Chapter 4 of 12
白老での彼の仕事ぶり
白老の町は、むかし白老村といわれていた当時から、平取、近文などの地と同様に、アイヌ部落があることによって知られていた。
明治22年には、コタン旧土人の給与地として、現在の土人部落付近を指定して、ウヨロ、ブウベツの地から70余戸を移住させ、大正11年3月の高橋氏の着任当時には、総勢800人ほどのアイヌによって部落は形成されていた。アイヌにとって、まさに宿命ともいうべき結核をはじめ、眼疾、内臓疾患、その他悪性の病気がおおく、滅びゆく民族としての哀歓を、白老の空いっぱいにただよわせていたのだが、氏は昔ながらの因習にとらわれている一人一人の患者を、根気よく説得し治療した。
患者の診察にあたっては、いつでも温かく、例えば、とかく医者を業とする人達の中に、私事にふけって長々と患者をまたせたり、急患往診を場合によっては(相手にもより、時間にもよるが)渋ったり、あげくのはてには断るという、我がままな人がおおいようだが、高橋氏は、ただの一度も患者を落胆させたことはなく、どうせ行かなくてはならないのだし、行くからには一分一秒でも早く出かけて、患者をよろこばしてやろうと、病床に苦吟し、高橋氏の到来を待ちかねる患者の身になって終始した。
真暗闇の山道を、手さぐりで往診にでかけたこともあるし、三里も四里もの山奥に、気軽に自転車で出かけることもあった。汽車に乗って、わざわざ数駅も先に往診に出かけるなど全く普通のことである。高橋氏が、白老に住みついたから10年後の昭和7年には部落民全員が一堂に会し、時計をおくって氏の篤行に感謝した。