Chapter 1 of 4

先ず何よりも始めに幾何学なるものの概観を得ることが必要と思われる。恐らく幾何学には無限の種類があるかも知れない。併し何れも幾何学なる名に於て統一されている以上それを一貫する何ものかがあってそれがその区別を与えているのでなければならぬ。吾々は之を攫むことによって幾何学を分類することが出来る筈である。クラインによれば凡ての幾何学は夫々或る一定の形を持った変換に対して不変に残されるものの不変量理論(Invariantentheorie)と考えられるが、クラインは之を解析的に云い表わすことによって幾何学の分類を与えようとした。

例えば類同幾何学は

なる類同変換に関する不変量理論であり、又射影幾何学は

なる射影的変換に関する夫である。これらの変換は夫々一つの変換群をなすのであるから一般的に云う時各々の変換群に対して一つずつの幾何学が成り立つわけである。即ち解析に訴えることによって更に又群の概念を借りることによって吾々は一切の幾何学を残りなく分類することが出来る(F. Klein, Elementarmathematik von hheren Standpunkt aus 2. Kap. )。併しながら第一に解析とは何か。今の場合この概念は無条件に導き入られてあるのであるが私は之を吟味しなければならない。普通数学の対象に数が導き入れられる時かかる数学を解析と呼ぶとも考えられるが、数は例えば有理整数論などに於てのように算法(Operation)を有つものの単なる符号と見做されることもある。併しもとより吾々は符号の算法を解析的とは云わない。即ち数が diskret と考えられる限り之によっては解析は生じて来ない。解析的とはそれ故数の連続が導き入れられる時の方法であると考えなければならない。処が数の連続が導入されるということは幾何学に於ては座標が与えられることに外ならない。向に挙げた変換式のxyz等とは実は座標軸を意味していたのである。勿論このような表現式は実際の座標を必要とはしないものであって単に「形式的」な現わし方に過ぎないとも云い得るが、もし凡ゆる意味に於て座標と関係のないものならばこのような表現式は全く理解し得ない無意味な関数関係に終って了う筈である。それが無意味でないためにはそこに座標が予想されていなければならない。解析的とは幾何学に於ては座標的ということである。空間と数とが直接に対応することである。さて凡そ分類の原理は偶然的であってはならぬ。分類されるべきものの本質に根ざした原理によってのみ分類なるものも許される。然らば座標は幾何学に本質的であるか、数は幾何学に欠くことの出来ない内容であるか。今座標を用いない幾何学乃至数の概念を含まない幾何学の存在を指摘することが出来れば之に対する答は明白である。曰く射影幾何学。それ故解析的方法によっては幾何学を本質的に分類することは出来ない。第二に向の解析的方法は群を通じて行なわれたが、群の概念を借りて試みられた分類と考えても決してそれは本質的ではない。何となれば後に明らかとなるように幾何学は群を以て尽すことの出来ない内容を有つからである。且又射影群に無窮遠要素を付加して類同群を得更に又球円を付加して主群(Hauptgruppe)を得、このようにして種々なる幾何学が分類されるのであるが、このような偶然な要素が偶然に付加(adjunktieren)されることはこの分類が到底必然的でないことを示しているものに外ならない。更に又群による分類法は例えば射影幾何学から出発して一切の幾何学をその Modifikation として導き出す方法に外ならないが、一切の幾何学が射影幾何学であるならばそこには何の分類も与えられはしない。一切の幾何学が或る一つの幾何学に帰するということは幾何学の分類とは問題が別である。射影幾何学に於けるこの関係は反径幾何学(Geometrie der reziproken Radien)に就いても全く同様に指摘されると思う(F. Klein, Vergleichende Betrachtungen ber neuere geometrische Forschungen, §6, 7 参照)。こういう理由からしてクラインの試みた分類法はそのどの着眼点に於ても本質的であったと云われないであろう。併しこのことはこの分類方法が数学自身に於ても本質的ではないということを意味するのでは決してない。数学者は幾何学を論じるに当って幾何学以外の数学の眼を以て之を見る着想の自由が与えられていなければならぬ。ただ私の問題は幾何学が他の数学から区別される処の特徴を見出すことそのことであるのを忘れてはならない。それ故このような麗しい分類法も数学のテクニックに属するのであって、吾々がそれから直接には得る処が少いということは当然であると云わねばならぬ。

解析的に対するものは総合的である。今総合判断一般と数学的総合判断との区別は後者の基に公理が潜んでいるという点にある。幾何学を総合的に取り扱って分類するにはそれ故各々の幾何学の基礎に如何なる公理が横たわっているかを見定めることが最も正当な道であると云わなければならない。ヒルベルトはその『幾何学の基礎』に於て、結合、順序、合同、平行及び連続の五つの公理群を区別した。私はまずこの公理群に依って幾何学の一応の分類を試みようと思う。連続の公理にはヒルベルトによればアルキメデス公理と完備の公理とが含まれ両者を合せれば所謂デーデキント公理を得る(S. 23)。この公理の上に立つ幾何学はリーマンに始まりクライン等によって発展された位置解析(Analysis situs, Topologie)に外ならないと普通云われている。線、面、立体等の結合(Connexus)及び切断(Conpure)の関係は凡ゆる一対一の連続的変換即ちあらゆる Verzerrung に対して不変に残されるべき性質をもつものである。かかる性質をその対象とするものが位置解析に外ならない。即ち図形に於て縁の数をμ、面を分割しない回線の数をρとすれば、μとρはこのような変形に関らず自らを不変に維持する。今 2ρ+μ をこの面の結合度と定義すれば、あらゆる空間形象はこの結合度を標準として順序づけられる筈である。今もし形象の面の数をF、頂点の数をE、稜の数をKとすれば、位置解析の定理はなる関係として云い表わされるものでなければならぬ。然るにこの形の定理は普通吾々が表象する裏表を有つ面に就いてのみ妥当し、例えばメービウスの多面体のような図形に於ては行なわれないことを注意したい。即ち或る図形に就いて他の幾何学的見地からして決して問題とはなり得ない処の区別、一側面と二側面との区別が茲では重大な問題となって現われるのを見る。以上の性質は位置解析が他のあらゆる初等幾何学にも先だち且つ何かの意味に於て――その意味は後に明らかとなる――特別の位置を占める幾何学である、ということを暗示するものと云ってよいであろう(Klein, Elementarmathematik v. h. S-P. aus S. 237 ff.; Riemann, Die inaugurale Dissertation zu Gttingen, etc.)。次に結合の公理と順序の公理の上に立つものは射影幾何学である。普通之に連続の公理が加えられるのであるがヴェブレン・ヤングなどが rational space を考えたような意味に於て連続を解するならばこの公理は不必要となる(Veblen-Young, Projective Geometry, . p. 99 ff.)。併し茲には後に触れるであろう問題が含まれていることだけを注意しよう。さて点、直線、平面等の要素に於て、低次の二つの要素が一つの高次の要素を決定すること、例えば二点が一直線を決定すること、を射影と名づけ、高次の二つの要素が一つの低次の要素を決定すること、例えば二平面が一直線に於て交わること、を截断と名づけるならば、射影幾何学とはかかる射影並びに截断に対して不変に残される要素間の関係をその内容とするものである。次に射影幾何学のこの二つの公理群に次の三つの公理群を加える時、吾々が普通計量幾何学と呼び慣している処のものを得る。即ち合同の公理、平行線公理及び連続の公理がそれである。処が平行線公理、即ち同一平面内に於て一点を過って任意の直線と交わらない直線は必ず唯一つある、ということを意味するユークリッドの公理は、之と矛盾する他の公理によって置き換えられることも可能である。この時ユークリッド幾何学に対して非ユークリッド幾何学を得る。向のような条件を充す平行線が全く許されない時リーマン・ヘルムホルツの幾何学を、又かかる平行線が無限に存在しその一双が特に平行線と名づけられる時ロバチェーフスキー・ボーヤイの幾何学を得るのは何人も知る処であろう。抛物線的、球面的及び楕円的並びに双曲線的幾何学として普通区別される処のものである(Sommerville, Non-euclidean Geometrie, p. 89, etc.)。さてヒルベルトの云うように如何なる公理群も他の公理群とは独立であるとすれば、吾々は任意の組み合せによって生じる公理体系の数だけの幾何学を区別しなければならない筈である。併しながらそのようにして得る分類は縦え論理的には正当であるにしても、その故に直ちに幾何学に対して本質的であるのではない。私はそれ故本質的な分類へ達するのに便宜な手段として特に以上の分類を選定しなければならなかったのである。

射影幾何学から計量幾何学へ移るに当って加えられた公理群は合同、連続及び平行線のそれであったが、第一に線又は角が合同であるとは何を意味するか。例えば二つの線が等しいという時吾々は両者を重ね合わせて見る外にこれを確める根拠を有たぬ。然るに重ね合わせるとは一を他へまで重ね合わせる運動を含まぬわけにはいかない。素よりヘルムホルツに従ってこの運動を経験界に於ける物体の運動と同じに見ることには多くの危険が伴うであろう。数学の要求は寧ろこのような運動の概念を除外して例えばシュタイナーの構成法の如きものを用いて純幾何学的に同等を定義することに努めるであろう。それ故運動とはこのような意味に於ける観念的運動と考えられるのが正しい(Weber-Wellstein, Enzyklopdie, . S. 20, etc.)。かかる運動によって二つの要素が等しいと認められるためには運ばれたる要素がその運動の間に於て量的に不変であったことを予想することが必要である。即ち一般に要素は自らに同じである――等しいと区別せよ――ということが予め承認されてなければならぬ。ヘルムホルツが幾何学は剛体の自由運動を許すというが、この剛体を純幾何学的に定義する時、この様な自らに同じい要素を考えねばならぬと思う(Helmholtz, Ueber die Tatsache, welche der Geometrie zugrunde liegen. 参照)。併し自らに同じい要素というが何によって吾々はそれが不変であることを知るか。それには或る一定の単位が与えられて之を用いて計量した結果が不変であることを必要とする。それ故自らに同じい要素とはそれ自身計量の単位を意味するに外ならない。従って線や角の合同とは単位による計量を意味する外はない。合同の公理は計量を云い表わす。又アルキメデス公理はこの場合このような単位によって或る与えられたる要素の量を計量することそのことを意味する。然らば一歩進めて連続の公理はどうであるか。併し計量とは何であるか。単位を以て数えられる度数を意味するとも考えられるが、単位を以て数えられるためには数えられる要素自身が予め数量的でなければならぬ。若し数量的でないならば単位を以て数えることは無意味である。それは単に数えることであって計量ではない。それ故計量とは計量される要素と数との対応而も直接の対応を予想するのでなくてはならぬ。然るに数と要素との直接の対応というべきものは数の連続に於て始めて許される。数と空間、数と時間などが直接に――一対一の関係で――対応するのはただその連続に於てのみであることを何人も知っている。であるからして合同の公理は数連続体の導入を意味することとなる。連続の公理はあたかも之を云い表わすものである。私は以上合同の公理と連続の公理とが立つ根本的な予想即ち、計量――数連続体をば摘出した。平行線公理は之と如何に関係するのかの問題が残っている。線の場合とは異り角の計量の場合には直角という絶対的単位が必ず存在する。この絶対的単位によって計量された対象の metrical property ――それは他の相対的な単位による metrical property とは性質が異るが――を決定するものが平行線公理に外ならない。平行線公理は一見計量とは無関係であるかのように見えるのであるが、それへ計量に基く公理――例えばアルキメデス公理――を付加することによってそれが計量関係を支配する――例えば三角形の内角の和は二直角であるか否か――、という意味に於て計量と関係を持たずにはいられない公理である。結合や順序の公理に於ては全く場合が異るのを思い起こせばこの意味は明らかとなるであろう。平行線公理がこの意味に於ては計量的である所以は更に平行線公理と空間曲率との関係に於ても現われる。平行線公理に曲率という計量的概念を付与すると否とは自由であるが、一旦この概念を付与した以上、平行線公理は曲率の値をある意味に於て決定しなければならぬものである。一言にして云えば平行線公理は直角とか曲率とかいう角又は線の計量の絶対的な単位に関係するものである。さて射影幾何学と計量幾何学とを区別せしめたかの三つの公理群は何れも計量を云い表わす公理に外ならないことが明らかとなった。それ故私は一歩を進めて幾何学をば、公理に従って分類するよりも寧ろ公理に含まれる根本的な予想に従って分類することに思い至らなければならない。計量を含む幾何学――所謂計量幾何学即ち座標幾何学は少くともその一部分である――を一般に量的幾何学と名づけ、之に反して計量を含まぬ幾何学を一般に質的幾何学と名づける。かくて私は始めて本質的な分類を得ると思う。何となれば幾何学が質的であるか量的であるかはそれが本質的であるか本質的でないかの問題となることをやがて吾々は知るであろうから。

幾何学の分類に就いてまだ一つの重大な問題が残されている。私は之に到達することを試みよう。まず注意すべきはライプニツがその「位置解析」という項に於て、代数は合同を即ち量を、之に反して位置解析は類同を即ち形を、従って又質を論じる数学であると述べ、「このような考え方は新しい計算法を示すものである」と云っていることである。それはライプニツによれば「代数的計算とは全く別のものであり、又その記号に於てもその応用とその算法に於ても全く新しいものである。」彼は之を位置の解析と名づけた。「何となればそれは直接に位置を云い表わし、而も形を実際に画くことなくして記号を用いて精神上之を写し、感性的な直観がただ経験的に知る処のものをば正確な計算と証明法とによって符号を用いて導き出すものなのであるから」(Hauptschriften Leibnizeus, I. S. 76)。ライプニツのこの理念が数学的に発展される時どういう形を取るべきであるかはこの場合まだ明らかではないが、少くとも茲に代数的或いは量的という意味が座標的ということであるのは疑う余地もない。それ故ライプニツがこの解析を以てデカルトの幾何学に代えることを要求した処から見ても彼の位置解析なるものと吾々の所謂位置解析(前を見よ)とは全く別のものでなければならぬ。次に又彼が質的と呼ぶ所以は私が向に定義したように計量を含まないということとは全く別であることもその「正確な計算」という言葉が充分に説明している。それは計量を含んでいる。量的幾何学でなければならない。デカルト幾何学に対して質的と呼ばれるのはデカルトに於ては尽すことの出来なかった幾何学の哲学的意味を明らかにしようと欲したからに過ぎぬであろう。ライプニツのこの理念を発展させたものと認められているグラースマンの Ausdehnungslehre に於ては、その広延量乃至は要素量が位置と量値を持つのである(Grassmann, Geometrische Analyse.)。即ちこの場合の要素は質ではなくして明らかに量である。Ausdehnungslehre が縦え座標というような偶然なもの(Willkrliches)を許さないにしてもなおそれは「解析の形式」を具えていなければならない(Grassmann, Ausdehnungslehre von 1844, S. 397)。更に又グラースマンの要素量がクラインの云うように(Elementarmathematik v. h. S-P. aus S. 339)類同幾何学の対象に外ならないとすれば、類同幾何学が質的であるかそれとも量的であるかを見てライプニツの位置解析の蔽われた性質を検出することが出来ると思う。処が類同幾何学に於ては距離、角、円と楕円との区別、等の概念はない。即ち合同の公理は成立しないようにも見える。従ってそれは一応質的と考えられそうである。併し例えば射影幾何学に於ては無窮遠点なる概念が除外され得るのに反して茲では要素の有限と無限とは常に区別されなければならない。又円錐曲線の中点、直径、平行、方向、等の概念も許される。それ故類同幾何学は量的であると云う外はない。ライプニツの位置解析も之に準じて観察してよいと思う。さて併し吾々は茲に至って計量幾何学とは異る処の量的幾何学が少くとも一つは存在するということを識った。今両者を区別するものは座標に依るか否かである。併し縦え座標を用いないにしても量的幾何学は解析的でないのではない。クラインの云ったように(前を見よ)解析的とは必ずしも座標的であることを意味しない。併し又すでにその場合明らかにしたように之が座標と無関係であるというのではない。であるから座標を含むか否かは解析に対して根本的な区別ではない。計量に対する根本的な区別とはならない。それ故又量的幾何学の――それは計量を含むものと定義されてある――根本的な区別とはならない。私は量的幾何学を更に分類する理由を発見しない。

之に反して質的幾何学の定義は消極的に――計量を含まない幾何学として――与えられてある。之を検べて見なければならない。ケーリが凡ての幾何学は射影幾何学であると云ったが、射影幾何学が又計量幾何学を含むならばその限りに於て量的であると考えられないでもない。射影幾何学に於ても座標があるではないかというであろう。併しながら計量幾何学の座標と射影幾何学の座標――仮に射影的座標と呼ぶ――とは本質的に区別されなければならぬ。今数とは独立な二つの幾何学的構成によって一直線上に点の位置を決定することを夫々和及び積と定義すれば、任意の単位をとる時、この直線上の或る一点を除いた凡ての点は、この和及び積に関して一つの領域(field)をなすと考えられる。然るに他方に於て数体系も同じ領域を造る数から成り立ち得るから、数体系は又一つの領域と考えられる。それ故もし直線上の点の領域と数の領域とを一対一の関係―― isomorphie の関係――に置くならば、直線上のかの一点を除いた凡ての点を数に対応せしめて之を数と全く同様に論じることが出来る筈である。之を射影幾何学に於ては非等質的座標という。今若し除かれてあった特異点――無窮遠点――の特異性を取り去るためには各々の点に夫々一双の数を対応せしめるならば、直線上の凡ての点は例外なく数の一双と対応することが出来る。之を等質的座標という。さてこのような射影的座標はデカルトの座標と同じではない。何となれば後者に於ては数と要素とが幾何学的な乃至は他の如何なる数学に固有な手続きにも依ることなくして直接に対応する。数と直線との対応に於て吾々が先験的に許さねばならぬものはこのような直接さである。然るに前者に於ては対応は決してこのような意味に於て直接ではない。多くの数学者が注意するようにそれが一定の幾何学的な構成を通じて始めて持ち来されるのであるからその対応は間接であると云わなければならない。処が向に計量は後者の場合の如き直接の対応に外ならぬことが明らかとなっている。従って前者の対応は質的となる。射影的座標は質的である。射影幾何学が計量幾何学を含むとは唯だこの質的な座標を通じてのみであると思う。然るにポアンカレは射影幾何学が直線の概念に基く故に質的ではないという、「計量によらない限り、即ち尺度と呼ばれる道具を線の上に滑らせるのによらない限り、その線を直線と確定することは出来ない。尺度とはとりも直さず計量の道具なのである」(Dernire Pense, p. 58)。即ち直線は計量によって始めて曲線から区別されるからして量的であると主張する。併し明らかに射影幾何学は直線と曲線とを区別して特に直線をその基礎に置くのではない。茲に必要なものは直線ではなくして異なる線である。二点によって一義的に決定される要素之が線である。併し又吾々はこの線を特に曲線と考える理由を何処にも持っていない。それは或る意味で矢張り直線と考えられる理由はあるであろう。けれどもその故に量的であるのではない。このようにして射影幾何学が量的と考えられる根拠は何れも薄弱である。射影幾何学は質的である。それ故之は又純粋幾何学或いは総合幾何学の名を以て呼ばれているのである。

向に明らかにしたように位置解析(Topologie)は連続の公理の上に立つ。然るに又其の後に連続の公理の導入が計量幾何学の成立する一つの条件であることも明らかとなっている。従って位置解析は量的であると考えられるかも知れない。併しながら私は連続の公理の導入が何故計量幾何学の成立となったかをもう一遍思い出して見る必要がある。即ち合同の公理が数体系の導入を意味し従って数連続体の導入を意味したが、この数連続体の導入を云い表わすものとして、そして唯だその限りに於て、連続の公理が見出されたのであった。それ故この場合の連続の公理とは数連続体に就いての公理に外ならない。幾何学的要素――それは数ではない――そのものの連続を云い表わす公理ではなかった。然るに位置解析が基く連続の公理は幾何学的要素そのものの連続を定立する処のものでなければならない。であるから位置解析は連続の公理に基く為めに却って質的幾何学であることが明らかとなる。ポアンカレの如きは之を唯一の質的幾何学と考えた(射影幾何学に於て連続の公理を許すか許さぬかはこの考察を利用して決定出来る――前を見よ)。それでは二つの質的幾何学、射影幾何学と位置解析、との間にはどういう区別があるか。まず位置解析は如何なる幾何学にも益して根源的であると考えられる(Poincar, R. Carnap, O. Becker, etc. etc.)。然るに射影幾何学も亦根源的と考えられなければならない理由がある(田辺元博士、幾何学の論理的基礎、Russell, etc. etc.)。何れが根源的であるかを決定することは困難であると思う。私は別の見方からして両者の区別を見出したい。射影幾何学の公理は要素の関係を与えると同時に要素そのものを生産する。公理とは dfinition dguise である。二つの点が一つの線を決定するという公理は、点と線との関係を与えると同時に、点及び線の定義でもある、即ち点及び線を生産する力を持っている。即ち射影幾何学の凡ゆる要素は射影幾何学自身が構成したものであって他から与えられたものではない。例えば或る与えられた面に就いてその射影幾何学的性質を論じようとすることは不可能である。何となれば構成された要素でないものは射影幾何学の対象とはならないからである。処が位置解析に於ては定立されているのは要素の連続だけであってそれによっては種々なる要素――曲線とか立体とかいう――は生産されない。このような対象は何処からか与えられなければならない。之が与えられて始めて之に就いて新に諸々の公理―― Existentialaxiome, Zerlegungsaxiome 等(Dehn, Topologie; in Pascals Repertorium d. hheren Mathematik. 参照)――が提出される縁を得るわけである。それでは対象が与えられるとは何を意味するか。それが経験から来るか又は純粋直観から来るか或いは又何か他のものから来るかは問題の外として、与えられるとは公理によって生産される処の要素乃至対象に他の要素乃至対象が偶然付加されるということに外ならない。今位置解析に於て連続の公理によって生産される処の対象は空間の連続であると云うことが出来るであろう。それでは之に偶然付加されるものとは何か。それは空間内の任意の個体としての図形であると思う。位置解析に於ては対象として任意の個体としての図形が与えられているのである。結合(Konnexus)というような概念は一つの図形に於て、而も他とは独立な個体としての図形に就いてのみ許されるものである。射影幾何学は空間一般の関係を論じると云ってよいが、空間一般の関係と云っても図形を離れて之を攫むことは出来ない。併しこの図形は一般的な関係の一例として構成されるのであって、決して個体としての独立性を有っているのではない。一つの対象が二つに切り離されるということは射影幾何学に於ては無意味と云わねばならぬ。それ故与えられるとは個体が与えられるのである。位置解析はこのような意味での図形に関係し、之に反して射影幾何学は空間そのものに関係すると云うことが出来るであろうと思う。さて幾何学の対象が空間であることを仮定するとすれば、空間と空間内の図形との区別に基くこの区別、射影幾何学と位置解析との区別は、あらゆる幾何学的対象に就いて見出されるべき最も根本的な区別でなくてはならぬ。であるから位置解析的であるか否かが幾何学の分類の最も本質的な標準である。質的か量的かの問題はその後始めて起こる。もし或る幾何学が位置解析に属すとすればそれは質的であり、もしそれが位置解析に属さないとすれば、計量を含まぬ時は質的であり計量を含む時は量的となる。幾何学は略々このようにして分類出来るのではないかと考える。

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