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雑居家族
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壺井栄
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 4 of 11

柚の大馬鹿

世帯主 栗本文吉

同居人 小森安江

同   長坂音枝

同   川井冬太郎

一枚の板にならべて書いて玄関の格子戸の上に打ちつけたのはまだ戦争の終らぬころだった。おかみの命令だったか、町会の取りきめだったか忘れたが、とにかく、心のとびらのその奥はさておいてでも、一応はみんな裸になることを要求されて、同じ部屋の下の頭数だけはさらしておかねばならなかったのだ。この四人が四人とも姓のちがった表札を、他人はどうか知らぬが、安江夫婦はおもしろがってながめたこともあった。

「まるで下宿屋だね。」

文吉がそういうと、安江は安江で、ある感慨をこめて、

「判こ一つのせいよ。私たちルーズなのね。とにかく私たちだけは同じ姓にもなれるのにさ。」

「ま、いいさ。事実が証明する。」

「でも判こ一つだってバカにはできないわ。なにしろ二十年近くも一しょにくらす夫婦も、おしめから育てた親子も、みな同居人なんだもの。まだ私はいいわよ。内縁の妻とか何とかいえるけどさ、音枝なんかときたらあんた、まるで見向きもしない長坂なんてロクでもない男がさ、厳然たる親としてどっかに実在するのよ。――もどしてくれったらどうする?」

「大岡裁判だ、そしたら。」

「冗談じゃないわ。――でも、長坂幸一なんてどうしてるかしら。」

「兵六さんに聞きゃあわかろうがね。」

「聞く必要もないけど、もしかしたら音枝は聞きたいかもしれないと思わない。」

「思わないね。」

「そうね、思わないわ、私も。」

「それでいいよ。」

「いいわよ、ほんとに。長坂だの、鷲兵六だのって男は、私たちのつきあいの範囲の人じゃないわね。会えばこっちまでげすになる。」

しかし安江にはある一つの不安に似た思いがあった。いつか有楽町のホームでひょっこり出会った兵六さんから、長坂のうわさを聞いたのである。さすがになつかしそうに音枝のことをたずねたあと、

「長坂の方は不幸つづきでね。むすこは少年航空兵で戦死するし、嫁は肺病になるし、家は焼かれるし、あんじょうワヤじゃ。ばちがあたったともいえないしな。」

あわただしくゆきかう人々に肩や背中を小突きまわされながら、それだけ聞いただけで安江のからだは電車の中に押しこまれていた。兵六さんはもうみえなかった。

終戦翌年の、それは新緑のころだった。時代の風潮でやたら胸をはり、のけぞって歩く人間がふえた中で、安江たちもまた彼女たちなりの希望にもえ、時には若やいだ気持で夫婦つれだって出かけたりした。その日も、ふたりそろって属している文学団体の集会があって、夜おそくわが家へ帰った安江は、音枝が町の青年たちの集会から戻ってくるときの、あのはりのある声をまねて、玄関をあけるなり、

「ただーいまっ。」

大声で呼びかけると、留守番の音枝がとび出してきて、にこにこしながら、

「お帰んなさい。きょうは、いいものがあってよ。」

「何だ。食うものだろう。」

文吉の方がすぐとびついていった。安江も笑いながら、

「当てようか。あたったらおかあさんに特配するね。」

「当りっこないわ。」

音枝はにやにやしながらすぐ台所へゆき、ガスにやかんをのせている。

「と、おっしゃるところをみると、うどん粉やなんかではなさそうだね。もっと高級品かな。ケーキでも手に入りましたか。」

帯をときながら安江もきげんがよい。音枝はそれをわざとじらすように、

「ま、おとなしくお茶がわくのを待った方がいいわ。当ったら特配のかわり、当らなかったら配給停止ですからね。」

「おやおや。よっぽどいいものらしいね。」

「そうよ。おとうさんがにくらしいほど。」

「え、なんだって?」

ちゃぶ台の前にあぐらをかいている文吉がにやにやしだすのへ、音枝はわざとぴしっとした声で、

「おとうさん、いっときますがね、男女同権ですよ。平等分配よ。その上で、いろいろやりくりしましょうね。ゆびきり。」

こいつめ! といいながら文吉は一たん出した小ゆびをまた引っこめ、

「よし、おとうさんがあてようか。タバコだろう。」

「お見当ちーがい! タバコでお茶がのめますか。さ、大急ぎで取消さないと配給停止よ。」

ちぇっ! と再び小ゆびを突き出すのへ、音枝はきゃっきゃっと笑いながらじぶんの小ゆびをからめ、

「ああ、ああ、やっと思うつぼだわ。冬太郎とふたりで知恵をしぼったのよ。冬坊、とうとう待ちきれないで眠っちゃったけど。」

お茶のしたくを安江に回しておいて、音枝はおもむろにきょうの獲物らしい紙包をもち出してきてちゃぶ台の上においた。

「ね、だれが持ってきてくれたと思う。」

まだじらそうとする音枝に、安江は少しかんを立て、

「だれだっていいよ、もう。さっさと配給しなさい。」

「はい。」

包みをひざの上にのせて、音枝はしかつめらしく、

「まず、これよ。あとはあとのおたのしみ。」

出てきたのはもうすでに口を切った干パンの袋だった。

「なんだ、もっと高級品かと思ったら。」

さっそくつまんで口に入れる文吉へ、

「だってこれ、ただよ。買ったんじゃないのよ。そう思うとうれしいでしょう。それに、まだあとがあるんですからね。」

「さっさと出しなさい。」

ふきげんにいいながら、安江もそのかたい干パンを口に入れ、かりかり音を立てた。ゆっくりかみしめると奥の方からうまさがわいてくる干パンであったが、こんなものにうきうきしている音枝に妙ないらだたしさを感じて、だれにもらったかなど、金輪際きくまいと思ったりした。そんなこととも気づかぬらしい音枝は、

「じゃあ配給はじめます。ちょうど割りきれるのよ。ハイおとうさん、ハイおかあさん、こっちはわたしと冬太郎。ハイおとうさん、ハイおかあさん、こっちはわたしと冬太郎。」

と、自分たちのは自分のひざにおいた。配られたのは軍手と軍足のかた方ずつだ。

「なんだ、こりぁ。」

文吉が笑いながら軍手のかた方をつまみあげるのへ、

「軍手ですよ。だって二足ずつもらったでしょ。四人じゃかたっぽずつしか当らないわよ。だから私たち相談の結果交換したの。冬太郎は軍足なの。私は軍手。おとうさんだって、おかあさんと交換すればいい。ただね、あとが問題なのよ。これ!」

と、かた手にもってさし示したのは外国タバコだった。箱の表の赤い丸が輝いてみえた。

「なんだ、やっぱりタバコじゃないか。」

音枝は目の色かえる文吉からいち早くうしろにかくし、

「ね、私と冬太郎の当り分のタバコ、とりかえてくれないおとうさん。指一本とタバコ一本とよ。だけど私は軍足よりか、おとうさんの大事な毛のくつしたの方をにらんでるのよ。冬太郎はね、軍足でいいんだって。私が毛のくつしたをもらうことによって、おかあさんに軍手が一組当る勘定になるのよ。少し損だけど、母の名においてがまんしてもらうことにしたの。」

音枝のおしゃべりでいつかきげんがなおっていた安江は、

「ところで、いったい、その奇特なお方はだれだい?」

「それがね。」

音枝はにやっとして左手をふりながら、

「ギッチョのおじさんよ。」

安江は思わずまゆ根をよせ、

「兵六さん?」

いつか有楽町のホームで出あったときの長坂のうわさが急に思い出された。それを音枝には話さなかったのだ。しかしそのことについて音枝はなにも聞かなかったらしい。かげりのない顔つきで、

「兵六おじさんて、愉快ね。二号さんがいるんだって。大自慢なの。お金がもうかってしようがないんだってよ。」

「へえ。やっぱり、電気の方でかい。」

「んんーん。もっぱらこんなものらしいわ。」

と、音枝は干パンを一つ口にほうりこんで、

「こんなのうんと持ってるんだってよ。大きな食糧倉庫に一ぱいつまってるんだって。」

文吉が笑いだし、もったいなそうに吸いさしの外国タバコの火を消しながら、

「兵六さん、相変らず話だけは大きいね。どこの倉庫か、はっきり聞いたかい。」

「そうよ。音枝はまたバカっつらして、木に餅がなるような話ばっかり聞かされたんだろ。」

音枝は少しむっとして、

「ひどいわ。おとうさんたら、もうそのタバコすってるくせしてさ。みんなただでくれたのよ。今時ただでくれるなんて、相当だと思うわ。」

そのしんけんさに安江はふとおかしくなり、

「ま、無理もないよね。かあさんだって、さっきはちょっとうれしかったものね。」

すると音枝はたちまちいい気になり、

「ね、半値で卸してあげるから、私にも商売しろっていうのよ。」

「え、やみ屋になれってかい? お前、いい気になって承知したんだろ。」

安江の、こんどは許すまじい様子に、音枝はさすがにあかくなり、

「ことわったわよ。ただ、冬坊の方は乗気だったわ。『魅力』だってよ。」

「あきれたねまったく。戦争中はゆう久の大義に生きるなんて小学生のくせに悲壮がったりしてさ、中学生の今はやみ屋に魅力だって。兵六さんも兵六さんだよ。子供つかまえてさ。」

「じょうだんだよ、おかあさん。冬坊にやれるもんですか。――それよか、もっと別の話もあったけど、おかあさんおこるからやめる。」

「そこまでいってやめるヤツがあるかい。」

「ヤツなんて、失礼ね。――でもこれは、もしかしたらおかあさんも『魅力』よ。」

「…………」

「へやを貸せって。三畳でも米代ぐらいにはなるってよ。」

「大きにお世話だよ。まったく、兵六さんがくると、ろくなことが起らないんだから。」

安江はぷりぷりした。

そしてその翌日――。

「ごめんください――」

安江が出てゆくと、見知らぬ少年が立っていた。十七か、よくいって八ぐらいに見える。

「ぼく、斎木です。」

にこにことして頭をさげる。安江はけげんな顔をして、

「斎木さんて、あの、失礼ですがどなたでしたかしら。」

すると、今度は斎木という少年の方がけげんな顔をし、

「ぼく、高松の斎木進です。」

「ああ、高松の――」

とはいったものの、安江に心当りがあったわけではない。ただ小豆島とのつながりで高松を身近に感じたまでで、目の前に立っている少年との関係をさぐりだそうと、とっさの努力をしていた。少年はかたくなって、腰の手ぬぐいをとってはしきりと額の汗をふき、また腰にはさませながら、だまって安江の言葉をまっている様子だった。

「で、何か?……」

「はい、このたびは、お世話になります。」

ぴょこんと頭をさげて、また腰の手ぬぐいをつかんでいる。可愛らしい少年だった。

「お世話って、どういう意味なんですの。おっしゃること、よくわからないんですけど。」

少年はびっくりした目をして、

「あの、あの、部屋のことなんですが、鷲さんという方の御紹介で――」

「ああ。――まあ、そうですか。でもね、そんなお話うかがったのはきのうのことで、承知したわけではないんですよ。――鷲さんも気の早い。とにかく、きのうわたしの留守へきて娘にそんな話をしたようですがね。でもお約束したわけじゃないんですもの。せっかくでしたけど、どっかほかでさがしてくださいな。」

斎木少年は見る見る困った顔になり、

「ぼく、そこへもう荷物もってきたんです。」

そういわれてみれば、ふとんをつんだリヤカーのかげが玄関の外に見える。おどろきあきれる安江の前へ、少年はむき出しのままくしゃくしゃになった便箋をさし出した。近々お目にかかってくわしく話すから、とにかくよろしくたのむというかんたんな手紙で、余白に道順と地図をかいてある。

「困りましたね。よろしくといわれても、困るんですよ。あなたには悪いけど、かえってくださいな。」

「ぼく、ゆくとこないんです。」

くしゅんとなって泣きそうな顔をする。結局兵六さんとの話合いがつくまでということで荷物を入れさせた。完全に安江の負けである。彼女は音枝にあたりちらした。

「お前がふわふわといいかげんなこといったんだろ! 干パンぐらいに目がくれてさ!」

兵六さんはなかなかやってこなかった。

「おっつけられるよ、また。」

文吉が大っぴらに顔をしかめる。

「押しつけられたりしないわよ、ぜったいに。だからわたし、はじめっからあの子にいったのよ。鷲さんがくれば引あげてもらうから荷物ひろげないでくださいって。そこらへなべかまをならべられたら、権利みたいなもの与えることになりますからね。でも、夜具だけは仕方がなかったわ。おばさん、ふとんどないしましょうって聞かれると、まさかふとんなしでいすの上にねてくださいともいえないでしょ。」

斎木少年にあてがった部屋は玄関わきの応接間の四畳半だった。そこならドアをしめれば一応の隔てが出来、こちらの声もきこえないはずだった。安江はすぐいいわたした。

「わたしのとこは鷲さんのようにやみで米が買える身分じゃないんですの。薄情なようですけど、食事は外でしてくださいね。外食券、もってらっしゃる?」

そんなぐあいで、こうした場合としてはうまく運んだとわれながら安江は感心していた。ところが三日たっても、五日すぎても兵六さんは姿を見せない。そしてある日、音枝は斎木少年に聞いたといって報告した。

「おかあさん、鷲のおじさん、部屋の権利金とったんだってよ。」

「ええっ、うちの部屋のかい。」

「そうよ。三千円もとったんだってよ。」

安江はまっかな顔で立ちあがった。斎木少年にただそうと思ったのだ。

「斎木さん、出かけたわ。鷲さんにかけあってくるって。」

「まったく、どういうんだろうね、兵六さんて人は。――だけど、おとうさんには権利金のこと、解決するまでだまってようね。ややこしくなるからさ。おとうさんたら、まるでわたしがひとり決めで引受けでもしたようにいうんだもの。そうだろ、あの時もしもわたしが留守でおとうさんが応対したとしても、やっぱり同じ結果になってるわよ。これというのも、音枝がこないだ甘い顔をしたからだよ。ほんとうにお前、部屋貸すなんてあの時いわなかったね。兵六さんがきたとき、とっちめるのに困るからね。本当のこといっとくれよ。」

「ほんとですよ。いやだわ、そんなに信用してもらえないの。」

「だって、あの晩、お前相当うれしがっててさ、兵六さんに好意的だったもの。」

「そりゃあ、あの日はそうだったわよ。でもそれは、わたしだけじゃなかったわ。」

「困ったね、ほんとに。あんなもので釣りにきたんだよ。いつだって、見くびってるんだから。」

まだ花などなかった時なので、安江はぷりぷりして当り場に困った。

不幸はくりかえすといわれるが、不幸とはいえなくても、同じひとりの人間の生涯に同じようなことは、ふしぎとくりかえすものらしい。安江の家に夏樹という赤ん坊がやってきたのは斎木少年がきて一か月目ぐらいの時である。戦時中に安江たちが仲人で結婚した若いふうふが、ふたりとも肺病で寝こんでいるのを見かねて、あずかった子供だった。ひやけなすびのようにしぼんだ、あおい顔の赤ん坊は、たれの目にも末ながくそだつとは思えなかった。安江たちにしろ、そんなことよりも、目の前の、足下の、たった今の、その問題を解決するようなつもりで、連れて帰ったのである。万一の場合、若い両親にかわって最後のみとりをしてやろうと、口には出さぬが、ひそかな思いはそこにあったのだ。やむを得ず居すわりの形になった斎木少年に留守をたのんで、その日音枝とふたりで赤ん坊をつれにいった安江が、三人になって帰宅すると、思いがけない兵六さんがきて、待っていた。思いがけないというよりも、日がな毎日、きょうはきょうはと待たされて、待ちくたびれて、憤慨しながらあきらめかけていたところへ、彼はまるで、おりを得たような顔つきをして現れたのである。鳴っていた腕っぷしもなえようというものだ。その虚をつきでもするように、兵六さんはいんぎんに両手をつき、

「どうもどうも。つい心やすだてにご無礼いたしました。」

むっとしている安江に、兵六さんは立てつづけて、

「進君から話を聞きましてな、今、あんたの物語を一席していたとこですよ。お安さんという人は、昔から実にできた人だといってね。」

「おだてるのね、相変らず。」

「いやあ、ほんとですよ。わしは、実に何というか、ここの家との妙ないんねんにおどろいとるところですよ。音枝ちゃんはこりゃ、当り前だけどもさ、冬太郎くんでしょう、そしてきょうでしょう。ここの家へ赤ん坊が来た日には、必ずわしが、まるで立会人かなんぞのように三度が三度、ここへ来る回りあわせになる――」

「そういえば、そうだわ。あら、変ね。ふしぎね。三度が三度なんて、なんでしょう。奇縁ていうのかしら。」

恨みがましさも忘れて安江はつい許す気になり、

「でも、進君のはひどいわよ鷲さん、進君には悪いけどさ、困るのよ。文吉、おこってるわよ。」

「そういわれるとどうも。しかし、これも同郷のよしみに、かんべんしてくださいよ。その代り、赤ん坊のミルクでもなんでも、これからもってきますよ。文吉さんに一つとりなしてくださいよ。」

そしてほんとにそのあとしばらく、兵六さんはせっせとミルクを運んできてくれた。

しかし、まもなく食糧統制違反で新聞にも出るなどやみ屋なりのはなやかさでうわさにのぼるようになって以来、兵六さんの足はだんだん遠のき、やがてぱったり来なくなってしまった。

「警察につかまったりして、はずかしいのかしら。」

音枝がそういうと、文吉は文吉で、

「警察にあげられるったって、それほどのやみ屋じゃあるまい。おれはそう見てる。大きそうなこといっても兵六さん、せいぜいかつぎやぐらいのやみ屋だよ。だって、二千円ぐらいの金を、かしてくれっていったもんな。」

「それ、かしたの?」

安江が顔色をかえる。

「かしたさ。お前の姉婿だった人だと思ったからさ。」

「かえしてくれた?」

「二百円だけね。利子の前払いだっていってさ、その場で差し引いてくれたよ。」

「あきれた。あんたそんなお金、どこにあったの。」

「たもとの底にあったよ。」

にやっとする文吉に、安江はくってかかる調子で、

「いやだわ。男のくせにへそくりなんて。――そのお金、もうもどってなんかこないわよ。わたしに相談もしないでさ……」

とはいっても安江だって斎木少年のへやの権利金のことはいまだに夫にかくしている。とはいえそれは、こうして斎木少年が居ついた以上当然払ってもらうべき性質のものをもらっていないだけのことで、直接ふところなり、たもとの底から出されたものではない。それを彼女は、文吉の手前、もらったようにいってしまったのだ。それはまた半分は、進君と呼び方もきまって一しょに住むことになった以上、夫と進君との間を円滑にしてゆきたい安江の気弱さでもあった。そういう事情をさとった兵六さんはうまくそれを利用し、文吉のいる前ではミルク代も大っぴらにうけとりながら、恩きせがましいことまでいったものだ。

――わたしの手にはいる元価ですからな。わたしは一文ももうけちゃあいませんよ。ええ、びた一文だって、ここの家からもうけようとは思っちゃいないんです……

しかし兵六さんが来なくなってみての安江のむな算用では、どうやら文吉のへそくり分ぐらい引っかかったことになる。だが文吉は文吉で別のむな算用をしていた。

――進君の権利金とさし引すれば、とんとんさ……

彼は安江には二千円といったが、ほんとは三千円を兵六さんに出していたのだった。

さっぱりと思いあきらめると、あまり苦にしないのが安江のたちである。毎日の忙がしさも彼女の頭から兵六さんを追い出していることが多い。しかし、夏樹をかかえて主婦代りの音枝は、進君をとおして毎日のように兵六さんのうわさを聞いていた。それをあんばいして安江に告げるのである。

「おかあさん、進君のうちね、ずい分たくさん兵六おじさんにお金預けたんだってよ。」

「へえ、でもそんなこと、わたしの知ったこっちゃないよ。」

「そりゃそうよ。でも、かわいそうみたいよ。それ、進君の何年間かの生活費なんですって。月々わたしてもらう約束なのにさ、兵六おじさん、なかなかくれないらしいわ。」

「そんなこと、わたしが聞いてもしようがないじゃないか。」

「ごめん。」

音枝は素直に引きさがるのだが、やがてまた安江の顔色をうかがうようにして、

「ね、おかあさん、進君が五百円かしてくれっていってんだけど。兵六おじさん、何べん行ってもあえないんですって。」

「そのしりぬぐいまでわたしがするの?」

「…………」

「あんまり、甘く見られなさんな。権利金なんてどうでもいいけどさ、部屋代だって一度ももらってないんだよ。」

音枝にはぽんぽんいうくせに、当の進君が頭を下げると、安江は柔和な顔で五百円をわたしながら、

「あんたも困ってでしょうけどね、わたしんとこも困るのよ。お金のことより、部屋のことよ。早く鷲さんに相談して、さがしてくださいね。」

「そう思うていますけど、鷲さんになかなかあえんのです。ぼく、ここのところ、毎日のように行ってるんです。きょうもこれから出かけるところです。きょうは泊りこんででもあってくるつもりです。」

今時の若い人に珍らしく、両手をついての切口上を聞くと、安江はつい慰めずにいられなくなり、

「ま、ここまできて日ぎりはしませんけどね、ことしうちぐらいには、さがしてくださいね。」

しかし内心はおだやかでなかった。心と口先が一つでない自分にも気がついて腹を立てていたからだ。音枝がまたやってきて、

「おかあさん、進君の配給米、どうしましょう。」

「どうしましょうって、どうするのさ。」

「ここんとこ、ずっと立てかえなの。ちっとも払ってくれないんですもの。」

安江はおもわずどなりつけた。

「辛気くさい娘だね。そんなこと聞きともないよ!」

それなのに音枝はまたやってくる。こんどは音枝の方が辛気くさそうな顔をして、机に向っている安江に思わずペンをおかせた。

「おかあさん、兵六おじさんち、引っこしてるってよ。」

「なんだって。」

居ずまいを直す安江に、音枝はたたみかける。

「引っこし先も、わかんないってよ。進君泣いてるのよ。」

「…………」

「かわいそうよ。うちの責任じゃないけどさ、ちょっと、なんとかいってあげてよ。」

「わたしがなんとかいったって、どうなるもんじゃないよ。」

しかしほってもおけない気になった。応接間であった進君の部屋をのぞくと、長椅子にひっくりかえっていた彼の目は赤かった。おどろいてとび起きる彼と向いあった安江は、つとめて気やすく話しかけた。

「鷲さんち、引っこしたんですって?」

「はい。」

「あんた、あんなにせきせき行っていて、全然気がつかなかったの?」

「はい。――もうあとに別の人が移ってきていました。その人が、家、買ったんだそうです。」

「あきれたわねえ。――でも、そのうち通知がきますよ。それ、待ちましょうよ。おたがいに同郷で結ばれた間がらですもの、素知らぬ顔してるわけにはいかないんですからね。」

だが鷲兵六からは、なかなか移転通知が来ず、七年たってしまった。七年目に、ながのごぶさたのわびとともに居どころをしらせてきたのは、ごく最近である。不思議なことに、安江の家の家族がひとりふえていた。浜子だ。安江は感きわまった声でそのハガキから目をはなさずに、

「田端だって。脇村方っていうんだから、へや借りなんだろうね。しかし、まったく妙な話だわ。あの人が現れるとうちの家族に異動があるのね。縁もゆかりもない浜ちゃんにまで、たとえハガキにしろ、ちゃんとくるじゃないの。気味が悪いね。」

「二三ちゃんなんて、どうしてるんでしょうね。」

と、音枝は娘らしくそれも気になるらしい。

「しゃきしゃきしてたから、もう結婚でもしたろうよ。もしかしたら、その婿さんかもしれないよ、この脇村ってのは。ま、こうしてたよりがあったんだから、今に現れるよ。」

そして、案の定現れた兵六さんは、尾羽うちからした姿で、しかも今度は自分自身を持ちこんできた様子だった。もう居まいと思ったらしい進君がまだいたことで、彼は頭をかかえた。

しかし一応のいいわけをし、頭をさげたあとは、もうけろっとして、人をくったことをいう兵六さんだった。彼はまるで、多少とも引き立ててやった後輩にでもいうような口調で、

「じゃあなにかね、斎木さんはまだ卒業できないんかね。」

それには答えず、苦笑している進君に代って安江は、

「何いってんですか兵六さん。あんたが罪なことをしたからさ。進君、泣いたんですよあのとき。安全だと思って預けた学資を全部あんたに持逃げされてさ。」

「はあ。」

と、手ごたえのない兵六さんに安江はたてつづけて、

「はあじゃないですよ。進君の家でも、あれは、あとが続かないお金だったそうですよ。だからかわいそうに、進君アルバイトばっかりして、人が一年のところを二年がかりなのよ。」

「じゃあ、落第ってことですかい。」

「そうですとも。今更恨むのも時効にかかってるみたいで、進君だってもうあきらめてはいましょうけどさ、あんたに少しでも何とかできるなら、何とかしてあげてくださいよ。」

「そういうわけで……」

安江はそのとぼけた様子をみるとはがゆさとおかしさで、口が軽くなるのを感じながら、

「まったくそういうわけですよ鷲さん。わたしんとこだって、あんたのおかげで、あれからずっと、部屋代無料奉仕ですからね。恩にきせるわけではありませんがね、そういうわけですよ。」

安江は夏樹の年齢を思いうかべ、

「あれから、足かけ八年ですもの。」

と、八年に力を入れていった。だからこの上泊りこむなどとはいわないでほしいという思いをこめたのだったが、兵六さんはそうはとらないで、別の思いにつないだ。

「八年になるかいな、ほんに。八年たちゃあかきの木も実がなるというのに、あれから、わしは、することなすこと、みーんなはずれてしもてなあ。」

ほうっと大息をつくのをみると、安江は気の毒になって、

「でも、柚は九年の花ざかりっていうじゃないの。元気出しなさいよ。来年は花が咲くかもしれん。」

すると兵六さんは大きくかぶりをふり、

「いーや。柚の大馬鹿十八年ともいうじゃないか。わしゃあもう、そうは生きられんでなあ。」

兵六さんの声はふるえ、頬を大粒の涙が走った。

Chapter 4 of 11
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