Chapter 1 of 21

朝の八時といえば、士官や役人や避暑客連中が蒸暑かった前夜の汗を落しに海にひと浸りして、やがてお茶かコーヒーでも飲みに茶亭へよる時刻である。イン・アンドレーイチ・ラエーフスキイという二十八ほどの、痩せぎすなブロンドの青年が、大蔵省の制帽をかぶり、スリッパをひっかけて一浴びしに来てみると、もう浜には知合いの連中が大分あつまっていた。そのなかに、日ごろから親しい軍医のサモイレンコもいた。

大きな頭を五分刈りにして、猪首で赭ら顔で、それに大きな鼻、もじゃもじゃした黒い眉毛、胡麻塩の頬髯、ぶくぶく緊りのない肥りよう、軍人独特の太い嗄れ声――こう並べて見ると、このサモイレンコがこの町に来たての人の眼に、どら声の成上り士官といった不快な印象を与えるのは無理もない。だが二三日も附き合って見ると、この顔がひどく善良な可愛い顔に見えてくる、美しくさえ見えてくる。見かけはいかにも不細工で粗野だが、そのじつ彼は穏かな、底の底まで善良で実意のある男であった。町じゅうの誰彼なしに君僕の間柄である。誰彼なしに金を用立てる、療治をしてやる、婚礼の橋渡しをしてやる、喧嘩の仲裁をしてやる、ピクニックの音頭取りになって、羊肉の串焼きをする、とても旨い鯔のスープをこしらえる。年がら年じゅう誰かしらの面倒を見たり奔走してやったりしている。そしてしょっちゅう何かしら嬉しがっている。衆目の指すところ彼は非の打ちどころのない人間で、あるとしても弱点は二つしかない。一つは妙に自分の親切に羞れて、酷薄粗暴の風を装うこと。もう一つは、まだ五等官のくせに、助手や看護卒から一つ上の『閣下』という敬称をもって呼ばれたがること。

「ねえ、アレクサンドル・ダヴィードィチ、君はどう思うかね」と、このサモイレンコと並んで肩のあたりの深さまで来た時、ラエーフスキイが口を切った、「仮りにだよ、好きで一緒になった女があるとする。そこでまあその女と二年あまりも一緒に暮らしたあげくに、よくある図だが厭気がさして、縁もゆかりもない女に見えて来たとする。まあこうした場合に君ならどうするね。」

「至極簡単だね。さあ、どこへなりと出ておいで。――それだけの話だよ。」

「言うは易しさ。だがその女に出て行きどころがなかったらどうする。その女に身寄りも、金も、働く腕もないとしたら……。」

「なあに、そんなら五百ルーブリで綺麗さっぱりと行くか、さもなきゃ月二十五ルーブリの仕送りで行くか、それで文句なしさ。簡単至極だ。」

「よし、じゃその五百ルーブリがあるとする。乃至は月々二十五ルーブリ仕送れるとする。だがその女が教育のある気位の高い女だった場合、君はよもや金を突きつけるような真似はできまい。やるとしても、どういう具合にやるかね。」

サモイレンコが何か答えようとしたとき、大きな波が二人の頭上にかぶさって、やがて岸に砕けたかと思うと、小石の間をざわめきながら引いて行った。二人は岸へ上がって、着物を着はじめた。

「そりゃ、厭になった女と一緒にいるのは辛いものさ」と、サモイレンコが長靴の砂を振るい出しながら言った、「だがね、ーニャ、人情ということも忘れちゃいけないね。仮りに僕がそんなことになったとしたら、まあ厭になった素振りも見せずに、死ぬまで添い遂げるね。」

そこで急に自分の言ったことが気恥かしくなったと見え、

「だが僕に言わせりゃ、そもそも女なんか一人もいない方がいい、女なんか悪魔にさらわれろだ」と言い直した。

着物を着てしまうと、二人は茶亭へ行った。この茶亭をサモイレンコはわが家同様に心得て、茶碗などもちゃんと自用のが備えつけてある。毎朝彼に出る盆には、コーヒーが一杯、背の高い切籠のコップにアイスウォーターが一杯、コニャックが一杯ときまっていた。彼はまずコニャックをぐっとやり、それから熱いコーヒーを飲み、それからアイスウォーターを飲む。それがまたたまらなく旨いのであろう。そのあとではきまってとろんとした眼つきになって、両手で頬髯を撫で、じっと海に見入りながら言うのだった。

「じつに何ともいえぬ眺めだ。」

長い夏の夜を、益もない不愉快な考えごとのため、蒸暑さや夜の闇までが一しおに募る思いがして、殆ど眠れずに明かしたラエーフスキイは、気が滅入ってならなかった。水浴もコーヒーも気分を引立ててはくれなかった。

「ところでまた先刻の話だがね」と彼は言った、「君にはなにも隠しだてはしまい。親友としてすっかりぶちまけて聴いて貰うつもりだ。僕とナヂェージダ・フョードロヴナとの関係は愚劣だ。……じつに愚劣だ。つまらん私事を聴かせてすまない。だが僕はどうしても言わずにはいられないのだ。」

話の様子を察したサモイレンコは、眼を落すと、指さきでテーブルをコツコツいわせはじめた。

「僕はあの女と二年一緒に暮らして、今じゃ厭気がさしちまったんだ」とラエーフスキイは続けた、「いや、本当はこうだ、初めっから愛なんかなかったことが、やっと悟れたのさ。……この二年間の生活は欺瞞だったのだ。」

話をするときの癖で、ラエーフスキイは自分の薔薇色をした掌をじっと見る。爪を噛む、でなければカフスをいじくる。今もそれをやりながら、

「そりゃ君に助けて貰えないことぐらい、僕だってよく知っている。しかしね、僕たち不運な余計者というものは、こういう話でもさせて貰わなけりゃやりきれないんだよ。つまり自分のしたことをいちいち一般化して見ずにはいられない。自分の愚劣な生活に対する説明や弁護を、なにかの理論なり文学上の人物の型なりの中に求めずにはいられない。例えば、われわれ士族階級は頽廃しつつありといった具合にね。……現に昨夜も僕は、『ああ、トルストイの言うことは本当だ。実もって一言もない』といったことを夜どおし考えて、自ら慰めていたのさ。おかげで気が楽になったっけ。いや君、なんと言ったって大文豪だね。」

毎日読もう読もうと思いながら、まだトルストイを読んだことのないサモイレンコは、当惑して言うのだった。

「そう、誰もかれも想像で書く作家のなかで、彼だけは自然をそのままに写すね……。」

「ああ、ああ」とラエーフスキイは吐息をして、「一体僕たちは、どこまで文明に毒されているのだ! 僕は人妻に恋した。女も僕を恋した。……初めのうちは接吻だ、静かな宵だ、誓いだ、スペンサーだ、理想だ、社会の福祉だ……。なんという絵空ごとだ。正直のところは手を取り合って女の亭主から逃げ出したまでなのを、われわれ知識階級の生活的空虚から抜け出したのだなんて自分に嘘をついたのさ。僕たちの描いた未来の夢を聴かせようか――まずコーカサスへ行って、そこの土地と風習に馴れるまでは、とりあえず官服を着て勤める。やがて自由の身になって、そこばくの土地を買い入れ、額に汗して働く。葡萄を作る、畠を作る、それから……というわけだ。もしもこれが僕じゃなくって、君かそれともあの動物学者のフォン・コーレンだったら、ナヂェージダ・フョードロヴナと仲よく三十年も一緒に暮らしたあげくに、立派な葡萄畑や千町歩もある玉蜀黍の畑を子孫に遺しただろうよ。ところが僕は、そもそもの第一日から、ああおれは破滅だと思っちまったのさ。町にいればいるでたまらなく暑い、退屈だ、淋しい。畠へ出れば出るで、どこの藪蔭にも石の下にも百足だの蠍だの蛇だのがうじゃうじゃしている。さて畠の向うはといえば山と荒野だ。見たこともない人間たち、見たこともない自然、みじめきわまる生活程度――すべてこうしたことは、君、温い毛皮外套にくるまってナヂェージダ・フョードロヴナと手を組んで、ネフスキイ〔(ペテルブルグの広小路の名)〕の大通りをぶらつきながら、南の国を夢見るほどのんきなことじゃない。ここでは生きるか死ぬかの戦が必要なのだ。ところで僕は一体どんな戦士かね。憫れむべき神経衰弱患者だ、遊民だ。……そもそもの初日から僕は、せっかく考えていた勤労生活とか葡萄畑とかいうことは、鐚一文の値打もないことを了解したのだ。さて恋愛の方はどうかというと、スペンサーを読み、あなたの為なら世界の涯までもという女と一緒に暮らすのも、そんじょそこらのアンフィーサやアクーリナと一緒に暮らすのも、その索然味においてなんら択ぶところはないのさ。これは断言するよ。相も変らぬアイロンの匂い、白粉の匂い、色んな薬の匂い、来る朝も来る朝も例の捲髪紙、相も変らぬ自己欺瞞……。」

「アイロンなしじゃ主婦の務めはできまい」と、知合いの婦人のことをあまりラエーフスキイがずけずけ遣っつけるので、サモイレンコのほうが赤くなりながら言った、「ねえ、ーニャ、君は今日はどうかしてるぞ。ナヂェージダ・イーノヴナは教育のある立派な婦人だ。君はまた君で、非常な秀才だ。……なるほど正式に結婚をしていないには違いないが」と、あたりのテーブルを憚りながら、「しかしそれは君たちの罪じゃない。かつ……われわれは偏見を棄てて、現代の思潮の水準に立たなければならん。僕自身としては自由結婚の支持者だ、そうとも……だがね、僕に言わせると、一たびいっしょになった以上は、死ぬまで添いとげるべきだ。」

「愛がなくてもかい?」

「今言うから聴いていたまえ」とサモイレンコはつづけた、「八年ほど前のことだが、ここで嘱託をしていた老人があった。非常な秀才だったが、それが常に語って曰くさ、『夫婦生活に一番大切なものは忍耐だ』と。どうだね、ーニャ。愛じゃなくって忍耐なんだ。愛は永続するものではない。君にしてもだ、既に二年間の愛の生活を終って、今や明らかに君の家庭生活は、いわばまあ平衡を保って行くには全忍耐力を挙げて発動せしめなければならぬ、そうした時期にはいったわけさ。……」

「まあ君はその嘱託の老人を信じるさ。僕にとっちゃ、そんな忠言はまったくのたわ言だね。君のいうその老人なら、偽善がやれたかもしれない、忍耐の修行が出来たかも知れない。随ってまた愛してもいない人間を、自分の修行に欠くべからざる物品と看做しえたかもしれない。だが僕はまだそこまでは堕落していないね。忍耐修行がしたくなったら、僕なら唖鈴か荒馬を買う。人間を使う気はしないね。」

サモイレンコは氷を入れた白葡萄酒を命じた。それを一杯ずつ飲んだとき、ラエーフスキイがだしぬけに訊ねた。

「脳軟化症というのはどんな病気かね。」

「それは、さあ何と言ったらいいかな――つまり脳が軟くなる病気さ。……まあ溶け出すんだね。」

「癒るかね。」

「癒る、手遅れでさえなければ。冷灌水浴、発泡膏。……それから何か内服薬と。」

「ふむ。……これでもう僕の現状がわかってくれたろうね。僕はとてもあの女といっしょにはやって行けない。それは僕の力にあまる。こうして君と話しているうちは、僕もこのとおり哲学を並べて笑ってもいられるが、家へ帰ったら最後もう駄目だ。厭で厭でたまらないんだ。仮りに、どうしてももう一と月あの女と一緒にいろと言う人があったら、僕はいっそこの額へ一発やってしまうね。それでいて、あの女と別れるわけにも行かない。身寄りのない女だし、働く腕もないし、金と来たら僕にも彼女にも一文だってない。……一体あれにどこへ行けというのだ、誰にたよれというんだ。考えたって出てくるものか。……ええ、君、一体どうすればいいんだい。」

「ううむ」サモイレンコは返答に窮して唸った、「あの人のほうでは君を愛してるのか。」

「ああ、愛してる。あの年ごろ、またああいった気性の女として、男が必要な程度にはね。僕と別れるのは、白粉や捲髪紙と別れると同じくらいに辛いだろうよ。彼女にとって僕は、閨房に欠くべからざる構成分子なのだ。」

サモイレンコはすっかり度を失って、

「ーニャ、本当に君は今日はどうかしている。――睡眠不足なんだろう。」

「いかにも睡眠不足だ。……それどころか、からだ具合が全体に悪い。頭の中はがらん洞だ。圧さえつけられるような感じで、どうも気力がない。……このぶんじゃ逃げ出さなきゃなるまい。」

「どこへかね。」

「あっちへだ、北へだ。松林のあるところ、蕈の生えるところ、人間の住むところ、思想のあるところへさ。……ああ今、どこかモスク県かトゥーラ県かで、小川でぼちゃぼちゃやる、冷たくって顫えあがるね、それから一番びりっこの学生でもなんでもいい、そいつを相手に三時間ほど歩き廻わる、喋る、大いに喋りまくる――それが出来たら、命の半分ぐらいは投げ出しても惜しくはないね。……ああ、乾草の匂い。憶えてるかい? それから夕暮庭を歩いていると、庭の中から漏れてくるピアノの音。遠くで汽車の通る音がする。……」

ラエーフスキイは嬉しくなって笑い出した。その眼には涙さえ浮かんでいる。それを見せまいと、彼はマッチをとる風をして、隣のテーブルへと坐ったなりで身を伸ばした。

「僕はこれでもう十八年ロシヤを見ない」とサモイレンコが言った、「どんなだったか、すっかり忘れちまった。僕に言わせれば、このコーカサスほど結構なところはないね。」

「ヴェレシチャーギン〔(有名な画家。ブルガリヤ戦役、聖書などに取材した名画が多く、そのほか風景画や歴史画がある)〕の絵にこんなのがある。深い深い井戸の底で、死刑囚たちが悲歎に暮れているところだ。君のいう結構なコーカサスは、僕にはちょうどこの井戸のように見えるのだ。ペテルブルグに煙突掃除たらんか、はた又この地に王侯たらんかということになったら、僕は煙突掃除になるね。」

そのまま、ラエーフスキイは考え込んでしまった。その前屈みの体つき、じっと一点に凝らした眸、蒼白い汗ばんだ顔、落ち窩んだこめかみ、噛み耗らした爪、スリッパの踵の方が垂れ落ちて、靴下の不細工な繕いの跡を見せているあたりまで、サモイレンコはつくづくと眺めて、いかにも気の毒な気がした。ラエーフスキイの有様が寄辺ない孤児を聯想させたのだろう、彼はふと、

「君のお母さんは生きてるかね。」

と訊いてみた。

「ああ。だが義絶も同然だ。母は僕たちの関係を許してくれないんだ。」

サモイレンコはこの友達が好きだった。ラエーフスキイは善良愛すべき男だ、大学生だ、共に飲み、共に笑い、共に語るに足る好漢だ、と思っている。ただ、彼にわかる限りのラエーフスキイは、すこぶる気に入らぬ特徴を具えている。時を選ばずに大酒を飲む、カルタを打つ、勤めをおろそかにする、ぶんを越えた生活をする、話をするときしばしば下品な言い廻わしを使う、スリッパのままで街を歩く、人の前でナヂェージダ・フョードロヴナと喧嘩をする――こうしたことがサモイレンコの気に入らない。そのかわり、ラエーフスキイがかつて大学の文科にいたこと、今でも分厚な雑誌を二つも取っていること、めったな人にはわからぬようなむずかしい話をよくすること、教育のある婦人といっしょにいること――こうした反面は、サモイレンコにはさっぱりわからぬながらも気に入っていた。ラエーフスキイは自分より一だん上の人物だ、と思って尊敬していた。

「じつはもう一つ問題があるんだ」と、ラエーフスキイは頭を振りながら言った、「だがこれはここだけの話だよ。ナヂェージダにはまだ言わずにあるんだから、あれの前で喋って貰っちゃ困るよ。……おととい、あれの亭主が脳軟化症で死んだという手紙が来たんだ。」

「それはそれは」と、サモイレンコは吐息をついた、「で君は、なぜあの人に言わないんだ。」

「その手紙をあれに見せることは、つまり教会へ行って正式に結婚式を挙げることを意味するからね。それよりもまず、僕たちの関係をはっきりさせなければならん。もう二人はこれ以上いっしょにやっては行けんという得心があれにいったら、手紙を見せてやるつもりだ。そうなりゃ危険もないからね。」

「なあ、ーニャ」と言いかけて、急にサモイレンコは、なにか大事なたのみごとがあるのだが断わられはしまいかと気遣うような、悲しげな歎願するような顔つきになった、「なあ君、結婚しちまえよ。」

「なぜだ。」

「あの立派な婦人に対する君の義務を果たすのさ。あの人の夫は死んだ。つまりこれで、摂理の指し示すところがわかるはずだ。」

「妙な奴だな。それができんと言ってるじゃないか。愛のない結婚をするのは、信仰なくして礼拝するのと同じく、人間として恥ずべき卑劣な行為だ。」

「でも君には義務がある!」

「なぜ義務がある?」とラエーフスキイは詰め寄った。

「君はあの人を夫の手から奪ったじゃないか。それは責任を引受けたということだ。」

「だから僕は愛していないと、ロシヤ語ではっきり言っているのが聞こえないのか。」

「よし、愛せないなら尊敬したまえ、崇めたまえ。……」

「尊敬したまえ、崇めたまえか……」ラエーフスキイは口真似をして、「それじゃ彼女が尼院長みたいだな。……女といっしょにいて、崇拝と尊敬だけでやってゆけると思うんなら、君は憫笑すべき心理学者、また生理学者だ。女にまず要るものは寝台だ。」

「ーニャ、ーニャ」とまたサモイレンコはへどもどする。

「君は大きな子供だ。理論家だ、僕は若い老人だ、実際家だ。どうしたって合いっこはないさ。もうやめよう。おい、ムスターファ!」とラエーフスキイは大声でボオイを呼んで、「勘定。」

「いいよ、いいよ……」軍医は喫驚してラエーフスキイの腕をつかんだ、「これは僕が払う。僕が註文したんだから」とムスターファに向って「俺につけといてくれ。」

二人はそこを出ると、黙って海岸通りを歩いて行った。やがて遊歩路へ出る角で立ちどまって別れの握手をした。

「なあ君、君も悪くなったものだ」とサモイレンコは歎息した、「運命は君に贈るに、若く美しい教育ある婦人をもってした。それを君は要らないという。僕なら、よたよた婆さんを授かってもいい、ただ親切で、優しくしてくれさえすれば大いに満悦するね。わが葡萄畑のほとりに共に住んで……」

そこで急に気を変えて、

「いやなに、その婆さんにサモルでも立てて貰うさ。」

ラエーフスキイと別れたサモイレンコは遊歩路を歩いて行った。でっぷりした堂々たる体躯を雪白の軍服に包んで、きれいに磨き上げた長靴を穿き、結びリボンのついたヴラヂーミル勲章の輝く胸をぐっと張って、厳めしい顔つきで遊歩路を濶歩するとき、彼は大いに自ら満足を感ずるとともに、世間の人の眼にもさぞ自分が愉快に映るだろうと思うのだった。顔をまっすぐ前方に向けて、彼はあたりに眼を配って行きながら、この遊歩路の出来栄えは申しぶんがないと思い、まだ若い糸杉やユーカリや、体液不調だと見えて醜い棕櫚やを実に美しいと思い、今にだんだん大きな樹蔭を作るようになるだろうと思い、チェルケース人〔(コーカサス、クパーン河以西に名残りをとどめる一民族。正統派の回教を奉ずる)〕は正直で客好きな種族だなどと思うのだった。そして『このコーカサスがラエーフスキイの気に入らんとはおかしい、どうもおかしい』と考えた。銃をかついだ兵隊が五人、向うから来て敬礼して通る。遊歩路の右側の歩道を、役人の妻君が息子の中学生を連れて通る。

「お早う、マリヤ・コンスタンチーノヴナ」と、サモイレンコはにこにこして声をかける、「水浴でしたか、ハ、ハ、ハ。……ニコヂーム・アレクサンドルィチによろしく。」

そして、独りでにこにこしながら歩いて行く。やがて向うから軍医助手がやって来るのを見ると、急に眉をしかめて呼びとめて訊く。

「患者が来ておるか。」

「参っておりません、閣下。」

「なに。」

「参っておりません、閣下。」

「よし、行け。……」

威風堂々と体を揺すりながら、彼はレモナーデのスタンドへ足を向ける。一見グルジヤ女〔(外コーカサスに住むコーカサス族の一)〕とも見まがう満々たる胸をしたユダヤ婆さんが、台の向うに坐っている。その婆さんに、彼は三軍を叱するような声で言う。

「君、ソーダ水を一杯たのむ!」

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