Chapter 1 of 8

「人の心といふものは恐ろしいものですね、親分」

八五郎が顎を撫で乍ら、いきなりそんな事を言ふのです。

「あれ、大層物を考へるんだね。菓子屋の前を通ると、店先の大福餅をつかみ喰ひしたくなつたり、酒屋の前を通る度に、鼻をヒク/\させるのも、人間の心の恐ろしさだといふわけだらう」

「止して下さいよ、親分、あつしのことぢやありませんよ」

平次の鼻の先で、八五郎は無性にでつかい手を振りました。

「さうだらうとも、お前の心なんてものは、ビードロ細工で見透しだよ、腹が減るとお勝手ばかり覗くし、お小遣が無くなると、俺の懷を氣にするし」

「もう澤山、――あつしの言ふのは、淺草阿倍川町の佛米屋と言はれた俵屋孫右衞門が、昨夜隱居所で殺されてゐたと聽いたら、親分だつて變な心持になるだらうといふことですよ」

八五郎は漸く本筋に入りました。

「へエ、あの評判の良い人がねえ、俺は逢つたことも無いが、昔は淺草で鳴らした人だといふぢやないか」

「少し一徹者ではあつたが、義理堅くて深切で、評判の良い人でしたよ。それを虫のやうに殺すなんか、ひどいぢやありませんか、八方から人氣のあつた孫右衞門を、殺すほど怨んでゐた者があると思ふと、あつしは世の中がいやになりましたよ」

「八五郎に出家遁世されると、俺も困るし、差當りあの娘が泣くだらう。人助けのため阿倍川町へ出かけて見るとしようか」

「さうして下さいよ、親分が乘出して、下手人を縛つて下さると、あの娘が喜びますよ」

「誰だえ、お前の言ふあの娘は?」

「俵屋孫右衞門の娘、お柳と言つて十六、花の莟のやうな可愛らしい娘ですよ」

「俺の言ふあの娘は、煮賣屋のお勘子さ」

「冗談いつちやいけません」

「お前には少しお職過ぎるかな」

無駄を言ひ乍ら、手早く仕度をして、二人は五月の陽の照りつける街へ出ました。

道々八五郎は、俵屋のことを、いろ/\説明してくれます。先代の主人孫右衞門は、佛米屋と言はれた、評判の良い人でしたが、十年前に配偶に先立たれ、四、五年前から中風で足腰の自由を失ひ、二年前からは寢たつきりで、家督は養子の矢之助に讓り、何不自由なく養生して居るといふことです。

當主の矢之助は、孫右衞門に子が無かつた爲の夫婦養子で、嫁のお舟は遠縁の者、矢之助は四十二の厄、内儀のお舟は三十八の働き盛り、多數の雇人を、顎の先で使ひこなすと言つた、口八丁の才女です。

孫右衞門の本當の娘のお柳は、矢之助お舟の夫婦養子が入つてから出來た子で、今更どうにもならない存在でした。それ丈けに孫右衞門の寵愛が深く、わけても母親の死んだ後は、簪の花のやうに大事に育てました。

家族はその四人だけ、あとは、番頭の與七が四十八の白鼠、手代の幾松は十九の子飼ひ、親は有名な幇間の幸三郎ですが、伜まで道樂商賣は見習はせ度くないといふので、曾ての旦那筋、先代孫右衞門に頼んで堅氣の商人に仕立てる積りの年季奉公です。

あとは下男の太吉と、下女のお梅だけ。米搗の男達は、大概冬場だけ國許から稼ぎに出て來る越後者が多く、御厩河岸の仕事場に寢起して、夏場は留守番二人だけになつてしまひます。

八五郎の説明が終る頃、二人は漸く阿倍川町に着きました。

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