一
「姐さん、谷中にお化けが出るんだが、こいつは初耳でせう」
松が取れたばかり、世界はまだ屠蘇臭いのに、空つ風に吹き寄せられたやうな恰好で、八五郎は庭木戸へ顎を載せるのでした。
「ま、八さん、お早やうございます」
お靜はそれでも、襷を外して、縁側の上から、尋常に挨拶するのでした。朝の仕事が濟んで掃除して居るところ、淡い陽射しが足もとを這ひ上つて寒々とした風情の中に、僅かに赤いものを着けたお靜のたゝずまひが、何んとなく四方の空氣を和めます。
「八か、脅かすなよ、お化けや借金取は親類附き合ひをして居るから驚かねえが、お靜が膽をつぶして障子を開けたまゝだから、縁側の埃は皆んな部屋の中へ逆戻りだ」
平次は長火鉢を抱へ込むやうに、無精煙草の煙を吹いて居ります。
「脅かすわけぢやありませんが、女はどうして斯うもお化けが嫌ひなんでせう、お、寒ぶ」
八五郎はその障子の隙間から、禰造を拵へたまんま、長火鉢の側ににじり上がりました。
「朝つぱらから、そんな話を持込むからだよ。第一縁側から入つて來るのは、猫の子とお前ばかりぢやないか。たまには表へ廻つて、案内を頼む心掛けになつて見ろ」
「へツ、此方の方がいくらか近いやうで」
「呆れた野郎だ」
「ね、親分、あつしの叔母さんだつて、矢張り女の子でせう」
「當り前だ」
「その叔母が、谷中へ泊り込みでお仕事に行つて、この話を聽き込んで、膽をつぶして歸つて來たんですが、惜しいことをしましたよ。お化けと取つ組む氣で、もう少し聽き込んで來ると、こいつは良いネタになり相ですが」
「俺にお化け退治をさせようといふのか。そんな話なら御免蒙るぜ八」
「でも人助けになるぢやありませんか。大きく言へば、それ笹野の旦那がよく言ふ天下靜謐のため」
「大きく出やがつたな」
「だから、ちよいと、冗談に覗いて見ませんか。何しろ相手は谷中三崎町で、大地主の娘、谷中小町と言はれた――」
「嫌だよ。大地主と小町娘ぢや、筋書が揃ひ過ぎるぢやないか。その上化物退治と來ると、そつくり岩見重太郎の世界だ」
「それは何處の岡つ引きで?」
「いよ/\以つてお前は長生きをするぜ」
「へツ、どなたも、さう仰しやいます。ところで煙草を一服」
「あれ、煙管の催促をして居るのか」
話は斯んな調子で始まりました。八五郎の持つて來た、谷中のお化けの話、平次は一向氣の乘らないやうな顏をし乍ら、それでも合の手澤山に、熱心に聽いて居ります。
「叔母が頼まれて行つたのは、谷中三崎町の細田屋善兵衞の家で、二月になると、一人娘のお蘭さんに養子婿が來ることになつて居るので、金に飽かしての花嫁衣裳だ」
「――」
平次は默つてしまひました。八五郎の話はどうやらレールに乘つた樣子です。
「暫らくは泊り込みの約束で、向柳原は鼠に引き殘されたやうに、あつしがたつた一人、淋しいのは構はねえが、三度のものゝ用意に困りましたよ。飯だつて三日分炊けないことも無いが、――この寒さだから――」
「おい/\それもお化けの話のうちか」
「へツ、少しばかり寄り道をしたんで。斯う吹聽して置くと、姐さんは思ひやりがあるから」
「ま、八さん、その間だけでも、此處へ來て泊つて下されば宜いのよ」
お靜はあわてゝ、お勝手から顏を出しました。
「放つて置け。叔母さんが留守番に置いてあるんだ。飯を三日分づつ炊く方が惡いぢやないか」
「まア、そん事で、尤も、日に三度店屋物を取つちや、あつしの身上が保たねえ」
「それからお化けはどうしたんだ」
「あ、忘れちやいけねえ――細田屋の奧座敷、叔母は花嫁道具の番のやうに、次の間の六疊に寢た。一と間置いて娘のお蘭の良い匂ひのする桃色の部屋、同じ六疊、有明がぼんやり、夜中に眼がさめたが、それつきり寢付かれない、何處からか冷たい風が入つて、ヒソヒソ話の聲が聽える」
「――」
「どうも、隣の嫁入道具の部屋のやうな氣がして、叔母は益々眼が冴えてしまつた。小用にでもと思つたが、戸惑ひして道を間違へてしまつたらしい。それでも家の人に眼を覺まさせちや惡いと思つたから、拔き足差し足、灯の見えるところを目當てに行くと、廊下に向いた障子が細目にあいて、中は豫て見覺えの娘の部屋、行燈に小袖を掛けて、灯先がぼんやり、紅絹裏をはね退けた床の中を照して居る、――その中に居たのが、何んだと思ひます、親分」
八五郎は聲を殺して、少し仕方話になりました。
「三つ眼小僧か、――それとも」
「眼のさめるやうな、綺麗な若衆ですよ、親分」
「それなら驚くことは無いぢやないか」
「それが、その、娘と寄り添つて、頬と頬と斜めに、古風な色模樣ぢやありませんか、――お前今度は何時來るえ?――斯う人眼につくやうでは繁々も來られない、次はお月樣が出なくなつてから、――いや、いや、いや、私はもう、――」
「何んだえ、それは?」
「娘と若衆の聲色」
「見て來たやうぢやないか」
「叔母さんの受け賣ですよ。娘のお蘭さんは、若衆の來るのを待つて居た樣子で、それは/\綺麗だつたといふことですが、若衆の美しさは又格別で、良い年をした叔母までが、うつとりして暫らく眺めて居たといふから大したものでせう」
「――」
「二人共小さい聲ではあつたけれど、男の方の聲は、陰に籠つて、斯う色つぽくて甘つたるい癖に、何となくゾツとしたといふのも無理はありませんね」
「その男が化性の者だとでもいふのか」
「それに違ひありませんよ。前髮立て紫色の振袖を着て、色が拔けるほど白くて、唇は真赤だつたといふから、芝居の色小姓でも無きや、そんな者が居るわけはありません」
「でも、それ丈けぢや人間で無いとは言へないぜ」
「ところが大變なんで、叔母がツイ大きな音を立てると、怪物はサツと部屋の中から飛出した相です。その早いことゝいふものは、とても人間業では無かつた相で、その上雨戸をかけて縁側から外へ出たと思ふと、いきなり空中に飛上つて、恐ろしい頑丈な忍び返しの上をフワリと飛越し、何處とも無く姿を消してしまつた相で」
「フーム」
「叔母は膽をつぶして、思はず悲鳴をあげようとすると、その後ろからそつと口を押へて、――『靜かに、後生だから』――と囁くのは、當の相手のお孃さん、お蘭さんだから驚くぢやありませんか『あれは何です、お孃さん』と齒の根も合はぬ叔母を、――『あれは人間ではない。お願ひだから、誰にも言はないで』――と、お孃さんは可愛らしい顎の下で、そつと手を合せたんですつて」
「で、それからどうした」
平次もどうやら、事件の重大さに氣が付いた樣子です。
「本人が承知で、化性の者と逢引して居るんなら、叔母が口を出す筋合はありません。そのまゝ自分の床へ歸つたが、さア、寢付かれる沙汰ぢやありません。翌る日の朝、そつと起きて見ると、縁側から庭へ、得體の知れない、獸物の毛が一パイ」
「まア、怖い」
お靜はその話を聽いて居たものか、たまり兼ねてお勝手から顏を出します。
「それから?」
平次はその先を促しました。
「もう、そんなところに我慢して居る氣にもなれず、叔母はその日のうちに、何んとか、うまい言ひわけを拵へて、向柳原の家へ戻つてしまひました。お蔭で私は、今朝から又暖かい飯にありついたわけ、斯うなるとけえだん話も滿更ぢやありませんね」
「誰もお前の朝飯のことなんか訊いてやしないよ――それで叔母さんの話は皆んなか」
「まだ/\話は一と晩つゞきましたよ。お孃さんのお蘭さんの綺麗だつたこと、お化け若衆の滅法美しかつたこと、嫁仕度の大層だつたこと、それから、さう/\いざお暇をして歸らうといふ時、下女のお信を蔭へ呼んで、そつとその話をすると、何も彼も呑込んでゐる樣子で、――そんなことを言つてはいけない、大變なことがあるんだから――と堅く口留めをされたといふことです」
「フーム」
「これは一體何でせう。お孃さん當人もお化けを承知の上で逢引して居るやうだし、下女も感付いて居るに違ひないから、兩た親だつて知らない筈はありません」
八五郎は長い顎をまさぐるのでした。その頃の人のやうに、八五郎自身もまた迷信からは脱けきれません。