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六号室
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六号室
アントン・チェーホフ
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 19

(二)

今から大凡十三四年以前、この町の一番の大通に、自分の家を所有っていたグロモフと云う、容貌の立派な、金満の官吏があって、家にはセルゲイ及びイワンと云う二人の息子もある。所が、長子のセルゲイは丁度大学の四年級になってから、急性の肺病に罹り死亡してしまう。これよりグロモフの家には、不幸が引続いて来てセルゲイの葬式の終んだ一週間目、父のグロモフは詐欺と、浪費との件を以て裁判に渡され、間もなく監獄の病院でチブスに罹って死亡してしまった。で、その家と総の什具とは、棄売に払われて、イワン、デミトリチとその母親とは遂に無一物の身となった。

父の存命中には、イワン、デミトリチは大学修業の為にペテルブルグに住んで、月々六七十円ずつも仕送され、何不自由なく暮していたものが、忽にして生活は一変し、朝から晩まで、安値の報酬で学科を教授するとか、筆耕をするとかと、奔走をしたが、それでも食うや食わずの儚なき境涯。僅な収入は母の給養にも供せねばならず、彼は遂にこの生活には堪え切れず、断然大学を去って、古郷に帰った。そうして程なく或人の世話で郡立学校の教師となったが、それも暫時、同僚とは折合わず、生徒とは親眤まず、ここをもまた辞してしまう。その中に母親は死ぬ。彼は半年も無職で徘徊してただパンと、水とで生命を繋いでいたのであるが、その後裁判所の警吏となり、病を以て後にこの職を辞するまでは、ここに務を取っていたのであった。

彼は学生時代の壮年の頃でも、生得余り壮健な身体では無かった。顔色は蒼白く、姿は瘠せて、しょっちゅう風邪を引き易い、少食で落々眠られぬ質、一杯の酒にも眼が廻り、ままヒステリーが起るのである。人と交際することは彼は至って好んでいたが、その神経質な、刺激され易い性質なるが故に、自ら務めて誰とも交際せず、随てまた親友をも持たぬ。町の人々のことは彼はいつも軽蔑して、無教育の徒、禽獣的生活と罵って、テノルの高声で燥立っている。彼が物を言うのは憤懣の色を以てせざれば、欣喜の色を以て、何事も熱心に言うのである。で、その言う所は終に一つことに帰してしまう。町で生活するのは好ましく無い。社会には高尚なる興味が無い。社会は瞹眛な、無意味な生活を為している。圧制、偽善、醜行を逞うして、以ってこれを紛らしている。ここにおいてか奸物共は衣食に飽き、正義の人は衣食に窮する。廉直なる方針を取る地方の新聞紙、芝居、学校、公会演説、教育ある人間の団結、これらは皆必要欠ぐ可からざるものである。また社会自ら悟って驚くようにしなければならぬとかなどとのことで。彼はその眼中に社会の人々をただ二種に区別している、義者と、不義者と、そうして婦人のこと、恋愛のことに就いては、いつも自ら深く感じ入って説くのであるが、さて自身にはいまだ一度も恋愛ちょうものを味うたことは無いので。

彼はかくも神経質で、その議論は過激であったが、町の人々はそれにも拘らず彼を愛して、ワアニア、と愛嬌を以て呼んでいた。彼が天性の柔しいのと、人に親切なのと、礼儀のあるのと、品行の方正なのと、着古したフロックコート、病人らしい様子、家庭の不遇、これらは皆総て人々に温き同情を引起さしめたのであった。また一面には彼は立派な教育を受け、博学多識で、何んでも知っていると町の人は言うている位。で、彼はこの町の活きた字引とせられていた。

彼は非常に読書を好んで、しばしば倶楽部に行っては、神経的に髭を捻りながら、雑誌や書物を手当次第に剥いでいる、読んでいるのではなく咀み間合わぬので鵜呑にしていると云うような塩梅。読書は彼の病的の習慣で、何んでも凡そ手に触れた所の物は、それがよし去年の古新聞であろうが、暦であろうが、一様に饑えたる者のように、きっと手に取って見るのである。家にいる時もいつも横になっては、やはり、書見に耽けっている。

Chapter 2 of 19
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