘も一度腰を下ろして、
「初瀬はナー、そらあのお山ナー、そら左りの方の山の外れに木の茂つたとこがありますやろ……」
と延び上るやうにして、
「あこが三輪のお山で。初瀬はあのお山の向うわきになつてます。旦那はんまだ初瀬に行きやはつた事おまへんか」
「いやちつとも知らないのだ。さうかあれが三輪か。道理で大変に樹が茂つてゐるね。それから吉野は」
「吉野だつか」
と娘は電報を畳の上に置いて膝を立てる。手摺りの処に梢を出してゐる八重桜が娘の目を遮ぎるのである。余は立上つて椽に出る。娘も余に寄り添うて手摺りに凭れる。
「そら、此向うに高い山がおますやろ、霞のかゝつてる。へーあの藪の向うだす。あれがナー多武の峰で、あの多武の峰の向うが吉野だす」
娘は桜の梢に白い手を突き出して、
「あの高い山は知つとゐやすやろ」
「あれか、あれが金剛山ぢやないか。あれは奈良からも見えてゐたから知つてる」
娘は手摺り伝ひに左りへ/\と寄つて行つて、
「旦那はん、一寸来てお見やす。そらあそこに百姓家がおますやろ。さうだす、今鴉の飛んでる下のとこ。さうだす、あの百姓家の左の方にこんもりした松林がおますやろ。そやおまへんがナー。それは鉄道のすぐ向うだすやろ。それよりももつとずつと向うに、さうだすあの多武の峰の下の方にうつすらした松林がありますやろ。さう/\。あこだす、あこが神武天皇様の畝火山だす」
娘の顔はます/\いき/\として来る。畝火山を教へ終つた彼はまだ何物をか探して居る。彼の知つて居る名所は見える限り教へてくれる気と見える。
「お前大変よく知つて居るのね。どうしてそんなによく知つて居るの。皆な行つて見たのかい」
「へー、皆んな行きました」
といつて余を見た彼の眼は異様に燃えてゐる。
「さう、誰と行つたの、お父サンと」
「いゝえ」
「お客さんと」
「いゝえ。そんな事聞きやはらいでもよろしまんがナア」
と娘は軽く笑つて、
「私の行きました時も丁度菜種の盛りでなア。さう/\やつぱり四月の中頃やつた」
と夢見る如き眼で一寸余の顔を見て、
「旦那はん、あんたはんお出でやすのなら連れていておくれやすいな、ホヽヽヽ私見たいなものはいやだすやろ」
「いやでも無いが、こはいナ」
「なぜだす」
「なぜでも」
「なぜだす」
「こはいぢやないか」
「しんきくさ。なぜだすいな、いひなはらんかいな」
「いゝ人にでも見つからうもんなら大変ぢやないか」
「あんたの」
「お前のサ」
「ホヽヽ、馬鹿におしやす。そんなものがあるやうならナー。……無い事もおへんけどナー。……ホヽヽヽヽ、御免やすえ。……アヽ電報を忘れてゐた。お風呂が沸いたらすぐ知らせまつせ」
と妙な足つきをして小走りに走つて畳の上の電報を抄ふやうに拾ひ上げて座敷を出たかと思ふと、襖を締める時、
「本間におやかましう。御免やすえ」
としづかに挨拶してニツコリ笑つた。
「お道はん。/\」
と下で呼ぶ声がする。
「へーい」
といふ返辞も落ついて聞こえた。
お道さんが行つたあとは俄かに淋しくなつた。きのふ奈良でしらべた報告書の残りを認める。時々下の間で多勢の客の笑ふ声に交つてお道サンの声も聞こえるが、座敷が別棟になつてゐるのではつきりわからぬ。
夢殿の鐘が鳴る。時計を見るともう六時だ。
漸く風呂が沸いたと知らして来た。其はお道さんでは無く、此家の主婦であらう三十四五の髪サンであつた。晩飯の給仕に来たのもお道さんで無く此の髪サンであつた。
此髪サンの話によると、お道サンといふのは此うちの娘でなくすぐ此裏の家の娘で、平生は自分のうちで機械機を織つて居るが、世話しい時は手伝ひに来るのだとの話であつた。
「へい、此辺でナー、ちつと渋皮のむげた娘はナー、皆南の方へ行きやはります。南の方といふのはナー下市、上市、吉野あたりだす。お道はんも一寸行てやはりましたが、お父つあんが一人で年よつてるさかいに半年許りで帰つて来やはつた。へー、何だす。そりやナー若い時はナー。そやけれどお道はんに限つてそないな事はありまへんやらう。ホヽヽヽ」
とお髪サンは妙な眼つきをして人の顔を見て笑ふ。