戻る
鳴雪自叙伝
Table of Contents
鳴雪自叙伝
内藤鳴雪
Reading Settings
文字サイズ
18px
テーマ
ライト
ダーク
セピア
ナイトアイ
行間
読書モード
翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 10 of 27

九

世子は当時、家茂将軍の長洲再征の御供として、京都に一隊の藩兵を率いて滞在して居られたので、私もそこへ行って勤務をすることになった。私と同時に小姓を命ぜられた者は岡部伝八郎、中村勘右衛門、野口勇三郎であったから、この四人が三津浜から大阪行の藩の船に乗り組んだ。この船は何時もの荷船ではなくて、関船といって、常には君公か、家老の乗るのであるが、折節船の都合でそれへ乗せられた。勿論同船者は他にもあって、物頭役の戸塚甚五左衛門とか、平士の長野、岡部、伊佐岡とかいう者も乗組んでいて、戸塚はじめ我々の家来なぞもあるから、随分多人数が乗ったのである。戸塚はモウ老人であったが、大いなる瓢箪酒を持ち込んで、ちびりちびりと飲んでいて、折々私どもへもくれたが、私はその頃全くの下戸で、もし猪口に二つか三つも飲めば吐くという位であったから、断って一口も飲まなかった。関船にはちょっとした座敷造りの狭い間が二つもあって、上の間は戸塚一人で占領し、次の間に私どもの小姓四人が居た。それから平士の三人は舷の或る間に居て、また他の舷には大勢の家来が居た。この家来は、下等な者であるから、退屈の余りには種々の噺しを始めて、中にはのろけ噺しもするし、随分猥褻なこともいっているので、私は始めてそんな噺しを聞いて面白くもあったが、また厭わしくなって来た。この海路はさほど長くかからずに大阪へ着いた。私は出立の頃から少し風邪を引いてるように思っていた、それが段々と熱も加わって、終に一日おきの間歇性即ち瘧となった。私は前にもいった如く、父の看病に京都へ行った時既にこの瘧に経験があるので、そこで自分で治す事も出来ようと思って、ちょうど備後の鞆の津に滞船した時、自分で陸へ上って薬屋で幾那塩を買った、この港は例の保命酒の本場であるから、彼方此方に土蔵造りの家屋も見えて、かなり富んでいるように思われた。それから例の如く幾那塩を飯粒の中へ入れて丸薬にして、かつての記憶の如く三度に飲んだ。後から思えばこれは、劇薬の部で分量もよく調べねばならないのに、大概の目分量で飲んでしまったが、別に害ともならず、翌日から全く熱が下った。そのうち大阪へ着いたから、これからはいつもの三十石の夜船に乗るはずなのだが、長州再征なぞの公用のために殆んど空いている船がないというので、終に一晩大阪の藩邸に泊って翌日は陸路を伏見へ行くことにした。これからは同船した一行も銘々勝手に行くことになったが、我々の同僚四人は連れ立つことにして、いずれも歩行で枚方に昼餉をしたため、それから伏見へ着き、なおその足で京都まで行った。この里程は十三里もあるのだから、同行中の年少者たる野口は時々歩き悩んで、路傍の草の上へ倒れたこともあった。しかるに私は瘧が落ちて間もないのだけれど、さほど弱りもせず、他の人々に比して後れずに歩いた。私は今でも足はかなり達者だが、他の身体の割合に足が比較的丈夫なということは、この頃からもそうであったのだ。

世子の本陣は、前年と同じ寺町の或る寺であって、その供方の者どもは、いずれも近傍の寺々を借りて置かれていた。そこで私どもはその本陣へ行って到着のことを届け、同僚はじめ他の役々へも挨拶して、それから同僚どもの居る或る寺へ下がって旅装を解いて、いよいよそこへ落着くことになった。同僚は我々どもを加えて二十三、四人も居たろう。先輩では木脇兵蔵、野沢小才次、菅沼忠三郎、それから小林伊織、山本新三郎、この二人は私の従弟である。また小姓の上に立って君側の監督等をしている側役なるものも三、四人あったが、その中に下村三左衛門というは私の叔父である。その他にも前から顔を知っている者もあるので、兼ていう如く内気な私でも、さほどの心配もなく、最初より親しく交際もした。その上に、私は漢学が出来ているということは多少知られていたのだから、同僚中でも漢学の出来る者は最初からそんな話もするし、その他の人々も何ほどか新参扱いにしなかった。なお一つには父が枢要の位置に居るということにも御陰を蒙っていたのであろう。父もその時やはり世子の御供をして、目付と側用達とを勤めていたのである。

翌日からいよいよ小姓の勤をするのだが、従来の例としてまず見習いということをさせられる。これは同僚の詰所の一方へ新参の者を並ばせて、何事もさせず、ただ先輩の同僚の執務するのを見せるばかりである。この時間は口をきくこともならず厠に行くのも断って行く、弁当も古参から食べといわれねば勝手に食うことは出来ない。そうして肝腎の君側の執務は間を隔てているから、何らも知れないのである。つまり太平の余習として何に限らず、古参は新参に威圧を加え、それで位地を保つというような弊が、この小姓などの仲間にもあったのである。この見習いは常なら五日ばかりもさせられるのであるが、軍事を兼ねた旅行先であるから、我々のは二日ばかりでモウ見習いを免された。そこで翌日から世子にも拝謁して直々に御言葉も給わるし、また三度の御膳の給仕もするし、寝床の出し入れから衣服の取扱いまでをするのである。この君側のことはなお次ぎに詳しくいおう。

小姓の勤めは、朝番というのが、六ツ時から午後の八ツ時まで、八ツ番というのが八ツ時から夕の六ツ時まで、宿番というのが六ツ時から翌朝の六ツ時まで、互に交代したものである。そうして宿番は宵のうちこそ世子も起きられているがその後寝床へ入られても、小姓は不寝番というをせねばならぬ。そこで宿番を宵前、宵後、暁前、暁後と四ツに別けて、代りやって不寝番をする。この不寝番は一人で、他に介というが一人ある。世子が夜中厠に行くといわれると、不寝番が、直に寝ている介を起して、二人でその用を勤めるのである。僅かな距離の厠でも、一人は脇差を持っていて、厠に入られた間はその外に待っている。モウ用達が済んだらしい音がすると、一人は厠の中の手洗鉢のある所まで行って、世子の手へ水を濺ぐ。それから床に入られると、もとの如く一人は起きて、一人は介だから寝るのである。この不寝番は、以前はそんなこともなかったらしいが、世子の側に附くものは、文武を励まねばならぬというので、不寝番でも読書することは許された。尤も黙読である。また寒中は火鉢を置くことを許されたのみならず、ちょっとしたドテラ見たようなものを背に着ることも許されていて、それを御不寝羽織といった。この宿番は小姓の外側役も一人居る。側医師というも一人居て、これは小姓の中へ交って不寝番もせねばならなかった。医者で思い出したが、私の京都に着した頃から、風邪が流行していて、我々の同僚も風邪に罹り、遂に前後して誰一人罹らぬ者もないようになった。こんな時は無論引籠りといって、届さえすれば本復するまで勤をせないでもよいのである。私も数日床に就いた。この同僚の居る所は、二十三、四人が三室ばかりに襖を外したままで居るのだから、寝床を敷けば殆んど足の踏場もない位に窮屈であった。そんな風だから風邪の伝染しやすいのは尤である。この頃の風邪の薬は例の葛根湯で、少し熱が強ければ、セキコウを加える。咳がすれば杏仁を加える。この外多少蘭方を知っているものは、葛根でなくて茅根を用いて茅根湯といっていた。

前にもいう如く、小姓の勤めといっても随分暇があるのだから、その時は外出も勝手次第にしていた。遥か前の号で、江戸藩邸の勤番者の非常に外出の束縛を受けていた事を話したが、この頃はこんな旅行の出先では、余り束縛もなく全く出入自由である。けれども、将軍再征に関する陣中ということは誰れしも心得ているし、長だった者からも監視を加えるからさほど遊蕩に耽ける者はなかった。就中世子の側に仕えているものは、一層謹慎しているから、外へ出て酒を飲むといっても、その頃から流行出した、軍鶏とか家鴨とかの鍋焼き店へ行く位のものであった。稀に一、二の人はそれ以上の料理屋めいた所へも行ったらしく、帰って来て酔った余り唄の一口か踊の真似をする者があったが、周囲からは眉をひそめて厭わしく見ていた。この者は世子が帰城すると直に免職となった。そんな風で、我々は暇があればまず読書をする。また少しは時世論などもする。また詩歌の出来る者は和歌を作り、詩を作る。同僚中で詩の出来る者は、前にいった菅沼と従弟の山本と、この外に中村粂之助、側役では宮内類之丞、石原量之助、また余り作りはせなかったが、叔父の下村も多少詩を知っていた。それで私は例の時世を詠じた詩や、松山出発以来の途中の詩や、なお着京以来聞き噛った時事の問題に渉る詩などを見せたり互に次韻をしあったりして、いよいよ同僚中でもこんな才のあることだけは認められた。

この頃の京都は彼の長洲兵が、禁門に発砲した騒動で、その残党を捜索するという事から殆んど人家の大部分を焼き払った後であるので、段々と人家も出来てはいたけれど、皆粗末な板屋葺きで、所々に焼瓦の散っている空地もあった。しかし今日でいう新京極一帯の地は、小芝居から浄瑠璃、落語、その他の興行物や飲食店はなかなか盛んであった。そうして私どもの寓所よりも近かったので、誰も外出すれば、このさかり場を逍遥したものである。私は最前父が京都留守居の時こそ、家来に舁がれてしばしばここへ見物にきたのであるが、今度は文武を励む世子の側仕えをしているという自重心から、芝居浄瑠璃その他の見物は一切せなかった。ただ或る葭簀張り店で蒸し鮓を売っているのを一度食べて、美味かったから、外出すればそれを食べるのを何よりの楽みとしていた。この外は或る時人に誘われて、四条あたりで汁粉店へ入ったことが一度あるのみである。そこで或る時父に出逢った際、(親子でも勤め向が異うから昼夜別居していて逢う事は稀れであったのだ。)父が雑用が要るなら遣ろうかといったが、私は一ヶ月に貰う四両ばかりの金を、右の蒸し鮓代の外何も遣わぬから、遣い道に困っている位なのでその事をいったら、父が笑っていた。実は漢籍などには欲しい物もあったのだが、藩の城下では自ら買い物するという習慣が余りないので、なんだか本屋へ行くのも間の悪い気がして、それも買い得なかった。これは次の旅行からは、多少腹が太くなって、色々漢籍を購うこともして、それを買い過ぎたといって父から叱られたこともあった。

家茂将軍の再征は、誰れも知る如く、種々なる事情があって、将軍は京阪に滞留したまま進退谷まるという立場になられたのであったが、終に長防へ討入りという事になったので、松山藩は海路四国の先手を命ぜられた。そこで世子は父たる藩主のこの軍事を補佐したいといって、幕府に願われたので、帰藩する事を許された。

そこで我々どもも世子に従って京都を出発し、伏見からは、小船で大阪へ着き、それから、藩の方から廻してある関船やその他の船に乗った。尤も君側の者は、前にいった当番をせねばならぬのだから、常に世子の関船に離れないようにしていて、この船も御召し替えという同じ型の関船であった。私は十一歳の時から既に大阪と藩地との航海をした位であるに、船には最も弱く、モウ乗ったと思うと心地が悪くなる。こういうと、それは覆没を恐るるからだという人もあるが、いかに風波のない時でもやはり酔う。あるいはブランコに乗れば一とふりでモウ胸が悪くなる。現今の汽車でもレールが悪くて半日以上も乗っているものなら、モウ食気がなくなる。一体動揺するものに乗ることが私の体には適せぬのだ。そうして左右動は、まだよいが、上下動になると最も困るのだ。そこでブランコと船とが就中閉口せざるを得ぬことになる。けれどもこの船嫌いも、航海をする一回は一回ごとに嫌いになったので、この世子の随行は最初から七回目であったから、今日ほどは弱らなかった。そこで一日だけは世子の側で、勤務もすることが出来たが、少し風波が強くなったので、翌日からは終に引籠った。同僚の日々勤務するに対してなんだか気の毒ではあったが、終に寝たままで幾日か経て藩地の三津浜へ着いた。この海路でまず伊予国の岩城島へ着くと、これから城下まで十八里であるが、モウ松山領内に属するから、なんだか勇ましい心地がする。しかのみならず、今でいえば御馳走船とでもいうべきあまたの小船を、岩城島その他の島から出し、それを漕ぎ連らねて世子の船の案内をする。尤もこれは附近に花栗の瀬戸という難所があるから、そのためもあるのだ。そうして、そこらあたりの島で篝を焚く。ほのかに島人なども浜辺に集うて居るのが見える。これに対する快味は今日の人では判るまい。なお岩城島の山頂で世子の船が見えたというと、狼煙を揚げる。それから主なる島々が受継いで、三津浜の向うの興居島に達する。この狼煙に因って、それぞれ出迎え等の準備をするのである。世子が三津浜に着すると、船番所というがあってその座敷で休息する。そこへ家老一同が城下から来て拝謁する。それから行列を調えて城下へ入り込むのである。が、この頃は多事の世の中にもなっていたから、行列などは多少省略されていた。供に附く者なども昔の如き服装をせずむしろ陣中だという様子にしていた。

松山城は、本丸と二の丸と三の丸というがある。かつてもいった、加藤嘉明がこの城を築いて本丸やその周園の櫓等が出来た頃に、会津へ転封されて、その後を蒲生家が貰ったので、まだ出来てない二の丸を造った。この蒲生家も暫時で亡びて、その後を松平隠岐守即今日の久松伯爵家が貰ったので、更に三の丸を造られた。そうして藩主は常にこの三の丸に住居せられたから、世子はいつも二の丸住居となっていた。

この二の丸は、主なる書院が、一の間、二の間、三の間となっていて、襖やその他の張り付けが、金銀の箔を置いて立派な絵が描れていた。定めて蒲生時代の名家の筆であったろうが、無風流な青年の私は、人に聞いても見なかった。ただその廊下から湯殿へ行く処の二枚の襖は、唐木の透かしになって、大きな金の桐の紋が付いていた。これは豊臣太閤の桃山御殿の遺物が蒲生家に伝っていたのを用いたということである。世子の常の居間は最近に造ったもので、こは割合に粗末なものであった。その居間から、右の三ツの書院の縁側を通って、一段下った所が、我々小姓の詰所である。その隣室に側役の詰所がある。この二つの詰所を、御次ぎといった。この外藩政に関係する役人の詰所は、この御次ぎを離れた場所にそれぞれあって、それらの役人はこの御次ぎへは猥りに一歩も踏み入ることを許されていない。家老でさえも、世子に拝謁したいと思う時は、それを御次へ申し込んで、世子の御都合を伺って、その上で御次を通りぬけて、それから廊下を経て御居間へ赴くのである。この家老の御次ぎを通りぬける時は、当番の小姓の先輩が、面番と呼ぶ。そうすると、今まで小刀を抜いて側へ置いていささか休息していた一同が忽ち小刀を帯びてその中の二人だけ一方へ並んで坐る。その前を家老が通るが互に一礼もしない。そうして居間の外の遥か隔った所で、家老は小刀を脱いて置く、(凡て殿中では上下共に小刀のみである。長刀は君公に限り小姓が持つ。)それから、無刀のままで居間の入口から膝行して世子の側へ進んで用談をするのである。常には我々小姓が世子の居間に必ず二人ずつ詰めているが、この時だけは御次ぎの方へ下っている。そうして家老が下って次ぎまでくるや否、小姓二人は直に世子の居間へ前の如く詰るのである。居間は上の間と下の間となっていて、世子は上の間に蒲団を敷いて坐って、その側に小刀が刀架に掛かっている。長刀は少し離れた床の上に置いてある。小姓二人は下の間で世子に対って坐っていて、世子から詞を掛けられない以上一言も発せない。いつも左右の手を畳の上に突っ立てた風に置いている。膝の上にあげる事は許されない。いかにも厳しい容体で、世子を張り番しているかという風だ。世子にはさぞ窮屈だろうと思われるが、習慣上そんな事もないらしい。世子といえどもやはり行儀に坐っていて足一つ横へ出す事もせられない。口をきかぬ時は殆んど睨み合いの姿である。勿論我々の小姓は袴をはいている。世子は袴を穿かれない。それから庭へでも下りて散歩でもしたいと思われると、居間の小姓二人が必ず附添う。一人は世子の小刀を持つ。どちらへ歩まりょうが、影の形に添う如くこの二人は離れない。悪く言えば監視附きの囚人というさまだ。それから厠へ行かれる時は今もいった宿番の時の通りである。この厠についてもちょっと言うが、世子の大便所は引出しの如きものになっていて、籾殻が底に敷いてある。そうして一回一回大便を捨ててしまうので、御下男といって最下等の卒の掌る所である。これは男子たる方々の厠の式で、婦人方となると私の聞いている所では、大便所は万年壺といって深く掘って、殆んど井戸のような者であるそうだ。これは始終大便を捨てるということはない。勿論貴き人は一人一個の厠を占有せられているから、生れてから死ぬるか、もしくは他へ縁付せられるまでは、この一つの厠へ用達しをして、その人が居なくなると共に、その万年壺を土で埋めてしまうのである。かように数年もしくは数十年間の大便は深い壺に溜っているのだから、傍へ近いても臭気紛々たるものであったそうだ。

また世子の方へ立戻るが、世子は日に一回は必ず御霊前拝というがあって、この時は、袴を着け小刀を帯び、小姓は長刀を持って附いて行く。また少々不快で横に寝たいと思わるる時は、側役を呼ばせてその事を告げられる。側役が宜しう御坐りますというと、それから小姓が褥を敷くのである。褥の下には別に御畳といって、高麗縁りの少し広い一畳を敷く。これは御居間方と云う坊主があって、持ち出して敷く。そうして小姓が凡ての夜具をその上へ敷くのである。小姓も侍だから御畳には手をかけない。やはり士分以下の坊主に扱わせるのである。この坊主はその頃の風で袴は穿かず、羽織ばかりを着ている。この坊主は時々居間その他の生花をする事も役である。また世子が入湯をされる時は、湯加減その他風呂場の準備をする。それから世子の背を流したり、衣服を脱がせ浴衣を着せたりすることは小姓の役だ。もし世子が、今少し熱くせよとか、ぬるくせよといわるる時は、まずそれを小姓に告げ、小姓から坊主に告げ、坊主から風呂場の外に居る風呂焚きの仲間に告げる。世子は決して坊主に直接に口をきく事は出来ぬ。けれども実際小姓に告げらるる詞をモウ坊主はきいているから、それぞれ命令通りにするのである。世子がちょっとでも物を書かれた紙の反古は小姓が持ち下って、御火中という或る籠へ入れる。また洟をかむとか唾を吐くとかせられた紙は、これも持ち下って、御土中という籠へ入れる。これは名の如く後にあるいは焼いたり、あるいは埋めたりするのである。それから三度の食事は大概時刻も極っているからまず小姓一人が御次ぎ外の遥か隔った御膳番という役の詰所へ行って、『御手当』という。『畏りました』と御膳番が答えて、それをまた下々の役へ伝えて準備をする。少時経って世子が、もう食事を出せといわるると、また一人が走せて行って、御膳番に『御付方』と告げる。そこでいよいよ出来上った膳部を、御膳番が他の役手を引連れて御次ぎの入口まで運ぶ。すると側役がそこへ出て御膳番と対坐して御毒見をする。これは各々の膳に雛の椀や皿見たような小さな器に、その時世子の食べられる飯その他あらゆる物が少しずつ盛ってあるのを、二人で食べるのである。それが済むと、『御出方』と御膳番が叫ぶから、小姓がその膳部を受取って、世子の前へ据える。この据え方にも極った儀式がある。膳が据わると跡から飯を入れた飯櫃が出る。これも側役と御膳番とが立会で、各々口を袖で覆うて杓子を以て、掻き交ぜて検査した上で出すのである。この飯を盛る役は当番の小姓中で最先輩に限られている。また茶は坊主の今いった、御居間方の次へ付く者が兼て用意をしていて差し出す。これには何故か御毒見はない。尤もこの坊主は、御居間へは出られないから小姓が取次ぐのである。世子の膳具は黒の漆塗りに金で蒔絵がしてあって、中は朱であった。膳も同じ蒔絵である。そこで飯櫃を司っている小姓は最初の一椀を盛る時杓子で飯櫃の飯の上へ久の字を一字書く真似をする。そうして盛って出すが、盆は用いないで、椀の底の方を手で持って出す。世子は小食であったから、大抵二椀位で稀には三椀食われた。副菜は一汁二菜と外に漬物一皿と限られていたが、一椀の飯を尽されると共に一人の小姓は直に下って代りの汁椀を持って出てそれと引替える。汁の外は、平が一つと皿に焼肴とか煮肴あるいは刺身位が盛ってあるのだが、その平の蓋は必ず、小姓が取ったものである。この副菜は御膳番の方で大体好かるる物や好かれぬ物を知っているから、一度ごとに選んだものであるが、さりとて世子が何を食べたいとかいって注文される事は出来ない。もしも食べたい物があるなら、それは予め奥の方へ小姓を以て通じて、そこで調理せしめられるのである。けれどもそれも一品位に止まっていた。膳部が下った時、いかに食べ残しの物が沢山あったといっても、小姓などはそれを頂戴することは出来ないのであるが、この奥から出したものは、御次ぎへ持ち下って、残ったものは食べられる。これはいつも最先輩の一人二人の口に入るばかりであった。

今奥といったが、世子が奥へ行かれるのは一ヶ月六回に限られていた。その他は病気があっても、表の居間で臥されるので、奥へ行く事は出来ない。そうしてこの六回も昼間ではなく、六ツ時後の夜に限られていた。またこの奥といっても世子の奥方は江戸の藩邸に居られるから、御妾のみが居るので、これは世子の東西に往来せられる際、別に奥向きの役人が引連れて他の女中と共に往来したものである。ついでにいうが、大名のお妾という者はなかなか勤めにくかった者で、それは君公に対するよりも朋輩の女中と折合いが悪く、いつも女中から、いじめられた者だ。なるほど大勢の空房を守る女の中に、君公の御恩を蒙る者が一人居るのであるから、女性の妬み心はそれに集って、何とか彼とか難癖をつけて、その結果は御暇という事にもさせるのであるが、この世子に仕えていたお妾は、私の知っては長い年でもなかったから、右の御暇のあったような話もきかなかった。尤も私どもは、このお妾を始め凡ての女中の顔を見た事もない。或る式日は奥の老女と中老のみが表の御居間へ、御礼を申上げに出て来る、その顔は見る事がある。昔の風としていかに年を取っていても白粉や臙脂をつけ、なお式日に依ては額に黛を描いている事もあった。帯も何だか左右へ翅を広げたように結んでいた。その外我々が奥の女中と出逢う事は、世子の何かの御用とか、あるいは今いった六回だけ奥へ行かれる時とかに、奥と表の間の廊下の御鈴口という所で出逢うのである。この御鈴口は常には閉めて、表裏に錠が下りて、どちらからか用があれば鈴を鳴らす。すると出掛けて行くが、小姓でも最先輩でなくてはここへ行く事は出来ない。そして用事を話し合うといっても、お鈴口の敷居を互に越す事は出来ない。敷居を隔てて手を突いて話し合う。世子を奥へ送る時でもこの御鈴口限りで、小姓は例の持っている小刀を女中に渡す。それと共に世子は奥へ行かれる。お鈴口はチャリンと錠が下りる。これもなんだか囚人の受取渡しでもするような有様であったのだ。

他の藩でもそうであろうが、私の藩で家老と他の藩士とは、非常の等差のあったもので、家老はその他の藩士を何役であろうが呼び捨てにする。藩士は某様といって殆んど君公に次いだ敬礼をする、途中で出逢っても、下駄を穿いている時はそれを脱いで地上に跣足で立たねばならぬのだが、それを略して、下駄のまま鼻緒の上へ足を乗せて、型ばかり脱いだ式をした。その位の関係であったにかかわらず、世子から家老の某を呼べとの仰があれば、我々小姓の一人は直に御次ぎの外なる御家老部屋へ行って、そこに厳めしく並んでいる家老に対って、此方は片膝を折って片膝を立てたまま、一礼もせず、『某召します、』と大きく呼ぶ。家老は直に平身低頭して、畏りましたと御受けをする。この時自分は君公の命を伝うるのであるから、なかなか威張ったもので、平常家老に対して頭を下げた不平を聊か漏らす事が出来た。これは小姓の一つの役得といってもよいのだ。一体封権の世では君臣の間という事は厳重であったから、君前においては互に名を呼び捨てにする。家老であろうがまた親であろうが皆呼び捨てだ。詞遣い等も『どうしませい、こうしませい』といって決して敬語を用いない。『兜軍記』の榛沢が、『サア阿古屋立ちませい』という詞がちょうど同じだ。今の活歴芝居で、君前にありながら、『某殿』などとよく呼んでいるのは、封権時代の事実の不調べなのである。

前にもいったが、世子は文武の修業をしられていたので、武芸では私と同じ橋本新刀流の門であったから、私も御相手という命を蒙ったが、例の下手である故一度も世子との仕合はせなかった。これに反し、漢学講義とか輪講とかいう際は私も加わって相応に口をきいた。また詩会なども時々あって、それは東野の別荘で催おさるる事もあって、ちょっとした酒肴を頂く事もあった。平常でもお次ぎでは、側役を始め我々小姓も、読書することを許されていた。漢文、仮名物、その力に応じて読んだもので、少々は声を出して読むことも許された。以上は多く私の直接に仕えた世子についての様子だが、藩主といえども大概同様であって、ただ横に寝る時側役の許可を得るに及ばぬのと、奥入りを日々することの自由が異っていただけである。

そこで私も帰藩後は右の如き小姓の勤めをして、漸々とその儀式に馴れるのみならず、世子にも度々詞を交されて親しくなって、別に怖いという感じもなくなった。また私は年齢に比しては世間知らずの青年であったから、世子に対しても随分率直な答えなどをするので、その点は世子にもかえって愛せられていたようであった。

いよいよ長防討入りという事で、幕府から軍監を差下さるるようになった。元治甲子の初度の征伐は藩主が出陣して、領内の神ノ浦まで本陣を据えられたのであるが、毛利家が恭順したので、間もなく帰陣せられた。そこでこの度は世子が藩主に代って出陣したいと幕布に願い、許可を得られたので、まず三津浜まで出向して本陣をすえられた。私もその際家族と別盃を酌んでいよいよ生死の別れをした。三津浜では藩の船番所を世子の御座所となし、我々は町の人家を徴発して下宿した。これも今日の俳句生活と一つの関係だが、私の下宿は木綿糸の糸車を造る老人夫婦の小さな家であって、この老人は発句を作って何とかの俳号も持っていた。何か書物でも見せろといった時、発句で高点を取った巻などを見せた。なお小さな床には鶯居の名でこの老人へ宛てた手紙を懸軸にしていた。この鶯居は藩の一番家老の奥平弾正という人のことで、かなり発句も出来て藩以外の宗匠達とも交際をしていた。今松山に居る野間叟柳氏などもこの人の門人だと聞いている。かような御家老の手紙を、糸車造り風情が貰ったのだから頗る自慢をして床に懸けて、我々にも見せていたものである。がそれらの発句は私には何らも趣味を有たなかったのであるから、今は記憶していない。この下宿には今一人同僚の先輩たる山内駒之助というが居て、これも多少漢学をしていて、かつては明教館の寄宿舎で寮長でいた関係もあるから、殊に親しく話し合っていた。この外同僚中私の従弟の小林伊織とか山本新三郎とかもよく来て、漢学や詩文の話を仕合った事である。この小林は文章がよく出来た。

長防へ討入るといっても、海を隔てているから、船でなければならない。もうこの頃は大砲の術も漸々発達しているので今までの兵船たる関船では間に合わない。そこで兼て藩から幕府に願って、軍艦を借用したいといった結果、小形ながら蒸汽船二艘をさし越された。勿論その艦長や操縦者は幕府人が乗り組んでいた。この軍艦に藩の軍隊の一の手二の手、これはまだ旧式の隊であるが、外に西洋式の新選隊というのをこの軍艦に乗込ませ、まだ余った兵は藩の和船に乗込ませて、防州大島郡というへ向わせた。この島は敵も少し油断していて守りの兵もさほど置ていなかったので、我藩の兵はその島の上の庄というへ討ちかかって、敵が散乱したに乗じてそこを占領した。同時に幕布の方でも洋式で訓練した歩兵隊というを別の軍艦に乗せて大島郡へ向わせたのが、我藩と諜じ合せ他の港へ討ち込んだ。この大島郡は一時敵対する者がなくなったので、この捷報が聞こえると、世子は気早で多少勇気のあった人だからモウ三津浜には居たたまれず、自分も大島郡へ向おうといい出された。けれど別に適当な軍艦もないし、和船では危険だし、かつその後の様子も判らないのだから、側用達でいる父などは、今少し待たれたがよいといって諫めたが、世子はなかなか承知せられぬ。そこで城下にいる藩主からも暫く持重せよという命が下ったので、世子は渋々ながら止まれた。

この時私も生れて始めて戦場に向うのだという決心をした。この慶応二年さえも我藩の軍隊は、源家古法と甲州流を折衷した旧式編制であって、弓隊こそ廃したれ、銃隊の足軽は丸玉の火縄筒である。士分以上は撰士隊と称して槍を持っていた。そうして身にはやはり甲冑を着け、それぞれに指物を背にした。で、私もやはり具足櫃に甲冑その他を入れ、槍も一本携えていた。かつていった如く下手ながら撃剣は少々稽古していたなれども、槍は少しも習っていない。その習わぬ槍を揮って世子の御馬前を警護して敵と戦わんとしたのは、今から思えば馬鹿々々しい次第である。されどその時は何とも思わず、敵に逢ったら力限り働くつもりで、まさか打ち勝つとも確信がなかったが、敵に討たれて死ぬという事も別段怖くもなかった。この時は十九歳であったが、今の兵隊が二十歳の丁年で従軍して敵に対って別に怖れもせず、勇往奮闘する心理状態の如きも、これから推すと不思議はないのだ。尤も私も少しは戦場の練習をして置きたいと思って、まだ出陣せないで宅にいた頃、座敷で甲冑を着て抜身の槍を手で扱いて見た事があった。持ち馴れぬ槍とて随分重かった。それでまさかの段には槍を捨てて抜刀して切り込もうという考えもしていた。何しろ戦場に向う覚悟といっても、経験のない者は、誰れも私位の考えでいたのが多かったろう。

しかるに出先の軍隊から急報があって、上下一同に色を変じたのは、大島郡の敗報である。後で聞けば、長州方には大島郡に幕布方が討ち入ったと聞いたので、それは捨て置けぬといって、有名な高杉晋作などが軍隊を率いて密に海路を経て島の後へ渡った。それを我軍は少しも知らず、全島を占領したものと思って、三日目には一の手、二の手、新選隊が三方から源明峠その他の山頂をさして登って行った。すると頂上に敵が現れて突然小銃を乱射した。我兵は不意を討たれたので吃驚した上に、地理も悪いから、一雪崩れになって三方共に退軍した。この時二の手で目付役の軍監を兼ねていた佐久間大学(賤ヶ嶽の佐久間玄蕃の後裔)と、その他四、五の士分が踏止まって敵と戦って、その三人は枕を並べて戦死した。就中佐久間は目覚しく働いたと見えて、敵も感心して、その後戊辰の年長州兵が我藩に征討に向った際、この佐久間の墓を数人で弔ってくれた事さえある。しかのみならずこの佐久間を始め戦死者の遺骸は長州で埋めた上に、標の石を建ててくれたという事である。これらは武門の習いとしても芳しい話だ。そこで我兵は一足退くと勢い如何ともし難く、浮き足となって終に上の庄まで引いた。なおそこも敵に圧迫さるると困難だというので、隊長の家老始め一同の兵が皆軍艦その他の船へ乗り込んでしまった。この有様を想像すると、彼の平家が一ノ谷が敗れて争って船に乗った様にも似ていたろうかと思われて、今でも残念である。

この幕府の長防再征は、元々騎虎の勢いなので、寄せ手の兵はいずれの口もさほど士気が振っていなかったのだから、芸州口の井伊榊原も夜襲を横合から掛けられて、散々に敗走するし、石州口は、津和野藩は早く長州に内通していたから、長州兵はそこを通り越して浜田領へ攻め込み、浜田藩主は終に雲州まで落ちて行かれた。また九州口はこれも長州兵の方から反対に攻め込んで、小倉藩は随分奮戦したけれども、終に落城して藩主は肥後へ落ち行かれた。こんな際に我藩だけは暫時ながらも敵地を占領したという事は、ちょっと名誉であるが、始めよし後わるしで、一敗して最初の勇気が挫けた。世子の本陣でもこの敗報と共に今いった諸口寄せ手の敗報もそろそろと聞えて来たので、再び進撃することの不得策を知って、終に先手その他を藩地の近島まで引揚げられた。これで見れば、世子の渡海せられなかったのはまだしも名誉を汚さずに幸であったのだ。この頃我藩は幕府から借りた軍艦のみでは足らないので、親類の関係から隣国の高知藩に軍艦を借りたいと言って、承諾を得た軍艦が阿波の鳴門の海峡から大廻りをして来てやっと着いた。けれどもう用はなくなっていたが、藩主と世子はその軍艦の高浜港に繋いであるのを見分に行かれた。因って私もお供をして、始めて小形ながら軍艦というものに乗ったのである。この艦長は袴羽織で応接したが、その他の乗組員は、筒袖服に洋袴で、小刀もさしていなかったのを、私は珍らしく眺めた。

その後大分日が経ったが、幕軍は少しも盛り返えす様子もなく、従って我藩の軍隊もいよいよ惰気を生じた。けれども幕府から出陣の命は蒙っているので、僅に一里半隔てた城下ながら、世子も帰ることが出来ない。そこで、陣移しの名儀で城下から半里の西山の麓の辻、沢という両村へ引揚げて、庄屋の宅を本陣とした。我々どもも附近の人家を徴発して下宿した。そうして今まで近島にいた軍隊は三津浜まで引揚げた。しかのみならず今度は反対に長州兵が攻めて来るかも知れぬというので、海岸の要所要所へ俄造りの砲台を構えて、新古取交ぜの大砲を据え付けて、幾らかの兵を配置した。尤も三津浜には早くより不充分ながら砲台が出来ていて、三十六磅という大砲をすえ付けていた。私どものいる辻、沢村は城下と目と鼻の間であるが、それでも家族の往来は勿論、書状の一通も取交せはせない。これは武門の習いで、出陣すれば全く家のことを忘れるということから来たのだ。けれども家来などの使いは漸々と往来することになって、私の好きな食物位は祖母から送ってくれたこともあった。

そのうち家茂将軍は薨去せられるし、孝明天皇も崩御遊ばされたので、休兵という達しがあったから、世子も終に城下へ引揚げられて、二の丸へ帰住せられた。そうして我々も自宅へ帰って再び家族に対面した。けれども自分も戦に負けて帰ったような姿なので、浮き浮きせず祖母始めの顔を見ても別に嬉しくもなかった。それからわれわれの勤務上も常より多くの数で二の丸へ詰めた。その外の役々を始め諸士も二の丸、三の丸に大勢詰めて、これらの人々は皆陣羽織を着用して戦時の警戒は解かなかった。或る夜などは、サァ長州兵が三津浜へ来たといって、城下が騒ぎ出して、私の父は直に馬で三津浜へ馳け付けたが、それは外国船が沖を通過したのを見誤ったので、後では笑いになった。

既に休兵の命はあったけれど、長州の態度は少しも判らぬから、何時攻めて来るかも知れぬので、軍備は調べて置かねばならぬ。ある日世子は二の丸から本丸へかけての櫓々の武器の検査された。その際天守閣に登られて、私もお供して初めてこの天主閣の眺望をしたのである。最上層には遠祖の菅原道真即ち天満宮が祀ってある。その他にも武器などが置かれてあったが、この天主閣の下は石造の穴蔵のような物になっていた。外へ出るには鉄の閂があって、外から鉄の閂に錠が下してある。ちょっと見れば外からでなければ入れぬようであるが、別に下層の間に或る押入の唐紙を明けると、そこの板敷は一つ一つ刎ね板になっていて、長い梯子があって右の穴蔵へ下れることになっていた。世子と共に私も下りて見たが、上下周囲凡て石造で暗黒な上に身も冷や冷やする。ここは終に落城という時に、君公や近習等の者が自殺するために設けられたもので、上の天主閣へ火を縦てば、それが焼け落ちて総ての死骸が灰となってしまう。それを敵から邪魔をしようと思っても、鉄の扉だからなかなか明かない。また外から閂があるから最初はまさかこの内に人がいようとは思わないのである。私はここへ下りた時に、幕府その他の不振な事を考えて、早晩長州勢に攻め込まれて、彼は熟練した多数兵、我は熟練せぬ少数兵であるから、とても防禦は仕終おせない。そうして世子の気性としては、浜田藩主や小倉藩主の如く他へ落ち行くということは承知せられないから、仮令藩主だけは、いたわって落し参らせるとしても、世子や近習の者は本丸を守って、終にはここで一同枕を並べて死なねばならぬと思うと、今から何だか変な気になったことである。しかるに後から知ってみれば、長州は薩州と聯合の約が出来て、今度は反対に幕布討伐の密計が進行していたのだから、我藩等の如きにはさほど復讐戦をする考えはなかったのである。しかのみならず、この頃我藩からも一時の権略として、或る使者を長州へ遣わしていた。これは大島郡討入の際上陸した幕府兵は散々民家に向って乱暴をした。我藩の如きも乱暴はしなかったが、陣地の防衛のために、幾らかの民家を焼いたことがある。それを大島郡の人民は非常に恨み、かつ幕兵と我兵との区別を知らぬから、総ての乱暴を我藩でしたのだと思っている。そんなことが、漸々と聞えていたので、これらの弁解や挨拶として使者を立てるという口実であったのだ。けれども実は彼の攻め来るのをいささか緩和する方便であったことは勿論だ。これはモウ頼みにならぬ幕府を戴く孤立の藩としてはやむをえぬ状態であったのだ。が、この使者一件は藩主の方で主として決定せられたものであるから、世子は後で段々聞かれたものであるように思われる。

Chapter 10 of 27
|