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俳諧師
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俳諧師
高浜虚子
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 78

二

瀬戸内海の波は靜かだ。夢のやうに寄せて音も無く白砂の上を走る。只時々囁く如く聞ゆるのは渚に捨てゝある碇にあたつて碎くる波の響きであらう。堅田の浦の汀の石に立つて近江の湖を見た時と、三津の濱の捨舟の端に腰打ち掛けて瀬戸内海を眺めた時といづれを湖いづれを海と見定めがつかう。その三津の濱に門司を出た汽船が著く。一日に一度著くこともある。二度著くこともある。艀は旅客と行李を積んで汽船に運ぶ。汽船は其靜かな鏡の面に渦を卷いて大阪に向ふ。

四年間一番の席を獨占して卒業する時も一番であつた中尾市太郎は藝者屋の息子である。市太郎の姉二人とも藝者をしてゐる。一人の妹も藝者をしてゐる。姉妹の稼いだ金は市太郎の教科書となり制服となり月謝となり、其月桂冠となり、さうして又東京の高等工業學校を志望して上京する其學資となり旅費となる。三津の濱の波打際に立つてゐるのは、沖遠き雲の峰に打映えて赤、紫、淺黄の三本の蝙蝠傘、少し離れて大小いろ/\の麥藁帽。其中には三藏もゐる。三藏を蹶落して二番になつた加藤もゐる。四番の平田もゐる、をばさんもゐる。中尾も加藤も平田もをばさんも新らしい活動の世界を波の彼方に描く。中尾は甲板で帽子を振る。勝つて歸るよと帽子を振る。加藤も平田もをばさんも帽子を振る。勝つて歸り給へと帽子を振る。紫、淺黄、赤の三本の蝙蝠傘からも眞白き手に各ハンケチを振る。勝つてお歸りよとハンケチを振る。三藏は獨り目をねむつて解放の世界を波の彼方に描く、中尾の振る帽子、加藤、平田、をばさんの振る帽子、三人の姉妹の振るハンケチを見て三藏も亦知らず識らず帽子を振る。而も勝つて歸り給へといつては振らぬ。負けて歸り給へといつてふるのでも無い。三藏はたゞ帽子を振る。中尾が振つてゐる間振る。加藤、平田、をばさんが振つてゐる間振る。三人の姉妹が振つてゐる間振る。

中尾につゞいて誰彼が出發する。三藏の家の庭の向日葵が一度ると三津の濱に二艘の汽船が著いて三藏は一册の小説を讀み終る。八月に入つてからは自ら筆を取つて書く。主人公は大江山の麓の村から離縁になつて歸つて來たといふ自分の家の西隣の家の娘で、一枚書いては消し二枚書いては消し十枚にならぬうちに筆を中止する。三藏の愛讀する「風流佛」の作者露伴は二十一歳で「露團々」を處女作として出した。二十一歳までには處女作を出さねばならぬと考へる。

大阪商船會社の緑川丸が、三藏、加藤、平田、をばさん等の一行が神戸に送り、汽車が更らにこれを京都に送つたのは、四條の磧にまだ川床が殘つてゐて枝豆賣の赤い提灯が篝火の中を縫つて歩く八月の末であつた。

Chapter 2 of 78
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