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大戦脱出記
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大戦脱出記
野上豊一郎
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 8 of 9

8

九月十四日は私の誕生日であつたが、今年は誰も赤飯をたいて祝つてくれる人もなかつた。その日、私たちがパリの大使館に保管を頼んであつた殘りの荷物が、幸ひにもパリのM君の好意で送り屆けられた。

その次の日は、朝早く意外な人の來訪を受けて私たちは喜んだ。エスパーニャで世話になつた矢野公使が、車でパリからの歸途、昨夜遲くボルドーに入つたのだけれども、ホテルがどこもいつぱいで車の中で夜を明かしたといふことだつた。私たちは下の食堂でいつしよに朝食をして、誘はれるまま、その車で鹿島丸を訪問することになつた。公使は船長F氏を知つてるので久しぶりで逢ひに行つたのである。

ボルドー橋を渡り、河の右岸に沿つて二十分も車を駈けらすと、バッサン・アヴァルに着いた。鹿島丸はポスト第二號に横づけになつてゐた。船腹に日の丸が描いてある。戰爭區域を航行するので中立國の旗幟を鮮明にしようといふ表示である、梯子の下にはフランスの警官が二人武裝して立つてゐた。甲板にはもう乘り込んで散歩してる人たちがあつた。知つてる誰彼の顏も見えた。船客は昨日から乘せることになつてゐた。しかし、まだ出帆の日が發表されてなかつたので、大部分の人は乘つてなかつた。

私たちは船長室でしばらく話し、晝飯の馳走に預り、今度は船長を誘つて船を出て、またボルドーの町へ引つ返し、サン・ミシェルの寺と、塔と、塔の下に隱されてある七十體のミイラを(これは私の案内で)見物し、それから郊外に出て、シャトー・ブリオンといふ見事な葡萄畠を(これは矢野公使の案内で)見物し、再び船に戻つて、パリの大使館から出張して來た事務官T氏、觀光局のY氏、マルセーユの副領事X氏などと一所になり、夕食後歡談に夜を更かし、十一時頃ボルドーの町へ歸つて來る途中、星月夜の街上に夥しい歩兵部隊の出征する所に出逢つた。停車場の方へ道歩で行進してゐたが、みんな默默として、靴音だけが高く響いた。

私たちが鹿島丸の船客となつたのはその翌日(九月十六日)であつた。前の日、船を訪問した時、十六日の午前中に船客は全部乘り込んでもらひたいといはれた。順調に蓮んだら十七日には出帆したいといふことだつた。しかし、船ではまだ行先を發表してなかつた。それでも、いろんな根據から推定して、多分リヴァプールに寄港するのだらうと考へられた。けれども、それから先ははつきりしなかつた。恐らくパナマを通つて太平洋に出るのかとも思はれたが、その途中ニュー・ヨークに寄るかどうかはわからなかつた。船長自身にもまだわからなかつたらしい。

鹿島丸には珍らしい航海者が乘つてゐた。此の船は大角大將・寺内大將などを乘せてナポリまで來ると、戰爭が始まり、それからマルセーユまで來ると、マルセーユで日本に歸るつもりで乘つた人が十二名、その人たちはボルドーへ運ばれ、これからイギリスへ運ばれて行くのである。その中には私たちが以前パリで知つてゐて、もう日本へ歸りついてるのかと思つてゐたF君も交つてゐた。

更に氣の毒なのは、七月に日本を出て以來、ヨーロッパが戰亂の地となつたので上陸することができないで、此のまままた日本へ歸るといふ人が七名も乘つてゐた。

その他はすべてボルドーから乘つた人たちであるが、私たちの外二三名を除けば全部フランスに滯在してゐた人たちなので、リヴァプールなどには寄らないで此のままスエズの方へなり、パナマの方へなり行つてもらひたいと、頻りにさういつてゐた。イギリスに滯留してる日本人の多くはイギリスに大きな愛着を感じてるやうであつたが、フランスに滯留してる日本人はまたフランス一點張で、イギリスには少しも親しみを感じてないやうだつた。それを私は一つの興味ある現象として考へて見た。

さて、船には乘り込んだものの、いつ出帆するかわからないといふことだつた。出帆命令が來ないからである。大使館は何をしてるのか?マルセーユの領事館はどうしたのか?ロンドンのN・Y・K支店は何をしてるのか?と、そんな聲が船内に聞こえるやうになつた。一般乘客には眞相がわからないので、不安と不滿が充滿した。パリを出る時は乘せてもらふことが一つの感謝であつた者までが、乘り込んでから事態がかうこじれて來ると、不平の方がつのつて來て、一體此の船は避難船か商賣船かと開き直つたりする者もあつた。

埠頭には大きたクレインが三臺も四臺も運び出され、大勢のベレ帽をかぶつた人足どもが、毎日朝早くから日の暮まで、艙口の底から荷物を吊し揚げて倉庫の中へ運んでゐた。船客は、それを甲板に出て見物したり、船から下りて附近の葡萄畠を見に行つたり、タクシをつかまへてボルドーの町へ用たしに出かけたりした。みんなくさつてしまつて、つまらなさうな顏をしてゐた。

――動かない船もいいもんだね。

――なんのことはない、オテル・カシマだ。

そんなことをいつて興じてる者もあつた。

やつと二十一日になつて、明日正午リヴァプールに向け出帆の豫定といふ掲示が貼り出された。その時までまだ航路は正式に發表されてなかつたので、やつぱしイギリスへ寄つて行くのだつたかと初めて知り、中には、まだイギリスを知らなかつた者はリヴァプールでもどこでもイギリスの一角に觸れることを樂しみにしてる人もあつたが、大部分の人は、イギリスの海岸は危險だからそんな所へ寄ることは御免を蒙つて早く日本へ歸りたいといつてゐた。しかし、とにかく、陸を離れるといふことは一般の喜びであつた。

ところが、その日になると掲示は剥がされてしまつた。出帆はまた延期になつた。不安と不平が前よりも濃厚に充滿した。説明する者がないので疑惑が疑惑を産み、流言蜚語が飛び交つた。事實は、フランスの官憲が更に法律の適用を考へ出して、中立隣國(ベルヂク)への積荷をも差押へ得る權利があると主張して、アントワープ行の貨物をも押へようとして、それにからんでのいきさつであつたらしい。

――これからまた幾日もかかつて荷揚が始まるのか?

――もう荷揚はすんでるんだ。それを取り戻さうとしてるんだ。

――そんな物はくれてやつて、早く出したらいいぢやないか。

――なあに、船では荷物の方がお客さんで、お客さんの方は荷物よりもつまらないもんだよ。

――荷物は不平を言はないからな。

――金になるからだ。

そんな對話が取り換はされるのも聞かれた。

船は殆んど全部積荷がからになつて、滿載吃水線の白い記號が水面から一メートル半も上の方に浮き上つてゐた。しかし、一度荷揚をした貨物のうち、アントワープ行の分だけは、或る有力な方面(日本の官憲ではない)の仲介に依つて差押を免かれ、その代りまた積戻しをすることになつた。ところが、二十三日は土曜日、二十四日は日曜日で、役人も人足も働かないので、二十五日の早朝からその分の積込みを半日ですませ、その日の午後出帆ができるといふことに決定した。

船に乘り込んでから十日目、ボルドーに着いてから二十四日目に、とにかく鹿島丸は「ホテル」から「船」に還り、イギリスへ向つて錨を捲き上げた。

附記

フランス在住の日本人避難者を乘せた鹿島丸は、九月二十五日午後四時三十分バッサン・アヴァルの岸を離れて、ガロンヌ河を九〇キロ下航し、ビスカヤ灣を横斷して、人人の心配の種となつてゐたイギリス海峽をずつと東の方に見て、セント・ヂョーヂ海峽に入り、二十八日の明け方、やつとリヴァプールに着いた。

地圖で見ると緯度でわづかに七度ほど北上するので、横濱から八戸の先の鮫港までぐらゐの航行に過ぎないわけであるが、鹿島丸は七十二囘の航海をする老齡船のことではあり、フランスの領海は一歩沖に出ると何處に水雷が敷設してないとも限らないといふ不安もあつて警戒しながら行つたせゐか、意外に時日を要した。それに航行中乘客に氣を揉ませた事件も一つならず起つた。私は寢てゐて知らなかつたが、ガロンヌを下つて、まだ下流のヂロンドを出きらないうちに、推進機に故障を生じて長い間停船してゐたさうだ。それから海に出てブルターニュの海岸を通つてゐると、どこかの(多分フランスの)驅逐艦に追つ驅けられて、燈火信號で西の方へ迂しろと命じられた。ブレストの軍港が近いので、その邊には艦隊が集まつてゐたらしい。日本の汽船は中立國の安全を守るため、船腹に大きく國旗の標章を塗り出して、電燈をあかあかとつけて走つてるので、その光で艦隊の存在を知られることを懼れての信號命令だつたらうと推定される。初めその信號が即時に受け入れられなかつたためか、驅逐艦はわれわれの船の周りを輪を描きながら追ひ立てて行つたのが、ちよつと氣味がわるかつた。さういつて實見者のU君が翌る朝みんなに話すと、なにしろ杖をついて歩いてるやうなお婆さん船だからね、と笑つてる人もあつた。しかし、そんな噂さが乘客の多くの人に不安を與へたことは事實だつた。

リヴァプールに着くと、對岸のバークンヘッドの岡の上の住宅地の景觀が、私には半年ぶりでイギリスらしいものを見て一種のなつかしさが感じられたが、フランスにのみ住まつてゐて初めてイギリスを其處で見た人たちには、やはりフランスの方がよいと見えて、輕侮するやうな言葉を漏らしてゐた。

空には阻塞氣球がふわふわ浮かんでゐて、しばらくボルドーでのんきに暮らして忘れがちになつてゐた戰爭氣分がまたよみがへつた。N・Y・Kの人たちに迎へられ、數臺のバスに分乘して、乘客は全部二三のホテルに分宿することになつた。停泊中の一週間は船内に起臥することが禁じられてゐたからである。

リヴァプールの町も見物したが、博物館は閉鎖されてあり、ほかに大して見るものはなく、むしろ市街の武裝防備を見て歩くことに興味を感じた。商店の窓ガラスの前には軒の高さまで砂嚢を積み立て、通行人は男も女もガス・マスクの袋を肩から斜に懸けてゐた。私たちもリヴァプールに上陸すると、警官に一箇づつガス・マスクの箱を與へられた。必要が生じたら開封して使用しなさい。乘船する時には返してください。と書いてあつた。私たちは風呂敷に包んでそれを持ち歩くことにした。とうとうロンドンまでそれを持ち込んだ。といふのは、丁度よい機會だから私たちはリヴァプールからあまり遠くない湖水地方へ泊りがけで見物に出かけ、其處からロンドンへは歸つたのであつた。私たちはロンドン居住者といふことになつてゐたので、その手續は簡單だつた。

ロンドンへの途中、マンチェスターもバーミンガムも空には夥しい阻塞氣球の城壁ができてゐて物物しかつたが、ロンドンに入ると更に夥しい氣球で、それだけでも戰爭氣分を滿喫するに十分だつた。ロンドンではもとのハムステッドの宿に歸つた。家政婦のミシズ・ハントはよく歸つて來たといつて、涙を流して喜んでくれた。しかし、私たちが半年間住まつてゐた一階のプロフェサー・Mの書齋は燈火管制に對する設備が十分でないからといつて三階の部屋に案内された。

ロンドンの四日間は忙しかつた。大使館に用事もあれば、世話になつた人たちに逢つて挨拶もしなければならなかつた。その間に議曾に出かけて首相チェィンバレン氏の演説(總統ヒトラー氏の演説に答へる意味での演説)を聽いたり、深夜の豪雨を侵してタイムズ社を訪問して、其處に部屋借をしてる朝日支局の北野君と香月君に逢つたり、その他、戰爭のために變貌してるロンドンの町町を見て歩いたりして、感慨の深いものがあつたが、此處には省略する。

十月五日に鹿島丸はニュー・ヨークに向つて出帆するので、その朝ロンドンにさよならをした。ロンドン在住者の家族で日本に歸る人の若干も同行することになつた。

リヴァプールからニュー・ヨークまで三一三一浬、クィーン・メァリ級の船だつたら五日目には着くと聞いてゐたのに、われわれの憐れな鹿島丸は十二日間を費して十六日の朝やつとブルクリン第十六埠頭に辿りついた。大西洋は相當に荒れ、北緯五十三度から四十度まで南西へ下つて行く間に殊にひどい大波を受け、食堂もしばらく閑散の日がつづいた。十三日の深夜、船長F氏の厚意でオーロラが見えると知らせてくれたので、ブリッヂに立つて北の水平線の上を見ると、黒い雲が二筋長くたたびいて、それを貫いて白い空に、一層白い線が幾つも放射してるのが見えた。

Chapter 8 of 9
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