戻る
原爆詩集
Table of Contents
原爆詩集
峠三吉
Reading Settings
文字サイズ
18px
テーマ
ライト
ダーク
セピア
ナイトアイ
行間
読書モード
翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 9 of 31

としとったお母さん

逝ってはいけないとしとったお母さんこのままいってはいけない

風にぎいぎいゆれる母子寮のかたすみ四畳半のがらんどうの部屋みかん箱の仏壇のまえたるんだ皮と筋だけの体をよこたえおもすぎるせんべい布団のなかで終日なにか呟いているお母さん

うそ寒い日が西の方、己斐の山からやって来て窓硝子にたまったくれがたの埃をうかしあなたのこめかみのしろい髪毛をかすかに光らせる

この冬近いあかるみのなかあなたはまたかわいい息子と嫁と孫との乾いた面輪をこちらに向かせ話しつづけているのではないだろうか仏壇のいろあせた写真がかすかにひわってほほえんで

きのう会社のひとがちょうどあなたの息子の席があったあたりから金冠のついた前歯を掘り出したともって来たお嫁さんと坊やとはなんでも土橋のあたりで隣組の人たちとみんな全身やけどしてちかくの天満川へ這い降りつぎつぎ水に流されてしまったそうなあの照りつけるまいにちを杖ついたあなたの手をひきさがし歩いた影のないひろしま瓦の山をこえ崩れた橋をつたい西から東、南から北死人を集めていたという噂の四つ角から町はずれの寺や学校ちいさな島の収容所まで半ばやぶれた負傷者名簿をめくり呻きつづけるひとたちのあいだをのぞいてたずね廻りほんに七日めふときいた山奥の村の病院へむけてまた焼跡をよこぎっていたときいままで頑固なほど気丈だったあなたが根もとだけになった電柱がぶすぶすくすぶっているそばで急にしゃがみこんだまま「ああもうええもうたくさんじゃどうしてわしらあこのようなつらいめにあわにゃぁならんのか」おいおい声をあげて泣きだし灰のなかに傘が倒れてちいさな埃がたってばかみたいな青い空になんにもなんにもなくひと筋しろい煙だけがながながとあがっていたが……

若いとき亭主に死なれさいほう、洗いはりよなきうどん屋までして育てたひとり息子大学を出て胸の病気の五、六年やっとなおって嫁をもらい孫をつくって半年め八月六日のあの朝にいつものように笑って出かけ嫁は孫をおんぶして疎開作業につれ出されそのまんまかえってこないあなたひとりを家にのこしてかえって来なかった三人

ああお母さんとしとったお母さんこのまま逝ってはいけない焼跡をさがし歩いた疲れからかのこった毒気にあてられたのかだるがってやがて寝ついていまはじぶんの呟くことばもはっきり分らぬお母さん

かなしみならぬあなたの悲しみうらみともないあなたの恨みはあの戦争でみよりをなくしたみんなの人の思いとつながり二度とこんな目を人の世におこさせぬちからとなるんだ

その呟きその涙のあとをひからびた肋にだけつづりながらこのまま逝ってしまってはいけないいってしまってはいけない

Chapter 9 of 31
|