一
鳥山鳥右ヱ門は、弓矢を抱へて、白い馬にまたがり、広い庭のまんなかに立つてゐました。しもべの平次が犬をひいてあらはれるのを待つてゐたのです。
その、しもべの平次を、主人の鳥右ヱ門はあまり好きではありませんでした。平次はかれこれ二月ばかりまへ、鳥右ヱ門の館にやとはれて来た、背の低い、体のこつこつした、無口な男です。どこの生まれなのか、自分でもよく知らないといつてゐました。自分の生まれたところを知らないのは、馬鹿に違ひない、といふので、鳥右ヱ門の館では、平次をうすのろといふことにきめてゐました。平次はそれでも平気のへいざでした。しかし鳥右ヱ門は、ときどき、平次の眼の鋭く澄んでゐるのにびつくりすることがありました。みんなの眼が、よろこびに酔つたり、有頂天になつて落ちつきをうしなつたやうなときに、平次の眼は反対に、秋のひぐれの沼のやうに冷たく澄むのです。そんなとき、よく見ると、くつと結ばれた平次のくちのまはりに、かすかな笑ひのしわがあらはれてゐることもありました。鳥右ヱ門はかういふ眼で平次から見られると、一ぺんで何かが体からぬけていくやうに感じるのでした。たとへば、誰かをどなりつけようとして、口をあけかかつた瞬間、平次の冷たい眼にであふと、急にどなる元気がなくなつて、「もういいからあつちへ行け。」と相手に不機嫌さうにいふのでありました。
鳥右ヱ門にとつていちばん面白くないことは、鳥右ヱ門の大好きな犬追物をするときにかぎつて、平次の眼が鋭くとがめるやうに鳥右ヱ門の心をさすことでありました。生きた犬を放つて馬の上から射殺す、この犬追物の遊技は、鳥右ヱ門の何より好きなもので、三日に一度は、必ず館の庭で、自分一人で練習をしました。練習とはいつても生きた犬を射殺すので、三日に一匹づつどこかで犬を探し出して来なければなりませんでした。この役目を平次は仰せつかつてゐたのでした。平次は、だまつて犬をひいて来て、主人の矢の先で、首から縄を放すのでしたが、主人の矢が、みごとに犬の急所をつらぬいても、ほかのしもべどものやうに、「お見事なうでまへでございます。」とほめたりしませんでした。犬のむくろから矢をひきぬくと、自分の赤ん坊でもかかへこむやうにして、犬を持ち、主人の方に冷たい眼をちらつとむけて、いつてしまふのでした。その眼はかういつてゐるやうに鳥右ヱ門には思へました。「よりによつて、何といふ殺生な遊びごとをなされることでござりませう。」そんなわけで、鳥右ヱ門は、やがてあらはれて来る平次のことを、こころよからず思つてゐたのでした。
まもなく中門から平次がはいつて来ました。今日は大きな犬をひいて来ました。その犬は、ここへつれられて来るたいていの犬がするやうに逃げようとしたり、ひかれていくのをいやがつて、地べたに坐りこんでしまつたりせずに、首を地に低くたれて、すなほに平次のあとをついて来ました。
庭のまん中に、縄で二重の大きい円が描かれてあります。平次はその内側の方の円形の中にはいりました。そして犬の首を抑へてかがみました。
さてこれから犬追物の練習がはじまるのです。鳥右ヱ門は矢をつがへて、馬の上で身をかまへました。
「お犬にげ候。」
と平次がいひました。しかしまだ犬の首をはなしません。鳥右ヱ門もだまつてゐます。
「お犬にげ候。」
とまた平次がいひます。三度目に「お犬にげ候」をいふと、そこで矢をはなつことになつてゐるのでした。鳥右ヱ門は大きく弓をしぼりました。
「お犬にげ候。」
三度目に平次がいひました。
「はや放せ。」
と鳥右ヱ門が声をかけました。
平次は犬の首を放しました。
犬は、ぱつと駈けだして逃げる、と思ひのほか、同じ場所に首を垂れてじつとしてゐるのでした。鳥右ヱ門は拍子ぬけがしました。
「何だ、これは。病犬ではないか。」
「申しわけありません。」
と平次はあやまりました。
「こんなものが射られるものか。」
「お腹立ちはごもつともでございます。しかし、けふはいくら歩き探しましても、この犬のほかには……」
「ええい、つべこべいふな。鳥山鳥右ヱ門、やせても枯れても、武士のはしくれ、病犬を射たと人にいはれたくないわ。」
すると平次はだまつてしまひました。そしていつもの、あの冷たく澄んだ眼ざしで、じつと、鳥右ヱ門を見上げてゐました。
鳥右ヱ門はその眼ざしにでくはすと、われにもあらずどぎまぎしました。その、どぎまぎしたのを平次に見られるのは一層やりきれないことなので、ごまかすためにゐたけだかになつて、呶鳴りました。「ええい、ここなやつが。下郎の分ざいで、主人をにらむとは生意気千万。のちのちの見せしめに……」さういつて、犬を射るつもりでふりしぼつた矢を、平次の方にむけました。「その、につくき眼の玉を射てくれるわ。」
平次は仰向けにひつくりかへりました。矢は右の眼を射つぶしてゐました。
庭の隅の橘の花に、蜂が音を立てて来てゐるしづかなひるのことでした。