伯爵の悩み
「千種君、暫らく此処へ掛けたまえ、平常あまり人が来ないから、掃除は行届かないが、その代り此辺なら決して話を人に聞かれる心配は無い」
私のためには旧藩主に当る元伯爵海原光栄氏は、尊大が通りものの顔を柔げて、広大な庭園の奥の、洒落た四阿の中に私を導き入れました。
真中から綺麗に分けた毛は、いくらか胡麻塩になりかけましたが、血色の良い見上げるような若い頃美男で鳴らした俤を充分留めて居ります。
それにしても、その典麗な顔をネジ曲げるような、不安とも懊悩とも付かぬ、不思議な表情の往来するのは何うしたことでしょう。
「何んなお話ですか、伯爵」
「こんな場所へ引張って来たら、さぞ不思議に思うだろうが、斯うでもしなければ、私はどうも安心して話が出来ない」
「…………」
「千種君、君は私と旧藩の関係はあるが、公人としては東京第一という敏腕な新聞記者だ。私の話を聞いたら、その中から、キット事件の核心を掴んで、この私の不安を一掃してくれるに相違ない――」
「お言葉中ですが伯爵、私は関東新報の社会部長をして居るだけで、決して敏腕な記者でも何んでもありません、十日ばかり前お屋敷の書生さんが変死されたということですが、そんな事件に絡んでの問題でしたら、警察の方へ仰しゃって、然るべき専門家に探索して貰いなすった方が宜しいかと思いますが――」
「御忠告は有難う。然し、私のこの不安や悩みは、警察当局は勿論のこと、素人探偵の耳にも入れ度くないほど重大な事なのじゃ、言わば私の恥だからな」
伯爵の容易ならぬ顔色を見ると、私はそれ以上耳を塞いで逃げるわけにも行きません。
「兎に角、承りましょう。その上で、私の力に及びませんようでしたら、何んとか外の方法を採って頂きます」
「それは言うまでも無い」
二人は四阿の粗末な卓に対して、一段声を落しました。原生林を象どった深い木立が、四阿の三方から迫って、一方はローンの緩いカーブに開けて居りますが、林も藪も非常に厚く、人間の忍び寄る隙間などはとてもありません。