Chapter 1 of 53

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巷説享保図絵

林不忘

金剛寺坂

「お高どの、茶が一服所望じゃ」

快活な声である。てきぱきした口調だ。が、若松屋惣七は、すこし眼が見えない。人の顔ぐらいはわかるが、こまかいものとくると、まるで盲目なのだ。その、見えない眼をみはって、彼はこう次の間のほうへ、歯切れのいい言葉と、懐剣のようにほそ長い、鋭い顔とを振り向けた。

冬には珍しい日である。梅がほころびそうな陽気だ。

この、小石川金剛寺坂のあたりは、上水にそって樹が多い。枝の影が交錯して、畳いっぱいにはっている。ゆれ動いている。戸外は風があるのだ。風は、あけ放した縁からそっと忍び込んできて、羽毛のようにふわりと惣七の頬をなでて、反対側の丸窓から逃げて行く。それによって惣七は、一室にすわりきりでいながら、世の中が春に近いことを知っている。

若松屋の茶室である。いや、茶室であると同時に、惣七の帳場でもあるのだ。三尺の床の間に、ささやかな経机、硯箱、それに、壁に特別のこしらえをして、貸方、借方、現金出納、大福帳などの帳簿が下がっている。状差しに来書がさしてある。口のかけた土瓶に植えた豆菊の懸崖が、枯れかかったまま宙乗りしている。そんなような部屋なのだ。あるじ若松屋のごとく、すべてが簡素である。悪くいえばさびしい。よくいえば寂ているというのだろう。

次の間へ投げた惣七の声には、すぐ反響があった。はい、と口のなかで答えて、女がたったのだ。衣ずれの音がした。すうっと襖がすべって、このへんでは珍しい下町風俗の、ようすのいい女のすがたを吐き出した。すんなりした肩、はやりの絵のようなからだつき、眉が迫って、すこし険のあるのが難だが、それも、しいてあらを探してのことで、見ようによってはかえって、すごい美しさを加えている顔である。

ちょっと膝をついて背後をしめる。向き直って、三つ指を突いた。お高である。お屋敷ふうなのだ。

「あの、お呼びなされましたか」

「おう。茶が一ぱい飲みとうなった。風で、ひどいほこりだな」

惣七の癇癖らしい。眼の不自由な人のつねで、指さきの感触が発達している。いいながら、畳をなでた。風が土砂を運んできてざらざらしている。顔をしかめた。

「咽喉が、かわく。雨も、久しく降りませぬな。いつであったかな。後月の半ばであったかな、降ったのは」

「はい。いいおしめりが一つほしゅうございます」

「茶を、もらおう」

「はい」

お高は、切り炉へ向かって斜にすわって、ふくさを帯にはさんだ。湯加減をみて、ナツメを取りあげた。薄茶をたてようというのだ。

「もういらぬ」

惣七がいった。

「は!」

お高は、顔を上げた。不可解の色が、お高の貌をあどけなく見せている。そのせっかくの美しさが、よく惣七に見えないのが、惜しかった。

惣七は、いらいらした。

「茶は、いりませぬ」

「はい」

「急な手紙を思い出したのだ。また代筆を頼みたい」

「はい」

お高は、茶道具を片づけて、手早く硯箱を持って来た。巻き紙をのべて、筆の先を小さくかんだ。くちびるに墨がつく。二、三度、硯に穂さきをならして筆を構えた。

しんとなった。上水をへだてた大御番組の長屋から、多勢の笑い声が聞こえて来て、すぐにやんだ。若松屋惣七は、荒れた広庭へ、うつろに近い眼を向けて、黙っている。出の文句を考えているのだろう。お高も、つくり物のように身うごき一つしないで、待っているのだ。

若松屋惣七は、はっきり見えない眼を返して、お高を見た。見ようと努力して、顔を前へ突き出した。

薪のような感じの、不思議な顔である。血の気というものがすこしもなく、すっかり枯れて見えるのだ。我意の張った口を、一文字に結んでいる。その口のため、世の中を渡るのに損をしている人間である。眼と眼のあいだに傷がある。いま明りを失いかけているのは、若いころ、争いで受けたこの傷が悪くあとをひいているせいだ。

若松屋惣七は、もちろん町人だ。妙な商売をしている。両替が本業なのだが、貸し借りの仲介、貸金の取り立て、あたらしく稼業をはじめるものに資本の融通をしたり、その他、地所家作の口ききなど、金のことなら、頼まれれば、どんなはなしにも立つ。口銭をとってまとめるのだ。そういうほうの公事にも通じていて、おなじ貸金の督促にしても、相手を見て緩急よろしきを得る。応対にも、強腰弱腰の手ごころをも心得ている。たいがいの金談は、若松屋が顔を出せば成り立つのだ。

まるで彼は、いながらにして江戸中の大店の資本を、五本の指で動かしているといっていい。それほど売れている男なのだ。金の流れの裏に巣くっている、蜘蛛のような存在である。が、蜘蛛というのは当たらないかもしれない。若松屋惣七は、蜘蛛のように陰険ではないのだ。人物は、むしろ仔馬のようにほがらかなのだ。ただ剃刀みたいに切れる。金のこととなると、切れ過ぎるのだ。

武士は、くつわの音に眼をさますという。若松屋惣七は、ちゃりんという小判の音で眼をさます。どっちも同じことだ。この若松屋惣七は武士出だ。彼は、両刀を手ばさむ気でそろばんを取る。大義名分を金勘定のあきないに移している。みずから商道といっているのが、それだ。

若松屋惣七は、もと小負請入り旗本の次男坊である。一生部屋住みというわけにも行かないし、養子の口だってそうざらにはない。仕官をすれば肩が凝っていやだ。さりとて、浪人しては食うに困る。若さを持てあまして、剣術に凝った。星影一刀流に、落葉返しという別格の構えをひらいたのは、この若松屋惣七だ。それはいま、同流秘伝の一つに数えられた。惣七は、星影一刀流の江戸における宗家と目されている。名人である。達剣である。剣哲である。

では、それほどの剣道のつかい手が、どうしてこんにちの若松屋惣七として、前垂れをしめるようになったか。わけがあるのだ。

さて、腕は立つものの、武者修行に出るというのも、大時代で面白くない。江戸でのらくらしていた。あそんでいると、ろくなことはしでかさない。女ができた。まあ、恋というところだ。その女のことで、仲間と果たしあいをした。相手も、相当できる男だった。仲裁がはいって、人死には出なかったが、そのとき惣七は、両眼のあいだに怪我をしたのだ。不覚なようだが、もののはずみだったと自分では思っている。それから、眼が悪くなって、おまけに、その女も、相手の男にとられてしまった。

そこで、というわけでもない。もとから、侍がいやになっていたやさきだったので、惣七は、ひらりと稼業がえをした。さむらいをよして、町人になった。若松屋惣七となった。剣悟の呼吸で、金をあつかいだした。恋を失った自暴もあった。が、はじめは、その苦しみを忘れるために、小判の鬼と化してやれなどという、そんなはっきりした気もちではなかったのだ。ただ、どうせ泰平の世である。武士では、出世のしようがない。剣では身が立たない。と思って、すっぱり鞍替えをしただけのことなのだ。

しかし、何でも、やり出してみると、面白い。夢中にさえなれば、武道も商道もおなじこつなのだ。いつのまにかここまできた。きょうの若松屋惣七は、むかし星影一刀流に落葉返しの構えを作り出したように、金銭の取り引きに、彼独特の一つの秘奥を編み出している。悟りをひらいている。小判を手玉にとる名人の域にまで達しているのだ。これが、若松屋惣七の若松屋惣七たるゆえんだ。

女のことは忘れている。忘れようと骨折っている。忘れようとして骨を折らなければならないほど、忘れられないのだ。若いころのことを思うと、よくもああいろいろ馬鹿なことができたものだと思う。それでも、武士の生まれであることは、身にしみている。だから、若松屋惣七は、ひとりでいると、名前らしくない、あんな四角ばった口調になるのだ。直そう直そうと思いながら、いまだに、さよう然らばが口に出る。知らない人からみると、へんてこな町人だ。

両替渡世の看板をあげているわけでも、若松屋という暖簾が出ているわけでもない。家は、小石川の金剛寺坂だ。ちょうど安藤飛騨守の屋敷の裏手である。父の同僚の住みあらしたあとを、もうけた金で買い取ったのだ。かなり広い。木立ちも多い。が、なにぶん荒れはてた古い家である。

そんなところで、生き馬の眼を抜くような稼業をしている。しかも、本人は、奥の茶室にすわったまんまだ。手代とも用人とも、さむらいとも町人ともつかない男が、四、五人飼われている。それに、女番頭格のお高と、それだけの一家だ。朝は、水道下の水戸様の屋根が太陽を吹き上げる。西には、牛込赤城明神が見える。そこの森が夕陽を飲み込む。それだけの毎日だ。

商売は、多く手紙のやりとりでする。若松屋惣七は、よく眼が見えない。お高が、手紙の代読と代筆をするのだ。帳簿も、お高が整理していた。

お高は、この金剛寺坂へ来て、六月ほどになる。誰か商売の手助けと身のまわりの世話をかねるものをとのことで、下谷の桂庵をとおして雇われてきたのだ。お高は、女にしては珍しく、相当学問もあり、能筆でもあった。何よりも、美しい女である。年齢は二十四、五だ。このお高が、若松屋へ来たときは、男世帯の殺風景な屋敷に、春がきたようだった。家のなかが、一時にあかるくなった。

おもてといっても、べつに店があるのではない。武家屋敷とおなじ構えで、男たちがごろごろしている。若松屋惣七は、例の奥まった茶室を一歩も出ない。お高は、次の間に控えていて、万事惣七のいうなりに取り計らっているのだ。日夜いっしょにいるのである。惣七とお高のあいだが、いつしか単なる女祐筆とその主人の関係以上に進んでいたとしても、それは、きわめて自然だ。

お高は、金剛寺坂の家を住みやすいと思っている。仕事は多いが、多すぎるというほどでもない。その大部分は、惣七のことばを書き取って、手紙にすることだ。もともと、惣七は眼が悪いので、この手紙の代書をするために、雇われて来ているのである。

はじめは気の変わりやすい、怒りっぽい惣七の口書きをすることは、大変な仕事だったが、それも、慣れてしまうと、このごろのように楽なものになって来た。惣七の声が、お高の耳から飛びこんできて、手をうごかし、手紙を書かせるのだ。お高は、いわば道具のようなものだ。

手を動かしながら、頭ではほかのことを考えている場合が多い。お高は、自分だけの夢を持ちはじめたのだ。お高の眼が、うっとりとした色を帯び出したのは、そのためだろう。お高は、惣七を愛し出しているのだ。ぶっきらぼうな、味もそっけもない、眼が悪いためにしじゅういらいらしている惣七である。

彼は、お高をどう思っているか。おどろいている。むかし、自分の心をとらえて、まだ離さないでいるあの女に、お高があまり似ているのに驚いているのだ。どうかした拍子に、人の顔などははっきり見えることがある。そういうとき、お高の顔がよく見えると、惣七は、思わずぎょっとするくらいだ。それほど似ている。と、惣七は思うのだ。

いまもそう思って、彼は、お高のほうへ眼を見ひらいている。

「きょうは、あちこち手紙を書かねばならぬ。だいぶたまった。ひとつ頼もうか」

「はい」

「まず大阪屋へ書きましょう」

「はい」

「織り元から、この夏入れた品物の代を請求して来ているのだ。あそこはいつもこうです。毎年このごろに二、三本の催促状を書く。今度は、一本で済むように、すこし手きびしくいってやりましょう」

「はい」

惣七の冷たい声が、しばらく部屋に流れつづけた。巻き紙を走るお高の筆の音が、それを追う。

条理と礼儀をつくしたなかに、ちょいちょいすごさをのぞかせた文句が、お高の達筆によってきれいにまとめられた。

つづいて三つの手紙を片づけた。それぞれ文箱に納めて、あて名を書いた紙をはり、使いのものに持たせてやるばかりにする。

「それから」と、惣七がいいかけていた。「最後に、こんな馬鹿げたのを一つ書いてもらおう。筆ついでだ。いや、着物を買い過ぎて、呉服屋へ借金のかさんだ女へ、その呉服屋に代わって、払いの強談を持ちこんでやるのだが、愚かな女だ。首もまわらぬらしい」

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