天然色映画讃――色彩映画の問題
劇と映画を比較することは、或いは無意味であるかも知れないけれども、私はと角二つを比較して見たくなる。その際私は劇の側に極めて多くの不自由さを感ぜざるを得ない。物質上の制限が舞台には多いのだ。文化的には之が約束とか伝統とか、又観る側からすれば教養とかにもなるものだが、之が多分に舞台というジャーナリズム様式の物的制限の不自由さに基いたものであるという点を、率直に承認すべきだろう。併しそれにも拘わらず、私は劇(主に広義の新劇だが)を観た直後に映画を見る気はしないのである。何も之は映画が芸術的に低いとか、文芸的価値に乏しいからというわけではない。仮にそういう価値が低くても乏しくても、映画に対する私のひいきに変りはない。で色々自分を検査して見て判ったように思われるのだが、劇が映画の追随を許さぬ魅力を有つ点は、正に色彩の自由という処にあるのである。
最近「ラモナ」や「沙漠の花園」が来たことを機会にして、色彩映画或いは特に天然色映画に対する関心が大いに高まったようだ。私は「ラモナ」だけしか見ないが、無条件に天然色映画の左袒者になれると思う。天然色と雖も染料の濃度は着色法が自由なわけだから、多少の誇張はありがちらしいが、併しこの種のデフォルマションは絵画的である以上、悪くないことだし、又却って良いことかも知れぬ。無色映画だって、ただの実感よりもズット陰影が誇張されていて、それが写真の魅力をなしていることを思わねばならぬ。尤も映画固有な現物的なリアリズムから云って、色彩の或る程度以上の誇張はインチキ性を孕んで来るが、併し写真機の暗箱の底に写る倒影に見られる程度の光彩の集中は、慥かに良いものだ。
テクニカラーと色彩別を利用した立体映画とは、技術的に両立しない。だがテクニカラーを見てまず気のつく点は、色彩のおかげで遠近法も著しくハッキリするということだ。之は相当に立体感を再現しているから、或る程度まで立体映画の代りをつとめる。少くとも例の「飛び出す映画」の如き「立体映画」よりも却って立体性に於てリアリスティックなのだ。
天然色映画が無条件に優れているに拘わらずまだ支配的にならぬのは、恐らく全く経済的(その意味で又技術的でもある)困難からだろう。だが或る程度の数の天然色映画が造られ始めたら、もはや天然色映画でなければ商売にならなくなると思う。私の素人感ではまず二三年で天然色時代が来るような気さえする。
トーキー出現当時にサイレント映画の芸術的優秀性を立証しようという妙な「美学」もあったらしいが、天然色映画に対しても無色映画を讃美する「美学」があるらしい。だが夫は、貧乏の方が心が静かでよい、というような倫理学の類だ。
(一九三七・四)(七〇号、一九三七・五・一)