八
神尾主膳はその晩、一人で躑躅ヶ崎の古屋敷を訪ねました。酔っているもののように足許がふらふらしています。
「机氏、机氏」
いつも竜之助のいる屋敷へ、そのふらふらした足どりで入って来たけれども、そこに竜之助がいませんでした。
「竜之助殿、どこへ行った」
と言いながら、そこへドカリ坐ってしまい、それから酔眼を据えて室内を見廻しました。
例の通り、丸行燈に火が入っているにはいたけれども、それは今や消えなんとしているところであります。
「いやに暗い火だ、明るくない燈火だ、もっと明るくなれ、明るくなれ」
主膳は燈火に向って、こんなことを言いました。その舌の縺れ塩梅を見れば、かなりに酔っていることがわかります。
「誰もおらぬか、誰ぞ来い、あの燈火をもっと明るいように致せ、こんなにして燈心を掻き立てるがよい、燈心を掻き立てさえ致せば、火はおのずと明るくなるのじゃ、早う致せ、誰もおらぬか、誰ぞ来い来い」
怪しげな呂律で取留まりもなく言いました。そうして酔っぱらい並みに頭をグタリと下げたり、怪しげな手つきをして、その手をすぐに膝の上へ持って来て、狛犬のような形をしたりしていました。
「うむ、よし、誰も来ないな、来なければこっちにも了見がある、お松、お松、いや女中共、女中共はおらぬか、其方共は主人の言いつけを聞かぬな、其方共までこの主膳を侮ると見ゆるな」
神尾主膳は、また酔眼を据えて室内を睨め廻したが、
「はははは」
と高笑いをしました。
「違った、違った、ここは古屋敷であったな、なるほど、ここは躑躅ヶ崎の古屋敷じゃ、ここには誰も召使はおらぬのじゃ、屋敷の中には無暗に物を斬りたい奴が一人いて、屋敷の外には法性狐がいる、そのほかには誰もいない、いないところへ物を言いつけた、これは拙者が悪い、どれどれ、大儀ながら御自身に立って、あの燈火を掻き上げにゃならぬ、燈火は暗し数行虞氏が涙――」
こんなことを言いながら神尾主膳は、ふらふらと立って行燈の傍へ来て、燈心を掻き上げて火影を明るくして、覚束なくも油をさえ差加えましたから、四辺は急に明るくなりました。
「はははは、現金なものじゃ、燈心を掻き立てて油を差したらば火が明るくなったわい、火が明るくなったから四辺の物がよく見えるわい、よく見えるけれども机はおらぬわ、竜之助が姿を見せぬわい、はて、この夜中に、どこへ行った、眼の見えぬくせに、はははは、眼が見えぬから夜と昼の区別がつかず、どこぞへ彷徨い出したかな」
神尾主膳には酒乱の癖があります。しかしこちらへ来てからは酒乱の癖が出るほどに酒を飲みませんでした。主膳もこれだけは多少謹慎の心があったのであります。それにどうしたものか今宵は、その酒乱に近いほど酒を過して来たもののようであります。
室内が明るくなると共に、主膳は四辺をまた見廻しはじめました。
「刀もある、槍もある、敷物もある、屏風もある……茶道具もあれば煙草盆まである、襖、唐紙……」
こんなことを言って室内を見廻した主膳の酔眼がトロリとして、室の片隅の長持の上へ落ちました。
「あ、あれだ、誰もおらぬと思うたのはこれも間違い、あの中に一人の男がいる、口の利けない男がいる、今それを引き出して玩弄にするのだ」
主膳は、またふらふらと立って長持の傍へ行きました。
「幸内、長持の中にいる幸内、これへ出ろよ、そのように長持の中に隠れてばかりいては窮屈であろう、貴様も若い身空じゃ、そう長持の中に隠れていずと、ちっとは広いところへ出てこいよ、壺中の天地ということもあるから、それは長持の中もよかろうけれど、若いのにそう隠れてばかりいては命の毒じゃ、それこそ長持ちがないぞ」
主膳は刀を提げて長持の中へ片手を入れました。その長持には蓋がしてありません。蓋をしてない長持の中へ主膳は手を入れて、鼠を吊し出すような手つきをして、その襟髪を取って引き立てたのは幸内であります。
かわいそうに幸内は、いまだにこの長持の中へ入れられてあったのであります。袋は被せられていないけれども痩せきっておりました。両手は前に括られていました。両足は揃えて固く縛られてありました。争うにも力は尽き果て、物を言おうにも声が立ちません。
ズルズルと長持の中から幸内を引張り出した神尾主膳は、それを燈火に近いところへ持って来て、
「はははは」
主膳は幸内をそこへ引き倒して置いて、
「幸内、そちに窮命をさせて、拙者は気の毒に思う、そちには怨みも憎みもないのじゃ、これというのは名刀の祟り、小人罪なし珠を抱いて罪ありということがある、幸内罪なし刀を抱いて罪ありというのじゃ、伯耆の安綱が悪いのじゃから不祥せい……それからまたお前の主人の伊太夫の娘、気の毒ながらお化けのような娘、あれを拙者が嫁にしたいと言うのは、抱いて寝たいからではないぞ、いとしい恋しいと思うからではないぞ、恥かしながら拙者はいま手許が不如意じゃ、伊太夫の財産に惚れたのじゃ、娘には恋なし、財産があるから恋ありと言わば言うものよ、ははははは」
主膳は憎らしい毒口を吐きかけました。幸内の口は声の立てられぬように薬を飲ませられてしまったけれど、その耳は、この毒口を聞き取ることに不足はないと見えます。
幸内は主膳の言葉を聞くと、その首を烈しく振って苦しげな表情をしました。その有様を、主膳は、やはり酔眼を張って見ていましたが、
「まあ聞けよ、悲しいことに九分まで運んだこの縁談が、きわどいところで壊れそうじゃわい、ほかでもない、それは駒井能登めが為す業じゃ、あの小賢しい駒井能登が邪魔をして、惜しい縁談が壊れかかったわい、残念じゃ、腹が立ってたまらぬわい」
ここに至って神尾主膳は、正銘の酒乱になってしまったようであります。
「癪に触って腹が立ってたまらぬ故、これからそちを駒井能登めに見立てて、この腹が納まるほど、弄って弄って、弄りのめしてやるからそう思え」
神尾主膳はブルブルと身を慄わして、突然、幸内の襟髪を取って引き立て、
「やい、駒井能登守、この神尾主膳をなんとするのじゃ、主膳をなんと心得て、どうしてみようというのじゃ、えい、小癪な」
力を極めて前へ突き倒しました。突き倒されて幸内が突んのめるのを直ぐにまた引き起して、
「痩せこけた駒井能登守、口の利けない駒井能登守、突き倒されて直ぐに突んのめる駒井能登守、この神尾主膳をなんとするのじゃ、えい、腹が立ってたまらぬ、見るも胸が悪くなるわ、やい」
それをまた、力を極めて横へ突き転がしました。突き転がしておいて直ぐにまた引き起し、
「前へ突き倒せば前へ倒れる駒井能登守、横へ転がせば横に転がる駒井能登守、さあ、この次はどうしてくれよう、水を食わせてくれようか、火を浴びせてくれようか、どうすればこの腹が癒えることじゃ、やい」
こんなことをしているうちに、神尾主膳の酒乱がだんだん嵩じてきました。残忍性が増長してきました。
幸内の襟髪をもってズンズンとこの座敷を引きずり出しました。
座敷を引きずり出して戸をあけると縁側であります。その縁側から裏庭へ、主膳は幸内を引き下ろしました。自分は足袋跣足で、庭へ飛び下りていました。
今度は土の上を引いて引いて、古井戸の傍まで引張って来ました。
おそらく酒乱が、こんなふうに嵩じると、もはや自分で自分の為すことを知らないのでありましょう。野獣のような残忍性が、加速度を以て加わって来るものとしか思われません。
古井戸の流しへ幸内を引摺って来て、そこへ突き放すと、神尾主膳は車井戸の綱へ手をかけてキリキリと水を汲み上げました。
「汝れが、汝れが」
主膳は汲み上げた水をザブリと幸内の上から浴びせました。
手を縛られ、足を縛られた幸内は、水を浴びせられて二尺ばかりも飛び上りました。飛び上ってまた倒れました。
神尾主膳は、心持よかりそうに高笑いして、また二杯目の水を汲みにかかりました。
「はははは」
二杯目の水を汲み上げて、またザブリと幸内の面のあたりから浴びせました。幸内は一尺ほど飛び上りました。
広い古屋敷のことで誰もいませんから、この場へ来るものはありません。ここにいる人のために衣食の世話をする人は、この近所の農夫の家族でありましたが、それは一定の時をきめて来るほかには、ここへ寄りつきませんでした。
どんな目に遭わされても幸内は、ついに一語をも発することができません。主膳はこの残忍性の面白味を帯びた遊戯のために、三杯目の水を汲み上げて、
「はははは、これは信玄が軍用に用いた用水じゃ、なかなか冷たい水だ、指を入れると指が切れるような水だ、信玄はこの水の底へ黄金を沈めて置いたとやら、それで水がこんなに冷たい、さあ、この冷たい水を、もう一杯飲め」
釣瓶を抱いて、さあ三杯目の水を幸内の頭から浴びせようとして、神尾主膳はよろよろとよろけました。幸内に浴びせようとした水を三分の一ばかり、自分の懐ろの中へ浴びせてしまいました。
「あッ、冷たい」
主膳は釣瓶を取落すと、釣瓶は井戸の中へ落ちました。やり損なった主膳は、まだ釣瓶の綱の手を放さないで四杯目の水を汲みにかかりました。諸手をかけてウンウンと力を入れて手繰った時は、自分のしている残忍そのものの興味をも忘れているようであります。
かわいそうに幸内は、主膳が酒乱の犠牲となって、弄り殺しにされなければ納まらないでしょう。弄り殺しにした上に、その屍骸を粉々にしなければ納まりそうにはありません。
主膳は悪魔のうなるように、ウンウンと力をこめて綱を引きました。力余って釣瓶を井戸車の上まで刎ね上げてしまいました。井戸の水は、滝が岩に砕けるように一時にパッと飛び散りました。
「うーん」
その途端に神尾主膳は、どうしたハズミか二三間後ろへと尻餅を搗いてしまいました。釣瓶の縄が切れたのです。釣瓶は凄じい音をして単独で井戸の底へ落ちて行きました。ハズミを喰って尻餅を搗いた神尾主膳は、暫らく起き上ることができません。
「神尾殿、神尾殿」
やや暫らくして神尾主膳は、何者にか呼び醒まされました。
「あ……」
主膳は気がついた時に、自分の面の上へ小田原提灯を差しつけている者があることと、また自分の身体を後ろから抱き上げている者があることを知りました。
「神尾殿、気を確かにお持ちなさい、拙者は小林でござる、小林文吾でござる」
後ろから抱き上げているのがこう言いました。それはすなわち剣道の師範役小林文吾であります。小林はやはり仲間のような扮装をして、看板の上には半合羽を着て、脇差を一本だけ差しておりました。
「別に怪我をしているわけじゃねえんだ、ただ釣瓶の縄が切れたから、それで尻餅を搗いて気を失っただけなんだ」
小田原提灯を差しつけてこう言ったのは、それは宇治山田の米友でありました。
やっと気がついた神尾主膳、もとより別段に斬られたというわけでもなし、突かれたというわけでもないから、すぐに正気に返って、
「これはこれは、小林文吾殿か」
この時には、主膳も酒乱の狂いから醒めていました。そうしてみると、なんとなくきまりの悪いような心持にもなり、また今ごろ小林師範が、どうしてこんな扮装をしてここへ来合せたかということも、疑問にならないではありませんでしたけれど、
「面目ないことじゃ、実は少々酔いが廻ったものだから、酔醒めの水を飲もうと、水を汲みかけてこの状じゃ――して貴殿方はどうしてここへ」
「我々はちと尋ねる人があって、その人を尋ねてこのあたりまで来たところ、ついその人を見失うて……」
「それはそれは、ともかく、あれまで」
神尾主膳は立ち上りました。先に立って小林を屋敷のうちへ案内しようとすると、
「こりゃどうしたんだ、エ、ここに男が一人縛られて倒れてるが、こりゃどうしたんだ」
と言って、けたたましく叫んで提灯を振りかざしたのは米友であります。
「ああ、そりゃあきちがいじゃ、養生のためにそうして水を浴びせてやるのじゃ」
神尾は憎そうに言い捨てました。
「いくらきちがいだってお前、この寒いのに井戸側へ、水をかけて置きっ放しにしたんじゃ凍え死んでしまうじゃねえか」
米友は同情しました。神尾は米友の方を、じっと見ただけで取合わずに、小林に向い、
「貴殿方が尋ぬる人というのは、そりゃ、いかなる人でござるな」
「ほかではござらぬ、このごろ市中に評判のある辻斬の曲者を尋ねんがために」
「なるほど」
「夜更から暁方へかけて、こうして扮装を変えて毎夜のように尋ねてみるが、ついぞ出会し申さぬ。しかるに今夜という今夜、柳小路で見かけた怪しの者、見えがくれに後をつけると、要法寺の墓地へ入って行衛が知れず、引返そうとした時に、かねて謀し合せておいたこの男、同じような怪しい者が、たった今、古城の方へ行ったと申す故、二人で後追いかけて、たしかに姿を認めたのが当屋敷の裏手。喜び勇んで駈けつけて見れば、それは尋ねる曲者ではなくて、御主人の神尾殿がこの体たらく」
小林文吾は一通りの事情を話して苦笑いしました。
「それは、それは」
神尾はそれを聞いてなんとなく腑に落ちないような心持で、例の座敷の傍へ来て縁側から覗いて見ると、さいぜん、さんざん問題にした丸行燈の火は消えてしまっていましたから、中は真暗でありました。
幸いに米友は小田原提灯を持っていました。頼まれもしないのに、幸内を担いでその縁側のところまでやって来ていました。
主膳と幸内とを座敷の中へ送り込んで、小林文吾と米友とはそこを辞して外へ出てしまいました。
そのあとで、主膳は座敷の中で寝転んで、詩を吟じてみたり、新内を語ったりしてみましたが、やがて思い出したように起き直りました。米友が提灯からうつした行燈には火が入っていました。その行燈の下に幸内は、水を浴びせられたままで放って置かれてありました。主膳はその傍へ寄って来て、
「幸内、お前にもだいぶ苦しい思いをさせたな、どれ、許してやろう、縄をゆるめて遣わすぞ」
と言って、縛ってある幸内の縄の結び目を解きにかかりました。酒乱は止んだらしいけれど、酔いはまだ醒めていないようであります。
ついに面倒になったものと見えて、主膳は小柄を抜きました。その小柄でブツリブツリと縄を切ってしまいました。
こうして手首の縄を切られたけれど、幸内はグッタリとしていました。
「ははははは、おとなしいな」
と主膳は笑いました。それから同じ小柄をもって足首の縄をブツリブツリと切りかかりました。
縄は足首の中に食い込んであったのを切ってしまうと、幸内の両足も自由になりました。
両手も両足も自由になったけれど、幸内はグッタリとして動きません。それはそのはずです、三杯目の水を浴びせられようとする時分から、幸内は絶息していたものでありましたから。
「ははは、永らく窮命させた、これで許して遣わす、どこへなと勝手に出て行け」
神尾主膳はこう言って、暫らく幸内の姿をながめていたけれど、幸内は更に動くことをしませんでした。
「はははは」
と主膳はまた発作的に笑って、そのままゴロリと横になりました。横になると新内の明烏をところまんだら摘んで鼻唄にしているうちに、グウグウと寝込んでしまいました。
主膳の鼾がようやく高くなった時分に、幸内の身体が少しばかり動きました。絶息していた幸内の眼に白い雲のようなものがかかりました。幸内は夢のように手を振りました。それが気のついたはじめで、それから自分のことを覚るまでには、なお幾分かの時間がかかりましたけれど、結局、幸内は我に返りました。
我に返った最初に、行燈の光がボンヤリと眼へ入りました。それよりも幸内が嬉しくて嬉しくてたまらなかったのは、いつのまにか、わが手が自由になっていたことのわかった時であります。
それがわかると勇気が一時に十倍百倍し、さほど弱っていた身体で這い起きたのが不思議なくらいでありましたけれど、這い起きて見るとこれも嬉しや、足も自由になっていました。
見れば行燈の影に一人の侍が寝ています。
幸内はゾッとしてしまいました。永らく己れを苦しめて苦しめ抜いた極悪人という憎悪がむらむらと起りましたけれど、その憎悪は復讐というところまで行かない先に、恐怖を以て占領されてしまいました。
何事を置いてもこの場を逃げなければならぬ、逃げ出さなければならぬという考えが、前にも後にも犇々と迫って来たから、幸内は縁側の方の戸を押し開きました。一生懸命で戸を開いて縁側へ出て、縁側から転げ落ちて、やっと起き直って、庭を駈け出してまた転びました。また転んでまた起きました。その有様は後ろから鬼に追われて、足の竦んだ夢を見ているような形でしたけれど、別に何者も追いかけるのではありません。
神尾主膳が寝込んでしまって、幸内が転がり出して、いくらもたたない時に、机竜之助が帰って来ました。
例の通り宗十郎頭巾を被っていましたが、いつも蒼ざめている面が一層蒼ざめていました。
「神尾殿、神尾殿」
行燈の下へ来て寝ている神尾を呼び起した時、竜之助は胸のあたりを気にしております。
「やあ、机氏、どこへ行っていた」
神尾主膳はやっと起き直りました。
「夜遊びに行って来た」
と言いながら竜之助は、片手で長い刀を横に置いた時に、神尾主膳は竜之助の例の胸のあたりを見て、
「や!」
神尾は悸として少しく身を退かせました。
胸のあたりを気にしていたという竜之助は、その羽織の少しく下の方にぶら下がっている白い物を右の手に持って、左は羽織を押えて、無理にそれをもぎ取ろうとするのであります。
神尾が見て悸としたのは、その竜之助のもぎ取ろうとしている白い物が、人間の手のように見えたからであります。
人間の手のように見えたのではない、まさに人間の手に違いないからであります。
「竜之助殿、いったいそりゃ、どうしたのだ」
主膳も、ほとほと身の毛がよだつようでありました。
「固く……むしりついて……どうしても取れぬ」
竜之助は、そう言いながら人間の手を羽織の襟からもぎ取ろうとして、なおも力を入れたのであります。
「どうしたのじゃ」
主膳は再びたずねました。
「これが……この手首が……」
竜之助は、自棄に力を入れてその羽織にぶらさがった人間の手を引きました。
「斬ったのか、人を斬ったのか……」
主膳は面を突き出して、その手首を篤と見届けようとして、
「取れないのか」
「取れない」
「どれどれ」
「斬った途端にここへ飛びついたから、また斬った、手首だけ残して倒れた、その手首が、ここに密着いて離れない」
「拙者が離してみてやろう」
神尾主膳は竜之助の胸の前へ来て気味悪そうに、その手首にさわりましたが、
「こりゃ女の腕ではないか」
「ああ、女の腕よ」
「女を斬ったのか」
「うむ、女を斬った」
「なぜ斬った、どこで……」
それから、やや暫らく古屋敷の中は寂然としていましたが、
「はははは、拙者にその駒井能登守とやらを討てと言われるのか」
机竜之助のこう言った声が、低いけれども座敷の隅に透りました。
「叱ッ、静かに」
それは神尾主膳が怖れるように抑えたのであります。
それから小さい声で話が続きました。時々は声が高くなったけれどよくは聞き取れません。暫らくして神尾主膳の、
「や、幸内がいない。幸内が逃げた」
と叫ぶ声が聞えました。
幸内を逃がしたのは自分が逃がしたのである。主膳は今までの自分のしたことに気がつかないでいたと見えます。
それから急に騒ぎ立って雨戸をあけて見たり、庭へ出て見たりするようでありましたけれども、結局、逃げた幸内の行方がわからない。そうなると神尾主膳はじっとしていられないほど、狼狽をはじめましたようであります。
主膳は周章しく帰りました。主膳が帰ってのあとは竜之助が一人でありました。
「神尾主膳はおれに向って、駒井能登守とやらを討ってくれという、神尾の頼みを聞いてやらにゃならぬ義理もなければ、駒井能登守を討たにゃならぬ怨みもない、おれは人を斬りたいから斬るのだ、人を斬らねばおれは生きていられないのだ――百人まではきっと斬る、百人斬った上は、また百人斬る、おれは強い人を斬ってみたいのじゃない、弱い奴も斬ってみたいのだ、男も斬ってみたいが、女も斬る、ああ甲府は狭い、江戸へ出たい、江戸へ出て思うさまに人が斬ってみたいわい。ああ、人を斬った心持、その時ばかりが眼のあいたような心持だわい。助けてくれと悲鳴を揚げるのをズンと斬る、ああ胸が透く、たまらぬ」
竜之助は座の左を探って、手柄山正繁の刀を取り上げました。
「今宵もこれで斬った。女だ、まさしく女の声で助けてくれと泣いた。若い女であったか、年を取っていたか、そりゃわからぬ。綺麗な面をしていたか、醜い面をしていたか、それもわからぬ。若い女であったら何とする、また美しい女であったら何とする、おれはただ斬ればよいのだ、斬りさえすれば胸が透くのだわい。声をしるべに斬った途端に、縋りついて泣いたからまた斬った、それでこの片腕がおれの羽織にしがみついたなりに残った」
竜之助はその刀に残る血の香に顫えつくようでありました。身体もまたブルブルと顫えて、手に持った刀から水が飛ぶようであります。
「以前は強い奴でなければ斬りたくなかった、手ごたえのある奴でなければ斬ってみようと思わなかった、このごろになっては、弱い奴を斬ってみたい、助けてくれと泣く奴を斬るのが好きになったわい。ああ、咽喉が乾くように人が斬りたい。あの幸内とやらは逃げたそうな、長持の中の窮命人は逃げたそうな、せめて彼でもいたら斬ってみたい、一人では斬り足らぬ。どうしてまた、今宵はこれほどに人が斬りたいのだ」
竜之助はほんとうに乾いた咽喉を鳴らしているのでありました。それは血を飲みたいがために乾いた咽喉であります。
「ああ、甲府は狭い、一夜のうちに二人と人が斬れぬ、江戸へ出たい、江戸へ出れば、好みの人間を好むように斬ることができるのだ――今宵斬れば明日の晩は遠慮せにゃならぬ。甲府の土地にはおられぬ、江戸へ出る工夫はないか。江戸へ出て思うままに人を斬らねば、おれは生きてはおられぬのだ」
彼は狂する者のように、刀の血の香いを嗅いでいるのでありました。