一
私は品行方正な人間として周囲から待遇されて居る。私が此所にいふやうな秘密を打ち明けても私を知つて居る人の幾分は容易に信じないであらうと思はれる。秘密には罪悪が附随して居る。私がなぜそれを何時までも匿して居ないかといふのに、人は他人の秘密を発くことを痛快とすると同時に自分の隠事をもむき出して見たいやうな心持になることがある。そこには又微かな興味が伴ふのである。
私は山に遠い平野の一部で、利根川の北に僻在して居る小さな村に成長した。村は静かな空気の底に沈んで櫟林に包まれて居る。私の村は瘠地であつたので自然櫟林が造られたのである。丈夫な櫟の木は伐つても/\古い株から幹が立つて忽ちに林相を形つて行く、百姓は皆ひどい貧乏である。だが櫟がずん/\と瘠地に繁茂して行くやうに村には丈夫な子供が殖えて行く。或時は其聚つて騒ぐ声が夕焼の冴えた空に響いて遠く聞えることがある。私は自分の村を好んで居る。さうして櫟林を懐しいものに思つて居る。櫟林は薪に伐るのが目的なので団栗のなるまで捨てゝ置くのは一つもない。それで冬になつて木枯が吹きまくつても梢には赭い枯葉がぴつしりとついて居る。春の日が錯綜した竹の葉の間を透して地上に暖か相な小さな玉を描くやうに成つてすべての草木がけしきばんで来ても、櫟の枯葉は決して落ちまいとしがみついて居る。「ぢい」と細い声を引いて松雀がそこに鳴くやうになれば地上には幾らかの青味を帯びて来る。然し櫟林は依然として居る。四月になつて、春がもう過ぎて畢ふと喚び挂けるやうに窮屈な皮の間から手を出して棕櫚の花が招いても只凝然として死んだやうである。諦めたやうに棕櫚の花がだらけて、春はもうこぼれたやうに残つて居る菜の花にのみ俤を留めて来た時其赭い枯葉を咄嗟に振ひ落して蘇生つたやうになる。さうして僅か四五日のうちに新樹の林になるのである。いつて見れば春といふ季節は櫟林と何等の交渉もない。私は此の植物に同化されたといつていゝのであらうか、私の一身は極めて櫟林の生態に似て居る処がある。さう自覚した時私は櫟林が懐かしくなつた。随つて櫟林に向つていつも注目を怠らない。春雨が浸み透つた梢の赭い葉が、頭を擡げ出した麦の青さと相映じて居るのに見惚れることすらあるのである。然しこんな下等な樹木を好んで居るといふものは恐らく他にはないであらう。
私は櫟林が春と交渉がないといつた。然しながら長い春の間には櫟も他の樹木の如く皮と幹との間から水分を吸収する生理作用を怠らない。私の一身も春といふ期間に於て索莫たる境涯に在つたのである。それでも櫟が窃に水分を吸収して居るやうに、私にも亦隠れた果敢ない事柄がある。私がはじめて此の世の空気を吸うて泣いた声は私の家では四十八年目に聞かれた声であつた。其時母の乳が乏しかつたので普通ならば「さと子」といつて他の家へ託される筈なのであるが、私の為めには特に乳母が抱へられた。どういふものか私の家へ来る乳母の乳が止つて畢つたので前後十一人の乳母が交代された。其頃はそんなことの出来る程私の家には余裕があつたのである。十一人目の乳母が虚弱な私を育てた。乳母は田舎には滅多に無いといはれた位縹緻のいゝ女だといつた。私も幼い時には非常な綺麗な子であつたので、後には女に好かれるといふやうなことを能く見る人がいつた相である。此はずつと後になつてから聞いたのであるが有繋にそれを聞くことは不快ではなかつた。私には又かういふことがあつた。私はふと一人の女を見るのが好になつた。女は私よりも五つ六つ年嵩で、私は十一二であつた。私は其頃近い町の姻戚の家から学校へ通つて居た。稍暑い日に女は蝙蝠傘を翳していつでも同じ時刻に学校の前を往復するのであつた。女は何かの稽古にでも通つて居るらしかつた。私は暇があれば学校の門に立つて見た。唯其女を見るのが好きであつたまでゝある。私が其時少年の身でさうした心持で立つて居ようとは人の知る筈はないのである。其癖私は其頃はまだ他人が女を批評していゝとか悪いとかいふのを聞いても、どんなのがいゝのか悪いのか分らなくてさういふのを不審に思つて居た位なのであつた。それで其女のことは其後久しく忘れて居た。ふと思ひ出してからは屡記憶から喚び返す。すらりとした矢絣の単衣姿で緑の蝙蝠傘をさして居る。日光が仄かに蝙蝠傘を透して化粧した顔が薄らに青く匂ふ。私が最初に思ひ出した時には女の姿はそれ程に明瞭ではなかつた。それがだん/\記憶を反復して居るうちに女の姿がはつきりとかう極つて畢つたのである。私は兎に角こんなことであつたから性情が何等の抑制もなく発達して行つたならば曠野のうちに彷徨ふやうな索莫たるものではなかつたであらう。私は病気の為めに断然廃学せねば成らぬやうになつた。其時私はまだ廿にもならなかつた。私は復た櫟林に没却して此の静かな村の空気を吸はねばならぬことになつた。全く孤独の境涯に移つた。日さへ明ければ田畑に出る百姓は私の相手ではなかつた。心身共に疲労した私と何時までゝも相対して居てくれるものは樹木の外にはないのである。それからといふものは厭だと思つて居た櫟の木もだん/\に好きになつた。私は健康の恢復しかゝるまで数年間徒然として過した。其間女といふ念慮の往来したことはあるが自分ながら明かにどうといつて述べて見る程のこともない。私に妻帯を勧める人もあつたが其噺を運ぶのには私の心は余りに沈んで居た。私が周囲から品行方正な人間として待遇されて居たのも当然である。私が斯ういふ状態を持続して居たのは病気といふ肉体の欠陥と私を挑発する機会が一度も与へられなかつたからとでなければならぬ。私の村に相手になつてくれるものがないといふのは私と百姓との間には生活状態から自然著しい隔てを生じて疏通し難い点が多い為めである。百姓の子でも麦の臭に満ちた畑の中に働いて居る時や、熊手を持つて櫟林の間を落葉掻に行く処をちらりと見た時や其姿が有繋に目を惹くことがないではないが、それは只一瞥した感じに過ぎないので、暫くも私の心を動かすには足らぬのである。私の生涯の春もこんなであつたけれど赭い枯葉を振ひ落したやうに時期が来つて忽ちに変化した。さうして人一倍の陋劣な行為を敢てしたのである。それは私の家に一人の女が来たからであつた。