Chapter 1 of 11

「親分、大變ツ」

八五郎の大變が、神田明神下の錢形平次の家へ飛び込んで來たのは、その晩もやがて亥刻半(十一時)近い頃でした。

「何んだ八、お前の大變も聞き飽きたが、夜中は近所の衆が驚くから、少しは遠慮をしてくれ」

これから寢ようとしてゐた平次は、口小言を言ひながら格子戸を開けてやります。

「それどころぢやありませんよ、大變も唯の大變ぢやねえ。お膝元の佐久間町で、花嫁が一人、新枕の床の中で殺されたんだ。あつしの家の近所だから、親類衆が束になつて飛んで來て、錢形の親分の首へ繩をつけても連れて來てくれと、――」

「よしわかつた。繩にも紐にも及ぶものか、さア行かう」

平次は氣輕に支度をすると、八五郎と鼻面を並べて、夜の町を飛びます。

押し詰つた二十七日、寒空一パイに星を鏤めて、二人の息は眞つ白。

「ところで、そんなに驅けて大丈夫ですか、親分」

「お前ほどは達者ぢやないが、あんまり寒いから、お能の足どりぢや反つてやりきれないよ。息がきれなきや、お前の知つてるだけ、道々筋を通してくれ」

「佐久間町二丁目の伊勢屋、――親分も知つてるでせう、界隈一番の物持で、兩替屋の組頭。質も扱つてゐるが、こちとらが腹掛や股引を持ち込むやうな店ぢやねえ」

「其家なら知つてゐるが、男の跡取りはなかつた筈ぢやないか」

「娘が二人、姉のお君に若い番頭の彌八を娶合せることになつて、今晩は祝言。三々九度の杯が濟んで、彌八とお君は型の通り、別間に引取ると、思ひも寄らぬ騷ぎだ。お床入り前に婿の彌八が小用に立つて、戻つて見ると、嫁のお君さんが血だらけになつて、床の中でこと切れてゐる」

「なるほど、それは大變だ」

「でせう。殺す相手に事を缺いて、祝言の晩に嫁を殺すなんてえのは、殺生過ぎて腹が立つぢやありませんか。ね、親分」

八五郎はまた八五郎相應の義憤に燃えるのです。

暮の二十七日と言つても、眞夜中近い町々は、さすがにひつそり寢靜まつて、平次と八五郎の足音だけが、霜夜の靜肅を破つて、あわたゞしく響き渡ります。

佐久間町二丁目の伊勢屋は、物々しさにハチきれさうでした。恐怖と不安と疑惧と、わけのわからぬ混亂とが、この世の終りまで續きさうでしたが、土地で名を賣つた、名御用聞の錢形平次の顏を見ると、煮えこぼれる鍋に一片の氷を投り込んだやうに、忽ち壓迫的な沈默が支配して、無氣味な空氣が、家の隅々にまで行亙ります。

「これは、錢形の親分、飛んだお手數をかけます」

老番頭の品吉が、寒空の冷汗を拭きながら、よく禿げた頭を店口に持つて來ました。

「飛んだことだつたね」

平次は多勢の眼に迎へられて、明るい店に入りながら、一應八方へ氣を配つて見ましたが、唯もうこの事件に顛倒してしまつた人達の、硬張つた顏からは、何んにも讀み取りやうはありません。

「こちらでございます」

老番頭の案内で、二階家の奧、取澄したやうな六疊の間に平次と八五郎は通されました。其處には、枕屏風を取拂つて、鴛鴦の床は溢れるばかりの血汐にひたされ、明る過ぎるほどの明るさの中に、喉をゑぐられた、花嫁お君の淺ましい死骸が、覆う物もなく横たはつて居るのです。

「ひどい事をするぢやありませんか、親分」

女夫枕に靜かに横たはつた花嫁の死骸は、紅絹裏の夜の物をはね退け、緋縮緬の長襦袢のまゝ、血汐の中に浸つてゐるのです。この淺ましく痛々しく、艶めかしくさへある姿が、八五郎の眼に沁みます。

「傷は、左の首筋へ一カ所、――聲くらゐは立てられた筈だが――」

平次は死骸の傷口の、凄まじくはぜてゐるのを見て、裾の方に默然と控へて居る、若い男を振り返りました。言ふまでもなくそれは、今宵の新婿になつた、手代の彌八でせう。小綺麗な平常着らしい木綿物の袷、帶もきちんと締めて、華奢な肩を落したまゝ、やゝ蒼白い顏をうな垂れてをります。大家の伊勢屋の娘に望まれて、その婿養子にされただけに、利發さうな好い男で、この騷ぎの中にも去りも敢へず、一夜の契りをさへ果さなかつた、嫁の死をヂツと見詰めてゐるのでせう。

「二階の騷ぎが大變で、聞えなかつたのかも知れません。何しろお開きになつた後まで、呑む方が殘つて、藝づくしまで始まりましたから」

椽側の暗がりから口を容れたのは、中年輩の夫婦者、それは當夜の仲人の、瓦町の荒物屋笹屋佐兵衞と後でわかりました。

「私は小用に立つて、戻つて來るとこの有樣でございました。ほんの一寸で」

彌八は恐る/\顏を擧げます。

「刄物は?」

「それがその、床の間に置いた、私の脇差が、鞘だけになつてをりました。中身はどうなりましたことか」

彌八は益々小さくなるのです。

「お前さんは、何んにも氣が付かなかつたのか」

平次は障子の外を覗くやうに、仲人佐兵衞に聲を掛けます。

「お盃事が濟んで、お二人を此處へ案内したのは私と女房と、下女のお富さんの三人。それからお二人を床に入れ、上からそつと押へて、私と女房は隣りの部屋へ引下がりました。暫らく樣子を見るのが、仲人の務めでございます。萬一に間違ひ事があつてはなりません」

「で、何事もなかつたといふのだな」

「あるわけもございません。今晩祝言したばかりの婿と嫁と申しても、同じ屋根の下に住んでゐて、氣心をよく知り合つた二人でございます。何んか、靜かに話し合うのを聞いて、私と女房は安心しきつてそつと二階へ戻りました。二階はまだ、呑めや歌への大騷ぎで」

「それつきりだな」

「暫らくすると、階下の方から、彌八さんの恐ろしい聲が聞えます。押へ付けられるやうな、大變な聲でございました。驚いて飛んで來ると、この有樣で」

「灯りは點いてゐたのか」

「有明の二本燈心が、枕許に點いてをりました」

「その時彌八さんは」

「お孃さん――いや、嫁のお君さんを抱き起してをりました」

「外には」

「私が裏梯子を降りて來ると、お店の方からお内儀さんが飛んで來て、もう少しで鉢合せをするところでした。それから、下女のお富さん、妹のお糸さん、番頭の品吉さんなどが來たやうで、あとはもう滅茶々々で、よくわかりません」

仲人笹屋佐兵衞は斯う話し終つて、これも寒空に冷汗を拭くのです。

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