茶の間日記
――米を買う。五升、七百五十円なり。
ゆうべのことである。夕食のあとかたづけをしていた音枝は、びっくりしてふりかえった。突然進君にささやかれたからである。
「おねがいします――」
水道の音ではいってこられたことさえ気がつかなかった音枝は、一種のきまり悪さで赤くなり、思わず身がまえながら、
「なんです。猫のように――」
進君は耳のうしろをかきながら、
「すみません。おねがいがあるんです。」
「わたしに?」
わざと大きな声を出すと、彼は安江の部屋に気をおく様子で、また耳のうしろに手をやり、
「米、買ってください。」
小ずるい顔で笑う。音枝はそれを、これまでにもよくあった、彼の配給米を、代金立替でとっておいてくれという意味にとり、たとえ四日分にしろ今日きたばかりじゃないかという顔をした。しかもつい今のさき、彼の帰ったのをみて部屋へとどけたばかりだ。ところがよく聞くと、彼はその米を買いとってくれといっているのだ。
「買うも買わないもあんた、いらなきゃうちでとりますよ。どうせやみ米買うんだから。」
音枝にすれば、すむもすまないもない。袋も代金も立替なのだから、いらなきゃそのままもってくればよいと思う。ところが進君の考えは、大分ちがっている。彼はまた耳のうしろをかきかき、
「あのう、わるいんですけど、その、やみ値で買ってください。おねがいします。」
困ってるんだなと察した音枝は、しかし一キロの米をやみ値にして、こっちの立替分をさしひけば彼のもうけはたばこ一つにもやっとなのに気がつき、かわいそうに思って、
「進さん、百円位なら貸してあげますよ。お米もとっときなさいよ。」
ところが更に進君は思いがけないことをいった。買ってもらいたい米は五升だというのだ。最近彼は、週二回の家庭教師の口が二つになり、それで七日の中四日はそこで夕食をごちそうになるから、米はだんだんたまる一方だという。それにしても、みみっちいとひそかに思いながら、彼の貧しさも知っているので、米がくるならと、彼女はひとりぎめで七百五十円を渡した。やみねなりの正値だった。進君はにこにこして、
「すみません。たすかりました。じゃあ、もってきます。」
だが米はきょうの一キロだけだった。
「あら、ひどい。これ、五升?」
思わず大きな声を出した。
音枝のなじる口調に、さすがの進君も赤くなり、またまた、耳のうしろをはげしくかいた。音枝は半分のおかしさに、甘く見られた腹立ちをも適度にこめて、
「どうしたの、これが五升?」
「いえ、ぼく、これからの配給でとってもらおうと思って。」
「じゃあ、はじめっからはっきりいいなさいよ。」
「いったつもりですけど。」
「聞きませんよ。」
「じゃあ、この一キロ分だけにして、百円おかりしましょうか。」
「いいわよ。苦学生のあんたから、もうとりかえせないわ。――どうも話がよすぎると思った。だって、アルバイトの口がふえたの、二三日前じゃないの。いやあね。」
音枝のきげんがなおったとみて、進君は早々に引きあげた。そのあとを音枝はおっかけるようにして、彼の部屋をノックしながら、
「ちょっと、進さん。」
「はい、すぐあけます。」
そういわれて気がついたことだが、まだ時刻は早いのにもうドアにはかぎがかかっていた。がちゃっと開いて、当然部屋へ招じられるつもりだったのに、進君はドアから顔だけを出し、
「なんですか。」
「ね、あんたさっき、一キロ分百円っていったわね。」
「はあ。」
「あと、六キロで、五升ね。」
「はあ。」
「それですむ勘定?」
「そうじゃ、ないですか。」
「わたしも、そう思ったのよ、だけど。」
音枝は思わず、うふっと笑い、
「配給の方の立て替えは、どうするの。」
「あっ、いけねえ。」
進君は本気な声を出した。音枝は思いっきり笑い出した、
「ね、そうでしょ。配給米の代金と二重払いになるでしょ。いくらなんでもね、これはだまっていられないでしょ。」
進君はまっかな顔になり、
「すみません。ぼく、気がつかなかった。あんまり、ぼろすぎると思ったんだ。」
そのとき、進君の部屋の中から、キュウというような女の押えた笑声がした。音枝ははっとし、
「あら、お客さま。」
「はあ。」
なーんだ、それでやみ米やになったのかと思いながら引っかえした音枝は、日記帳の七百五十円なり――の次へ書きたした。
――ただし一キロだけ入荷。(進君はどうもおかしい)
一金百円なり(冬太郎失敗の巻)
こう書きつけて音枝は思わずくすっと笑う。そのときの冬太郎の、何ともいえぬ複雑な表情を思い出したのである。冬太郎のいっている学校の近くには有名な福神づけやがある。音枝は時々それを買ってきてもらった。きょうもそれで、しかも近所の分まで一しょにたのみ、そのことから思いついて、カレー・ライスをつくってまっているところへ、くつ音高くかけこんできた冬太郎は、ビニールの袋入りの福神づけを出しながら、
「ね、そこでかわいそうな人にあったんだよ。母親が危篤でね、田舎へ帰る途中なのに、切符ぐるみお金を落したんだって、必ずかえすから旅費をかしてくれっていうんだよ――」
そこまでいうと、文吉はみなまで聞かずに、
「かしたのか?」
と、かみつくようにいった。
「かさないさ。そ、そんな金、ぼく、もってないもん。」
「ならいいよ。そいつは詐欺なんだからね。気をつけろよ。」
「へえ、ほんとう。」
「ほんとさ。昔っからそういうのがいるんだ。」
ちらっと安江をみると、安江は皮肉な目でにやりと笑い、しかし冬太郎や音枝にむかって、
「そんな手はもう古いんだよ。昔ね、菊池寛の小説にも出てきたよ。菊池寛なんかも、その手にのったんだね。お前もよっぽどお人よしか金もちに見られたんだよ。」
音枝が小ばちにあけた福神づけを、サジでしゃくいながら冬太郎は浮かぬ顔をしていた。そして食事がすむと、文吉が立ってゆくのをまってでもいたように、ひとり言をいった。
――ぜったいに詐欺になんか見えなかったけどなあ――
安江はすぐそれをうけて、
「みえるもんかよお前、だれが、わたしは詐欺漢でござんす――と一目でわかるような態度をするかね。疲労困ぱいしたような悲しげな様子で、うったえるのさ。そうだろう?」
「ううん。その人は、もしもし、ちょっとおたずねしますって、道聞いたんだ。世田谷へゆく道をね。だからぼく、つい、ここから歩いていくんですかっていったんだよ。大変だと思ったからさ。」
「手だよ。筋書き通りのね。そして、旅費がだめなら、世田谷までの電車賃をっていったろう。」
「いったけど、ぼくはあの人を信じるな。金もってたら旅費をかしてやったと思う。」
「やれやれ、わが家の男性は、そろいもそろってお人よしだね。夏樹をしかれやしないよ、まったく。」
「じゃあ、どうしておかあさんは、その人を見もしないで詐欺ときめるんですか。」
憤然としてつめよる冬太郎へ、
「じゃあ、どうして冬太郎は、そうでないときめるの。」
「ずるいよ。ぼくにさき答えるべきだよ。」
「じゃあ申しますがね、以前、うちのおとうさんが、そっくりそのままの手にのったからですよ。――さ、今度はそっちだ。」
これには冬太郎も顔色をかえ何ともいえずだまりこんだ。くやしくてならぬがいいかえす自信がぐらつき出してきたのだ。それを見ぬきでもしたように安江は、
「ま、いいさ。人を信じるってことは悪いことじゃあないからね。しかし、あんまりやすやすとだまされるのもくやしいじゃないか。君はだまされなかったんだからいいようなものの、そんな目にあったものは、忘れられないからね。おとうさんのようにさ。まるでだまされた責任を、だました人だけにもってったりしてさ。でも、これでまた、人にだまされない人間なんてのもあんまり感じはよくないね。私のようにさ、そんな人、わたしは好きじゃないよ。だからさ、もしも冬太郎がだまされたとしてもだよ、そんならそれでいいさ。その上まだその人を信じるというなら、こいつはめでたいよ。がっかりなんかすんなよ。どうだい、一つ皮肉がいいたいところだけど、よしとこう。」
それをしおに立ちあがって、安江も部屋に引揚げた。夏樹がちょこちょことついていったあと、音枝とふたりきりになると冬太郎は、
「おかあさんの、あんな押しつけ、いやだな、ぼく。」
くやしさが倍になったような口調で音枝にいう。すると音枝は、安江と代ったような姉ぶりで、
「押しつけなんてひどいわ、あれは、思いやりですよ。」
「思いやりなもんか、ほんとは皮肉だよ。」
「そうよ。おかあさん、ちゃんと見とおしよ。わたしにだってわかったもん。」
「なにが。」
「冬坊が、ひっかかったことさ。」
ちょろっと舌の先を出す音枝に、冬太郎は突っかかる調子で、
「ひっかかったかどうか、わかんないよまだ。」
「じゃあわからして。――さ、福神づけのおつりちょうだい。」
「ちぇっ! いじわる。」
冬太郎はポケットをさぐり、
「これ、百円だよ。四五日したらおくってくるよ。」
ぷいっと立った足下に、聞いたこともない人の名をかいた紙ぎれが落ちていた。
音枝はぱらぱらと日記帳をくった。半月ほど前のところに、
千五百円なり(鳥取の詩人)
とかいてあるのを見つけてにっと笑う。安江が、「内じゃあ詐欺費がずいぶんかさむわね。」といったのを思い出したのだ。第一その鳥取の詩人にもユーモアがあった。最初にたずねてきた時、彼は、銀座で流しのあんまをしながら詩を書いていると語った。まだ三十前の若い男だった。帰ったあと、文吉はえらく感心して、
「戦争中、飛行隊にいて航空兵のあんま係をやってたんだそうだ。それであんまの術をおぼえたんだってさ。とにかく、あんましながら詩を書くというんだから、おもしろいよ。」
「いい詩、かくの。」
安江が聞くと、文吉は、
「さあ、この次もってくるそうだ。山本春彦や藤岡新吉にもみせてほめられたんだそうだ。」
「へえ。でも、よく、田舎から出てきてすぐあんまになれたわね。あんまの縄張りなんて、ないのかしら。とにかく、若い男があんまになるってことは感心だわ。きっといい詩人になれてよ。だんだん変わった人が出てくるわね。」
生活派の安江もすごく感心して、まだ顔をみないその詩人に好意をよせた風だった。ただひとり音枝は、その若い詩人のよごれた歯なみにひそかにまゆをよせていた。着ているものだとて、野宿でもした人のようにほこりっぽかった。そのなりで、銀座の客がとれるのだろうかと思ったのだ。はたして二度目にきたとき、彼をおくり出したあと、文吉は少しばかり憂うつな顔で、
「客がとれないんだそうだ。銀座あたりじゃあね。」
「そうでしょう。やっぱり、東京なら銀座と考えたあたりは、いなかの詩人なのね。そんなら場末でもいいじゃないの。」
「ところがそいつもだめなんだそうだ。そこにもあんまがうようよしてるんだってさ。しかし、それよりもね、第一居場所がないんだってさ。たよってきた友人にもことわられてね。――おれは田舎へ帰れっていったんだがね、背水の陣をしいて田舎の家も売り払って上京したんだっていうんだがね。」
「馬鹿ね、その金、部屋もかりずにうざうざと使っちゃったの。」
「そうだってさ。東京を甘くみてたんだな。毎日二三人の客がつけばいいってね。そいつがまだ上京以来ひとりもつかないそうだ。」
「詩どころじゃないわね。」
「そうなんだよ。そこで決心して棺おけを作るなんていってるんだよ。」
「ええっ。棺おけって、あの棺おけ?」
「ああ、あの棺おけさ。」
と、文吉は安江のおどろきを一そうあおるようなまじめな顔をする。そうなると安江はもうおどろかない。音枝の方が代って、
「棺おけ作るって、葬儀やになるの。」
文吉はあっはっはと笑い、
「住居なんだよ、棺おけがな。彼、さとったんだそうだ。要するに人間、五尺のからだの置きどころはつまるところ棺おけじゃないかとな。そこで、生きてる内に棺おけを住居ときめてさ、それに車つけて引っぱって歩くんだそうだ。持ち物一さい入れてね。夜はその中にはいって寝る。まいまいつぶろと同じさね。まいまいつぶろをみて思いついたんだそうだ。移動住宅だよな。広い東京至るところわが家だって、うれしそうにいってたよ。その夢が実現すれば詩が書けるって。」
「詩人の夢。」
「ああ、うらやましかったねおとうさんも。死ねばそのまま火葬場へもってってもらう……」
音枝がぷうっとふき出すと、安江はいやな顔をして、
「笑いどころじゃないよ。若い者が棺おけを思いつくなんて。まいまいつぶろをみれば、もっと別のことも思いつきそうなもんだがね、まったく――」
それから三日ほどおいて詩人が三度目にやってきたとき、文吉は困った顔で音枝のそばへきて、小声でいった。
「金、あるかね。」
「いくら。」
「二千円ていうんだけど、千円でもいいよ。」
「あるわ。」
がま口をさし出すと、文吉はその中から千五百円をぬき出し、
「しょうがないよ。今夜鳥取へ帰るっていうからね。」
音枝が茶のお代りをもってゆくと、若い詩人は悲壮な表情で音枝にまで頭をさげた。家へき出してひと月ほどなのに、彼の青ざめた頬はくぼみ、乱れた頭髪は耳をかくしていた。
千五百円は暗黙のうちに安江にはかくしていたのだが、あるとき音枝はうっかりいってしまった。
「おかあさん、鳥取の詩人ね、いなかへ帰ってなんかいないわよ。」
はっと気づいたときにはもうかくせなかった。音枝はその日、新橋駅の近くで詩人に出あったのである。ちょんまげのはりぼてかつらを頭にいただき、とのこで顔を作った詩人は足軽のいでたちでパチンコやのプラカードをささげて歩いていたのだ。ふり返ると彼の方でも立ちどまって音枝を見おくっていた。
百円なり(おふだ)
三十円なり(ゴムヒキ)
四十円なり(清潔や)
安江が詐欺費といったのはこういう口だった。ラジオや新聞がいくら口をすっぱくして有料清潔やはおかみと無関係だと発表しても、都の紋のついたいかめしい腕章をまいた清潔やはあとをたたない。気の弱い音枝はつい、四十円ぐらいと思ってしまう。ゴムヒモ売りも勝手口へやってきて土下座の戦術に出られると、音枝の方がおろおろして、買わねばならぬ義務感のようなものをよびさまされる。しかしこんなのはまだよい方で、お札売りときた日には堂々と玄関のベルを押してやってくる。大事なお客さまかと思って戸をあけると、ひげもくじゃらの男が四人もずらりとならんでいて、中のひとりがおごそかな声で大神宮のお札だという。音枝はだまってひっこんで、いわれた通り百円をもってゆき、無言のうちに一枚の紙ぎれと交換する。それはまるで何かにあやつられてでもいるようにふらふらと運んでしまう。それだけに割りきれなさがいつまでも残り、つい愚痴になってしまう。その音枝の愚痴を聞いた浜子は、
「おねえさんて案外小心ね。わたしなら、かんたんにおっぱらうわ。」
「そんなこといったって、そう口でいうほどかんたんにはいかないわよ。おっかない顔してにらむわよ。」
「平気さ、にらみかえしてやればいい。」
「じゃこれから、浜ちゃんがいる時は、押売りがかりになってもらうわ。まずきょうたのむわね。」
「いいわよ。お茶の子さいさい。」
お天気のよい午後だった。お休みの浜子にすっかり玄関をまかせて、音枝は張り物にとりかかった。伸子張りである。庭のかき根の端から端へ布をわたして伸子をはっていると、
「ごめんください。」
そらきた! と音枝は伸子の手をとめて聞き耳を立てた。学生アルバイトらしい若い声だ。いろんなものをならべ立てているらしく、品物と値段をいうたびに、浜子の声が、
――まにあってます。――それもまにあってますわ。――みーんなまにあってますわ――うそだと思うなら、みせましょうか。ゴムヒモなんて、売りたいぐらいよ――
第一客はそれで成功した。浜子はいい気もちそうに、
「おねえさん、いい文句があるじゃないの。まにあってます。――なーんて便利な言葉でしょう。まにあってまあす――これで間にあわせるのよ。」
音枝の伸子かいを手つだいながら浜子はころころと笑う。
若い女の笑い声にさそわれでもしたように、庭の切戸を押してひとりの老婆がはいってきた。
「こんにちは、奥さん。」
「はい、なんですか。」
浜子が奥さんになって相手をする。
「あのう、おぼしめしで、いかがでしょうね。」
さすがの浜子もちょっと戸まどいして、
「おぼしめし? それ、なんですの。」
老婆は歯のない口もとをかた手でかくし、ほっほっと笑い、
「ね、わたしが歌いますからね、奥さんがおぼしめしをくださるのよ。」
「あ、おぼしめしって、歌ですか。そんならまにあってますわ。」
「そうですか。ほっほっほ。」
老婆はまたかわいらしく笑って、あっさりと引揚げた。音枝はその場にしゃがみこんで笑った。浜子はますますいい気になり、
「ほら、ね。」
音枝がはけをもち、浜子はのりおけをもって、お互いにきげんのよい時をすごしていると、
「こんちわあ。」
また切戸があく。老人だ。
「奥さん、きんかくしの掃除はいかがですか。安くしとくがね。」
「まにあってまあす。」
浜子が調子づいていうと、
「え、なんだって!」
少々気色ばんだのをみると、浜子は少し調子をさげて、
「まにあってるのよ、おじさん。第一、そんなもの、ないのよ、うち。」
これにはさすがの老人も笑い出し、
「ほんとかねお嬢さん、あさがおのないうちはあっても、きんかくしのないうちはないよ。」
「そうお。ところがうちにはないのよ。ねええおねえさん。」
浜子はそれをまじめくさっていう。
「じゃあ、おとなりへ借りにいくのかね。」
「ええ、近所同士ですもの、何でも貸したり借りたりよ。――おじさんさっきの歌うたうおばさんと夫婦なの。」
音枝はもうたまりかねて、すぐそばのハギのしげみにかくれ、思いきり忍び笑った。出てくると老人はもういず、浜子がけげんな顔で、
「ね、あれ、なあに。」
浜子はほんとに知らなかったらしい。音枝が説明するとはじめてわかって、
「いやだあ、便器っていえばいいのにさ、あさがおなんてしゃれてみたり――」
そしてわあっと笑った。しかしとにかく浜子の無邪気さが勝利をしめて、その日一日音枝は思い出し笑いをした。そんな無邪気な浜子なのに……。
四百八十円(タクシー)
もう終電もすみ、一時に近かった。そわそわしている音枝の気も知らず、文吉も浜子もまだ帰ってこないのだ。文吉だけなら毎度のことで平気だったが、もしも浜子が一しょだったらと音枝は気が気でない。母に知らせたくないのだ。母の気づかぬうちに帰ってさえくれば、この前のように父がひとりで帰ったような顔もできるが、こうおそくては心配でならない。父を信じている音枝は、まさか文吉と浜子の間に何かあるなどとは思わないが、疑ってみるとすれば思いあたることはいくらでも出てくる。このごろの浜子は、よく文吉に甘えかかる。
「ねえ、おじさん、おじさんの会社がだめならさ、おじさん個人の秘書にしてよ。そうしてるうちに仕事、きっとみつけるわ。」
それを堂々と、家族の前でいうのだから、悪いとはいえない。そんなとき文吉はくすぐったそうな顔をして、
「おじさんは、秘書なんて雇える身分じゃないよ。サラリーが今の十倍ぐらいになったら、たのもう。」
「そんなこと。おじさんの秘書ならわたし、薄給に甘んじるわ。だって、ここで食べさしてもらうんだもの。ね、わたし、これで案外役に立つ自信あるのよ。」
「だからさ、その自信で別の所さがすんだな、おじさんも気をつけてたのんではいるがね。」
「いやあね、いつだってああいって逃げるんだもの。職安なんて、いくら通ったってだめなのよ。わたしが今、どんな仕事をしてるか知ってる? 宣伝ガールなのよ。はずかしくていわなかったけどさ。もう平気。」
「はずかしがるこたあないよ。労働は神聖だからね、自分で軽べつするもんじゃないよ。」
「ちぇっだ、わたしがどんなことしてるかいったら、軽べつするわよ、みんな。」
「どんなことさ。街頭でビラでもまいてるのかね。」
「そんな、子供だましじゃありませんよ。ストリップなんだから。」
「ええッ!」
「ほら、おどろいた。ね、いいましょうか。あんまこうの宣伝なの。ふたり一組でね、女湯へはいっていくのよ。肩だのおしりだの腰なんかにこうやくをべたべたはりつけてさ、はだかの女性たちの前で問答するの。『××こうって本当によくききますわね。』『まったく、これを使い出すとやめられませんわ。』『それにはったままおふろにはいれるんですもの便利ですワ。』そして湯にはつからず次のふろやへ――」
浜子はそれをこわ色をつかっていったので、みんなふき出した。安江がひとりむつかしい顔をしていた。その複雑な表情を音枝は忘れることができない。――
とうとう一時が鳴った。それがきこえたらしく安江の部屋のふすまがあき、
「おとうさん、おそいね。もうおやすみ。」
浜子のことは知らぬらしくやさしい声だ。気づかれずに帰ってくればよいがと思ったとたん、はげしくブザーが鳴った。やけっぱちな鳴らし方は浜子かもしれぬと思うと、おこった表情が自然と顔に現われて、音枝はいつものようにガラス戸もあけずに、だまって玄関に立っていた。文吉が走ってきて、
「五百円、大至急だ。こまかいのがあれば四百八十円でもいい。」
待たしてあるタクシーのほうへかけてゆく足音を聞きながら音枝はほっとし、ほとんど同時に、浜子は? と気づかうその瞬時の思いの中で、浜子が家にきて以来、家庭の空気がかき乱されがちなことについて、考えていた。すると、その不安を裏がきするように、近づいてくる足音がふたりなのに気がついた。安江も出てきて、まるでそれをまちうけてでもいるように音枝とならんで立っている。
「ただいまア。」
やみの中から浜子の声だ。そして彼女は、文吉の腕にぶらさがるようにしてはいってきた。
「おかえりなさい。」
素っ気ないまでに冷静な安江の声であったが、音枝ははっと胸にくるものがあった。父と母との年の差が大きくおっかぶさってきたのだ。そこに立った文吉はいやらしいまでに若い男だった。
「おばさまア、きょうはおもしろかったわ。おじさんにおごってもらったの。ねええ、はじめね、『几帳面』といううちで飲んだのよ。そしてね、『ずぼら』って家へはしごしたの。男の人っておもしろいとこ知ってんのね。わたし、気に入っちゃった。あんなとこで働こうかしらっていったら、おじさんにしかられちゃったあ――」
浜子がひとり、べらべらとしゃべるのを無視して、文吉は、安江をさえもよせつけまいいきおいで部屋へひきとってしまった。安江もだまって引きさがる。浜子ひとりがいい気もちそうに音枝の肩につかまりながら、
「男の人っていいな。『几帳面』と『ずぼら』だってさ。気に入っちゃったあ。」
そんな浜子の狂態をおぞましいものとしてながめる音枝の胸に思いがけない人の姿が浮んでいた。進君である。何のかかわりもないはずの進君に、音枝はあわて戸まどった。姉女房の母と父の年の差が、それと同じ年の差の進君に、いつ自分を結びつけて考えていたのか。音枝は赤くなり、やがてそのはじらいは一種の悲しみに変わっていた。浜子はいつのまにかねてしまい、文吉の二階の部屋も、安江の階下の部屋もしんとしている。電灯を消した音枝は、やみの中にしらがのふえた母の姿をえがき、その母が、あすはまたむっつりとして花屋にゆくであろうと思うと胸がうずいた。
五千円――と書いて、音枝はそれをごしごしと消した。その消してしまった秘密の中に浜子の顔が浮ぶ。今、病院のベッドの上で、どんな思いですごしているだろうか浜子……
いつかの夜以来、音枝は酔って帰る浜子を何度かむかえていた。いつもひとりだったことで、安江には知れずにすんではいたがそんな浜子に困惑を感じ、音枝はかたくいいわたした。
「ね、門のベルだけは押さないでね。」
そして昨夜である。夏樹のねている部屋で、おそいはずの文吉や安江の帰りをまちながら、例によってくつ下のつくろいをしていた音枝のうしろで、すうっとひかれるふすまの音に、彼女はぞうっとしながらふりかえった。浜子だった。
「おどろいた。玄関あいたの、ちっとも気がつかなかったわ。」
音枝の声はふるえていた。夏樹とふたりの夜など音枝の神経は少し異常になっているらしい。玄関番のようなかっこうの進君の存在に安心して安江たちは出かけるらしいのだが、このごろはその進君がこわかったりする音枝である。
「ほんとにびっくりした。玄関のベル、全然きこえないんだもの。」
すると浜子はにやっとして、
「だって、しかられるんだもの。おばさんも、おねえさんも、おっかないんだ、このごろ。」
「それにしたって極端よ。まるで泥棒みたい。」
むっとしてみせると、
「だって、おばさんにきこえると――」
「いませんよ今夜は。Kさんの出版記念会なの。どうせ気のあった連中と一しょだから、おそいわよ、帰りは。」
やっと落ちつきをとりもどした音枝の肩に、浜子は突然すがりついて、ゆさぶりながら、
「あらあ、くやしいわ。わたし、一ぺんそんな会にいきたかったのよ。」
「なに、いってんの。」
「だって、おじさんにたのんであったのにさ。わたし、そういうふんいき、みたかったのよオ。」
「じゃあ、早く帰ればいいのに。」
早く帰ったところでそんなわけのものではないと知っていながらそういうと、
「あらあ、くやしい。早く帰ってたのよ。きょうはあぶれてずっと進くんとこにいたんだもん。」
わるびれもせずにいう浜子に、音枝の方があかくなった。いつかのやみ米問答のとききこえてきた押えたような女の笑い声、あれもやっぱり浜子だったのかと、いやな気がした。進君の部屋からならば、庭の方から出入りが出来るし、浜子はこれからもそうするだろうと思うと、そんな勘ぐりまでする自分に、音枝は悲しくなった。
しかし音枝は、そんな気持をせい一ぱいに押えて、
「ごはんは? 浜ちゃん。」
すると浜子の方は何かを感じでもしたようにわざとらしく、
「進くんとこでごちそうになったわ。――でもまずかった。うちのおかずなあに。」
あきれている音枝に、浜子はたたみかけて、
「一ぜん食べようかしら。おこうこでお茶づけがほしいの。例の、ある?」
それは、夜のおそい文吉や安江のかんたんな夜食のために用意しておく、かきもち入りののり茶のことだった。わざと返辞をしない音枝におかまいなく、安江たちがいないとなると浜子は急に大きくなって、さっさと台所へいった。やがてことこととまないたが鳴り出したのは、おこうこを刻んでいるらしい。それはともかくとして、どういうのか浜子は、近ごろやたらとおとなたちをまね、肉や魚をきらったりする。好きだったさしみさえ、このごろは見ただけで胸がむかつくというのだ。そんなこともあわせて思い出しながら、浜子のわがままを許しがたくなった音枝は、針箱をかたづけもせずに浜子のあとをおった。そして、流しのそばに立ったままはしを動かしている浜子に、おこった声で、
「浜ちゃん、いくらなんだって、このごろのあんた、ひどいわよ。ひと、馬鹿にして。」
しかし浜子ははしの手をやすめもせずに、
「かんべんしてよ。だって、進くんち、お茶がないのよ。さゆ飲ますんだもの。さゆって、生ぐさくてむかむかするわね。」
わざとらしくさらさらと茶づけの音をたてて、
「あ、うまかった。――男所帯って、だめね。わたし、進くんのお嫁さんになってあげよかっていったのよ。そしたら……」
そのとき、いきおいよく玄関があき、一瞬堅くなったところへ、冬太郎の元気な声で、
「ただいまあ。」
浜子はすぐ目をほそめ、
「なんだ冬坊か。」
はしをおいたところへ、ある期待ではいってきたらしい冬太郎は、浜子とみるとまるで血相をかえて身をひいた。
「いいじゃないか、冬坊。いくら冬坊でも、そうあわてて逃亡しなくてもいいわよオ。」
「不潔だよう。」
どなるほどでもない大声でいって、冬太郎の足音はもう二階の段ばしごに、若さをほこるような音を立てていた。
「いったな。不潔だって。――無邪気だね彼は。だから好きなんだわたしは。誘惑を試みたけど、このうちの男性中では一ばん堅固だったわよ、おねえさん――」
くるりと背をむけて、ざあざあ水道を出しっぱなしで茶わんを洗う浜子に、音枝はきっとした声で、
「よしてよ浜ちゃん。あんた、へんよこのごろ。」
「そうよ。ワタシコノゴロヘンナノヨって歌があったんだってね。それよ。」
くるっと顔だけふりむけてぺろっと舌を出す。
「冗談にもほどがあるわ。冬太郎はまだ子供なんですからね。おとうさんとは――」
わけがちがうといおうとして恥じてあわてて口をつぐんだ音枝の気も察しずに浜子は、わざとらしく、
「と、おうちの方は信じてらっしゃいますがね、冬坊にはもうちゃんとガール・フレンドがいますからね。――あったり前ですよ。満で十九じゃありませんか。同い年として、わたしは彼の気持わかるわ。わたし、みたんだもの。学校の門を出るか出ないかで、ちゃんと腕くんで歩いてたわよ。」
「どうしてそれを、あんたがしってるの。」
「知ってるさ、校門のとこで待ってたんだもんわたし。冬坊に映画でもおごってやろうかなと思ってさ。そしたら彼、にらみつけて行っちゃうの。わたしにいいつけられるかと思ってさ。」
浜子はくるりと向きなおって、
「知らぬほとけのおねえさんだ。だからわたしは、冬坊の純潔なんて信じないわよ。」
「失礼ね。」
まっかになって背をみせた音枝のあとについて、浜子は一しょに茶の間にすわりながら、しつこくつづける。
「失礼なんて、それこそ失礼よ。音枝さんには理解がワカラナイかもしれないけどさ、でも彼は幸福なのよ。そのガール・フレンドかわいい女の子よ。女でもうっとりするわよ。こうね、髪の毛をながーくうしろにたらしてさ、前髪にマーガレットの花をつけていたわ。まるで婚礼みたいにさ。銀座でもみたんだから。――あの女の子、おねえさん知らないでしょう。」
「知ってますよ。妙ちゃんて、学校のお友だちですよ。いやらしいこといいなさんな――」
ぷんとする音枝に、浜子はわざとひざをよせてゆき、
「そうお、知ってるなら、どうしてその妙ちゃんて女の子にはつきあいを許して、わたしには『冗談にもほどがある。』なんておっしゃるんですか。わたしが大学生でないからなの。身分不相応だというの。そんなら覚悟があってよ。わたしはおねえさんのように、品行方正を美徳なんて思っていないんだから。わたしは純潔なんて、おし気なくごみ箱ん中へすてたんですからね……」
音枝のひざを両手でゆすぶって、手ばなしで泣き出してしまった。その顔はまっかである。泣き方も異常だった。それはどうみても酔っぱらった人であると気づくと、音枝は少し安心はしたものの、今度は別の不安で、早く安江が帰ってこないかと、ひたすらそれをねがった。しかしその前に、どうしても浜子をねかしつけねばならない。
「浜ちゃん、あんた酔っぱらってるの。いやあね。早くおやすみなさいよ。もうすぐ、おかあさんたち帰るわよ。」
すると浜子は開き直るようないきおいで、
「なにいってんの。おばさんなんかこわくないんですからね。いっときますが、わたしはだれもこわくなんか、ないんですからね――」
しかし実のところ、浜子にはこわくてならぬことがあったのだ。男のように酔ってそれをまぎらそうとて、音枝に無断でさか屋からビールを二本とってきて、慣れぬさかもりを進君の部屋でやったのだが、さすがに遠慮して時をすごして帰ったのに、あついお茶づけはさめたと思った酔いを呼びもどしてしまったらしい。浜子はどうにもならぬじょう舌で音枝にからんだ。
「ね、おねえさん、あんたはおばさんがこわいかもしれないけどさ、わたしはこわくなんかないわよ。なにさ、女流作家でございますってえばってたってさ、わたしにおじさんをとられるかと思ってびくびくしてるじゃないの。わたしはね、おばさんをあっといわせてやりたいの。どんな顔するかそれがみたいの。ただそれだけなんだよ。おじさんだってかわいそうじゃないか。あんな年上のさ、しわくちゃばあさんが奥さんだなんて、気の毒だよ。いつか『几帳面』でこぼしてたわよ。そんなこと、知らないだろう、おねえさん。」
音枝は不愉快をこらえながら、こうなるとやっぱり安江たちが一刻でもおそく帰るよう心の中で祈りなおした。そして自分で浜子のねどこをのべてやりながら、がまんしきれずにいった。
「もうよして、こわいこというわねほんとに。背徳よ!」
「なにいってんのオールド・ミス。たまには恋愛ぐらいしなさいよ。年がら年中品行方正づらしてさ。おもしろいよ。男なんてちっともこわくなんかないんだからさ。こわいのはね、こわいのは女なんだからあ。――それがわかんないの、おねえさんたらあ……」
音枝の右腕にからみついて浜子は泣く。
「いやあね浜ちゃん。どうしたっていうの。あんたらしくもない、あっさりしてよ、ほんとに。」
「あっさりだって? わたしがあっさりぶちまけたら、おねえさんなんか目エ回すからあ。それを白状しろっていうんですかあ――」
ねつっこく肩にすがりついてくる浜子の手をもぎとりながら音枝は、
「もういいわよ浜ちゃん。おやすみなさいね。あした聞くわ。あんた酔っぱらってんだもん。酔っぱらいの白状なんてごめんよ。ね、あしたね。」
「いやだあ、酔っぱらって真実を語るってこともあるじゃないかあ。おねえさんなんて、だからわかんないんだよオ。」
「そうよ、わたしは酔ってないんだもの。真実がわかんないわよ。」
「そんならふたりでのみましょうよ。ね、きょういわなかったら、わたしは、もうだめなんですよオ。聞いてちょうだいよおねえさん、わたし妊娠してんですよオ、どうしたらいいのさア。」
音枝はいきをのんだ。感情が凝りかたまってしまったようで、言葉がでない。それをつきくずすように浜子はつづける。
「――わたしが、どこのだれかわかんないやつの子をうむっていうのにさ、おねえさん、だまってるんですかア。わたしはお金がないから、始末できないのよオ。おねえさんたら、産んでもいいんですかア。」
音枝はやっと自分をとりかえし、
「浜ちゃん、それ、ほんとなの。」
すると浜子は大きな声で、
「なんで、うそいうのさ、おねえさんのばかア。」
「もっと小さい声でわかるわよ。進君や冬太郎にきこえるじゃないの。」
「生れつきの野声だもん。それに進君は知ってますよ。ぶちまけて、助けてもらおうと思ったのに、だめなのよ。おじさんにおっつけて、おばさんをてんてこまいさせちゃおと思ってたのに、おねえさんたら白状させてしまったじゃないかア。わたしになにもかもいわしてしまったじゃないかア。助けてくださいよ。おねえさーん――」
その一言一言を悪魔の声と聞きながら、平和だったわが家が汚され、こわれてゆく姿をまのあたりにみる思いの音枝も、その悪魔の叫びの底に流れる純真さに気づくとほっとした。しかしその安心が浜子の救いにならないことを思うと、音枝は涙をためながら、
「わかったわ浜ちゃん、わたし、考えてみる、ね。」
泣きふしたまま、やがて浜子は安江たちの帰る前にねむってしまった。音枝はそれを、父にも母にも当分だまっていようと思い、浜子のために朝までねむらなかった。そして夏樹を学校へおくり出すと、だまって郵便局へゆき、スーツを作って残り少なくなった貯金の大部分をおろしてきて浜子にわたしながら、小声で、
「きょうすぐ、お医者へいきなさいね。ひとりで、いける?」
浜子は素直にうなずいて、ぽろっと涙をこぼした。