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漱石氏と私
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漱石氏と私
高浜虚子
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 14

4

累々として徳孤ならずの蜜柑哉

という句の如きはその一例であったように記憶する。右の手紙は熊本県飽託郡大仁村四百一番地とある。

次に受取った手紙は同じく三十一年の三月二十一日の日附のものである。

その後は存外の御無沙汰、平に御海恕可被下候。御恵贈の『新俳句』一巻今日学校にて落手、御厚意の段難有奉拝謝候。小生爾来俳境日々退歩、昨今は現に一句も無之候。この分にてはやがて鳴雪老人の跡釜を引き受くることならんと少々寒心の体に有之候。

子規子病気は如何に御座候や、その後これも久しく消息を絶し居り候こととて、とんと様子もわからず候えども、近頃は歌壇にての大気焔に候えばまずまず悪しき方にてはなかるまじと安心いたし居り候。先は右御礼のみ、草々如斯に御座候。頓首。

三月二十一日愚陀仏     虚子様榻下

梅散つてそゞろなつかしむ新俳句

前にも言った通り『新俳句』は我ら仲間の一番最初の句集で、民友社から出版されたものであった。鳴雪老人の跡釜云々とあるのは、この頃鳴雪翁は暫く俳句界に遠ざかるといって、句作はもとより、俳句界との交際も絶っていられた。それを言ったものである。

前の手紙やこの手紙から推して、この頃の漱石氏はどこまでも俳句界の仲間であると自ら考えて、句作に怠りながらもなお全然それから遠ざかってしまう考のなかったことは明白である。この手紙も前の大仁村四百一番地から出て居る。

四

熊本に居る頃の漱石氏は何度上京したか私はそれを知悉しない。ただ今も記憶に残っている一つの光景がある。それは漱石氏が何日の何時の汽車で新橋から帰任するということを知らせて来たので私は新橋へ見送りに行った。そうして待合室に立っている洋服姿の漱石氏を見出したので汽車の出るまで雑談をしていた。いよいよ汽車が出る場合になって私は改札口まで漱石氏を見送って行った。私の外に漱石氏を見送る人は一人もない様子であったのだが、その改札口を出る時に氏は自分の切符の外に二枚の切符を持っていてそれを氏の傍に近づいて来た二人の婦人に手渡しした。そうして私と別離を叙して後に氏はその二人の婦人を随えて改札口を奥へ這入って行った。一人の婦人は二十格好の年の若い人であった。他の一人の婦人は五十格好のやや老いた人であった。私は漱石氏の後ろ姿を見送ると同時にこの二人の婦人の後ろ姿をも見送って暫く突っ立っていた。そうしてこの二婦人が漱石氏とどういう関係の人であろうかということを考えるともなく考えた。その時の漱石氏と若い婦人の面に表われた色から推して、

「奥さんを貰ったのかな。」と考えた。奥さんを貰うというような話は今まで一言も聞かなかったのである。しかしながらどうもこれはそう判断するより外に考えのつけようがなかった。後になってこの想像は正しい想像であって、その若い婦人が今日の夏目未亡人、老婦人の方が未亡人の母堂であることを明かにした。

右の光景を記憶して居るところから言っても、漱石氏が新妻迎えのため熊本から一度上京したことだけは疑いのない事柄であるが、その他にも上京したことがあったかどうか、それは私には分らない。

さて私は明治三十一年の十月に『ホトトギス』を東京で発行するようになり、今までの暢気な書生生活を改めて真面目に仕事をせなければならぬことになって、その事務所を一時神田の錦町に置き、間もなくそれを猿楽町に転じた。この猿楽町には子規居士も来るし飄亭、碧梧桐、露月、四方太などの諸君も熾んに出入するし、その『ホトトギス』が漸く俳句界の一勢力になって来たので、私の仕事も相当に多忙になって来た。初め『ホトトギス』を出すようになってからぜひ漱石氏にも何か寄稿をしてもらいたいという考が私にもあれば子規居士にもあった。それでこの事は私からでなく子規居士から漱石氏に依頼してやったように記憶して居る。漱石氏はそれに対して明治三十二年四月発行の『ホトトギス』第二巻第七号に「英国の文人と新聞雑誌」という表題で一文を送ってくれた。その一篇の主意は、英国で新聞の出来た初めの頃は大方政治的なものであったが、それがだんだん発達して来るに従って、あらゆる種類の文学が新聞雑誌の厄介になる時代になった。それにつれて文学者と新聞雑誌との関係がだんだん密接になって来て、今日では文学者で新聞か雑誌に関係を持たないものはないようになった。とそういう意味のことを実例を引いて述べたものであった。それから同じ年の八月十日発行の二巻十一号に「小説エイルヰンの批評」という十二、三頁に渉った文章を送ってくれた。それは丁度その頃英国で評判の高い小説にエイルヰンというのがあって、それは出版になってからまだ一年も経たなかったのであるが非常な勢いで流行していた。漱石氏の注文したのは二、三版の頃であったのにそれが日本に到着した頃は十三版のものになっていた。その小説の梗概と批評とを述べたものがこの「小説エイルヰンの批評」の一篇であった。イギリス文学の主な新刊書は必ずこれを購求して読破することを怠らなかったことは漱石氏の生涯を通じて一貫した心掛であったことが此の一事を見ても分る。また漱石氏が新聞雑誌に寄稿したということは恐らく『ホトトギス』に寄せたこれらの篇をもって最初のものとすべきであろう。

明治三十二年の十二月十一日の日附の手紙が私の手許にある。それは次のような文章である。

その後は大分御無沙汰御海恕可被下候。時下窮陰之候筆硯いよいよ御清穆奉賀候。さて先般来当熊本人常松迂巷なる人当市『九州日々新聞』と申すに紫溟吟社の俳句を連日掲載するよう尽力致しなお東京諸先俳の俳句も時々掲載致度趣にて大兄へ向け一書呈上候処その後何らの御返事もなきよしにて小生より今一応願いくれるよう申来候。右迂巷と申す人は先般来突然知己に相成候人なるが、非常に新派の俳句に熱心忠実なる人に有之、実は今回の挙なども新派勢力扶植のための計画に候。左すれば『ほととぎす』発行者などは大に声援引き立ててやる義理も有之べきかと存候。かつ九州地方は新派の勢力案外によわくほとんど俳句の何ものたるを解せざる有様に候えば、俳句趣味の普及をはかる点より論ずるも幾分か大兄などは皷吹奨励の責任ありと存候。右の理由故何とか返事でも迂巷宛にて御差出可被下候。また『日々新聞』は同人より大兄宛にて毎日御送致居候よし定めて御閲覧の事と存候。

乍序『ほととぎす』につき一寸愚見申述候間御参考被下度候。

『ほととぎす』が同人間の雑誌ならばいかに期日が後れても差支なけれど、既に俳句雑誌などと天下を相手に呼号する以上は主幹たる人は一日も発行期日を誤らざる事肝要かと存候。それも一日や二日ならとにかく、十日二十日後れるに至っては、殆んど公らが気に向いた時は発行しいやな時はよす慰み半分の雑誌としか受取れぬ次第に候。もっともこれには色々な事情も可有之、また御陳述の如く期日の後れたるため毎号改良の点も可有之とは存じ候えども、門外漢より無遠慮に評し候えば頗る無責任なる雑誌としか思われず候。現今俳熱頗る高き故唯一の雑誌たる『ほととぎす』はかく無責任なるにも不関売口よき次第なるべけれど若し有力な競争者出でばこれを圧倒する事もとより難きにあらざるべし。仮令有力なる競争者が出来得ざるにせよ、敵なき故に怠るように見えるは尚更見苦しく存候。

次に述べたきは『ほととぎす』中にはまま楽屋落の様な事を書かれる事あり。これも同人間の私の雑誌ならとにかくいやしくも天下を相手にする以上は二、三東京の俳友以外には分らず随って興味なき事は削られては如何。加之品格が下る様な感じ致候。高見如何。虚子、露月が俳人に重ぜらるるは俳道に深きがため、その秋風たると春風たるとに関係なき也。天下の人が虚子、露月を知らんとするは句の上にあり。「頬をかむ」の「顔をなめる」のと愚にもつかぬ事を聞いて何にかせんや。方今は『ほととぎす』派全盛の時代也。然し吾人の生涯中もっとも謹慎すべきは全盛の時代に存す。如何。子規は病んで床上にあり、これに向って理窟を述ぶべからず。大兄と小生とはかかる乱暴な言を申す親みはなきはずに候。苦言を呈せんとして逡巡するもの三たび、遂に決意して卑辞を左右に呈し候。これも雑誌のためよかれかしと願う微意に外ならざれば不悪御推読願上候。以上。

十二月十一日漱石     虚子様

横顔の歌舞伎に似たる火鉢哉

炭団いけて雪隠詰の工夫哉

御家人の安火を抱くや後風土記

追分で引き剥がれたる寒かな

正

当時の寓居は熊本市内坪井町七八とある。

この手紙の初めの方にある紫溟吟社というのは、その頃地方に起った俳句団体の古いものの一つであって、この事に就いては数号前の『ホトトギス』に雪鳥、迂巷の両君が書いたことがある通り、漱石氏を中心にして起った俳句の団体であって、後には『銀杏』という雑誌まで出して中々盛んなものであった。文に常松迂巷とあるのは池松迂巷の間違いである。私はその当時雑誌発行というような事務に馴れなかった上に健康が十分でなかったので手紙などは怠り勝ちであった。もっともそれは今日になってもなおつき纏っている私の病所であるが、漱石氏などはその頃から決して人の手紙に返事を怠るような人ではなかった。殊に人に物を頼まれたりした場合は必ずその面倒を見ることを怠らなかった。漱石氏が熊本を去って後に紫溟吟社の人々も四散してしまってまた昔時の面影を見ることが出来ないようになったが、それも漱石氏のような、積極的に会の世話をしないまでも、何かと会員の面倒を見てやる中心人物がなくなったということが主な原因であったろう。次に『ホトトギス』の記事に就ての警告は、消息欄に書いた記事についての非難であった。どんな記事であったか今それを調べて見るのも馬鹿馬鹿しいような事柄であるが、消息は主として同人仲間の消息を漏らすのであったので自然楽屋落ちになることは止むを得なかったことである。子規居士は格別それを嫌いもせず、寧ろそれをよろこぶような傾きがないでもなかった。

「あまり甚だしい楽屋落は困るけれども、少し位はかえって読者にとって興味があるかもしれない。」などと言って居た。子規居士はじめわれらの仲間のものに較べて遥かに後輩である読者などは、先輩としての子規居士やその他同人らの消息を知ることは多少の興味であったに相違ないが、子規居士の同輩である漱石氏などから見たらば、定めし癪に障る記事が多かったろうと思う。殊にその頃のわれらは未だ二十台の若さであったので、大した分別もなく下らぬことを言い合ってよろこんでいたものであった。そんなことが記事になって出るのを見ると漱石氏などは定めて歯の浮くような感じがしたことであったろう。

それから漱石氏が文部省から二年間英国留学を命ぜられて洋行するようになったのは明治三十三年の九月のことであった。それに就いて漱石氏は何時上京したのか、それらのことも今ははっきりと記憶に残って居らぬ。ただある日漱石氏は猿楽町の私の家を訪問してくれて、「どこかへ一緒に散歩に出かけよう。」と言った。それから二人はどこかを暫く散歩した。そうして或る路傍の一軒の西洋料理屋に上って西洋料理を食った。これは漱石氏が留別の意味でしてくれた御馳走であった。その帰り道私は氏の誘うがままに連立ってその仮寓に行った。そうして謡を謡った。席上にはその頃まだ大学の生徒であった今の博士寺田寅彦君もいた。謡ったのは確か「蝉丸」であった。漱石氏は熊本で加賀宝生を謡う人に何番か稽古したということであった。廻し節の沢山あるクリのところへ来て私と漱石氏とは調子が合わなくなったので私は終に噴き出してしまった。けれども漱石氏は笑わずに謡いつづけた。寺田君は熊本の高等学校にいる頃から漱石氏のもとに出入していて『ホトトギス』にも俳句をよせたり裏絵をよせたりしていた。それが悉く異彩を放っていたので、子規居士などもその天才を推賞していた。そこで寺田寅彦君という名前は私にとって親しい名前ではあったのだが、親しく出合ったのは確かこの時がはじめてであった。近時は一体に文学者が雅号を用いぬことが流行するが、寺田君はその頃から寅彦で押し通していた。坂本君は本名の四方太を四方太と読ませていたが、寅彦君は本名そのまま寅彦で押し通したのであった。その日寅彦君は初めから終いまで黙って私たちの謡を聞いていたが、済んでから、先生の謡はどうかしたところが大変拙いなどと漱石氏の謡に冷評を加えたりした。そうすると漱石氏は、拙くない、それは寅彦に耳がないのだ、などと負けず我慢を言ったりなどした。

Chapter 4 of 14
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