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デモクラシーの要素
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デモクラシーの要素
新渡戸稲造
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 7 of 7

動物の自由と真の自由

自由にしても自ら階級があってルソーのいうような動物の自由はいわば食うだけの自由で、甲の犬が噛じれる骨を乙犬は力任せにこれを奪う自由を有しているが、奪われまいとするには容易ならぬ心配をせねばならぬ。その食物を得るには痛く艱難せねばならぬ。即ち種々の不自由を経ねばならぬ。然るに何故にこんな不自由なる有様を自由と名づけるかといえば、彼ら動物間には法律や輿論の如き制裁力が弱いからである。しかしこれは最も低い階級の自由であって、我々の尊ぶ自由というはかくの如き野卑なものでない。財産と生命が安固にして夜は戸を閉じなくとも高枕で眠り、他人と説を異にしていても大手を振って往来を闊歩する如きことこそ真の自由というものである。即ち社会に秩序があって暴力に対する恐怖心が不必要になり、あるいは自分の説の行わるる希望を懐き、あるいは自分の疲れた体を憩うて身体の健全を維持する望を懐き、積極的行動を為しても、何人もこれを妨ぐる者なく、相互の生命、財産、思想、人格を尊敬する様になって、始めて自由が実現されるのである。自由の実現には一方必ず社会の秩序、法律の完備が伴うている。故に法律なくして自由は思も寄らない、社会の尊敬なしに個人の自由は実現出来ない。孔子の「心の欲する所に従えども矩を踰えず」というたのは自由の定義として適切である。単に心の欲する所に従うだけでは、あるいは矩を踰えるの恐もある。然らば単に矩を踰えないことのみを恐れるようでは、これまた自由を得たるものとはいわれない。心の欲する所は思い存分に行る、しかしその行うことにも自ら宜しき程度があって、その程度即ち矩を踰えない所に真の自由がある。然るに孔子さえも七十になって始めてこの域に達したので、五十、六十まではまだ心の欲する通り行うこと、矩を踰えたであろう。デモクラシーの経験に最も老練を積める英国民の於てさえいまだ理想的の自由に達しないのである。まして自由なる言葉を五十年前に始めて聞いたような国民がかくの如き意味に於て自由を理解することは、もとより期待されぬことであって、従って仏蘭西革命のワイワイ連中がこれを誤解して応用を過り、悲惨な歴史を演じたような事なきため、デモクラシーを重んずる者は冷静にこの問題を理解することに努めたい。

これだけでは僕は自由論に反対するように聞ゆるが、僕はその誤解を心配するのであって、これより正解に努力したい。

〔一九一九年二月一日『実業之日本』二二巻三号〕

●図書カード

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