Chapter 1 of 64

四里の道は長かった。その間に青縞の市のたつ羽生の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出しを出した田舎の姐さんがおりおり通った。

羽生からは車に乗った。母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯、車夫は色のあせた毛布を袴の上にかけて、梶棒を上げた。なんとなく胸がおどった。

清三の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去になった。卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍る芸妓なるものの嬌態にも接すれば、平生むずかしい顔をしている教員が銅鑼声を張り上げて調子はずれの唄をうたったのをも聞いた。一月二月とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。第一に、父母からしてすでにそうである。それにまわりの人々の自分に対する言葉のうちにもそれが見える。つねに往来している友人の群れの空気もそれぞれに変わった。

ふと思い出した。

十日ほど前、親友の加藤郁治と熊谷から歩いて帰ってくる途中で、文学のことやら将来のことやら恋のことやらを話した。二人は一少女に対するある友人の関係についてまず語った。

「そうしてみると、先生なかなかご執心なんだねえ」

「ご執心以上さ!」と郁治は笑った。

「この間まではそんな様子が少しもなかったから、なんでもないと思っていたのさ、現にこの間も、『おおいに悟った』ッて言うから、ラヴのために一身上の希望を捨ててはつまらないと思って、それであきらめたのかと思ったら、正反対だッたんだね」

「そうさ」

「不思議だねえ」

「この間、手紙をよこして、『余も卿等の余のラヴのために力を貸せしを謝す。余は初めて恋の物うきを知れり。しかして今はこのラヴの進み進まんを願へり、Physical なしに……』なんて言ってきたよ」

この Physical なしにという言葉は、清三に一種の刺戟を与えた。郁治も黙って歩いた。

郁治は突然、

「僕には君、大秘密があるんだがね」

その調子が軽かったので、

「僕にもあるさ!」

と清三が笑って合わせた。

調子抜けがして、二人はまた黙って歩いた。

しばらくして、

「君はあの『尾花』を知ってるね」

郁治はこうたずねた。

「知ってるさ」

「君は先生にラヴができるかね」

「いや」と清三は笑って、「ラヴはできるかどうかしらんが、単に外形美として見てることは見てるさ」

「Aのほうは?」

「そんな考えはない」

郁治は躊躇しながら、「じゃ Art は?」

清三の胸は少しくおどった。「そうさね、機会が来ればどうなるかわからんけれど……今のところでは、まだそんなことを考えていないね」こう言いかけて急にはしゃいだ調子で、

「もし君が Art に行けば、……そうさな、僕はちょうど小畑と Miss N とに対する関係のような考えで、君と Art に対するようになると思うね」

「じゃ僕はその方面に進むぞ」

郁治は一歩を進めた。

清三は今、車の上でその時のことを思い出した。心臓の鼓動の尋常でなかったことをも思い出した。そしてその夜日記帳に、「かれ、幸多かれ、願はくば幸多かれ、オヽ神よ、神よ、かの友の清きラヴ、美しき無邪気なるラヴに願はくば幸多からしめよ、涙多き汝の手をもって願はくば幸多からしめよ、神よ、願ふ、親しき、友のために願ふ」と書いて、机の上に打っ伏したことを思い出した。

それから十日ほどたって、二人はその女の家を出て、士族屋敷のさびしい暗い夜道を通った。その日は女はいなかった。女は浦和に師範学校の入学試験を受けに行っていた。

「どんなことでも人の力をつくせば、できないことはないとは思うけれど……僕は先天的にそういう資格がないんだからねえ」

「そんなことはないさ」

「でもねえ……」

「弱いことを言うもんじゃないよ」

「君のようだといいけれど……」

「僕がどうしたッていうんだ?」

「僕は君などと違ってラヴなどのできる柄じゃないからな」

清三は郁治をいろいろに慰めた。清三は友を憫みまた己を憫んだ。

いろいろな顔と事件とが眼にうつっては消えうつっては消えた。路には榛のまばらな並木やら、庚申塚やら、畠やら、百姓家やらが車の進むままに送り迎えた。馬車が一台、あとから来て、砂煙を立てて追い越して行った。

郁治の父親は郡視学であった。郁治の妹が二人、雪子は十七、しげ子は十五であった。清三が毎日のように遊びに行くと、雪子はつねににこにことして迎えた。繁子はまだほんの子供ではあるが、「少年世界」などをよく読んでいた。

家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生在の弥勒の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。

路のかたわらに小さな門があったと思うと、井泉村役場という札が眼にとまった、清三は車をおりて門にはいった。

「頼む」

と声をたてると、奥から小使らしい五十男が出て来た。

「助役さんは出ていらっしゃいますか」

「岸野さんかな」

と小使は眼をしょぼしょぼさせて反問した。

「ああ、そうです」

小使は名刺と視学からの手紙とを受け取って引っ込んだが、やがて清三は応接室に導かれた。応接室といっても、卓や椅子があるわけではなく、がらんとした普通の六畳で、粗末な瀬戸火鉢がまんなかに置かれてあった。

助役は肥った背の低い男で、縞の羽織を着ていた。視学からの手紙を見て、「そうですか。貴郎が林さんですか。加藤さんからこの間その話がありました。紹介状を一つ書いてあげましょう」こう言って、汚ない硯箱をとり寄せて、何かしきりに考えながら、長く黙って、一通の手紙を書いて、上に三田ヶ谷村村長石野栄造様という宛名を書いた。

「それじゃこれを弥勒の役場に持っていらっしゃい」

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