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ディーツゲン ヨゼフ Josef Dietzgen(一八二八―一八八八)

ドイツのプランケンベルクに生れた。父は鞣皮業。一八三二年父と共にウッケラートに移り、従前通りの事業に従事しつつウッケラートの小学校に通学、後ケルンの高等小学校に暫く在学した。其後半年程厳格なる教育のために語学校に送られた。幼年期には至極粗暴であったが、少年期に入るに及んで温順となり鞣皮工の労働の傍ら文学、経済学、哲学等の研究にいそしむ。一八四五―四九年の間独学でフランス語を学び、フランス経済学者の研究を通じて社会主義に傾倒し、後マルクス・エンゲルスの共産党宣言を読むことによって明白な階級意識を有った社会主義者となる。一八四八年の革命に参加したために一八四九年アメリカに亡命せざるを得なくなり、其処で鞣皮工、ペンキ職、教師等の労働にたずさわりながら各地を放浪し、英語を修得した。一八五一年故郷(ウッケラート)に帰り二年後愛妻を有つ。ウィンターシャイトで貿易商、鞣皮工等の職を営む。一八五九年再び渡米して南部地方に住む。間もなく南北戦争の際北方に同情する彼は故郷に帰る(一八六一年)。そこからセントペテルスブルクの官営製革場の監督としてロシアに招かれ、軈て又ドイツに帰来、ジークブルクで独立の鞣皮工場を経営す。後再びセントペテルスブルクを訪れた。ロシア滞在中主著『人間の頭脳、労働の本質、一職工の書ける。純粋理性及び実践理性の再批判』(Das Wesen der menschlichen Kopfarbeit, dargestellt von einem Handarbeiter. Eine abermalige Kritik der reinen und praktischen Vernunft, 1869―山川均訳、弁証法的唯物観)を書く。これは絶筆たる『哲学の実果』(Das Akquisit der Philosophie, 1887―山川均訳、哲学の実果)とともに、彼の哲学の基礎的叙述であり、ヘーゲルおよびヘーゲル以後の弁証法、唯物論的弁証法、唯物史観、階級闘争等の基礎的検討と解明とである。人間の精神に真に固有な思惟方法は、感性的事物に即したそれであり、即ち経験的な帰納的な夫れである。それが事物の連関と交互関係との理論としての弁証法に外ならぬ。思惟を存在から絶対的に引き離して了えば、カントの物自体という如きものも生じて来るが、之は同語反覆に外ならない先天主義の結果にすぎない。論理学は形而上学の領域を去って自然科学の領域に移されねばならない、と。エンゲルスの云うように、マルクス、エンゲルスやヘーゲルからさえ独立に、この独逸の一労働者は弁証法を再発見したのである。尤も、彼の弁証法には多分にシェリング風の同一哲学やスピノザ風の汎神論が混入しているのであり、対立の代りに調和を、絶対的なるものの代りに相対的なるものを強調し、従って或る意味に於ては唯心論と不可知論とを許容するかのように見える。夫にも拘らず其核心は全くマルクス主義的な唯物論的弁証法に帰着する。彼はセントペテルスブルクに在って「カール・マルクスの資本論」なる論文を Demokratisches Wochenblatt 誌(一八六八年)に寄せている。マルクスは一八七二年のハーグのインタナショナルに於いて派遣委員たるディーツゲンを「吾等の哲学者」として紹介し、資本論二版の第一巻序文(一八七三年)には彼の名を挙げ、一八七五年には自らジークブルクに彼を訪問している。フォイエルバハも亦彼に大きな影響を与えた友人であり彼との交通もあった。フォイエルバハが貧困のうちに死んだ(一八七一年)のを聞いてディーツゲンは泣いたとさえ伝えられている。一八七八年ヘーゲルとノビリンクの独逸皇帝狙撃事件の折、ケルンに於いて彼がなした扇動演説「社会民主主義の将来」の廉で逮捕され、三ヵ月間投獄された。なお又当時は事業に失敗したので、長子をアメリカに送って生活資金を得ているような次第であった。一八六九―八四年間のジークブルク居住中、経済と哲学とに関して多数の論文を書き、Volksstaat, Vorwrts, Sozialdemokrat, Neue Gesellschaft, Neue Zeit, New York Volkszeitung 等の諸誌に之を発表し、又多数の冊子を出版した。その主なるものは「社会民主主義の宗教」、「市民社会」、「国民経済」、「ハインリヒ・フォン・ジーベに対する公開状」、「無信仰者の信仰に就いて」等である。之等によれば宗教は社会民主主義の精神に基いて改革されるべきであり、又倫理学も社会的な基礎に立って研究されねばならない。一八八〇―八三年に亘って、二連の書信の形を有つ『論理学書翰、特に民主主義的プロレタリア的論理学』(Briefe ber Logik, speziell demokratisch-proletarische Logik)を書いている。之の後半はプロレタリア的見地から、経済学を取り扱ったものである。

一八八四年三度渡米、ニューヨークに於てアメリカ社会党の機関紙『社会主義者』の主筆となる、一八八六年シカゴに移るまで其位置に止まる。一八八六年シカゴで『社会主義者の認識論の領域への進撃』(Streifzge eines Sozialisten in das Bereich der Erkenntnistheorie, 1887―石川準十郎訳、マルキシズム認識論)を書き、翌年絶筆たる『哲学の実果』を脱稿した。同年シカゴ無政府党事件によって『シカゴ労働者新聞』の編集者達が逮捕されるに及び、社会党は無政府党と絶縁しようと欲したが、ディーツゲンは却って自らその主筆となることを申し出てその位置に就いた(当時社会党のゾルゲと交わる)。彼は同誌に拠って社会主義者と無政府主義者とが必ずしも相容れないものではないと説き、ために一部の社会主義者の反対を買った。併し、元来彼の哲学によれば、「ただ適度の区別だけが二つのものの矛盾対立を解くことが出来る」、絶対的な本質的な区別は形而上学に陥るものであった。無政府主義を社会主義から絶対的に区別して、之を単に排撃するのは正しい政策ではない。なる程無政府主義を終局目的とするのは愚の至りであるが、併し之が社会主義の前段階として価値を有つことを忘れてはならぬ。無政府主義の背後に之を超えて、社会の共産主義的秩序を欲する者こそ真正のラディカリストである、この場合自分が無政府主義者であるか社会主義者であるか又共産主義者であるかは、単に言葉の綾に過ぎない。そう彼は云っている。

政治的活動家としてのディーツゲンはアメリカの社会党のためには忘れることの出来ない恩人であるが、学徒としての彼が弁証法を高調した点で哲学の領域に於ける功績が大であったことは前述の通りである。併しそればかりではなく、彼は経済学の領域に於ても之に劣らぬ学的功労を有っている。彼の烱眼は夙に近代資本主義的生産方法の帰趨を洞察していたのであり、アメリカを目してブルジョア社会の「未来の土地」であるとなし、之が何時かは全ヨーロッパの脅威となるだろうと云っている。「全ヨーロッパはアメリカ人の遊山地となり、アメリカに向ってヨーロッパから労働者が送られ、之に反してヨーロッパに向ってはアメリカの大ブルジョアが押し寄せるだろう」と。云う迄もなく今日此予言は、可なりの程度に迄応えられつつあるのである。全集は息子のオイゲン・ディーツゲンによって編纂された Josef Dietzgens Gesammelte Schriften, 1922, 三巻である。

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