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私は今現代哲学に就いて、教師風の説明を与えることを目的としているのではない。無論おのずからそういう結果になった部分もあるし、又そうなることを避けねばならぬ理由もないのだが、併しいつも私にとって、もっと遙かに大事な問題は、吾々が実際に生活しているこの現在の社会に触れて発生する処の、時事的な或いは又原則的な問題なのであって、こうした時事的又は原則的な問題をば、時事的で且つ原則的な形で(そしてさし当り之が本当の「哲学的」という言葉の意味でなければならないと思うのだが)解決してみようという企てなのである。ここに集めて分類した論文の内容は決して自信のあるものではないが、併し今云ったその意図に於ては、決して曖昧ではないと思う。

現代の時事的又原則的な問題を哲学的に取りあげようというこの意図を、簡単に云って、哲学的評論又は科学的批判と呼んでもいいだろう。曾て文明批評とか文化の批判とか云われたものも、実はこういう形によって理論としての資格を有てるようになるのではないかと考える。尤も哲学は科学からどう異るかというようなスコラ的質問も出るかも知れないが、私がここで問題とする哲学というのは、文芸や科学又其の他の社会現象と並んで、何かの態度に立って批評される一対象物に過ぎないような云わば哲学プロパーを意味するのではなく、却ってそうした一切の現象を批判の対象とするような、生活の一種の態度そのもの、或いは少なくとも思想の態度そのものを意味するのである。つまりここで問題になる哲学は、統一的な推進力を持った世界観から始めて、普遍的で科学的な、即ち実際的な解決力を備えた方法までを、意味している。哲学プロパーは、こうした「哲学」による処の批判にとって、必要な参考資料ではあるが、他面その単なる一材料に他ならないとも云える。

世間の或る人達は、生活に於ける思想の意義をあまりハッキリと捉えていないようである。だが思想は決して単なる観念や何かではないので、世界に対する吾々の生活反応(それが世界観というものの意味だ)であり、又この生活反応に於て発生する問題の解決の唯一の手段(それが論理というものだ)なのである。哲学はこうした意味に於て思想なのだ。処で、一切の現象に対応する観念には、必ず思想が潜んでいる。この思想によってこうした観念は生き又客観に対応する客観性を持つのである。文芸現象などに於ては近来この点が最も強調されていいのではないかと思う。

統一的な推進力を持った世界観、普遍的で実際的な解決力を備えた方法、と云ったが、俗間の多くの批難と注文とに拘らず、私は今以て、或いは寧ろ近来増々、透徹した唯物論だけがその資格に値いする唯一のものであることを経験しているのである。ただこの書物などに現われている限りでは、唯物論のこの透徹力に追随することが、遠く私の思想的エネルギーの及ばないものであることを示していはしないか、を恐れるだけだ。

ここに載せた論文の内には、今では却って私自身反対しなければならぬような見解も含まれている。例えば第一篇の「自然弁証法」などがその最も著しいものだ。之に就いてはまだ充分に私見を決めかねているが、仕事の上での友人達や敵対者さえの助言を利用して、ひとりこの問題に限らず、フランクに客観的に自分の思想水準を高めることに力めたいと考えている。読者には、この本から充分な問題の解決を期待して貰っては困るのであるが、併しここに緒口を見せているだろういくつかの示唆が読者の眼に止まるならば、その示唆を実現するに役立つような、意味のある批評を下して欲しいと願っている。

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之は曾て二年程前に大畑書店から『現代のための哲学』と題して出版したものの改版である。「世論の考察」・「ファシズムのイデオロギー性」・「共通感覚と常識」・「純文学の問題」の四つは、あまり特殊な問題に渡った小論文なので、之を除いて、代りに「哲学の話」という講話風の文章を入れた。書物全体の表題を『現代哲学講話』と改めるに之が相応しいだろうと考えたのである。

第一篇は主として自然科学に関し、第二篇は主として社会科学に関し、第三篇はジャーナリズム現象の理論的分析であり、第四篇は哲学自身に関するものである。

一九三四・一一東京戸坂潤

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