Chapter 1 of 3

人間の一生を縦に考へて見ただけでも、世間に就ての考へ方は各自に、非常に違つて来るやうなものである。若い頃には誰でも大概は世間に圧されてゐる。意味なしに上から圧迫されてゐる。従つて弱いものはいぢけ、強い者は反抗するといふやうな態度を取るやうになつてゐる。それといふのもさういふ時代には、対象は十の八九まで世間であつて、何うかして人並になりたい、世間並になりたい、世間のひとりとして認められたいと思つてゐるからである。反抗するものでも、いぢけたものでも同じやうに思つてゐる。唯、その中ですぐれた才能と頭脳とを持つたものだけが、本当の人間の心の世界が世間の底に深く蔵れて横はつてゐることを察知することが出来るのである。

で、壮年から中年になる。今度はいやでも応でも世間の中に入つて行かなければならなくなる。無理やりにでも割り込んで行かなければならなくなる。そして運好く機会をつかんだ場合には、忽ちにして世間の巴渦の唯中に入つて行くことが出来るのである。そして(何んだ、こんなものか。離れて見てゐた時には、大変わかりにくい面倒なものに思はれたが、実際当つて見ると、何だ!、こんなものか。世間なんて存外甘い平凡なものだな。成ほど群衆心理といふことがあるが、これなら、うまくそれに乗れば、首領にも英雄にもなれるわけだな! 存外、世間は楽にわたれるやうに出来てるのだな!)かう思ふやうになるのである。そしてそれは強者の成功者ばかりではなく、頭のいぢけた弱者に取つてもさういふ気がするに違ひないと私は思つてゐる。

そしてさういふ風に次第に世間に雑り合つて行くやうになつてゐる心の境が一番平凡ではあるが、しかし一番生効のあるやうな気のする時代である。その時代には、世間に対する気兼が次第になくなつて来てゐて、今までのやうに世間が他に別に存在してゐるのではなく、自己即ち世間といふやうな気がして来るのである。そしてその時に於て一番多くあらゆる好運が笑ひをさういふ人達に見せて来るのである。それは世間に対してはまだいくらか恐怖を持つてゐるにはゐるが、もはや若い時のやうに無意味にそれを恐ろしいとは思はなくなつてゐる。女といふ魔物に対してもある理解を持つて来る。功名といふことに対しても、若い時に思つたやうなものでないといふことが次第に飲み込めて来る。あせらなくなる。反抗しなくなる。時にはその世間の波に漂つてゐることが一番楽しいといふやうにすら考へるやうになる。しかし、実はさうした境が一番注意しなければならない危険な時代で、まごまごすると、その世間のために全く平にされて了ふことになるのである。そしてその境は楽に入つて行ける境涯であるだけ一層危険であると私は思つてゐる。

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