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鳴雪自叙伝
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鳴雪自叙伝
内藤鳴雪
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 7 of 27

六

いよいよ藩地の松山へ帰ったが、今回は一昨年江戸から帰った時と違い、父も上首尾で、お目付という権勢のある役となっていたのであるから、借家などはせないで、既に一の邸を賜わり、それを親類の者が掃除などして待受けていた。そこへ帰着した日より住まったのである。それは松山城の北で、傘屋町という所にあった。私も今度は自分の邸というものに初めて住んだのであるから、何だか嬉しい心持がした。一体、城下で士族の邸というと、江戸に住んでいた折のお小屋などに比べれば頗る広い、まず十四畳敷も二間あり、それに準じて居間部屋台所等もカナリ広い。その他門長屋には家来なども住ませる事になっていた。尤も京都に居た頃には藩邸の御殿を仮住居としていたので、それに比すれば規模も小さく末ではあれど、これが自分の邸だと思うと何だか嬉しい。しかしこの邸は士族屋敷の中では旧い建物で、畳等も汚くなっていたから、祖母や母はこんな汚い所へ住まねばならぬかといって眉を顰めていた。

その内に、段々と人が来ての話に、この邸は『松前引ケ』の邸であろうという事であった。この『松前引ケ』という事について少しく説明すると、元来この松山城は、もと海岸の松前という所に在って、徳川の初年には加藤左馬助嘉明が住んでいたが、規模が小さいので、この松山へ城替えをした。その時、松前に在った士族邸を、松山へ引いて来て士族を住まわせたのであるが、その後、加藤家に代ったのが蒲生家で、蒲生家に代ったのが松平家(今の久松家)即ち私の旧藩主である。それ故松平家以後は士族屋敷も新築するものが多くなり、寛永から二百年余も経った安政となっては、松前にあった士族邸の存しているものは少なかった。稀にはそれが現存していて、私の父に賜わった邸は、右の『松前引ケ』のものでもあろうかといわれた。それだけ旧いものであった事がわかる。

この松前からの城移しの事について、ついでながらいい添えて置く事がある。それは松前の風習として漁夫の妻たるものは多く城下その他へ魚を売りに来るが、『ごろうびつ』という桶の中に白魚という魚を入れて、それを頭上に頂いて、『白魚かエー、白魚かエー、』と言って売り歩く。それをオタタと呼んでいた。このごろうびつという物の起りは、加藤家で城移しをする時、士民共にその手伝いをしたが、松前の漁夫の妻は大きな桶に砂利を入れて運んで城移しの御用を勤めた。その御用櫃といったのを後に訛ってこう言ったものだと伝えられている。これは藩地でもこの地に限る風習で、かの大原女が柴を頂いているように、魚を入れた桶を頂いている姿といい、またその売声といい、一種可笑なものである。

この私の邸は長く住まわないで、その年末には城山の麓の堀の内という、即ち第三の郭中へ更に邸を賜わった。これは父の実家たる菱田というが住んでいたが、この際外へ移ったので、その跡をそのまま賜わったのである。これもかなり旧い邸ではあったが、傘屋町のものに比すれば、聊か好いので、家族等も少々安んじた。この邸は南堀に沿うた土手の下で、土手の上には並松が植っているし、裏面には櫨の木が植っていた。紅葉する頃になると坐っていてそれを眺める事が出来た。私が漢詩の方で今も南塘と号しているのは、この南の土手の陰に住んでいたからである。

かく藩地に住む事になったので、私も久しく京都に住んで廃していた文武の修行を再び継続せねばならぬ事となった。殊に読書は私も得意としていたのであるが、一時京都の空気に触れて、芝居や義太夫、乃至落語等に浮かれていた故、藩地へ帰り多くの朋友と出会って見ると、聊か後れている気がする。そこで再びそれに負けまいという気が起り、いよいよ漢籍の素読を勉強する事になったので、その年から翌年へかけて素読を全く了って五等を貰った。それからは助読といって先生を助け、未だ五等にならぬ輩に素読を授けてやるのである。何だか一つの位を得たような気がして、私も嬉しかった。而してかように先生の助けをする者は、同年輩の者にも数多あったが、多くは読方を忘れて先生から叱られたり、訂正されたりした。私にはそういった失態はなかった。素読を受ける生徒の方でも、なるたけよく読める助読の人を選んで出る風であったから、私はその選ばれる主な目的となっていた。これも少しく心の誇りとしていた。

前にもいった武知先生の塾へも相変らず手習に行ったが、傍ら蒙求とか日本外史とかいうものを自ら読んでは、分らぬ所を先生に質す事もした。読書力にかけてはこの塾でも私が威張っていた。こんな事で暫く漢学の方を修行したが、武芸の方となると相変らず拙い。それでも厭々ながら橋本の稽古場へ毎日通って、稽古を励んでいたから、藩地の武場では段式といったその階級も追々進み、最初『順逆』から『霊剣格』『剣霊』という辺りへも行った。これらの段式に応じて許さるる型がある。その型だけは、先生の注目を受けて、まず優等という方であった。けれども実地の撃剣が拙かったから、武芸の側では朋友に対しても自然侮られるので、いよいよそれを厭うようになった。

私の今の母というは、前にもいった通り継母で、実母は私が三歳の時に没した。実母の里を交野といって、そこには私からいうと祖母と叔父とその妻子がいた。叔父は砲術に長けていたが、武人であったから日々の勤というはなくて、至って閑であった。叔父はこの頃武人のよくする猪打や魚取りをする他に貸本を借りて読んでいた。貸本屋は松山の城下にも二軒あって、蔵書はかなり豊富であった。私も叔父の許へ行けばそれを読む事が出来たので、元来読書好きの私は、この貸本を手当り次第読む事になった。けれども当時多くの人が見た写し本の諸藩のお家騒動とか仇討とかいうものは、余りに文章が拙いので、少年ながらも読む気がしない。もっぱら読んだ物は馬琴の著作であった。八犬伝などはこれまで草双紙の方で見ていたが、今度いよいよ読本の方で見る事が出来たので直に最終まで読み通した。その他『弓張月』『朝夷巡島記』『侠客伝』『美少年録』等を初め、五、六冊読切の馬琴物は大概読んでしまった。

これらを読むと共に、他の作者の読本は面白くないので、京伝や種彦の物を少しばかり読んで他は打捨って置いた。作者は忘れたが『神稲俊傑水滸伝』だけは聊か物足らず思いながらも読み了った。それから洒落本とか人情本とかいう物も見たが、これらには未だ充分の趣味を有たず、また叔父も『そんなものを見るじゃない。』といって少しく戒められる風があった。その後いくらか年を取ってからは、随分そういう物も読んで、春水は勿論、その弟子の金水あたりの物が好いと思った。そこで田舎に居ながら、江戸の粋人の生活も聊か知る事が出来た。今日鳴雪が時々昔の江戸の粋人の事などをいうも、つまりその頃読んだ書物の耳学問で、多くは聞いた風に過ぎないのである。今一つ交野で読んだものに一九の『膝栗毛』等がある。これもなかなか面白い物と思った。

かように貸本の味が分ると共に肝心の漢学の修行を怠る風が見えたので、遂には父が怒って貸本ばかり見るのならば、交野へはやらぬといわれ、父の眼を偸んで行くという位になった。

それからこれは祖母の里で、宇佐美というがあった。この宇佐美の祖母の父なる人は当時もう死んでいたが、この人は漢学者で、漢詩を多く作り、また浄瑠璃(義太夫)が好きで、自分で浄瑠璃の丸本を書いたのも二、三種あった。それほど浄瑠璃には詳しかったから、凡ての浄瑠璃本は殆ど皆宇佐美の家にあった。尤もその一半はその家から井上という家へ養子に行った者が借りて江戸まで持って行って、そして前にいった愛宕下の上屋敷の火災の時に焼いてしまったが、その一半はまだここに残っていたので、それを読む事が出来た。浄瑠璃は既に西京で味を覚えていたし、この丸本は一段物と違い、筋も充分分る所から、いよいよ興味をもって読初めた。これも今日私が浄瑠璃なり、芝居なりに親しむ原因となっている。祖母の父の自作の丸本をも私は見たいと思ったが、それも右の井上が借りて行って焼いてしまった。宇佐美家に存していたものは、祖母の甥に当る者が他家の写し本から写し取った一冊だけであったが、私はそれを見たのである。外題を『出世奴孫子軍配』といって秀吉を主人公として作ったものであった。これは今もナカナカよく出来ていたように思う。大阪ではそれを芝居にした事もあると聞いた。

かように、私がややともすると道楽的読書に傾き、このままで行ったら当時の武士仲間で歯いせられぬ者となるのであったが、ここに一つ真面目に漢学を勉強する機会を得る事が出来た。

それは漢学の明教館において素読の助けの外、漢籍の意義を講明することも、追々上達して味も生ずるようになったからだ。当時諸外国との関係上、いよいよ横浜を開港場として外国人が住むことになり、幕府では仮条約を結ぶというので、攘夷党は益々奮激して横浜を襲撃せんと企つる者も出来た。私の藩はかつてより横浜の入口神奈川の警衛に任じていて、一の砲台をも築くようになっていたから、それらに対する藩の用務も頻繁になり、私の父は要路に当っていたので度々江戸へ勤番して、神奈川表の警衛にも当っていた。それ故、藩地の宅では、多く父が留守なので、父は私が文武の修行を怠る事を恐れて、親類の水野というに私の漢学の世話を頼んで行った。水野は早くから明教館に出ていて、当時七等を貰っていたのであるが、漢学は余り出来ていなかった。この水野の世話になるという事は、少年ながらも満足には思わなかったが、父の命令でもあり、また水野も誘導するので、時々その家へ行って小学の講義を聴いた。けれども往々不満な解釈を与えるので、私は内心おかしくも思った。

しかるに或る年、前にもいった君公の御試業があるので、われわれ年輩の漢学生は奮って出講する事となった。尤もその時は君公が江戸に居られたので、家老が代理となって行うのであったが、とにかく漢学生に取っては晴れの場所であった。水野が私に向って、お前ほどに漢学が出来れば是非とも御試業に出たが好いと言ったが、私は一体内気な方なので、馴れた人に対しては随分知っているだけの学問の話もするが、君公代理の前に出て、経書の講釈をするとなると、何だか怖いような気がして容易に出る気にはなれなかった。尤も当時私は既に十六歳に達していた。水野は飽くまでも勧めて止まず、その講釈の仕方までも悉皆口授してくれて、是非とも出ろという事であった。父が藩地にいたら、叱りつけても出すのであろうが、居ないのを幸にして、私はまだ躊躇していたけれども、いよいよその日となる頃には、遂に私も決心がついて出ようと思うようになった。

そこでその日は明教館の広い講堂で、代理の家老を初め役々が列座している、一面には学校の先生達、一面には明教館の寄宿生及びその他の学生が居並んでいる、その中央へ出て行って一人ずつ講義するのである。この講義をするものは一方に控えていて順々に立って行くのであるが、段々と順番が進んで、私の座席近くまで出て行って、早や私の番が来そうになったので、胸は悸々するし必死の場合となった。その中に名を呼ばれたので、モウ破れかぶれと中央へ進み出て、見台に対し、いよいよ講義を初めた。それは論語の仲弓為季氏宰、問政、子曰、先有司、赦小過、挙賢才、云々の章であったが、私は自宅で度々練習して行ったから、そのままサラサラとやってしまった。存外渋滞もせずに終って、座へ退いて他の処へ行くと、私の講義を聴いていた水野が、『立派に出来た、好かった。』と喜び顔をした。それから耳を聳てると彼方でも此方でも『助さんの講義はよく出来た、驚いた。』というような囁きが聞える。それほどの成績とは自ら知らなかったが、それでは自分もなかなか講義が出来るのだと思って、さて外の者の講義を聴くと、時々いい損なったり行詰ったりして見苦しい態を演ずるのもある。ここに至って自分の漢学が、素読のみに止まらず、進んで講義をする事においても人に負を取らないのであると思うと、それでは一番奮発して勉強しようという気が起り、今まで明教館へ行っても昼間の独看席へは出なかったものがそれからは日々出席し、漢籍も多方面に亘って読むことになった。

明教館では表講釈と称えて君公初め一般の藩士が聴聞に行く事は前にもいったが、学生はそれに出る事は出来ず、学生のためには一ヶ月に度々輪講とか会読とかがあって、それには寄宿生初め、われわれ外来の学生も出席が出来るのである。私は右の輪講会読等へはまだ憚る気がして出なかったが、五等以上の者ならば誰でも行って、館の蔵書を借覧する事の出来る独看席というが設けてあったので、そこへは日々行って勉強した。

私は以前からもそうであったが、この頃からいよいよ歴史を読む趣味が加わって歴史物を主として読んだ。宅には父が読むので『歴史綱鑑補』があったから、それは既に読んでいて、父から教えてもらった事もあった。その綱とあるのは朱子の通鑑綱目で、鑑とあるのは司馬温公の通鑑である。この二書の要領を抜いて、批評を加えたものだから、綱鑑補の名があるのでこれは明の袁了凡の著である。このお馴染で通鑑と綱目の二書を知っていたから、まず後者から初める事にした。これには朱子の正篇の外に宋元及明史の綱目もあり、また前篇というもある。それに朱子が春秋に傚って書いたという事につき、『書法』『発明』というがあって、褒貶の意のある処をそれぞれ説いてあるから、いよいよ面白く思って、他の書物をもいろいろ読んだが、最もこの綱目を愛読した。温公の通鑑では三国の時魏を正統としてあるを、朱子の綱目では蜀を正統として書き改めている。そこが最も気に入った点で、従って通鑑の方に厭気がさし、数年後まで披けて見ることもせなかった。

それから、日本の歴史では『大日本史』は従来の歴史に北朝を正統としたのを、南朝が正統として書かれている。これがあたかも綱目の意義と同じであるから、これも好んで読んだ。その後に出た岩垣松苗の『国史略』は随分初心者に読まれた物であるが、私は北朝を正統としてあったから、その書に限り読む事を好まなかった。それよりは同じ位のもので、青山延于の『皇朝史略』の方を好んだ。そこで日本の南北朝時代を、通鑑綱目のような体裁で書いた物があれば好いと思い、その結果遂に自分で書いて見ようと思い立った。尤も明教館の書物といってもさほど材料もないが、とかくそれが書いて見たいので及ぶだけ他書をも渉猟して、後醍醐天皇御即位の年より、後亀山後小松両天皇の和睦せられて、南北朝の合一するまでを書き終えた。しかしそれは誠に疎笨極まるもので、今から考えればよくあんな物を書いたと、当年の子供心を可笑く思うばかりである。

けれどもそれが今もなお存していたら、今昔の感を叙する種にもなったろうが、ちょうどそれを書き終った頃に、父が江戸から帰って来て、留守中私がそんな事に耽っていたのを見ると機嫌が好くなくて、『まだ手前はそんな事をするよりも、充分経書を勉強せねばならぬのだ。』といって、一日大いに叱った。私は父のいう事といえばよく守ると共に、信ずる事も厚かったから、これは自分の過ちだと思い、沢山の草稿になっている手作の南北朝綱目を、庭の大竈の中へ投込んで一片の煙としてしまった。それからは父のいう如くもっぱら経書の研究をする事になった。

その頃朋友の中で最も親しかった者は、由井弁三郎、錦織左馬太郎、籾山駿三郎等で、いずれも漢籍を好んだ仲間である。これらの友人どもとは明教館で語り合うのみならず、自宅でも経書の研究会を開く事なぞがあった。私の父はさほど漢学を深くも修めていなかったが祖父なるものは徂徠派の学を究め、旁ら甲州派の軍学も印可を受るまでになっていた。それらの文武の書籍も沢山に遺っていたので、私は本箱を探してそれらの物を見たが、就中、仁斎や徂徠春台の経書の解釈に属する書を読んだ。するとこれまで朱子の註釈した経書とは大いに違い、むしろ朱子の註よりも、私の心に適う点も少なくなかったので、その後由井等と共に研究する時には、これらの古学古義派の説をも持出して、彼らを煙に巻いた事もあった。

しかし、明教館の先生の前へ出ては、そんな事は一言も吐かなかった。もし一言でも吐こうものなら、お目玉を喰うのみならず、退学を命ぜられるのである。寛政年間、桑名の楽翁が当局中に漢学は程朱の主義に従うべきものと一般に規定せられてから、私の藩などでは殊にそれを遵奉していた。明教館にもそれらの明文を掲げてあるくらいだから、もしも仁斎、徂徠の異端なる説を称うるならば、一日たりともそのままには置かれなかった。

私は十六歳の時に半元服をした。今日こそ生れた時の産髪のままで漸次と年を取って、それを摘み込み、分け方を当時の風にしただけで、ハイカラがっているけれど別にその上の変化はない。しかるに昔は幼者と成年とは非常の変化で、まず生れ落ちた時の産髪は直ちに剃ってしまい、後の方へ『じじっ毛』と言って少しばかりの髪を残して置く、それから少しすると耳の上の所へも少しの髪を貯えて、これを『やっこ』と言う。また頭の頂辺へ剃り残したものを『お芥子』と称える。なお少し年が行くと前へも髪を貯えて『前髪』と言う。これがまず三、四歳の頃であるが、五歳になれば男子は上下着というをして、小さな大小をも帯び、従って髪の風も違って来る。頭の周囲にも髪を垂らしてそのお芥子にも髷を結うし、また前髪もちょっと結んで後へ曲げる。更に年を取れば今まで垂していた周囲の髪を、小さく結ったままの前髪と共に髷へ結い込んで初めて若衆姿となるのである。私も八、九歳の時からそうしていた。半元服と言うのは前髪のついている額を、剃刀を以って角深く剃り込んで、それと共に今まで前髪を結っていたのを解き放すのである。それを『角を入れる』ともいった。即ち『梅野由兵衛』の長吉の言葉に、『姉さん私もこの暮に、角を入れら大人役』というのがそれだ。この角を入れると共に、いよいよもう大人となるので、私の藩では遅くとも十五歳位でこの半元服を行うのであるが、私の家には祖母がいつまでも私を子供のように思い、また父は多く江戸へ旅行していたからツイツイ遅れて、十六歳で初めて角を入れたのであった。

その頃私の直の弟大之丞というは、薬丸という家へ養子に行っていたが、そこへ私が遊びに行った時、弟の養母が窃かに『助さんは半元服じゃが、もう元服をしても好い、何だか馬鹿げて見える。』と言ったのを、今でも記憶している。それほど私は身丈なども比較的大きかったので、半元服も大分遅れていた事が分る。

ついでだがこの薬丸にも沢山の草双紙を持っていたから、かつて私は江戸で随分見ていた草双紙を、この家で再び読むことが出来た。またこの家は家内が草双紙好きで、常に他家からも借りて読んでいたから、当時の草双紙は大概見てしまった。

それから少し話が後へ戻るが、私は十五歳の頃、馬術の方でも寒川というへ入門した。一体、武士の家では弓馬剣槍といってこれだけには通せねばならぬのであれど、誰も必しも悉くを兼ることはせない。まず弓術はその頃歴々の子弟等が主として学ぶもので、われわれ身分の者は主として剣、槍、馬術を修めるのであった。私は身体も弱し、学問の方を好むところから、父が槍だけは強いて修行させず、撃剣のみを修行させたが、馬は後日役柄に依って乗らねばならぬ事があるから、是非とも学ばねばならぬといって、遂に寒川へ入門する事になったのである。しかし、これが少し年齢としては遅れてもいたし、また私の脊丈が年の割にして伸びていたから、馬術の稽古場へ出て見ると、私よりも小さい少年が達者に馬を乗りこなしている、そこへ私は初めて乗るのであるから、何だか恥かしい。殊に最初はおとなしい馬へ乗せ、先輩の人に口を引いて歩かせてもらうのが、私よりも小さい少年が独で馬を走らせているに較べて甚だ見苦しく感じた。その内にまず独で乗ることも出来るようになったが、或る時葛岡という馬に乗った時に、急にを以て駈出した。私は未だ鞍が固まらぬから非常に驚いて今にも落るかと思ったが、辛と免れた。その危なそうなのを見て、周囲の人は随分笑ったようであった。そんな事が時々あるので、撃剣の拙いので気が進まぬように、馬術の方も気が進まず、遂に修行を怠る事になった。

これで武術は何らの成績もなく経過したが、それと反対に漢学の方は漸次と味も加わり、いよいよ進歩する事になった。前にもいった由井とか錦織とか籾山とかいう朋友と経書の研究を偕にする外に、度々郊外の散歩を試みた。そこで城下の周囲にある山川または神社仏閣等は普く歩き廻って、殆んど足跡の到らぬ所なきに至った。まず山では城下の北方にある御幸寺山、これは天狗が居ると言って恐れた所だったが、そんな事は意に介せず、度々山頂まで登った、山頂には大きな岩があって、その上に小さい祠が祀ってあった。この岩には貝の殻が着いていた。けだし太古の地変で海面が凸起した遺跡であろう。尤もかかる事も奇怪の一つとし、或る季節に祭典を執行する行者が登る外は、他の者は一切足踏みせぬ事になっていた。それを迷信だといって平気で登るのが当時の漢学生等の自慢とするところであった。

太山寺という山には経の森という魔所があって、人の入らぬ所であったが、われわれはその山頂へも登って見た。尤もこの森に対した時は少し恐かった。この太山寺と共に道後の温泉近くに石手寺というのがある。これらは千年以上の建物があって、また四国八十八個所の中の霊場である。なお天山というがあって、五つの小さい山があったから、詩人は五岳とも呼んでいた。これは南北朝の頃土居得能二氏が長門の探題北条英時を討取った場所だが、ここらへもよく遊んだものである。

それから毎年正月には椿参り、柳参りという事がある。椿参りは椿の森という社で、伊予津彦の神を祀った場所で、城下からツイ三十丁ばかりの所にあった。その新年の祭日には参詣の人が少しの切れ目もなく途上に続く位であった。柳参りは城下から二里許りの山中で、祭礼当日にはなかなか人の群集したものである。そこには土地の者が大きな椀に味噌汁を盛り団子を拵えなどして、店を出していたが、ちょっと珍らしいので皆が賞翫した。その途中を少し入り込んだ所に脇が淵というがあって、昔大蛇が棲んでいたといい伝えられていた。随分樹木が茂り、岩石が聳立った下が淵なので、私等もそこへ行くと、身の毛が竪つ思いがした。

山野を跋渉する時にはいつも弁当を携えて行ったものだが、それは黄粉をまぶした握り飯であった。服装は学校へ行くと同様の袴を穿き、大小を帯びていた。この大小というのは五歳の時、上下着をして以来、外出の時には必ず帯びたものである。尤も子供の時には玩具のような大小であるが、漸次と本物をさすようになる。一体武士の子は三、四歳より一刀を帯びる、それから大小を帯ぶるようにもなれば、いよいよこの一腰は離されぬものとなって、ちょっとでも門外へ踏出す事があればたとい友達と遊ぶ時にも、この一刀は帯びている。わが家へ人が訪ねて来た時にも、必ず一刀は内玄関まで提げて出るのである。他の家を訪問する時にも、帯びている大小の中、大は座敷の次の間まで持ち込んで、そこへ置き、それから座敷へ通って、先方の家人に挨拶する時でも、小の方は帯びている。よほど打寛いで話でもする時でなければ、小刀は腰から離す事はない。たとえば人の年忌で法会などをする時は、主客共に上下を着て必ず一刀を帯びている。そこで迎えた法師が経を読み終えて、いよいよ食膳につくという時になると、法師が『御免なさい』といって袈裟を脱いで輪袈裟に更える。そこでわれわれもそれに対して帯びていた小刀を脱して座側へ置き、箸をとるのである。それから法師が再び袈裟を着けて帰る時には、われわれも小刀を帯びて見送るのである。こんな風で聊かでも儀式張った時は、家の中においても小刀は帯びていた。また貴人でも鷹野等に出る時は、君臣共に小刀のみである。これは今でも芝居などで誰も見ている事であろう。

一体、私ども士族の日常生活といえば、頗る簡単で質素なものであった。まず、食物は邸内にある畑で作った野菜をもって菜となし、外に一年中一度に漬けてある沢庵を用いる。魚類は出入りの魚屋から買うのであるが、それも一ヶ月に三日といって、朔日十五日廿八日の祝い日に限り、膳に上ったもので、その他は『オタタ』の売りに来る白魚位を買った。食用にする醤油等も手作りであって、麦は邸へ肥取りに来る百姓から代価として持って来る。豆は馬の飼料という名義で馬の有無にかかわらず藩から貰うことが出来る。その麦を煎り、豆を煮たものへ、塩と水とを加え、大きな『こが』という桶に作り込み、その下へ口をつけて醤油を取る。糟もそのまま飯の菜に充るが、なお糠を混じて搗いて糠味噌と名付け、そのままにも喰ったが多くは味噌汁にした。これはちょっと淡泊なもので、野菜などを実に入れて食べるとなかなか甘かった。また煙草飲みはこの糠味噌汁を食べぬと脂が咽に詰るなどといい慣わしていた。衣服は、当時藩から『御倹約の仰出され』という事が度々あって、その条件には男女共に絹布を着てはならぬ、必ず木棉を着よ、また女の簪に金銀を用いてはならぬと言って、真鍮位を用いさせた。尤も婦女子や老人は上着は木棉でも、下着だけは絹物を着ることを許され、なお七十以上になると男女共に柔い物が着られた。その他では医者が常に絹布を纏うことを許されていた。

かように節約主義を取らしめたのは、当時外国人が来て国内も追々殺伐な風が起り、何時戦争が初まるかも知れぬという用意でもあったが、一方では藩侯も普通の参勤交代等の外に、臨時に特別の出張をも度々せねばならぬ事に成り行いた上に、私の藩では前にもいった如く神奈川の警衛の任に当って、砲台等をも築いていたから、いよいよ藩の費用は嵩むばかりで、従って士族等への支給も減少する事になったからである。

この神奈川の砲台について少しお話をすると、これは万延元年に前年からの工事が落成したもので、かの有名な勝安房守が未だ麟太郎といっていた頃にそれへ頼んで設計してもらったものである。それでこの砲台は当時比較的新らしい形式に依ていて、幕府が築いた品川沖の台場よりもこの方が実用に適っているといって、わが藩の者は自慢していた。それだけになかなか費用がかかって、八万両も支出したのであった。当時の八万両は、十五万石の松山藩に取っては巨額のもので、遂にその影響が、士族の禄も『五分渡り』あるいは『人数扶持』ということにもなった。それと同時に『出米』といって百姓にも租税以外の米を出させるし、また町人は『出銀』といって金を出させた。

なおこれも今日の若い人には知られぬ事であろうが、一体何万石などという大名は、その凡てを収入とするのではない。その土地に出来る総米高の称である。この総米高の十分の六を百姓が取って余の四分を藩主へ収める、即ち『四公六民』であって、幕府を初め凡ての租税法となっていた。そこで十五万石ならばその十分の四、六万石がその収入となるのであった。尤もその外に運上などといって種々の取り立てをする事があった。また藩内の城普請、道普請、川普請等の土木工事も百姓を使役する事になっていた。私の藩の松山などは、米のよく出来る所であったから、それらをいずれも米に引直して取り立てていた。そこで実際は米の総出来高の十分ノ六分以上、殆んど七分位までも年貢米として取ったものである。元来この年貢米はもっぱら国家に対して御軍役その他を勤めるために取っているので、藩主一家の生活は言わばその余りを以て弁ずるはずなのである。それから藩士へ何千石何百石と言って与えるのも、その実はヤハリ呼高の四分を与えるので、禄を貰っているのは藩主の負担した御軍役等を禄高だけその下受負をする訳なのである。して見れば藩主が、国家のために多くの費用を要する事があれば、また士族どもにおいても貰っている禄の中を削減せられるは、義務としてやむをえざる事である。その他、町人百姓等は義務ではなけれど、常に政治の下に太平の恩沢を蒙っている冥加として、その太平を保つに必要な費用には、自分等が生計を節約しても、出銀出米の御用を勤めねばならぬのである。

さて、こんな風で私の藩地等でも日本国内が多事になると共に、藩士の江戸へ勤番することも漸次頻繁になって来た。殊に神奈川警衛については絶えず多数の人が交代せしめられていた。右の砲台の出来上った事については、幕府から賞典があって、藩主に対しては特に少将に進められ、家格等も特別の扱いを受くる事になり、築造に関係した藩士どもには、家老以下一同へ幕府から賜わり物があった。私の父も御時服二重と銀二十枚とを頂戴した。御時服というは大きな紋の付いた綸子の綿入で、大名等へ賜わるは三葵の紋、倍臣には唐花という紋のついたものであった。私も父がそれを持って藩地へ帰って来た時には頗る嬉しかった。かように賜わった服は、本人が着るのみならず、願った上で、嫡子に限りその子にも着用せしむる事が出来るので、後々は私もそれが着られるから、一層嬉しかったのである。

なおこの神奈川警衛中一つ変事があった。それは私の藩で、一人を数人で窘めることを『たかる』といって、藩士の間にも行われていたが、或る時この警衛の勤番中に新海という者が、常に同輩から憎まれていたから、遂にたかられる事になった。即ち、同列の五人ばかりが、一日新海の室へ酒樽を持込んで、強いて酒宴を開かせ、散々に飲み散らした末そこらあたりの器具を毀わしたり、棚を落したりなどして乱暴を始めた。かような場合に至っても、大概な人は多勢に不勢で敵わぬから、辛抱するのであるが、この新海というは気力もあり、かつ短気であったから遂に堪え切れず、忽ち行燈を吹消し、真闇にして置いて、同時に一刀の鞘を払って振廻した。そのために居合せた矢野、馬島、川端の三人は各々多少の手疵を負った。外に竹内宇佐美というが居たが、竹内は早く帰宅し、宇佐美は残っていたが幸に疵を負わず、うまく新海を抱き止めた。その内他の人々も来て燈火を点し、総がかりで遂に荒狂う新海を縛してしまった。

一体いずれの藩にあっても、士族の私闘という事は厳しく戒めてあったが、殊に私の藩では厳しかった。そして一人が抜刀した時に少しでも傷を負う事があれば、傷を負わせた者も、負わせられた者も、双方共に割腹せねばならぬということになっていた。そこで右の如く新海が抜刀して、三人の者に手傷を負わせたのであるから、四人ながら割腹せねばならぬことになった。新海をたかりに行った三人等は、さぞ後悔した事であったろう。尤も一時は新海を発狂という事にして無事に納めようとした者もあったが、当人の新海は飽くまで正気であると主張するし、また警衛場においての私闘は最も戒ねばならぬというところから、藩でも特に制裁を厳にし、遂はいずれも割腹させられる事になった。

この時新海はさすがに立派に割腹した。即ちそれを見ていた人の話を私は聞いたが、彼は腹を一文字に切ってから、尖切を咽へ刺して前へ刎ね切ろうとしたが、切れなかった。そこで自ら手を以て刃を撫でると、刃が反対になっていたので再び抜き取り刃を前にして更に突立て、咽笛を刎ね切って倒れたという事であった。この際これほどの落つきがあるのは容易な事でない。しかるに余の三人は人にたかって置きながら、中には割腹の場合に臨んで臆れを取り、人の介錯を煩わした者もあったそうである。その中の一人を介錯したのは、当日幸いに傷を免かれた宇佐美という者で、即ち前に述べた私の祖母の里方の甥である。

そこでこの事が藩地へ聞えた時、私の家でも随分と心配した。そして関係者は割腹した者の外も厳罰を受ける法になっていたので、従って宇佐美も隠居を命ぜられ家禄も百二十石を二十石減少せられ、当時男子がなかったので他より養子をさせられて、辛と百石で家名だけは取止めたのであった。私はこの宇佐美が帰った時その家へ行って見たが、譴責中は月代や髭を剃ることも出来ぬから、長く伸びた月代で髭も蓬々としていたから、何だか怖く、また衰えた風体をしていたので、気の毒に思った。一時は宇佐美も他の死んだ人々へ対して済まぬから自分も割腹すると云ったのを、他から止められたのだそうな。それから宇佐美の住んでいた邸も召上げられて、城北へ別に悪い邸を賜わる事となった。私もそこへ行って見たが、穢い上に、城山の北の麓の櫓の石垣下なので、その櫓には士分の罪ある者の吟味中囚えて置く牢獄等もあったからなお以て忌わしい感がした。因て私もそれ以来宇佐美へは自然と足が遠くなった。尤も浄瑠璃の丸本は、ちょうどもう見尽してしまった時であった。

Chapter 7 of 27
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