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カラマゾフの兄弟 01 上
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カラマゾフの兄弟 01 上
ドストエフスキーフィヨードル・ミハイロヴィチ
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 2 of 40

作者より

この物語の主人公アレクセイ・フョードロヴィッチ・カラマゾフの伝記にとりかかるに当たって、自分は一種の懐疑に陥っている。すなわち、自分は、このアレクセイ・フョードロヴィッチを主人公と呼んではいるが、しかし彼がけっして偉大な人物でないことは、自分でもよく承知している。したがって、『アレクセイ・フョードロヴィッチをこの物語の主人公に選ばれたのは、何か彼に卓越したところがあってのことなのか? いったいこの男が、どんなことを成し遂げたというのか? 何によって、誰に知られているのか? いかなる理由によって、われわれ読者は、この人間の生涯の事実の研究に時間を費やさなければならないのか?』といったたぐいの質問を受けるにきまっていることは、今のうちからよくわかっている。

この最後の質問は最も致命的なものである。それに対しては、ただ、『御自分でこの小説をお読みになられたら、おそらく納得なさるであろう』としか答えられないからである。ところが、この小説を一通り読んでも、なおかつ納得がゆかず、わがアレクセイ・フョードロヴィッチの注目すべき点を認めることができないといわれた暁には、どうしたものか? こんなことを言うのも、実はまことに残念ながら、今からそれが見え透いているからである。作者にとっては、確かに注目すべき人物なのであるが、はたしてこれを読者に立証することができるだろうか、それがはなはだおぼつかない。問題は、彼もおそらく活動家なのであろうが、それもきわめて曖昧で、つかみどころのない活動家だというところにある。もっとも、今のような時世に、人間に明瞭さを要求するとしたら、それこそ要求するほうがおかしいのかもしれぬ。ただ一つ、どうやら確実らしいのは、この男が一風変わった、むしろ奇人に近い人物だということである。しかし、偏屈とか奇癖とかいうものは、個々の特殊性を統一して、全般的な乱雑さのうちに、ある普遍的な意義を発見する能力を、与えるというよりは、むしろ傷つける場合が多い。奇人というものは、たいていの場合に、特殊で格別なものである。そうではないだろうか?

そこで、もしも読者がこの最後の主張に賛成なさらずに、『そうではない』とか、『必ずしもそうではない』と答えられるとすれば、自分はむしろわが主人公アレクセイ・フョードロヴィッチの価値について大いに意を強うする次第である。というのは、奇人は『必ずしも』特殊なものでも、格別なものでもないばかりか、かえって、どうかすると彼が完全無欠の心髄を内にもっているかもしれず、その他の同時代の人たちは――ことごとく、何かの風の吹きまわしで、一時的にこの奇人から引き離されたのだ、といったような場合がよくあるからである……。

それにしても、自分は、こんな、実に味気ない、雲をつかむような説明にうき身をやつすことなく、前口上などはいっさい抜きにして、あっさりと本文に取りかかってもよかったであろう。お気にさえ召せば、通読していただけるはずである。ところが、困ったことには、伝記は一つなのに、小説は二つになっている。しかも、重要な小説は第二部になっている――これはわが主人公のすでに現代における活動である。すなわち、現に移りつつある現在の今の活動なのである。第一の小説は今を去る十三年の前にあったことで、これはほとんど小説などというものではなくて、単にわが主人公の青年時代の初期の一刹那のことにすぎない。そうかといって、この初めの小説を抜きにすることはできない。そんなことをすれば、第二の小説の中でいろんなことがわからなくなってしまうからである。しかも、そうすれば自分の最初の困惑はいっそう紛糾してくる。すでにこの伝記者たる自分自身からして、こんなに控え目で、つかみどころのない主人公には、一つの小説でもよけいなくらいだろうと考えているのに、わざわざ二つにしたら、いったいどんなことになるであろう。それにまた、自分のこの不遜なやり口を、どうして説明したらよいであろう?

自分はこの問題の解決にゆき悩んだあげく、ついに、全く解決をつけずにいこうと決心した。もとより炯眼な読者はすでに、そもそもの最初から私がそんなことを言いそうだったと、早くも見抜いてしまって、ただ、――なんのために、むやみに役にも立たない文句を並べて、貴重な時間を浪費するのかと、私に対して腹を立てられたであろう。しかし、これに対しては、はっきりとこうお答えしよう。すなわち自分が役にも立たない文句を並べて、貴重な時間を浪費したのは、第一には儀礼のためであり、第二には、『何はともあれ、あらかじめ何か先手を打っておこう』という、ずるい考えによるのであると。

もっとも、自分は、この小説が、『本質的には完全な一体でありながら』おのずからにして二つの物語に分かれたことを喜んでさえもいるのである。読者が最初の物語を通読された以上、第二の物語に取りかかる価値があるかないかは、すでにおのずから決定されるであろう。いうまでもなく、誰ひとり、なんらの拘束を受けているわけではないので、最初の物語の二ページくらいのところから、もう二度とあけてみないつもりで、この本を放り出しても、いっこうさしつかえはないのである。しかし、公平な判断を誤るまいとして、ぜひとも最後まで読んでしまおうというようなデリケートな読者もあるのではないか。たとえば、ロシアのあらゆる批評家諸君がそれである。かような人たちに対しては、なんといっても気が楽である。つまり、彼らがどんなに精密で良心的であろうとも、やはりこの小説の第一の插話の辺で本を投げ出すのに最も正当な口実を提供しておくわけである。さあ、これで序文は種切れだ。自分はこれがよけいなものであるということに全く同感ではあるが、せっかくもう書いたことでもあるから、これはこのままにしておこう。

さて、いよいよ本文にとりかかろう。

Chapter 2 of 40
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