二人の昼鳶
「あッ、泥棒ッ」
井上半十郎正景は、押っ取刀で飛出しました。
初秋の浜名湖を渡って、舞坂の宿外れ、とある茶店で中食を認め、勘定をする積りで取出した紙入を、衝立の蔭から出た長い手が、いきなりさらって表口へ飛出したのです。
が、事件はそれだけではありません、その昼鳶を追っかけて、思わず敷居を跨いだ半十郎、何がなし重大な不安を感じて、フト後ろを振り返って驚きました。
今まで神妙に弁当を使って居た町人風の第二の男が、半十郎が席へ置いた、振り分けの荷物を引っ抱えて、これは裏口の方へ逃げ出したではありませんか。
「あッ」
半十郎、紙入をさらった第一の男を断念して、振り分け荷をさらった、第二の男に必死と追いすがりました。紙入の中の金は、多寡が江戸までの路用、――今の半十郎には大金でも、僅に十三両二分しか入って居りませんが、振り分けの荷の中には、身にも世にも、命にも、面目にも替え難き、井上流砲術の秘巻が入って居たのです。
「己れッ、待たぬかッ」
追う武士と、追わるる賊と、七月の明るい陽を浴びて、田も、畑も、藪も、林も、真一文字に突き切りました。泥棒の足の早さも抜群ですが、二十七歳の若さを、忿怒と驚愕に燃えさかる、井上半十郎の意気込の凄まじさも一と通りではありません。
「返せッ、それは金目の品ではない、――返さないと、己れッ、手裏剣が飛ぶぞ」
半十郎は駆け乍ら、小柄を抜いてサッと振りあげました。曲者との距離は僅かに二十歩、あと五六歩詰めさえすれば、間違いもなく首筋が縫えるでしょう。
早くもその気勢を察した曲者は、中腰に身を屈めると、サッと右手へ切れました。其処から木立の入口まで、身の丈け程の恰好な藪が続いて、手裏剣を防いでくれるのでした。
「あッ」
一瞬、曲者の姿は見えなくなりました。大地を嘗めるように、木立の中へ躍り込んだのです。
続く井上半十郎、今度曲者の姿を見掛けたら、遠慮もなくその手裏剣を飛ばす積り、突き詰めた心持で、ツと木立の中へ――。
が、木立は思いの外浅く、飛込んだ半十郎の前には、広々と明るい道が開けて、其処には若い女が一人、嫣然、半十郎を迎えるように立って居るではありませんか。
曲者は? ――と見ると、ほんの五六間先へ、頭を先へ押っ立てて、両手で梶を取るように、死物狂いで逃げて行くのです。
「己れッ」
振り上げた手裏剣は――不思議、宙に押えられました。
「お待ちなさいまし、お入要の品はこれでしょう」
若い女は見覚えある振り分けの荷物を、半十郎の眼の前へ差出したのです。
「どうしてそれを」
「御難渋の様子を拝見して、曲者の手から奪い還しました」
「――――」
半十郎は何んとなくギョッとしました。この女の爽やかな声には、忘れ難い響があったのです。
「でも、手裏剣はお止しなさいまし、無益な殺生でございます」
若い女はそう言って、半十郎の前に振り分け荷を捧げるように、ニッコと含み笑いを見せました。小麦色の頬に淀んだ、深い靨、切れの長い眼も、紅い唇も、妙に蠱惑的ですが、前歯が二枚欠け落ちて、右の額から頬へかけて、燃え立つような赤痣、焼き損ねた名窯の陶器を見るような、痛々しさと凄まじさに、半十郎も思わずゾッとしました。
この女の美しさと醜さの、法外な不調和が、相対する限りの人に、造化の悪戯にする、反感のようなものを、かき立てずには措きません。
「――――」
逃げて行く第二の曲者の姿を見乍ら、半十郎はさすがに渋りましたが、
「さア参りましょう」
委細構わず、女は歩き出します。命より大事な、振り分けの荷物を手に入れると、今更第一の昼鳶にやられた、紙入のことが気にかかります。中はたった十三両二分でも、あれが無くては、江戸への旅を続ける見込がありません。井上流砲術をもう一度世に出す為には、あの十三両二分は大した資本だったのです。