一 ある下宿館
ヴォーケ夫人、ド・コンフラン家の生まれの老婦人で、四十年来パリのネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通[1]で賄い付きの下宿をしっかりと営んできた。そこはカルチェ・ラタンとフォーブール・サンマルソーの中間にあった。この下宿はメゾン・ヴォーケの名で知られ、老若男女を問わず等しく受け入れてきた。誹謗中傷がこの立派な施設の品性を傷つける様なことは一度もなかった。その一方で、ここでは三十年来、若い女性の姿はついぞ見かけられなかったし、若者で長く居ついた者もなかったので、ここの住人達はおのずから、この下宿の雰囲気を寂しげなものにしてしまっていた。とはいえ、この物語が始まった一八一九年のことだが、貧しい若い女性も一人、下宿人の中に混じっていた。悲劇が全盛の現代文学では、物語の中で過剰な、あるいは、乱暴な言葉が濫用され過ぎるとの不評をこうむる作品が多いが、私もここでは不評覚悟で、そうした手法を用いる必要がある。この物語は写実的言葉による展開の盛り上がりによるのではなく、衝撃の結末によって、恐らくパリ城壁の内外で人々の涙を誘うことができるだろう。私が敢えて使うこの手法は、しかし、パリ以外でも理解されるだろうか? 疑問は残るが。さてこの物語の舞台となる場所をあれこれと観察し固有色を用いて説明しても、せいぜいモンマルトルの丘からモンルージュの丘に至る辺りの住人くらいにしか共感を得られないだろう。まるで谷間のようなこの地域ときたら、壁土はいつ崩れてもおかしくないし、溝は泥で真っ黒な色をしている。この谷間は本当に苦しみに満ち、喜びはしばしば間違いだったりする。そして恐ろしく差し迫った用事があるのだと言い立てても、感覚が麻痺したようなこの地では新たな興奮を呼び起こすのは容易ではない。しかしながらこの地域では、ここかしこに悲しみが満ち溢れているため、悪徳と美徳の密集地帯が巨大で崇高な存在になっている。想像を絶する惨状に、人々の利己主義や打算も一時停止して、しばらくは同情を寄せることもあろう。しかし、人々が最初に抱いた印象すら、美味しい果実のようにたちまちむさぼり食われて、跡形もなく消えてしまうのがおちなのだ。インドのクリシュナ神像を載せた山車と同じように、パリの華やかな文明を積んだ戦車は、人を踏み潰すことをためらい、しばし停車することはあっても、結局は弱者を粉砕しつつ栄光へ向かって前進を続けるのだ。読者諸兄よ、貴方は戦車に乗る人なのだろうか? そう貴方、この本を真っ白い手に取って、深々とした肱掛椅子に沈みこんで、貴方は言うのです。こいつは面白そうだな、ってね。ゴリオ爺さんの不幸せな秘話を読んだ後、旺盛な食欲で夕食を済ませ、貴方の感覚の鈍さを作家のせいにし、大袈裟な表現に罰金をかけ、詩情を欠くという点で作家を非難する。あー! 察してくれたまえ。このドラマは作り話ではなく小説でもないのです。総て実話で真に迫っているので、誰もが自分の中に、恐らくその心の中に、作中人物の分身を見出すにちがいないのです。
賄い付き下宿として運営されているこの館はヴォーケ夫人が所有していた。館はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りの低地にあったが、この場所がラルバレート通り辺りから急な荒れた坂を下った所になるので、馬がここを上がったり下がったりすることは余りなかった。この環境はヴァル・ド・グラスの丸屋根とパンテオンの丸屋根に挟まれた窮屈なこの通りを支配する静けさをもたらしていた。二つの記念碑的丸屋根は近辺に黄ばんだ色を投げかけ、また丸天井は厳しい色調の意匠が凝らされ、全体を暗く包み込むことによって、すっかり周辺の雰囲気を変えてしまっていた。その辺りは、舗道は乾き、溝には泥もなければ水もなく、草は壁の高さにまで伸びている。最も楽天的な人間もここでは他の通行人同様に悲しくなり、馬車の音がここでは騒ぎとなり、家々は軒並み陰鬱で、城壁もまるで牢獄のように感じられる。もしパリっ子がここで道に迷ったとしたら、目にするのは高級下宿屋か学校、悲惨さか倦怠感、老人が死にかけているか、あるいは陽気な若者が仕方なく働いているか、そんな光景だけだろう。パリのどの区域だって、ここほどひどいところはないし、はっきり言って一番知られていない場所なのだ。ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通は至る所、まるで鈍色の空気に浸ったような街だし、この物語にぴったりはまる唯一の場所なのだ。ここにセピア・カラーや深遠な思想をどんなに一生懸命ほどこしたところで、知性を溢れさせるのはなかなか難しい。ここでは日の光が段々と衰え、案内人の声も妙に空しくこだますので、初めての旅行者はまさにあのカタコンベ[2]に降りてゆく気分にさえなってしまう。そうだ、こんな比較はどうだろうか! ひからびた心臓、それとも、空洞となった頭、貴方にとって見て恐ろしいのはどちらだろう? 私に教えてくれ給え。
この下宿の正面は小さな庭に面している一方、建物とネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通とは直角をなすかたちとなっていて、館の裏側断面を通から眺めることが出来た。正面入り口の前面に六フィート幅の砂利の空間があり、それと庭に挟まれて砂利の通路が走っていた。通路の脇にはゼラニウム、夾竹桃や柘榴が植わった青や白の陶器の大鉢が並んでいる。この通路には中門を通って入るのだが、その上には表札が掲げられていて、〈メゾン・ヴォーケ〉と書かれ、更にその下には、〈賄い付き高級下宿、男女その他歓迎〉とも書かれている。日中はけたたましく鳴る呼び鈴が取り付けられた透かし戸を通してメゾン・ヴォーケの外に目をやると、道路の反対側にカプチン病院[3]が見え、近所に住む芸術家によって緑の大理石に愛をテーマにした絵が描かれたアーケードを見ることが出来る。引っ込みの奥には絵と着想を同じくしたキューピッドの彫像が立っている。そこに釉薬の剥がれたあとを見ると、象徴好きの者は、パリジャンの愛の神話、業病からの何がしかの回復といった物語を連想するのだった。彫刻の台座の下部には半ば消えかけた記銘があり、それはある時代、パリに入ったヴォルテールの情熱がほとばしるのを見ることが出来たあの一七七七年時代を想起させた。
人なべて知れ
汝の主はキューピッドぞ
彼は主なり かつて主なりき
なお主たるべし
夜になると透かしが閉じられて見透しは遮られる。小庭は建物正面の幅と同じくらい奥行きがあり、道路の壁と隣家との共同壁に囲まれ、共同壁にはキズタが外套のように生い茂っていたので、隣家は完全に隠されていた。その様はパリの絵画的情景として通行人の目を引いていた。それぞれの壁は果樹棚や葡萄棚に遮られていて、そこで実るひょろ長くて埃っぽい果実はヴォーケ夫人とその下宿人達との会話で毎年関心を集める主題なのである。長い城壁は狭い散歩道に沿って菩提樹の木陰にまで続いている。コンフラン家出のヴォーケ夫人は菩提樹(tilleul)のことを住人から文法的に注意されたにもかかわらず、あくまでもティユーユ(tieuille)と発音していた。二本の側道の間に朝鮮アザミの四角い花壇があって、その横には紡錐形に刈り込んだ果樹があり、更にまた、カンポ、レタス、あるいはパセリが周りに植わっていた。菩提樹の木陰には緑色の丸テーブルが置かれ、周りは椅子が取り囲んでいた。そこでは、酷暑の日には、会食者達は遠慮なくコーヒーを飲めるのをいいことに、卵を孵えしてしまうような暑さの中を、それを賞味しにやってくるのだった。建物正面は四階からなり、二重勾配屋根を載せていた。そして小さな切り石と塗装でもって、パリのほぼ総ての家屋に卑しい性格を与えているあの黄色い色を施していた。各階に付いている五つの窓には小さな窓ガラスがはまっていて鎧戸が付いている。そのどれもがまちまちに上げ下げされていたので横の線が相互に調和しない印象を与えていた。この家の一階の奥の方には窓が二つあって、装飾的な鉄格子が付いている。建物の裏には約二〇フィートの長さの庭があり、そこに豚、雌鳥、兎などが仲良く暮らしていて、その端っこには倉庫があって材木がしまわれていた。倉庫と台所の窓の間には食糧貯蔵箱が置かれていたが、その下には台所の流しから出た脂染みた水がこぼれ落ちているのだった。この裏庭はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに向けて狭い戸口があって、料理女はその汚い場所から悪臭を消すために大量の水を使って、家中のごみを外へ追い出していた。
当然、高級下宿としての発展を目指して、一階にはいわゆる最高の部屋を備えていた。その部屋は道路側の二つの窓のおかげで明るく、両開きのフランス・ドアから入れるようになっていた。この広間は食堂に通じていて、更に食堂と台所に挟まって階段室があった。木と化粧板の階段の塗装は一部剥げ落ちていた。さて先に述べた最高の広間だが、そこの家具の肱掛椅子や椅子がくすんだ色と輝く色が代わる代わる縞をなしている植物繊維の材料で出来ているのを見ることほど物悲しいものはない。中央にはサンタネ大理石の上に丸テーブルがあって、白い陶磁がこの喫茶室を飾っていたが、今では館内至る所に見られるように、少量の金の縁取りは半ば剥げ落ちているのだった。この部屋はとてもまずく床板が張られたり、内壁面の上方の漆喰もうまく塗られたとは言えない状態だった。館内には仕切り壁が一杯あったが、それらは“テレマック”[4]の主要場面を絵に描いた紙で覆われていたが、そこには古典文学の登場人物が色とりどりに描かれていた。網を張ったガラスの入り口のパネルには、ユリシーズの息子を饗応するカリュプソ[5]を描いた絵が下宿人達の目を引くようになっている。四十年来この絵は若い下宿人達のふざけ気分を刺激してきた。彼らは自身を嘲弄しながらも自分はこの場所にいるよりも優れた人間であると考えるのだったが、貧しさのためにここで夕食をとることを余儀なくされているのだった。石造りの暖炉の前で、この館の人たちは大きな行事でもない限り、火の燃えようが適度なものかどうかをいつも調べていた。模造の古びて閉じ込められたような花でいっぱいの花瓶が二つ飾られ、更に趣味の悪いことに青味がかった大理石の置時計も側に置かれていた。この最高位の部屋は言葉では言えない一種の香りを放っていて、それは下宿屋の香りとでも言うべきものだった。それはこもった様な、カビが生えたような、古びた悪臭の様な匂いだった。それは寒々とさせ、鼻には湿っぽく、服の中にまで染みとおる。そこはかつては皆で夕食をとっていた広間だったという気配が残っている。しかし、そこは仕事場にも事務所にもなり得る部屋でもあるのだ。もしも感冒やその類の病の初期、あるいはもう吐き気を催すほどに進行した時期に、ここの下宿人達、若い者もいれば老人もいたが、が、それぞれに吐き出す病原菌の量を測定する装置が発明されていたとしたら、恐らくこの部屋のひどさが如実に示されたに違いない。ところがである! ありきたりの嫌悪がこの部屋から感じられるのだが、もし貴方がこの部屋を隣接している食堂と比べてみたとしよう。貴方はこの広間をまるで閨房の様に優雅で芳香に満ちていると感じるに違いない。食堂は全部板張りで、かつて何色で塗られていたのか、今では見分けがつかなくなっていたが、その塗装の上には何層もの汚れが染み付いて奇妙な模様を描いている。前面には油染みた食器が並んでいて、その上には切れ込みの深いくすんだ色の水差し、金属の波型模様の入った丸い容れ物があり、縁取りが青くトルネ産の分厚い陶器皿が積み重ねられている。一隅には番号の付いた仕切りのある箱が置かれ、そこには各下宿人のしみが付いたり、あるいはワイン色に染まったりしたナプキンを保管するようになっていた。この手の不滅の家具、至るところで廃棄されつつあるのだが、それがここでは病院における文明の遺跡といった風情で残っているのに出会うのだ。貴方はそこに雨の日にはカプテン僧人形が飛び出す仕掛けの晴雨計や全くひどい完全に食欲を失わしめるような版画が黒いニスにわずかな金をあしらった額縁に収まっているのを目にする。銅版画をはめ込んだ鼈甲色の縁飾りの付いた掛け時計。緑色のストーブ、埃が脂とくっついているアルガン製のキンケ灯、ひどく脂染みた防水布のカバーをかけた長いテーブルは、医学生等が食事をする時だけここを利用できるように登録するという独自の方法をとっている。どこかが欠けた椅子、アフリカハネガヤ製の粗悪品だが衰えを見せず今日ではよく使われている小さな玄関マット、そして木材が焦げてしまう限度調整に失敗して穴が開いているのが惨めたらしい行火。ここの家具がいかに古くて、ひびが入り、腐って、ぐらぐらして、蝕まれていて、障害があって、片目で、使い物にならなくて、期限切れであるかを説明するためには、この物語への興味を大いにそぐ様な叙述が必要だろうけれども、誰もがそれはもう沢山だ、要らないと言い張ることだろう。赤い化粧板はこすれたり色が付いたりして出来た谷でいっぱいになっていた。ついにはそこも詩情のない惨めさだけが支配していた。それは倹約家の内向的な擦り切れた服の惨めさだった。たとえそれがいまだ汚濁というほどでないにしても、しみはいっぱいあった。たとえそれが破れたり、襤褸切れになったりしていなくとも、やがては腐敗し崩れてゆくことだろう。
この部屋は朝七時頃が一番輝いて見え、ヴォーケ夫人の猫が夫人の先に立って入ってくる。猫は食器棚に飛び乗ると棚の上に載った幾つかの椀に入ったミルクを嗅ぎ、朝のおねだりを始める。やがて寡婦が姿を現す。ヴェール付きの縁なし帽の異様な姿で、其の下には不恰好なかつらの一部が垂れ下がって、彼女はスリッパを引きずって顔をしかめて歩いていた。彼女の顔は年寄り染みて、ぽっちゃりしていて、その真ん中にオウムの嘴のような鼻が突き出していた。むっちりした小さな手をした彼女の姿は教会の鼠の様に丸々として、彼女のブラウスは大きめに作っていたので、だぶだぶで、この部屋がかもし出す不運、あるいは実りなき山っ気などに良く釣り合っていた。そしてヴォーケ夫人はひどく臭いこの部屋の空気を吐き気を催すこともなく吸い込むのだった。秋になると彼女の姿は初霜のように生き生きとなり、彼女の目は皺が寄っていて、そこには踊り子が作る微笑があったと思えば、手形割引業者の苦々しいしかめっ面に表情が移り変わるのだった。つまりは、彼女の容姿は総てこの下宿屋を説明しているのであり、それはあたかもこの下宿屋が彼女という人物を内包しているのと同じようなことなのである。徒刑場と看守は切り離せない、貴方は一方を他方から離しては想像も出来ない。この小柄な女性の肥満した青白さはさながらチフスが病院の発する臭気の結果であるように、彼女の人生が生み出したものだ。彼女のウール織りのペチコートは彼女のお気に入りのスカートからはみ出していた。そのスカートは昔作った服と対になっていたのだが、服の材料に亀裂が入って出来た裂け目から綿が少し顔を出していた。この服が広間や食堂や小庭の概略を語り、料理を知らせ、下宿人達のことを想像させてくれる。彼女さえそこにいれば、ここの光景は完璧になる。年齢五十がらみのヴォーケ夫人は、過去に数々の不運に出会ったことのある女性の総てと共通したものを持っている。彼女はどんよりした目を持っていて、女を最高に高く売りつけるために声を荒げてしまうやり手婆にあるような無邪気さを持っていたが、しかし、自分の境遇を和らげるためなら何だってする女性だった。もし大革命期の王党派で逃亡を続けていたジャルジュあるいはピシュグリョ[6]に彼女が遭遇したとしよう。彼等がやり手婆の商売を密告しようなどとする前に、彼女の方からお先に彼らのことを密告してやるくらいの気構えを彼女は持っていた。とはいえ、彼女は根は良い人だと下宿人達は言っていた。彼等は彼女が愚痴をこぼしたり咳払いしているのを聞いて、彼等と同様に資産のない人だと考えていた。夫のヴォーケ氏とはどんな人だったのだろうか? 彼女は故人については決して語ろうとしなかった。彼はどうして財産を失ったのだろうか? 不運なことがあったと彼女は答えている。彼は彼女に対して素行が悪かった。ひたすら彼女を泣かせるばかりで、この家は生きるために、そしていかなる不運にも同情しないでもよいという権利を彼女に残してくれた。何故なら、と彼女は言う、彼女はこの世で味わうべき不幸という不幸を嘗め尽くしたからである。女家主がちょこちょこと歩く音を聞くと、太っちょの料理女のシルヴィは下宿居住者用の朝食を急いで準備するのだった。
一般に外部から食事に来る人は夕食のみ契約するのが普通で、それは月三十フランで出来る。この物語が始まった頃、ここの居住者は七人だった。二階にはこの下宿で最高の二つのアパルトマンがあった。ヴォーケ夫人は言うまでもなくその一つに住み、もう一つにはクチュール夫人がいた。彼女はフランス共和国軍の出納役員の寡婦だった。彼女はとても若い女性を一緒に住まわせていて、ヴィクトリーヌ・タイユフェールという名のその娘の母親代わりの役目を果たしていた。この二人の婦人の下宿代は一八〇〇フランに達していた。三階の二つのアパルトマンの一つにはポワレという老人が住み、もう一つには四十歳がらみの年輩の男が住み、その男は黒いかつらをかぶり、もみあげを染めていた。昔は卸商だったというこの男はヴォートランと名乗っていた。四階は四つの部屋があり、その中の二部屋の一つはミショノー嬢というハイミスが借りていた。もう一つには昔麺類の製造業者だったが、いつしかゴリオ爺さんと呼ばれている人が住んでいた。残りの二部屋は言ってみれば渡り鳥向け――ここの学生のように、ゴリオ爺さんやミショノー嬢のように食事代と寝室代のために月々四十五フランしか支払うことが出来ない、そういう人向け――の部屋なのである。しかしヴォ-ケ夫人はそういう人達の存在を余り望まず、もっとましな人がいない時に仕方なく彼等を受け入れているだけなのだった。彼等はパンを食べ過ぎるのだ。ちょうどこの頃、この二部屋のうちの一つは、法律を学ぶためにアングレーム近郊からパリに出てきた一人の若者に賃貸されていた。彼の大家族は彼に年間一二〇〇フランの仕送りをするために長く続く節約を余儀なくされていた。ウージェーヌ・ド・ラスチニャック、彼はそのように名乗っていたが、彼は恵まれない境遇故に逆にあらゆる事物に鍛えられ、若くして親達が自分に寄せる期待を理解し、そして学問で身に付く自分の能力の限界を早くも計算しつつ、社会から真っ先に金銭を搾り取るべく、社会の将来の動きに前もって適応しつつ、良き将来のために準備を怠らないといった、そんな風な若者だった。彼の好奇心旺盛な観察眼、あるいは彼がそれでもってパリのサロンに登場したといわれるところの抜け目のなさ、それらがなければ、この物語は精彩を欠く事になったことだろう。疑いもなく彼の鋭敏な精神と状況の不可解さを何としても解明したいという彼の意志が物語に迫真性を与える力となっている。謎はそれを耐え忍んでいる人によってではなく、それを作り出した人々によって入念に隠されていたのだった。
四階の上に屋根裏の物置があって、拡張されたところに屋根裏部屋が二部屋あり、クリストフという若い雑役夫と賄い婦で太っちょのシルヴィが寝泊りしていた。七人の下宿居住者の他にヴォーケ夫人は法学部か医学部の学生を平均して八人、そして同じ居住区の住人の二、三人と夕食のみを提供する契約を交わしていた。食堂は夕食時には十八人を収容するが、二十人が坐ることも可能だった。しかし朝は七人の下宿人しかいないので、朝食で皆が集まっていると、家族の食事のような光景が見られるのであった。各人は気楽に降りてきて、人の服装や外見の様子、そして前日の夜に起こったことについて遠慮なく秘かに考察する。そして打ち解けた間柄であるという自信があって、それぞれが思いのままにおしゃべりをするのだった。この七人の下宿人はヴォーケ夫人に甘やかされた子供だった。彼女は天文学者の正確さで下宿代の値段によって彼等に心遣いや保護を少しずつ配分していた。たまたま一つ屋根の下に暮らすことになった雑多な人々が一人の夫人の配慮をありがたく頂いていたというわけである。二階の二人の婦人は毎月一人宛て七十二フランを払うだけだった。この安い下宿代はフォーブール・サンマルセル街なら産院のラ・ブルスや婦人老人ホームのラ・サルペトリエールくらいでしか見られない安さだが、クチュール夫人はそれについて一つの例外を作った、いわく、大なり小なり明白な不幸に会った女性なら、この安い家賃の恩恵を受ける資格があると。
この下宿屋の内装に見られる嘆かわしい光景は、ここの住人の服装にも見られ同じように荒れ果てた印象を与えるのだった。男達は既にもとの色が分からないようなフロックコートを着て、どこかの街角の隅に転がっていたのを拾ってきたような靴を履き、下着は擦り切れ、心だけは宿っているといった風の服を着ていた。女性達は色あせたり、染め直したり、色落ちしたり、あるいは古いレースを繕ったりした服を着て、使い込んで光沢の出た手袋、すっかり褐色がかってきた襟飾り、そして擦り切れたネッカチーフをつけていた。服装がこんな状態だったので、ほぼ全員が頑丈でがっちりした体格に見え、いかにも人生の嵐と闘ってきたつくりで、その顔は冷淡で厳しく、それでいて、まるで通用停止となったエキュ銀貨のように存在感が薄かった。色褪せた口は貪欲な歯によって武装されていた。ここの下宿人達はすでに終わった劇、あるいは現在進行中の劇を推測させる。しかし、その劇はフットライトに照らされ、絵画の中に描かれたような劇ではなく、生々しくもまた無言の劇、凍りついた劇でありながら心を熱く動かし、なおも続いている劇なのである。
ハイミスのミショノーは彼女の疲れた目をかばって、緑のタフタの汚らしいサンバイザーを着けていたが、それにくっついている真鍮の輪を見れば、天使も哀れさを感じながら遠のいてしまうように思われた。彼女の縁の細い哀れげなショールは彼女の角張った骨格の、その形のみならず、気難しい性格をも覆い隠しているように見えた。いかなる辛酸がこの娘から女らしい姿態を剥ぎ取ったのだろう? 彼女は綺麗でスタイルが良かったことが分かるのだが、それを奪ったのは悪徳、悲しみ、金銭欲のせい? 彼女は深く愛されすぎた事があったのか、化粧品販売の女だったのか、あるいは何のことはない、娼婦だったのか? 彼女はこれ見よがしの若さで勝ち誇ったことへの償いをしているのだろうか? かつて、その若さには多くの楽しみが押し寄せたものだが、いまや通行人が鼻も引っ掛けない老境に達してしまったのだ。彼女の無表情な視線は人に冷たい印象を与え、しなびて縮んだ姿は人に不安を抱かせる。彼女の声は甲高くて、冬が近づくのに茂みの中で鳴き立てる蝉の声を思わせた。彼女は膀胱カタルに罹っていたある老人の面倒を看てあげていたことがあると言っていた。その老人は子供達から一文無しと思われて見捨てられていたのだ。情熱の作用によって彼女の姿が痛めつけられたとはいえ、まだ確かに生地の白さと繊細さの名残はあって、それを見るといまだ彼女の体にはいくらかの美が保存されていると考えることは可能なのだ。
ポワレ氏は一種の機械だった。彼が植物園の庭の小道に沿って長い薄い影のように伸びているのをふと見た時、頭には古びた柔らかいひさし帽を被って、手には象牙細工の黄色い丸い杖の柄を握り締め、ほとんどむき出しのキュロットと青い靴下を履いたまるで酔っ払いのようにふらつく足を上手く隠せないまま、フロックコートの裾をだらりとさせ、薄汚れたチョッキや太くて縮み上がったモスリンの胸飾りも、七面鳥を思わせる彼の首を絞めているネクタイといまいちしっくりと合っていない。だから大抵の人はまさかこの影絵のような人物が、かつてはイタリア大通を蝶のように飛び回り、ヤペテの息子、プロメテウスの大胆不敵な血をひく人種[7]に属していようとはと、不思議に思うのだった。どういう作用が彼をこんなにぺしゃんこにすることが出来たのだろう? どんな情熱が、戯画化され、真実とは思えないような球根のような彼の顔を錆色にしてしまったのだろう? 彼に何があったのか? しかし恐らく彼は法務省に雇われていて、彼がいた事務所では高級官僚達が費用明細、親殺しのための黒いヴェールの調達、籠に詰めるおがくず、ナイフのための紐などの勘定書きを発送したりしていたことだろう。恐らく彼は殺害現場の戸口で受付をしていたか、公衆衛生の下級検査官だったのだろう。要するに、この男は我々の社会の巨大な歯車の中で間抜けな役回りを演じてきたと思われ、自分を散々利用してきた相手が誰だかにさえ気づかない、よくいる頓馬なパリジャンで、どの回転軸が、不運とか世の汚物の方向に人を向かわせるのかも勿論分からない。結局こういう男を見ると我々は次のように言うのだ。『まあ彼のような人間もいないと困るんだ』美しいパリは道義的な、あるいは肉体的な苦痛で真っ青になっているこの人物には気づかない。しかしパリは真に大海なのだ。その深さを測ってみ給え、貴方は決してどれほど深いのかを知ることは出来ない。それにざっと目を通したり、それを描写したり出来るものだろうか? 貴方がそれをざっと見て描写するために、いかに細心の注意を払ったとしてもである。この海の探険家がどんなにたくさんいて好奇心に燃えていたとしても、そこでは常に処女地、未知の洞穴、花々、真珠、怪物、前代未聞の事物、文学の世界に飛び込んだ者にすら忘れ去られた物に新たに出っくわすようになっている。メゾン・ヴォーケはその奇妙で醜悪なものの一つなのだ。
ここに二人の人物がいて、下宿人や常連の大多数の目に対照的な印象を与えている。ヴィクトリーヌ・タイユフェール嬢は病的に色白で若い女性に多い慢性的貧血症に悩まされているように見え、いつも物憂げにしていたり窮屈そうな物腰や貧相でやせっぽちの雰囲気が醸し出す彼女の情景の根底に、一般的にあるような患いを彼女が患っているのではないかと想像されるのだった。それにもかかわらず彼女の顔は老けてはいなくて、彼女の動作も声も活発だった。この若い女の不運なところは小低木が葉の黄色になる時に土壌の合わない所に植え替えられたようなものだった。彼女の顔色は赤褐色、髪はライオンを思わせるブロンド、彼女の細過ぎるほどの胴は現代の詩人が中世の彫刻に見出すような優美さを表現していた。彼女の黒味がかった灰色の目は穏やかさとクリスチャンらしい忍従を表していた。彼女の服装は簡素で安物だったが、若々しい姿態を隠せなかった。書き並べてみると、彼女は結構素敵だということになる。幸いなことに彼女は元々見る人をうっとりさせるような美少女だった。幸福は女の詩であって、女の装いにおける紅白粉のようなものである。もし舞踏会の楽しさが、この青白い顔にばら色の輝きを与え、優雅な人生の穏やかさに満ちて、既に少しこけてきた彼女の頬がまた朱色に染まり、もし愛が彼女の悲しげな目に生気をよみがえらせるならば、ヴィクトリーヌはどんなに綺麗な若い娘とでも張り合うことが出来るだろう。ただ彼女にはもう一度女として生まれ変わらせてくれるものがなかった、おしゃれ用品とか恋文とか。彼女の来歴を辿れば一冊の本の主題を提供してくれるだろう。彼女の父は彼女を認知しない理由があると考え、彼女をそばで暮らさせることを拒絶した。そして年に六〇〇フランしか彼女には与えず、自分の財産をいじって、その全てを息子に相続させるように変えてしまった。彼女の母は彼女のことで絶望して亡くなってしまったが、その遠い親類に当たるクチュール夫人はこの孤児を引き取って、自分の子供のように面倒を看ていたが、残念ながら共和国軍会計委員の寡婦には寡婦資産と年金くらいしか財産がなかった。彼女はいつだって、この哀れな娘を経験もなく資金もないままで世間に放り出して、そのなすがままに任せることも出来たはずだ。善良な夫人はヴィクトリーヌを日曜ごとにミサに、毎月十五日には懺悔に連れて行った。万一のことを考え、この娘を敬虔な女性に育てておこうとしたのだ。彼女がそう考えたのはもっともなことだ。敬虔な気持ちはこの認知されなかった子にある種の将来性を付与し、彼女は父を愛し、毎年のように父を訪れて彼女の母から許しを請う言葉を父にに伝えようと思っていた。しかし彼女は毎年のように父の家の情け容赦もなく閉じられた戸口にぶつかってしまうのだった。彼女の兄は彼女にとって唯一の仲裁者たり得た肉親だったが、この四年間に唯の一度も彼女に会いに来なかった。そして彼女にとっては何の救いももたらされなかった。彼女は父の目を開かせてくれるように、そして彼女の兄の心を動かしてくれるように神に懇願し、彼等を非難することもなく、彼等のために祈りをささげた。クチュール夫人とヴォーケ夫人はこの残酷な振る舞いを形容するのに十分な罵詈雑言を辞書の中にも見出せなかった。彼女達がこの恥知らずな百万長者を呪っている時、ヴィクトリーヌの優しい言葉が聞こえてきた。それは傷ついた森鳩が悲しさであると同時に愛であるところの歌を歌うに似ていた。
ウージェーヌ・ド・ラスチニャックはいかにも南フランス的な顔の持ち主で、色が白く、髪は黒く、目は青い彼の外観、物腰、習慣的な姿勢は貴族の家の息子であることを示していたが、初等教育がもたらしたものは伝統的な趣味の良さだけだということも分かるのだった。たとえ彼が衣服を大切に扱っていて、普通の日には一年前に買った服を着たまま過ごしてしまうにしても、時にはうって変わって優雅な若者らしい姿で外出することが出来るのだった。普段の彼は古いフロックコートに、粗悪なチョッキ、安物の黒くて色褪せ、学生っぽく下手な結び方をしたネクタイ、それ相応のズボン、そして靴底を張り替えたブーツを履いていた。
二人の若い男女の登場人物やその他の下宿人の中間の階にヴォートランがいた。彼は四十歳がらみの男で、染めたもみ上げは彼が経てきた年月を感じさせた。彼は人々が一般に次のように言う、そんなタイプの人物だった。『ほらあれが例の男なんだ』彼は広い肩、よく発達した胸板、盛り上がった筋肉、分厚く角張り毛むくじゃらの指が目立つ手を持ち、愛想の良い赤褐色の顔をしていた。彼の容貌は年の割には早く皺が刻まれ、柔軟で人付き合いの良い彼の物腰とは矛盾する冷酷さがそこにうかがわれた。彼の程よい低音は彼の磊落さに上手く調和して決して不快感を与えなかった。彼は愛想が良くて陽気だった。もしどこかの錠が故障したとすると、彼はそれを造作なく取り外して、ありあわせのもので修理し油を注し磨きをかけ再び取り付け、なんだかんだ喋りながら、そんなことをやってしまうのだった。こんなのは良く知ってるんだよとか何とか喋るわけだ。第一に彼は何だって知っていた。船、海、フランス、外国、事業、人間、事件、法律、豪邸、そして牢獄のことまで。もし誰かがひどく嘆いているのを見ると、彼は直ぐに助けを申し出るのだった。彼はヴォーケ夫人や下宿人の誰それに何度か金を貸してやった。しかし彼の恩義を受けた人は、彼にそれを返さないくらいなら、むしろ死んだ方がましだと思ったことだろう。善良そうな様子にもかかわらず、それほどまでに彼の正確に見通す様な、そして断固とした態度に満ちた視線は人に恐れを抱かせた。彼はぺっと唾を吐くことによって、危機に面しても曖昧な態度をとることを避け、決してたじろがない平然とした冷静さを示すのだった。まるで厳しい裁判官のように、彼の目は全ての疑問、全ての良心、全ての感情の奥底まで見通してしまうように思われた。彼の習慣は朝食後外出し、夕食のために戻ってくる、いつもパーティのためにまたいなくなる、そして真夜中くらいに帰宅する、その時は、彼を信頼しているヴォーケ夫人から与えられた合鍵を使うといった具合になっていた。この優遇は彼だけが享受していた。しかもそれだけではなく、彼が未亡人と一番気が合っている時などは、少しお世辞気味に彼女の胴体を抱えるようにして、ママンと呼びかけたりするのだった!この善良な女は彼のこの仕草を何でもないことと考えていたが、実のところヴォートランだけが十分に手が長いので、この重っ苦しい胴体に腕を回すことが出来たのだ。彼の性格の特徴を表しているのは、食後のデザートにしていたグローリアというブランデー入りのコーヒーの分として、気前よく月々十五フランを支払っていたことだった。パリジャンの生活の渦巻きに押し流されている例の若者ほどには軽薄でない人々、あるいは、自分達には直接関係のないことには無関心な老人達は、ヴォートランが彼等に胡散臭い印象を与えたとしても気に留めなかった。彼は周囲の人々の仕事のことを知っているか、推測するくらいは出来ていたが、一方で誰も彼の考えとか仕事のことに立ち入ることは出来なかった。彼は他の人々と自分との間にうわべの人の好さ、いつもの愛想の好さや陽気さを障壁のように置いているのだが、彼の性格のぞっとさせるような深みをしばしば人に垣間見させておくようなところもあった。彼の洒落はしばしばローマの腐敗を痛烈に風刺したユウェナリス[8]に匹敵し、彼はその警句を発することで、法律をないがしろにしたり上流社会を烈しく叩いたり、上流社会の内部矛盾を認めさせたりすることに楽しみを見出しているように思われたが、彼はむしろ、彼がこの国の社会に恨みを抱いているように、そして彼の人生の奥底には何か秘密めいたものが念入りに隠されているものと、人には勝手に考えるに任せていた。
多分自分では意識しないで、一方の力強さ、あるいは他方のハンサムにひかれて、タイユフェール嬢はこの四十男と若い学生を盗み見たり、ちょっと考えてみたりすることでは適当に割り振っていた。しかし彼等二人とも彼女のことに気づいてはいないようだった。ところが、ある偶然の出来事が彼女の立場を変え、たちまち彼女は金持ちの結婚相手になってしまった。第一にこの手の人々の間では、自分たちのうちの誰かが不運な目に会ったと言ったところで、それが嘘か本当かをわざわざ確かめるために骨を折る者はいないのだ。全てのことには原因と結果がある。ある種の無関心には個々の立場によって生じた疎外感が入り混じっている。彼らの立場では他者の苦痛を和らげる力がないことを自ら知っていて、だから誰もが、せめて弔辞の区切りまではと、へとへとになりながらも我慢して聞いているのだ。よく似たことに、年寄り夫婦の仲ではもう何も話すことなんかない。彼らの間にまだ残っているのは機械的な生活と油を注していない歯車一式の報告くらいのものだ。誰もが盲人が坐っている前の道路をそ知らぬ顔で真っ直ぐに通り過ぎる。不運な身の上話は感動もなく聞く。そして惨めさという問題の解決は死によって達成されると悟るのだが、この悟りが彼等を最も恐ろしい断末魔の苦しみに対しても冷淡にしてしまうのだ。この荒涼とした魂の中で一番幸福だったのはヴォーケ夫人で、この気兼ねのない養護ホームの女王として君臨していた。あの小庭は彼女一人のためにあって、その静けさと冷気、乾気と湿気の大きいことはまるで大草原のようで、快い小さな森のようだった。彼女にとってのみ、この黄色の陰気な館が、その帳場の黴臭さすら、無上の喜びだった。そこの物置も彼女のものだった。彼女はいつも苦労して捕らえた徒刑囚を養ってやっていたが、彼女の威光に対して敬意を払うように要求もしていた。そしてここの貧しい人々は、ここはパリで、彼女の提示した価格で、健康にも良く十分な食事を与えられ、それぞれが主であるアパルトマンを借り受け、優雅で快適とまでは言わないまでも、少なくともまずまず健康的な住居だと思っているのではないだろうか? 彼女が目に余る不正をしたとしても、ここの被害者は文句も言わず、彼女を支持したことだろう。
ここで何か集まりがあると、当然そこには社会の縮図が現出されるように思われ、事実その様相を呈するのだった。十八人の食卓仲間の中に、どこの学校にも、またどんな社会にもいるような哀れな鼻つまみ者の人間がいた。そのなぶり者に向かって、からかいの言葉が雨のように浴びせられるのだった。二年目の始めに、この人物はウージェーヌ・ド・ラスチニャックにとって、これから更に二年間一緒に過ごさざるを得ないここの人々の中にあって、際立った存在となっていた。この被害者はかつてのイタリア麺製造業者ゴリオ爺さんだった。もし絵描きに筆を持たせたら、この物語の作者同様、彼は絵の中の光を総てこの製麺業者の頭上に降り注がせたことだろう。何かの偶然で軽蔑が半分くらい憎しみになり、哀れみが非難と入り混じり、不運の側面には目もくれずといったことが合わさって、一番年寄りの下宿人を彼等皆で叩きのめすことになったのだろうか? 一体どういう些細なこと、あるいは奇妙なことがあって、人はそれを大目に見て許してみたり、道徳的に許せないとみなしたりするのだろうか? この質問は身近な例の中に社会的不公平を首尾よく指摘している。恐らく自然な人間性に鑑みれば、彼は真に謙虚であったり、自分が弱々しく、冷淡に扱われる故にひどく苦しんでいるのだから、皆で支えてやらなければならない人なのだ。ところが、我々は誰かを、あるいは何かを笑いものにすることで我々の力を証明することがとても好きなのではないのだろうか?凍るような寒さであればあるほど、いたずら小僧は全ての家の戸のベルを鳴らしてみようとしたり、あるいは自分の名前を新しい記念碑に書き込むために背伸びをしたりするものなのだ。
ゴリオ爺さんは六十九歳になろうかという老人で、職を辞した後、一八一三年にヴォーケ夫人のもとに隠遁してきたのだった。彼は最初に現在クチュール夫人が使っているアパルトマンに入り、入居した当初一二〇〇フランの賃貸料を払っていた。五ルイくらい多かろうと少なかろうと大した問題ではないというような男だったのである。ヴォーケ夫人はこのアパルトマンの三部屋を、家具代の支払いを保証した事前契約によって一新することが出来た。噂では購入された家具は安物で、黄色いキャラコのカーテン、ニス塗りの木をユトレヒトのビロードで被った肱掛椅子、何枚かの難解な絵、場末のキャバレーでも引き取らないような壁紙などから成っていた。恐らく細かいことは気にしない気前の良さから、ゴリオ爺さんは騙されるままになっていたのだろうけれど、その頃の彼は尊敬の念をこめて『ゴリオさん』と呼ばれていた。彼女は彼のことを実務には全く疎いお馬鹿さんくらいに考えていた。ゴリオは衣服が揃っている洋服ダンスを備えていた。その立派な衣類一式は彼が事業から身を引いた時、この卸業者は自分のためになら、幾らでも金を使っていたことをうかがわせた。ヴォーケ夫人はドミオランダ(高級麻布)の十八枚のシャツに感嘆したものだった。しかもそのシャツの高級感は製麺業者がシャツの胸飾りに小さな鎖でつながった二つのピンを無造作に付けていて、しかもそのピンのいずれにも大きなダイヤモンドが嵌め込まれていたので、一段と引き立っていた。普段、彼は明るい青い服を着て、白い木綿のシャツは毎日取り替えていたが、その下で洋梨状に突き出た彼の腹部が揺れ動いて小さな飾りの付いた金の鎖を弾ませるのだった。彼の嗅ぎ煙草入れはやはり金製だったが、中に髪の毛の入ったロケットが入っていて、何か幸運を授かったことと関係があるような趣をそれに与えていた。女家主が彼の女性に対する親切過ぎる点を非難した時も、彼は唇の上に陽気な金持ちらしい微笑を浮かべながら、過失を直すこともなかったし、皆も彼の好きに任せていた。彼の部屋の壁に固定された棚には彼の家事用の銀器がいっぱい置かれていた。寡婦が親切にも荷解きと整頓を手伝ってあげた時、大匙、シチュー用スプーン、テーブルセット、食卓用小瓶、ソース注し、何枚もの皿、鮮紅色のモーニングカップ、そして程度の差はあるが綺麗でかなりの重さになる単品の食器類があって、彼はそれらを処分しようとしないのだった。寡婦の目はこれらの品々を見て輝いているようだった。この品々は彼に家庭生活の崇高さを思い出させた。
「これがねー」彼は一枚の皿と小さな丼鉢を手にとって、ヴォーケ夫人に言ったものだ。その蓋には羽づくろいをする二羽の雉鳩が描かれていた。「私の妻が初めて私にプレゼントしてくれたものなんだ。結婚記念日だったよ、健気な女だった! 彼女は独身時代からの貯金をはたいて買ってくれたんだ。分かってもらえるかね、奥さん? 私はこれを手放すくらいなら、いっそ人の金をちょろまかしてやるよ。ま、その必要もないさ! 私はこのカップにコーヒーを入れて、残りの人生で毎朝味わうことが出来るんだ。私は人から同情されるような身の上じゃあない、私は長年十分に仕事を抱えて稼いできたんだ」
とうとうヴォーケ夫人はその詮索好きな目でもって、五執政官時代の台帳登録[9]から何となく足し算してみたところ、この素敵なゴリオは大体八千から一万フランの年金収入があるということが分かった。この日を境にコンフラン出のヴォーケ夫人もまた実際は四十八歳のところを、三十九歳としか認めていなかったのだが、どうも考えるところが色々出てきたようだった。ゴリオの目頭の辺りが、きわめて頻繁にそこを拭っているにもかかわらず、変な具合に腫れぼったいことがあっても、彼女は彼のことを感じの良い申し分のない人だと思っていた。第一に彼の肉付きの良い目立ったふくらはぎは彼のがっしりした高い鼻と同様に道徳的に高い性格を感じさせ、それが未亡人を惹きつけ、なおかつ丸くて青白い顔や愚直そうなところが善人であることを確信させた。それはつまり、彼はがっしりした体格の小父さんで、感覚的には惜しみなく機知も見せてくれるということで心身ともに言うことなしの人ということになるのだった。彼の髪は鳩の翼状態だったので、理工科大学の理髪師が毎朝来て、彼の額に先端を五つに分けて垂らすように試みたりして綺麗に整えていた。少し粗野だが、彼はとても隙のない服装をして、金持ち然として煙草を取り、彼がそれを吸い込む様は今日も高級煙草のマクバをいっぱい詰めた嗅ぎ煙草入れを持つことに揺るがぬ自信を持った男そのものだった。だからゴリオ氏が彼女のところに身を落ち着けたその日、ヴォーケ夫人は夜寝る時、まるで薄皮に包まれてあぶり焼きにされるヤマウズラのように身を焦がす思いがした。ヴォーケの名のもとで死ぬよりもゴリオとして生まれ変わりたいという炎のような希望が彼女を虜にしたのだった。彼と結婚し、この下宿屋を売り払い、あの申し分のない資産家と腕を組み合って、町内で名高い貴婦人になり、その辺の貧乏人のために募金活動をし、選ばれた夜会のメンバーや紳士達とは日曜日に小さなパーティを催す。好きな時に芝居に行く、それも桟敷席で。これまでのように下宿人のある者が七月になると彼女にくれていた物書き用の入場券を待つこともない。彼女はパリジェンヌの小さな家政にとっては全く黄金卿のようなことを夢見ていた。彼女はそれまで彼女にはちびちび溜めた金を寄せると四万フランも持っていることを誰にも明かしたことはなかった。彼女は財産面から言って、ゴリオと自分は釣り合う仲間だと確かに考えていた。
「いずれにしたって、私にはいい人がほしいわ!」彼女はベッドに向かって歩きながら一人ごちていた。それはまるであの太っちょのシルヴィが毎朝空しく求めている魅力的な姿を自分自身には保証して見せるといわんばかりであった。
その日から、およそ三ヶ月間くらい、ヴォーケ未亡人はゴリオ氏の理髪師に取り入って、化粧品のためにかなりの出費をしたが、彼女の館も立派な人が立ち寄るようになると、それにふさわしいある種の礼儀は尽くさなければならないということをその理由にしていた。彼女は彼女のところの下宿人の人的階層を変えてしまおうと深く企んで、今後はあらゆる面で最高に立派な人物でないと受け入れないと高らかに宣言した。外部の人が来ると、彼女はあのパリで一番有名で一番尊敬すべき卸商のゴリオ氏が彼女にそれと認めたような好みを褒めそやした。彼女は頭の中で次のような内容のパンフレットを配ることを考えていた。〈メゾン・ヴォーケ、これこそは最も歴史のある、そして評価の高いラテン区の市民のための下宿館です。ここにはゴブラン谷の快い眺めがあり、当館四階からご覧になれます。そして美しい庭園の小道を行けば菩提樹の木陰に至るのです〉彼女はそれを何となく良い雰囲気で、しかも静寂さに満ちた調子で語るのだった。このパンフレットを見て彼女を訪ねてきたのはランベルメニル伯爵夫人だったが、この三十六歳の婦人は戦場で亡くなった将校の未亡人として、恩給の支給や支払いについての手続きの完了を待っているところだった。ヴォーケ夫人は彼女の食事に気を遣い、客間では六ヶ月近く暖炉の火をおこし続けることさえしていた。そしてパンフレットに書いた約束は非常に良く守ったので、約束したことは進んで実行した。更に伯爵夫人はヴォーケ夫人を親愛な友よと呼びつつこんなことも言った。それは彼女の友人であるところのヴォーメルラン男爵夫人と陸軍大佐ピカソ伯爵の未亡人を紹介してあげようというのだった。この二人はメゾン・ヴォーケに住むよりもっと高くつくマレー地区の高級下宿で晩年を終えようとしているというのだ。この婦人達はまず何と言っても陸軍省が最後まで彼女たちの面等を看てくれるので気楽に過ごせるのだ。「だけどね、お役所だって結局のところ面倒見切れないのよ」と彼女は言うのだった。
伯爵未亡人は夕食の後、ヴォーケ夫人に誘われて女家主の部屋にやってきて、そこで軽いおしゃべりをして、スグリ酒も頂き、女家主が自分のためにおいていた砂糖菓子も食べた。ランベルメニル夫人は女家主のゴリオに対する見解に大いに同意を示し、女家主の卓越した見解は最初に会ったその日から直ぐに理解できたこと、彼女も彼のことを完璧な男だと考えていることを明かした。
「あーら! 貴女も! 彼は私の目のように澄み切った若々しさを保っていて、そのくせ経験を積んだ人妻でも楽しませてくれるものを持ってるんだわ」女家主は伯爵未亡人に言った。
伯爵夫人はヴォーケ夫人の服装は本人の思い上がりに調和しないものだと思ったが、それは大目に見てやった。
「貴女は臨戦態勢を整えなきゃならないわ」彼女が言った。
大分思案した後、二人の未亡人は連れ立ってパレロワイヤルへ行き、庭園内にあるブティック“ギャルリ・ド・ボワ”で羽飾り付き帽子と縁なし帽子を一点ずつ買った。ランベルメニル伯爵夫人は友人を“ラ・プティト・ジョネット”という店へ連れて行き、そこで彼女たちは服とマフラーを一点ずつ選んだ。これだけ弾薬を仕込み、ヴォーケ夫人の軍備が整ってみると、彼女の姿はなぜか完全にレストラン”ブフアラモード”[10]の看板を連想させた。彼女は自身としては最高に上手く変身出来たと思ったが、その時、ランベルメニル伯爵夫人のことを忘れていたことに気づいた。それで、彼女は余り気前の良い方ではなかったが、伯爵夫人に二十フランの帽子を受け取ってくれるように頼んだ。実のところ彼女は伯爵夫人にゴリオの意向を調べる役目を頼んでいて、やがてはゴリオの傍らの部屋に住むことを希望していた。ランベルメニル夫人はこの件に関して、とても親切に準備し、老製麺業者の人となりをはっきりさせた上に、彼女は彼と会って協議することまで成功させた。しかし会ってみて、彼が極端にはにかみ屋で、特に彼女の夫伯爵にならないかという誘いを始めとした彼女自身の希望による企てに対して否定的であることが分かった。そして彼の無作法さには、彼女が憤慨して部屋を出てしまった。
「奥さん」彼女は親愛な友に向かって言った。「貴女はあの男からは何も期待できないわよ! 彼は馬鹿みたいに疑り深いのよ。あれはしみったれで下品で馬鹿、貴女には不愉快な話しか出来ないやつだわ」
ゴリオ氏とランベルメニル伯爵夫人との間にあったものは、伯爵夫人にとっては、彼と同席することすら堪らないというほどの深い溝だった。翌日、彼女は六ヶ月分の下宿代を払い忘れたまま出て行ってしまった。後にはせいぜい五フランにしかならないような古着が一着放りっぱなしになっていた。ヴォーケ夫人は必死になって行方を捜したが、ランベルメニル伯爵夫人についてのいかなる消息も、パリでは得る事が出来なかった。彼女はこの嘆かわしい事件について、しばしば話していたが、自分の余りにも信じやすい性格を嘆いて見せるのだが、実のところ、彼女は疑り深い雌猫なんかより遥かに疑り深い人間だったのだ。しかし彼女は側近に対しては疑り深いくせに、初対面の誰彼に胸中を打ち明けてしまうという、あの多くの人達のタイプの人であったように思われる。人の精神作用はこのように奇妙なものだが、それが真実なのだ。その根拠を人の心の中に見つけ出すのは簡単だ。恐らく共に暮らしている人達の目には、付き合ったところで何も得るものがない人間のように見える人物が多いものなのだろう。彼等は自分の魂の空虚を隣人にさらしてしまった後、隣人から厳しい価値判断をされてしまったことを秘かに感じ取る。しかし、彼等には周囲からは得られないおべっかが、どうしようもなく必要なように感じられ、あるいは、彼らが持っていない特性を持っているかのように見せたいという欲望に駆られてと言ってもいいだろうが、彼等が一日にして手に入れたものを失うかも知れない危険を冒しても、彼等にとっての外部の人間から尊敬を騙し取るか、それとも、心を奪うか、そのようなことを彼等は期待してしまうのだ! 要するに、この種の人たちは友人とか近親者に恩義があっても、どういう訳か欲得ずくで、冷たい態度を取る事が多い。一方、見知らぬ人から受けた奉仕に御返しをする段になると、彼等は一生懸命に相手に報いようとする、何故ならその時、彼等は自尊心まで満足させることが出来るからなのである。お互いの愛情の範囲が狭ければ狭いほど、愛情は益々薄くなる。付き合いの範囲が拡大すればするほど、彼等は逆に良く世話を焼くようになるものだ。ヴォーケ夫人は疑いもなく、この二つの本性を身に付けていた。すなわち本質的に狭量で見掛け倒し、極言すれば、ひどい性格と言う他はない。
「もし私がその場にいたら」彼女にその話を聞いたヴォートランが言った。「そんな災難が貴女に降りかかることはなかったのに! 私が貴女の周りにこんな法螺吹き女が近づかないように、いつだって眺め回してあげたんだがなあ。私はこういう連中の顔は見れば分かるんだ」
狭量な人の常として、ヴォーケ夫人は事件のことを繰り返し語る習慣をやめなかった、そしてそれらの原因をいつまでも探ろうともしなかった。彼女は自分の潔癖さから他人を非難することが好きだった。この災難があってから、彼女はあの正直者の製麺業者のことを彼女の不運の原因とみなすようになり、その時以来――彼女は語ったものだ――彼に関しては迷いから目が覚めたのだった。彼女は媚態を作ったり特別交際費を出したりすることが何にもならないと分かると、直ちにこうなったことの理由を言い当てた。彼女はこうして彼女のところの下宿人は既に、彼女の表現によれば、彼らの生活スタイルが出来ていることに気づいた。結局、ゴリオは彼女の彼に対する期待があんなにも健気に空想的に胸の内に秘められていたにもかかわらず、この方面のことには目利きらしい伯爵夫人の自信たっぷりの言葉によれば、あの手の男からはヴォーケ夫人はからっきし得るものがないだろうということだった。彼女はそれだから、かつてのような友情を抱いて近づくことはなくなったというよりも、今ではもう彼を嫌悪して遠ざかってしまったのだった。彼女の憎しみの理由は愛情が絡んだものではなく、彼女の期待が裏切られたことによるものだった。もし人の心が愛情の高みに上ってゆく途上で心の平安を持つことが出来るなら、その心が急に憎悪の感情に凝り固まるようなことは余りない。しかしゴリオ氏は彼女の下宿人だったので、未亡人は傷つけられた自尊心の爆発をとりあえず抑え、ここで味わった失望が引き起こす溜息も我慢し、復讐してやりたいという彼女の欲望を欲しいままにすることも出来なかった。まるで小さな修道院の院長に自尊心を傷つけられても我慢している修道士のようなものだった。心の狭い人は、良かれ悪しかれ、絶え間なく起こる些事によって、どうやら満足を得ているものだ。未亡人は女将特有の悪意を利用して、標的にされた人間に有無を言わせず迫害を仕掛けた。彼女はまず彼女の下宿に余計なものを付け加えるのを削除した。
「更にピクルス、更にアンチョビまで付けるなんて。こんなのは、やり過ぎだわ!」彼女は元の献立に戻すことにした日の朝、シルヴィに言ったものだ。
ゴリオ氏は食事に関してつましい男だった。彼にあっては、一代で財をなした人間に不可欠の吝嗇がそのまま習慣化していた。彼はスープ、茹で肉、一皿の野菜という取り合わせを一度食して以来、ずっとそれがお気に入りの夕食となってしまった。ヴォーケ夫人にとって、その頃はまだこの下宿人を悩ませることは難しいことで、彼の好みと衝突することなどは全然出来ない相談だった。攻撃するわけにもゆかない男と顔を合わさなければならないことに絶望的気分になってしまった彼女は、彼の評判を落とすことを始めた。そして彼女は同時にゴリオに対する嫌悪感を他の下宿人達にも共有させるように仕向けた。彼等は面白がって彼女の復讐の手伝いをした。その最初の年の暮れ頃になると、未亡人の彼に対する不信感は極度に高まり、この卸商は七~八千リーヴルもの年金を貰う金持で、立派な銀食器のセットや妾の若い女に劣らぬくらい美しい宝石類を沢山持っているのに、どうして彼女の下宿なんかに住みついているんだろうかという疑問を抱くようになっていた。彼の財産を考えると、彼女に支払う賃貸料なんてずいぶんと少ないものだがと、彼女は自問自答していた。この最初の年、ほぼ年間を通じて、ゴリオは週のうち一日か二日くらいは外で夕食をとっていた。それがいつの間にか、彼が町で夕食をしてくるのはせいぜい月に二回くらいになっていた。下宿人達の小さな集団はゴリオ氏のことには敏感で、ヴォーケ夫人の利害にとても良く調子を合わせることが出来た。というのは下宿人が彼女のところで食事をするための時間帯の設定が次第に煩雑になってくる事に彼女が不満を抱くのではないかと彼等は気が気ではなかったのだ。彼の夕食の微妙な変化は、女家主に刃向かってやろうという意志があるうえに、彼の財産が徐々に減り始めたせいでもあろうと想像された。この小人国魂の実に忌まわしい習慣は自分達と同じ小人国根性を他者の中にまで想定してしまうところにあった。悪いことに、二年目の終わりに、ゴリオ氏は彼が噂話の的にされてきたことを正当化してしまった。彼はヴォーケ夫人に三階に移転することを願い出たうえに、賃貸料も九百フランに下げてくれるように頼んだのだった。彼はとても厳しい経済的必要に迫られていて、冬季でももはや彼の部屋では暖を取らなくなっていた。ヴォーケ夫人は賃貸料の前払いを希望した。ゴリオ氏はそれに同意したが、彼女はその時以来、彼のことをゴリオ爺さんと呼ぶことに決めた。このことは彼の凋落のまさに原因となったのだ。詳しく検証するのは難しい!
確かに偽伯爵夫人が言っていたように、ゴリオ爺さんは陰険で口数の少ない男だった。頭が空っぽの人、つまり本当に明け透けで何でも口に出して言ってしまうような人の理論に従えば、自分の仕事について語らない人達というのは、何か良くない事をやっているものなのだそうだ。かつてはあれほど上品だったこの卸商はいまや詐欺師で、女性に慇懃に振舞っていたこの男はもう老い耄れの道化になってしまった。一方で、その頃メゾン・ヴォーケに住むようになったヴォートランの話によると、ゴリオ爺さんは株式市場に出入りしていたのだが、経済用語でよく使われる表現を借りるならば、彼はそこで破綻してしまった。そこで彼は誰か鴨を見つけては金をもっぱら『かすめとって』いたらしい。また時には、彼は一晩かかって一〇フランを思いきって賭けたり、すってみたりする、あのみみっちい博打好きの男なんだといわれ、.またある時は彼が警察の上部と通じるスパイだという人もいた。しかしヴォートランは、そこまでやるほどあの爺さんはひどく悪いとは言えないと主張した。ゴリオ爺さんは、そうは言っても、先の見通しの利かないけちんぼで、宝くじでは大もうけを狙って同じ番号ばかり買う、その手の男だとも言われた。人々はありとある悪事、不名誉、無力さをまったくわけの分からぬ理由をつけて彼の上に被せた。ただし、いかなる下劣さが彼の振る舞い、あるいは悪癖の中にあったにせよ、彼を嫌う気持ちが彼を追い出すまでには至らなかった。何と言っても、彼は下宿代を払っていたのだから。それに、彼女の機嫌が良かったり悪かったりする度に彼を冗談の種にしたり、時にはどんと叩いてみたりして、気分を発散するうえで、彼の存在はなかなか重宝でもあった。もっともらしくて皆に受け入れられる意見はヴォーケ夫人からのものだった。彼女の言うところによれば、とても若々しくて、見るからに健康的で、それでいてその男と一緒にいるととても楽しい思いが出来るというような男は、たいがい変態趣味の放蕩者だということだった。彼女が人を中傷する基準は大体こんなところにあったのだ。彼女の苦い経験によって六ヶ月間は記憶に残ったあの疫病神の伯爵夫人が去ってから何ヶ月か過ぎたある日の朝、彼女はまだ寝ていたが、階段の方からさらさらと衣擦れの音がするのが聞こえ、若くて軽やかな女のものと思われる可愛い足音がゴリオの部屋の方へ急ぐ様子だった。そしてゴリオの部屋のドアは心得たように開かれていた。直ぐにでぶのシルヴィが女将のところへ来て、堅気の女にしては綺麗過ぎる女が、まるで女神のような身なりで現れたと告げた。女は泥も付いていないプリュネル[11]の編み上げ靴を履き、まるで鰻の様に道路から彼女の台所へ忍び入っていて、ゴリオ氏のアパルトマンはどこかと尋ねた。
ヴォーケ夫人と料理女は漏れてくる声を聞き取ろうと耳をそばだてた。そのかいあって、この訪問中にいかにも優しげに発せられた幾つかの言葉は捉えることが出来た。この訪問はかなり時間がかかった。ゴリオ氏がお相手の婦人を連れ出すのを見て、でぶのシルヴィは直ぐに買い物籠をひっ掴んで、買い物に出かける振りをして、恋のカップルの後をつけた。
帰ってくると彼女は女主人に言った。「奥様、ゴリオ氏って、なんとまあ金持ちですよ。皆に話題にされるだけのことはありますよ。まあちょっと想像してみてください、奥様、レストラパド通り[12]の隅っこに、素晴らしく綺麗な馬車が止まっていて、彼女はそれに乗って行ったんですよ」
夕食の時、ヴォーケ夫人はカーテンを引くために立って、太陽の光がゴリオの目にまぶしく当たって、彼が不快な思いをすることのないように気遣った。
「貴方は別嬪さんに愛されておいでなのね、ゴリオさん、太陽まで貴方を追っかけてますよ。癪にさわるったら! でも趣味の良いこと! 彼女ってとても綺麗ね」彼女は彼が受けた訪問に言及して言った。
「あれは私の娘ですよ」彼はある種の誇りをにじませながら言ったが、下宿人達は老人が表面には出さないものの、内に秘めたうぬぼれがあるのを見抜いては楽しんでいた。
この訪問から一ヶ月経って、ゴリオ氏はまたしてもこの女性の訪問を受けた。彼の娘は初めて来た時、朝の化粧で現れたが、今回は夕食後に来て、しかもこれから社交界へ向かうような身なりをしていた。下宿人達は広間で話し込んでいる最中だったので、彼女の美しい金髪、細い胴をじっくり眺めることが出来た。彼女は優雅で、ゴリオ爺さんの娘というには余りにも美し過ぎるとさえ思われた。
「二人目が来るなんて!」でぶのシルヴィが言った。彼女は前回と同じ女性であると見分けることが出来なかったのだ。
更に何日か経って、また別の女性しかも背が高くて綺麗で、褐色の肌、黒髪に活き活きとした目を持った女性がゴリオ氏を訪ねて来た。
「三人目だわ!」シルヴィが言った。
この第二の女性は初めての訪問だったが、やはり朝方に彼女の父に会いに来たと言っていたが、何日か後には、夕方に舞踏会に行くような化粧をして馬車でやってきた。
「また、四人目だわ!」ヴォーケ夫人とでぶのシルヴィが言ったが、この二人はこの背の高い婦人の中に彼女が最初の訪問をした朝に残したあどけない娘の面影は少しも見出すことが出来なかった。
ゴリオはまだ下宿代として一二〇〇フランを払い続けていた。ヴォーケ夫人は極く自然に、金持ちの男は四人あるいは五人くらいの愛人を持っていて、どういうわけか、そういう男は皆同じように愛人を自分の娘だと言って通してしまうのが実に上手なのだと考えていた。彼女は彼が愛人達をメゾン・ヴォーケに呼び寄せることには一向にかまわなかった。唯、この訪問が彼女に対して払うべき敬意について、下宿人であるこの男が如何に無関心であるかを彼女に知らしめることになった。そこでこの男が住み始めて二年目の始めから、彼女は彼のことをドラ猫爺と呼び始めた。とうとう彼が支払う下宿代が九〇〇フランに下がった時、彼女は例の女性の一人が降りてくるのを見ながら彼に向かって横柄そのものの態度で、彼女のメゾンに対してあんたは一体何をする積もりだと問いただした。ゴリオ爺さんは彼女に、あの女性は彼の長女だと答えた。
「貴方には二十六人も娘だという女性がいるの?」ヴォーケ夫人が辛辣に言った。
「私には娘が二人いるだけですよ」下宿人は以前と同じことを物静かに繰り返したが、いかにも惨めさが与える従順さそのものによって、彼の物腰は落ちぶれた男に相応しい態度となっていた。
三年目が終わろうとする頃、ゴリオ爺さんは四階に上がって、月々の下宿代が四十五フランの部屋に移ることによって、更に出費を切り詰めた。彼は煙草をやめ、鬘師を解雇し、髪粉を塗らなくなった。ゴリオ爺さんが、初めて髪粉を塗らないで現れた時、女家主は彼の髪の色に気がついて、思わず驚きの声を漏らした。それは黴のような薄汚れた緑がかっていた。彼の顔つきは人知れぬ心配事のために、知らぬ間に日々悲しげになっていって、食卓を囲む人達の中で、誰よりも悲嘆に暮れた様子になってしまっていた。もはや何の疑いもなかった。ゴリオ爺さんは年老いた放蕩者で、彼の目は、例の病気なのに熟練した医者の治療を受けず、勝手な薬を使ったために悪くなったのに違いなかった。彼の髪の不快な色も、放蕩とやはり使い続けていた例の薬の影響が出たものだった。爺さんの肉体的、精神的状態が、このいい加減な噂をありそうなことと認めさせた。彼の下着類一式が擦り切れた時、彼はそれまでの素晴らしい麻の下着の代わりにする積りだったのか、安物の木綿の布を買い求めていた。彼のダイヤモンド、金製の煙草入れ、鎖、宝石が一つずつ消えていった。彼はまた紺青の礼服をはじめ豪華な衣類をすべて手放し、その結果、夏も冬もごわごわした栗色のフロックコート、山羊皮のチョッキ、それと羊毛を編んだ灰色のズボンを着通すことになってしまった。彼は見る間に痩せ衰えていった。ふくらはぎの肉が落ちた。彼の体型は、恵まれた資産階級の満足感で、ふっくらとしていたが、痩せて皺くちゃに萎んでしまった。彼の額に皺がより、顎の輪郭がはっきり出てきた。彼がネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通に定住して四年目に入ると、彼はすっかり人が変わってしまった。この善良な六十二歳の製麺業者はかつては四十歳にもなっていないように見え、太って脂ぎった金持ちで、野獣のように元気で、その陽気な物腰は通りすがりの人まで楽しい気分にさせ、その微笑には何ともいえぬ若々しさを感じさせたものだが、それが今では七十歳くらいのぼんやりした、頼りなげな、青白い男になってしまった。彼の青い目はとても活き活きしていたものだが、それも生気のない情もない色に変わってしまったので、すっかり色褪せて、もう涙を流すこともなさそうに見えた。目の縁の赤いのが、まるで血の涙を流したように見えた。ある者は彼をむごたらしく感じ、またある者は彼のことを憐れんだ。医学部の若い学生は、彼の下唇がたるんできたのに気づいて、彼の顔の頂点とそこを結ぶ角度を測ったうえで、彼はクレチン病に侵されているという診断を下した。その際その学生は診察のためゴリオに長時間の苦痛を強いたが、治療を施す意図は最初からなかった。ある夕方、夕食が終わってから、ヴォーケ夫人はいかにも嘲笑的な口調で彼に言ったものだ。「さてさて彼女達、この頃はさっぱり貴方の顔を見においでじゃないわね、どうしたの、娘さん達?」彼が父親であることに疑惑をかけられたゴリオ爺さんは、女家主にまるで鉄棒を突っ込まれたような具合にびくっとした。
「娘達は何度も来てますよ」彼は動揺した声で答えた。
「あー! あー! 貴方っていまだに彼女達としょっちゅう会ってるんだ!」学生達が叫んだ。「ヴラヴォー、ゴリオ爺さん!」
しかし老人は自分の応答が彼等に言わせた冗談を聞いてはいなかった。彼はまた何か物思いに沈んでいる風で、これをうわべだけ観察した学生達は老人の呆けたような反応を捉えて、それを彼の知性の欠如のせいにした。もし彼等が彼のことを良く知っていたら、彼にこのような肉体的、精神的状態をもたらせた問題に恐らく大いに興味を抱いたに違いない。しかし、彼等がそういう方向に動くほど難しいことはないのだ。ゴリオが本当に製麺業者だったのか、あるいは彼の財産の数字はどれほど大きかったのかを知ることはそれほど難しくはなかっただろうが、もっぱら彼の財産に対して好奇心を掻き立てられた年寄り連中はこの界隈から出てゆこうとしなかったし、まるで岩にしがみついた牡蠣のように、この下宿の中に住みついていた。その他の人々となると、ひとたびネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通から出ると、花の都パリの熱気が、彼等がいつも馬鹿にしている哀れな老人のことなど忘れさせた。この偏狭な頭の持ち主達にとって、またこの無頓着な若者達にとっても、ゴリオ爺さんのお粗末な情けない有様や痴呆染みた物腰は、どう見ても、何らかの財産や能力といったものとは両立し得ないことのように思われた。彼が自分の娘だと言い張る女性達については、誰も彼も、ヴォーケ夫人の意見に賛成していた。彼女は、年配の婦人達が夜会の間中おしゃべりに夢中になっていると、いつもそこへ到達するのが習慣となっている厳しい理論を背景にして言ったものだ。
「たとえゴリオ爺さんが、あのうちへ会いに来た女性達が揃いも揃って豪華に見えたけど、それほどに金持ちの娘を持っているにしても、どうしてうちの下宿になんかいるんだろ、しかも四階にだよ、月に四十五フランの下宿代払ってさ、だったら貧乏ったらしい服装でいるわけないじゃないの」
この帰納法を否定出来る者は全然いなかった。更に一八一九年の十一月が終わる頃、それはこのドラマに一大転機が訪れた時期でもあったのだが、この下宿の誰もが哀れな老人に対して、ある種の固定観念を持って、じっと眺めていたのだった。彼には娘なんていなかったし、妻だっていなかったはずだ。悪い遊びに耽り過ぎた結果が、彼をナメクジというか、人間の形をした軟体動物にしてしまった。さしずめ、軟体動物科の帽子属に分類したらよいでしょうなと、食事客の常連であった博物館職員が言った。同じ帽子属でも、ポワレはゴリオに比べると、まるで鷲の様で紳士だった。ポワレは話せるし、理詰めだし、人にはちゃんと答えていた。しかし本当のところはポワレだって、彼が話し、理屈を言い、あるいは答えたりしていても、実質的には何も言ってはいなかったのだ。何故なら、彼には他人が言った言葉を繰り返して言う癖があったのだ。とはいえ、彼は会話を盛り上げる役目を果たし、活気があるし、感性に富んでいるようにも見えた。それに引き換え、ゴリオ爺さんときたら、――これも例の博物館職員が言ったのだが――体温計で彼を測ったところで、ナメクジはいつだって零度という有様だったというのだ。
ウージェーヌ・ド・ラスチニャックは、優れた若者なら当然心得ているべき精神状態の中にあった、というより、困難に直面した時に、彼の一流の人物としての資質が、その片鱗を見せる状況が迫りつつあったというべきだろう。彼のパリ滞在一年目は、法学部で初年度の学位を取るのに大して勉強することもなかったので、パリ的な物の中で特に視覚的な楽しみを存分に味わうことが出来た。しかしながら、もし彼があらゆる劇場の出し物を知り、パリの迷宮の出口を探り、その効用も知り、言葉を学びそして首都ならではの遊びにも慣れ親しむには、学生にしても十分な時間があるとは言えなかった。それにもっと、良いところや悪いところにも足を踏み入れたかったし、面白そうな授業を受けたり、美術館の財産の明細目録も作りたかった。学生というのはまた下らない事がやけに荘厳なことに思えて情熱を燃やすものなのだ。彼には尊敬する人物がいて、それはコレージュ・ド・フランスの教授だったりする。彼はその教授の授業を聴講するレベルに上がりたくて授業料を払うのだ。彼は上等のネクタイを締めて、オペラコミック座の二階回廊席の婦人達の目を意識して立ち現れる。彼は成功裏にこの儀礼を通過することによって、若木の柔らかい白木質を脱ぎ捨て、人生の地平線を遠くに拡げる。そして最後には社会を構成する人間の階層の重なりを理解するのだ。もしも彼が美しい太陽のもとでシャンゼリゼに並ぶ馬車に感嘆することから出発したとしても、社会機構を学んだ彼はたちまちそれらの馬車を羨むことになっていただろう。
ウージェーヌは大学入学資格を手紙で知らされ、大学入学資格の権利を手に入れた後、休暇旅行に出たが、その時以来、無意識のうちに、こうした事に対する訓練を積んでいた。彼の子供っぽい幻想、田舎の思想は消え去った。彼の修正された英知、彼の高められた野望は、たとえ家族の中にあっても、彼をして真正面から見据えしめるのは、まさしく家の主たる父親の地位だけだった。彼の父、彼の母、二人の弟、二人の妹、それに年金だけが財産という叔母が一人と、これだけの人々がラスチニャック家の小さな土地に住んでいた。この地所からは、およそ三千フランの年収が見込まれていたが、それこそ不確定要素に頼らざるを得ないような数字で、葡萄に関わる全ての産業の生産活動はそれに支配されていた。にもかわらず、彼は毎年自分のために一二〇〇フランの金をそこから引っ張り出すしかなかったのだった。この絶え間のない困窮は、普段彼の目には入ってこなかったが、彼が小さい頃は自分の二人の妹達のことをひたすら綺麗だと思って見ていたものだが、今や彼女達とパリの女性達との間に横たわる違いに嫌でも気づかされてしまうのだった。パリの女は、彼が夢想していた美を体現化して見せてくれた。同時に、彼の肩にかかる大家族の何とも不安定な未来があり、そこでは細心の注意を払っても極めて貧弱な生産しか得られないことは彼も知っていた。果物の搾りかすで作った彼の家族用の飲み物、最後にここに書きとめられないような多くの事情が彼の出世欲を増大させ、他に抜きん出たいという渇望を彼に植え付けた。彼は大人物に近づくに連れて、自分の手柄になること以外は何もしないことを望むようになっていった。しかし彼の精神は極めて南仏的だった。実行の段になると、彼の決心もまた、大海原でどちらにむけて力をこめるのか、あるいは、どの角度に向けてヨットの帆を膨らませるべきかを知らないあの若者達を捉える躊躇によって横面を張られるのだった。たとえ最初はがむしゃらに仕事に飛び込んでゆくにしても、やがては縁故を作ってゆく必要に駆られて、彼は婦人達が社交界にどれくらいの影響力を持っているのかに注意を払うようになった。そして急に社交界に飛び込んでみようと思い巡らせ始めた。そこで庇護者となる婦人をものにする積りだった。婦人たちが、愛に燃え機知に富んだ若い男で精神や愛が優雅な仕種や若々しい美貌によって際立っているような者に不自由しているようであれば、その女達は喜んで彼のものになるのではないのか? このような考えが野原の真ん中で彼を襲った。かつては妹達と陽気に散歩した所だったが、妹達は彼がずいぶん昔とは違ってきたことに気づいていた。彼の叔母のマルシャック婦人はかつて宮廷に仕えていたことがあり、そこで権勢を持っている貴族を何人か知っていた。突然、若い野心家は叔母が実にしばしば彼に話していたことを思い出した。それは社会を支配する多くの動機の一要素として、少なくとも彼をそそのかして高等法律大学を志望させるまでに重要な働きかけをしたことになる。彼は彼女に親戚筋でこれから関係を強められそうなところはどこかと尋ねた。系統樹を揺さぶってみた後、老婦人が下した評価によると、金持ちの親戚筋で利己主義者達の中にあって、最も甥っ子のために力を貸してくれそうなのはボーセアン子爵夫人で、彼を寄せつけないといったことが一番少なそうだということだった。彼女はこの若い夫人宛に古風な手紙を書き、それをウージェーヌに託した。彼が子爵夫人に対して成功を収められるようなら、また別の親戚にも紹介してあげようと叔母はその時に言った。パリに着いて何日か経ってから、ラスチニャックはボーセアン子爵夫人の家へ叔母の手紙を届けに行った。子爵夫人は翌日の舞踏会に招待してくれることで、それに応じてくれた。
一八一九年十一月の終頃、この高級下宿の一般的な状況は大体このようになっていた。数日経って、ウージェーヌは、ボーセアン夫人の舞踏会に行った後だったが、夜の二時頃帰って来た。失った時間を取り戻そうと健気な学生はダンスをしながら、朝まで勉強をしようと心に誓っていた。こんなに静かな街角を真夜中に通り抜けて行くのは彼にとって初めてのことだった。というのは、上流社会の絢爛豪華を目の当たりにして、彼は言い知れぬエネルギーの魅力に圧倒されてしまっていた。彼はヴォーケ夫人のところでその日は夕食をとらなかった。で、下宿人達は、彼は翌日の夜明けまでは帰って来ないだろうと考えていた。というのは、これまでにも何度か、彼がプラドーでの学生達のお祭り騒ぎやオデオン[13]での舞踏会から、絹の靴下を泥んこにしたうえ舞踏靴が捻じ曲がったような格好で帰って来たことがあったからだ。入り口の錠をかける前に、クリストフは道路を見るためにドアを開けた。ラスチニャックはこの瞬間ぱっと現れて、彼を伴って自分の部屋まで音を立てずに上がることが出来た。クリストフはこんな便宜をよく図ってくれた。ウージェーヌは服を脱ぎ、スリッパを履き、汚らしいフロックコートを羽織り、暖炉の石炭に火をつけ、すばやく勉強の準備にかかった。クリストフもまた彼の大きな短靴でばたばた歩いて、若者が騒々しく準備する音を掻き消してやった。ウージェーヌは法律の中に飛び込む前にしばらくじっと考え込んでいた。彼はその日、ボーセアン子爵夫人がパリのモード界における女王の一人であること、そして彼女の君臨する屋敷はフォーブール・サン・ジェルマン街[14]にあっても最高に心地良い場所であることを初めて知ったのだ。彼女はそもそも、その名前あるいはその財力からして、貴族社会にあって最高権威者であった。マルシャック叔母のおかげで貧乏学生は、この特別の計らいがどんなに大きなものであるかを知らぬままに、この邸に首尾よく受け入れてもらった。このまばゆいばかりのサロンに入ることを認めてもらったということは貴族階級の免許状を貰ったことを意味していた。彼はこの世の中で一番排他的な世界に登場することによって、どこにでも出入りする権利を獲得したのだった。このまぶしいくらいの集会で子爵夫人とはほとんど言葉を交わすことは出来なかったが、ウージェーヌは、このパーティにひしめくパリの女神の群れの中から、この若者を誰よりも深く愛してくれるであろう婦人を一人見つけ出したような気がして、満ち足りた気分だった。アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人は、長身で見栄えが良く、パリで最も美しい胴体の持ち主だといわれていた。ちょっと想像してみたまえ、大きな黒い瞳、素晴らしい腕、見事な細い脚、動きの中の情熱。この婦人を評して、ド・ロンクロール侯爵は、純血種の馬のようだといったものだ。この神経の繊細さは、彼女の良さを少しも傷つけるものではなかった。彼女は豊満で丸みを帯びていて、それでいて太り過ぎだとけちをつけられることもなかったのだ。純血種の馬、良血の女性、こうした言い回しは、伊達者達が愛用し始めていて、彼等は、天使とか、アイルランドの詩人オシアン好みの昔の愛に満ちた神話伝説的な表現を使わなくなっていた。しかしラスチニャックにとって、アナスタジー・ド・レストー夫人は、彼が待ち望んでいた女性だった。彼は二回のダンスの彼女のパートナーリストに自分の名前を書き込むことが出来た。最初のコントルダンス[15]の時、彼女に話しかけることが出来た。
「奥さん、今度貴女にお会いするには、どこへ行けばよいのですか?」彼は夫人に強くアピール出来るに違いないと思って、出し抜けに情熱的に言ってみた。
「そうね、森でも、ブフォンでも[16]、私の家でも、どこでも」彼女が答えた。
そこで、この冒険好きの南フランス人は、いそいそとこの魅力的な伯爵夫人と仲良くなるために、若者として限度いっぱいまで、この女性を独占して踊った。しかし、それはコントルダンス一曲とワルツが一曲だった。その間、彼は、自分がボーセアン夫人の従弟で、この夫人に招待されたこと、そして、この夫人をすごい女性だと思っていること、そして彼女のところに出入りを許されていることを語った。アナスタジーが自分に向かって最後に微笑んだのを見たラスチニャックは、どうしても彼女を訪問しなければいけないと考えた。彼は幸運だったのだが、会った人の中に彼の無知を気に留める人間は一人もいなかった。本来なら肩で風を切る時代の寵児達に混じって、それは致命的な欠点だったのだ。モランクール氏、ロンケロル氏、マクシム・ド・トライユ氏、ド・マルセイ氏、ダジュダ・ピント氏、ヴァンドネス氏等がそこにはいて、それぞれ自己満足の栄光に浸り、そしてまた最高に優美な女性達、すなわち、レディ・ブランドン、ランジェ公爵夫人、ケルガルエ伯爵夫人、セリジー夫人、カリリアーノ伯爵夫人、フェロー伯爵夫人、ランティ夫人、デグルモン侯爵夫人、フィルミアーニ夫人、リストメール侯爵夫人、更には、デスパール侯爵夫人、モーフリニョーズ伯爵夫人、そしてグランリュウ家の女性達のお相手をしていた。ここでまた幸運にも、純朴な学生は偶然モンリヴォー侯爵に出会い、ランジェ公爵夫人[17]の恋人で、子供のように単純なこの将官は、レストー伯爵夫人がエルデ通に住んでいることを彼に教えてくれた。「若くて、上流社会に飢え、女を渇望していて、その自分に向かって、二つの家が門戸を開くのを目にするとは! フォーブール・サンジェルマンのボーセアン子爵夫人の家に足を踏み入れた今、どうしてあの新興勢力が集まる地区ショセ・ダンタン[18]のレストー伯爵夫人の家で、彼女の前に膝をつかずにおこうか! 一連のパリのサロンで、皆の視線の中に飛び込んでやろうじゃないか、で、僕は、自分はとても綺麗な少年だと思っているので、助けてくれたり守ってくれたりする気持ちを抱く女性をきっと見つけ出すぞ! 僕は自分がすごく野心家であることを感じているので、ぴんと張ったロープにだって見事に挑戦して見せてやろう、しかも、僕は決して落ちないという自信にあふれた軽業師として、その上を歩いて渡らねばならない、そして魅惑の女性の胸に、僕の最高の綱渡りを刻み込んでやろうじゃないか!」下宿の部屋に戻り、土くれをかき集めて辛うじて起こした火の傍で、このような取りとめもない考えや気高く着飾った女性の追想に浸り、市民法と貧困の間にありながら、ウージェーヌのように熟考のうちに将来を推し測った者が、あるいは成功への夢で頭の中をいっぱいにした者が他に誰かいただろうか?
しかし、彼の取りとめもない考えは将来の幸せを激しく欲求していたので、彼はもうレストー夫人が自分の近くにいるような気になっていた。その時だった、まるで大工の聖ヨセフ[19]が出す掛け声にも似た大きな溜息が聞こえた。それは夜の静けさを破り、死にかけている人間のような苦しげな喘ぎを若者の胸に響かせるのだった。彼はそっと戸を開けて廊下に立ったが、その時、ゴリオ爺さんの部屋の戸の下側から一筋の光が漏れ出ているのに気がついた。ウージェーヌは隣室の人が体調でも悪いのかと案じて、目を鍵穴に近づけ部屋の中を覗き込んだ。そして、老人が何かの仕事に没頭している様子が見えたが、なにやらひどく犯罪っぽい印象で、社会に対して尽くす様子には見えず、むしろ夜陰に乗じて自称製麺業者は何か良からぬことを企んでいる様に思われた。ゴリオ爺さんは疑いもなく机の台に張り付いて、金メッキの銀皿とスープ鉢の様な物をひっくり返して置き、豪華な彫刻が施されたこれらの品物の周りをロープで巻いて、地金になるまでに、ものすごい力でねじ切ろうとしているようだった。
「ちくしょう! 何て爺だ!」ラスチニャックは舌打ちしながら、なおも老人の筋肉質の二の腕を見つめていた。老人は例のロープを使って音も立てずに、金メッキされた銀器を小麦粉の生地の様に捏ね回していた。「だが、待てよ、これが泥棒あるいは隠匿行為であるとしよう、が、彼は自分の商売をうんとしっかりするために、馬鹿や弱虫の振りをして、乞食でもして生きてゆこうというんだろうか?」ウージェーヌはそう考えながら立ち上がった。
学生はもう一度、目を鍵穴にくっつけた。ゴリオ爺さんはロープを解いて銀の塊を掴むと、あらかじめテーブルの上に拡げていた毛布の上にそれを置き、今度はそれを延べ棒のように丸めるため毛布を巻き始めた。そして彼は非常に手際よく作業して仕事を済ませた。
「彼はまた何とヘラクレス並の怪力といわれたポローニャの王アウギュスト[20]のような力持ちじゃないか?」丸めた延べ棒がほとんど作り上げられるのを見て、ラスチニャックは思わずそうつぶやいた。
ゴリオ爺さんは寂しげに自分の作品を見つめていたが、彼の目から涙が溢れ出た。彼はその明かりのもとで金メッキされた銀器をねじり回していたろうそくを吹き消した。そしてウージェーヌには、溜息をつきながら寝床に入る音が聞こえた。
「やつはきちがいだ」学生はそう思った。
「可哀想な子だ!」ゴリオ爺さんが高い声で言った。
この言葉を聞いたラスチニャックは、この件に関しては慎重にして沈黙を守ろう、そして無考えに隣人を罰することのないようにしようと思った。彼が部屋に戻った時だった。彼は突然何か訳の分からない物音を聞いた。それは生地の荒い編み上げ靴を履いた何人かの男が階段を登って来る音のようだった。ウージェーヌは耳をそばだてて聞こうとした結果、二人の男の息づかいを交互に聞き分けることが出来た。男達が入った部屋の中からの声も聞こえず、また人の足音もしなかったが、彼はいきなり微かな明かりが三階に灯るのを見た。ヴォートラン氏の部屋だった。
「おや、この高級下宿には、結構、秘密があるんだな!」彼はそう思った。
彼が階段を数段下りて聞き耳を立てた時、金をジャラジャラさせる音が彼の耳を打った。音もなく戸が開いて二人の男の息づかいがまた聞こえた。そして二人の男が階段を降りてゆくにつれて、次第に物音は小さくなっていった。
「誰かそこにいるの?」ヴォーケ夫人が部屋の窓から叫んだ。
「私ですよ、今帰りました、ヴォーケ・ママ」ヴォートランが太い声で言った。
「変だな! クリストフが錠をかけていたのに」ウージェーヌは自分の部屋に戻りながら、そう思った。このパリで真夜中に起こったことを良く知るためには明日起きてから考えるしかない。
彼はこの小さな出来事のお陰で、恋への熱烈な思いからさめて、勉強に取り掛かった。しかしゴリオ爺さんに関して、彼のところへ来たのは一体誰だったのかという疑問、更には輝かしい将来を告げる使者のように、彼の前に次から次へと現れるレストー夫人の姿に気が散ってしようがなく、彼はとりあえず寝床に横になった、そして、そのままぐっすりと眠ってしまった。若者が十夜も勉強すると誓ったところで、彼等はそのうちの七夜は眠ってしまうものだ。起きていて勉強するようになるのは二十歳を超えてからだ。
翌朝パリは深いもやに支配され、それが大きく広がって、すっぽりと辺りを包んでしまったので、誰よりも規則正しい人間ですら時間の感覚を狂わされてしまったにちがいない。仕事の打ち合わせも多くが行き違いとなった。正午の鐘が鳴った時、誰もがまだ八時だと思っていた。既に九時半になっても、ヴォーケ夫人はまだベッドから出てこなかった。クリストフとでぶのシルヴィも遅めに静かにコーヒーを飲んでいた。自分達も下宿人達のために用意された上等のミルクを入れていたので、シルヴィはヴォーケ夫人が不法に一割も高めに費用のかかったコーヒーに気がつかないように、長めの時間をかけてコーヒーを沸かしていた。
「シルヴィ」クリストフが自分の一杯目のコーヒーを入れながら言った。「ヴォートラン氏だけど、彼自身は本当に良い人なんだけど、昨夜は他に二人の男が一緒だったんだ。もし女将がそのことで心配するようなことがあっても、何も言わないで」
「彼から何か貰ってるの?」
「毎月百スー貰ってる。僕にこう言っておく為にね。黙ってろと」
「しみったれていないのは彼ともう一人クチュール夫人くらいで、あとの人達は、お正月でも右手で人にあげた物を、直ぐに左手で取り返そうとするような連中よ」
「それにしたって、連中が何かくれるのか?」クリストフが言った。「みすぼらしい部屋に、百スーの金。この二年は、ゴリオ爺さんときたら、自分の短靴を縫ってるんだぜ。そしてまたけちん坊のポワレだけど、靴墨代を始末してて、古靴にそれを塗るくらいなら、いっそ飲んじまうだって。そしてあの貧乏学生だけど、彼は僕に四十スーくれるんだ。四十スーじゃあ、ブラシも買えない。でもって、今度は僕に彼の古着を売ろうとするんだ。ここはひでえぼろ家だね!」
「でもね!」シルヴィはコーヒーを一杯入れた小さなコップを啜りながら言った。「私達がいるとこは、この辺りじゃ案外良い場所よ。ここにいればいろいろ見られるもの。だけど、例えばごついお父ちゃんのヴォートラン、ねっクリストフ、あんた何か聞いたことあるの?」
「うん、何日か前に道である人にぱったり出会ったことがある。その人が僕に言った。『貴方の所に、がっしりした体格の頬髭が濃くて髪を染めている人なんて、いませんか?』てね、僕はこう言ってやった。『いや旦那さん、うちにいる人は髪は染めてませんよ。とても陽気な人で、髪を染めるような時間はなさそうですよ』てね。僕はこのことをヴォートランさんにも言ったんだ。彼が答えて言うには、『君の答え方は実に上等だ。いいやつだね!いつもその調子で答えといてくれ。自分の弱点を人の目に晒されるくらい嫌なものはないからなあ。それで結婚話が壊れかねないし』」
「おやおや! 私も、市場で、そんな人が上手いこと言って、彼がシャツを脱ぐところを見たかどうかって、私に言わせようとしたのよ。馬鹿々々しいったら! あらっ」
彼女は話を中断して言った。「ほら十時十五分前だ。ヴァル・ド・グラス陸軍病院の鐘が鳴ってる。まだ誰も起きてこないわ」
「あれ! 彼等はもう出かけてるよ。クチュール夫人と娘さんはサン・テチエンヌ教会[21]での八時からの集会で食事しに行った。ゴリオ爺さんは、何か荷物を持って出かけた。学生さんは十時の授業に行ったけど、帰ってきてない。僕はこの人たちが階段を降りて出て行くのを見たよ。ゴリオ爺さんが持ってるものを見て、僕はびっくりしたよ。それは何だか鉄のように固いものに見えたんだ。一体何してるんだろうね、いい爺さんなのに? 他の連中は彼を散々慰みものにしてるけど、あの人はやっぱりちゃんとした人で、彼等よりずっと値打ちのある人だよ。彼もたいしたものはくれないけど、彼が何度か僕を使いに行かせた所のあの女性達は気前良くチップをくれたし、とても綺麗な服装をしていたよ」
「それって彼が娘だと言ってる、あの娘達でしょ? 一ダースもいるんじゃないの?」
「僕が行ったのは二人っきりだよ、それも間違いなくここへ来た本人だったよ」
「ほら奥さんが起きてきたわ。一騒ぎ始まるわ。仕事を始めなきゃ。あんたはミルクに注意しなさいよ、クリストフ、猫に取られないようにね」
シルヴィは女将のところへ上がって行った。
「どうなってるの、シルヴィ、ほら十時十五分前だよ。あんたはあたしがぐっすり寝ているのを放っておいてさ! こんなことはもうご免だよ」
「霧のせいですよ、すごい濃霧ですよ」
「だけどもう昼御飯だろ?」
「あー! 奥さんの下宿人達は結構元気ですよ。彼等は皆、ご主人様のところから、とんずらですよ」
「そういうものはちゃんと言ってよ、シルヴィ、女将さんて言うもんでしょ」ヴォーケ夫人が答えた。
「あー! 奥様、貴女のおっしゃるように言いますわ。奥様が何なら十時に朝食しようとお思いなら、大丈夫できますわ。ミショネット嬢とポワロ[22]が、まだ出掛けてないんですよ。館内にいるのは彼等だけなんですよ。そして、彼等がまたよく寝てるんです」
「だけど、シルヴィ、あんたは二人を一緒くたにしちまってるよ、まるで……」
「まるで何ですか?」シルヴィは思わず騒々しく下品な笑いを漏らしながら答えた。「あの二人は一緒になってるんですよ」
「それは変だよ、シルヴィ、どうしてだろう、ヴォートランさんも昨夜はクリストフが差し錠を掛けた後で帰ってきたんだよね?」
「いいえ反対ですよ、奥様。彼はヴォートランさんの声が聞こえたので、戸を開けるために降りていったんです。そして奥様が言ってるのは、この時のことだと……」
「私にカミュソールを持ってきておくれ、それから急いで朝食の具合を見てきておくれ。マトンの残りとジャガイモを使って、それに焼き梨を添えといてね。これだって一つが二リヤール[23]するんだよ」
しばらくしてヴォーケ夫人が降りてきたが、ちょうどその時、彼女の飼い猫が現れて、ミルクの入ったボールに被せてあった皿をたたいてひっくり返し、あっという間にぴちゃぴちゃとミルクを飲んでしまった。
「この猫ったら!」彼女が叫んだ。猫はぱっと離れたが、直ぐに戻って彼女の脚に体をこすり付けた。「はいはい、この臆病な老いぼれめ!」彼女は猫に声を掛けた。「シルヴィ!シルヴィ!」
「おやおや! どうしたんですか奥様?」
「あんたも見てよ。これ、猫が飲んじまったのよ」
「これはまたクリストフの馬鹿のせいだわ。私が蓋をしておくように言ってたんですけどね。彼どこへ行ったんでしょうね? 奥様、心配要りませんよ。これはゴリオ爺さんのコーヒーに入れるやつです。私はこのミルクを彼のコーヒーに入れます。彼は気がつきませんよ。彼は何にも注意払ったりしないし、食べる物にも同じで全然気がつかないわ」
「彼も一体どこへ行ったの、あのチャンコロが?」ヴォーケ夫人は皿を置きながら言った。
「さあ、どうしたんでしょうね? 彼は変な物を売って、五百フランも儲けているんですよ」
「あたしはすっかり眠ってたよ」
「そのせいか、奥様は今朝、薔薇のように清々しいじゃないですか……」
この時、呼び鈴が鳴って、ヴォートランがその太い声で歌いながら広間に入ってきた。
私は久しく世界をさまよった
みんなが私を知っている……
「おー! おー! お早うございます、ヴォーケ・ママ」彼は女将を見つけるや、そっと腕の中に抱き寄せながら言った。
「さあ、もうやめて」
「これはご無礼を!」彼が答えて、「はいよ、分かりました、ご機嫌直して下さいな? ほら、私は貴女と一緒に食器を並べようじゃありませんか。あー! 私って気がきくよね?」
ブリュネットでもブロンドでも
口説いちゃえ
愛せよ、恋せよ……
「私はついさっき変なもの見ちまってね」
……出たとこ勝負[24]
「何のことだい?」未亡人が言った。
「ゴリオ爺さんが八時半にドーフィン通の金銀細工商の店にいたんですよ。そこは古い食器とか金モールなどを買い取ってくれるんだけれど、彼はその店に、金メッキした銀食器を良い値で売っていましたよ。あの男は手袋もしないのに、その食器を綺麗に捻じ曲げていたんですよ」
「えっ! 本当かい!」
「本当ですよ。私はロワイヤル運輸で外国から来ている友達一人を道案内してやってから、ここへ戻ってきたんですが、実はゴリオ爺さんに会いたくて待っているんですよ。これには笑える話があってね。彼は例のいわくつきの地区、グレ通に通っていましてね、その通りにある有名な高利貸しの店に彼が入っていったんです。そいつはゴプセックという恐ろしいやつで、自分の父親の骨でもってドミノを作ってしまうというような男なんですよ。ユダヤ人、アラブ人、ギリシャ人、ボヘミアン、まあこいつ等を全部合わせたような男で、人から金を奪うために生まれてきたようなやつです。銀行に入れたやつの金は溜まる一方です」
「ゴリオ爺さんは一体何をしてたんだい?」
「何にも」ヴォートランが答えた。「て言うか彼がやったことは焼け石に水でね。これは馬鹿げた愚か極まることですよ。娘達を愛する余り、破産するなんて、それも……」
「あ、彼だわ!」シルヴィが言った。
「クリストフ、私と一緒に上へ来てくれ」ゴリオ爺さんが叫んだ。
クリストフはゴリオ爺さんについて行って、また直ぐに降りてきた。
「あんたはどこへ行ってたんだい?」ヴォーケ夫人が使用人に向かって言った。
「ゴリオさんに用事をききに行ってました」
「それは何だい?」ヴォートランが言った。彼は言いながらクリストフの手から一通の手紙を奪い取ると、その表に書いてあるものを読んだ。「〈アナスタジー・ド・レストー伯爵夫人へ〉、で、あんたは行ったのか?」手紙をクリストフに返しながら彼が訊いた。
「エルデ通。私はこれを伯爵夫人以外の人には渡さないように承っていました」
「その中には何が入ってるんだろう?」
ヴォートランは手紙を日にかざして見ながら言った。「小切手でも入ってるのかな? 違うな」彼は封筒を少しだけ開いた。「約束手形が一枚」彼が叫んだ。「運命の分かれ道だ! 彼は女に親切だ、年甲斐もなく、へえー、老プレイボーイだな」彼はそう言いながら大きな手をクリストフの頭の上に置いたので、クリストフはさいころのようにくるりと一回転した。「君は気前良くチップがもらえるんだろ。」
食器が一通り並べられ、シルヴィはミルクを温めた。ヴォーケ夫人はストーヴに火をつけた。ヴォートランはそれを手伝いながら、ずっと歌を口ずさんでいた。
私は久しく世界をさまよった
みんなが私の友達だ……
すっかり準備が出来た時、クチュール夫人とタイユフェール嬢が戻ってきた。
「貴女こんな朝に一体どこへ行ってたの、奥様ったら?」ヴォーケ夫人がクチュール夫人に言った。
「私達はサン・テティエンヌ・デュモンにお祈りに行ってきました。今日はタイユフェールさんのところへ行かなきゃならないでしょ? 可哀想な子、まるで木の葉のように震えて」クチュール夫人は答えながら、入り口にあるストーブの前に坐って短靴をそちらの方に差し出したが、それは臭った。
「貴女も暖まりなさい、ヴィクトリーヌ」ヴォーケ夫人が言った。
「それがいいよ、お嬢さん、神様に貴女のお父さんの心を動かしてくれるようにお願いすることだ」ヴォートランはみなし子に椅子を勧めながら言った。「しかしそれで十分なのではない。貴女には誰かいい友達がいて、貴女のひどい親父さんに自分の行いを恥じるように言ってやらねばならんでしょう。貴女の無作法な親父さんは噂では三百万持ってるくせに、貴女には持参金を出そうとしない。いまどきのちゃんとした娘さんなら持参金は必要だ。」
「可哀想な子、さあ、あんた、貴女の鬼のような親父は好きなように不幸を呼び集めてるんだよ」
この言葉にヴィクトリーヌの目は涙に濡れ、未亡人はその時、クチュール夫人が彼女に示した合図に気付き言いやんだ。
「私達が彼に会うことだけでも出来たらねえ、私が彼に話すことが出来たらねえ、彼に奥さんの最後の手紙を手渡すことが出来たらねえ。私は郵便を使うようなリスクを敢えてすることもなかったんですよ。彼は私の筆跡を知ってますから……」財務委員の未亡人が答えた。
「おー、罪もなく、不運にも迫害されし女達よ!」ヴォートランが割り込んで叫んだ。「あの劇のせりふは貴女のことを言ってるようだ! これから何日かかっても、私は貴女のこの件にかかずらってゆきますよ。きっと上手くゆく」
「あー! 貴方」ヴィクトリーヌは濡れてきらきらする眼差しをヴォートランに投げかけながら言った。もっとも彼の方は動じる風もなかった。「もし私の父に近づく手立てをご存知でしたら、どうぞ父に言ってやってください。彼が私の母に対して愛情と誇りの気持ちをお持ちならば、それは世俗的なあらゆる富よりもずっと尊いものですと。どうぞ貴方も彼の厳格さを優しく見てあげて下さるように、わたしは神に貴方のことをお祈りします。どうか神の思し召しのままに……」
「私は久しく世界をさまよった」ヴォートランは皮肉っぽい声で歌った。
この時、ゴリオ、ミショノー嬢、ポワレが恐らくソースの香りに引き寄せられたのだろうか、降りてきた。シルヴィはマトンの残り肉を使って料理をしていた。七人の会食者がお早うの挨拶をしながらテーブルについたその時、十時の鐘が鳴り、道路からは学生の足音が聞こえてきた。
「あら、まあ! ウージェーヌさん」シルヴィが言った。「今日は上流階級の方々とのお食事じゃなかったんですか?」
学生は下宿人達に挨拶をすると、ゴリオ爺さんの横に坐った。
「たった今、何だか訳の分からない事件に出会ってしまいましたよ」彼は自分でマトンをたっぷり皿に取り、パンの一塊も自分で切り取った。ヴォーケ夫人はいつものように、その大きさを目で測っていた。
「事件だって!」ポワレが言った。
「おいおい! あんたは何だってびっくりなんかするんだ、よくある前置きだろ?」ヴォートランがポワレに言った。「前置きがあるからには中味がしっかりしているはずだ」
タイユフェール嬢はおずおずとした眼差しで若い学生を見た。
「貴方の事件を私達に話してくださいな」ヴォーケ夫人が尋ねた。
「昨日ですね、僕はボーセアン子爵夫人のところでの舞踏会に行っていました。彼女は僕の従姉で幾つもの絹で包まれたようなアパルトマンからなる豪華な邸宅を持っているのですが、やっと私達を招いて、そこで華麗なパーティを催してくれたってわけです。そこで僕はまるで王様のように楽しく……」
「テレ」ヴォートランが突然話をさえぎった。
「貴方は」ウージェーヌは勢い良く答えた。「一体何をおっしゃってるんですか?」
「私はテレと言ったんだよ、だってさ、ルワテレ(小国の王)の方がルワ(王様)よりもずっと楽しいに違いないからね」
「その通りだね。私もその小さな鳥(ルワテレは本来ミソサザイの意)でいる方が、王様のように気を遣うこともないのでずっと良いや、何故かって……」ポワレは尻馬に乗って言った。
「簡単に言えば」学生はポワレの言葉をさえぎって答えた。「僕は舞踏会に来ていた中で一番綺麗な女と踊ったんです。うっとりするような伯爵夫人で、僕がこれまで見たことがないような感じの良い女性でしたよ。彼女は頭に桃の花を飾り、脇にも最高に綺麗な花を付けていて、その花は自然に良い香りで満たしてくれるんです。だけど、ああ! 貴方に彼女を見せたかったですよ。あの活き々々として踊っていた彼女を絵に描くことなんて出来ませんよ。ところがですね! 今朝、僕はこの素敵な伯爵夫人に出っくわしたんです、九時頃、歩いてましたね、グレ通を。ああ、僕の胸はどきどきしました、そして想像した……」
「そんな所へ彼女は何しに来てたんだ」ヴォートランが突き刺すような眼差しで学生を見ながら言った。「彼女は間違いなくゴプセックの親父、つまり金貸しのところへ行ってたんだな。もし君がパリの女達の胸の内をよーく調べたら、そこで君が見つけるのは恋人よりも、まず金貸しだろうな。君の伯爵夫人はアナスタジー・ド・レストーという名前でエルデ通に住んでいる」
この名前を聞いた学生はじっとヴォートランを見つめた。ゴリオ爺さんは不意に頭を上げて二人の対話者にきらきらした一方で、不安に満ちた目を向けた。その様子は下宿人達を驚かせた。
「クリストフが行くのは遅過ぎるだろうから、彼女はもうそこに行っているんだろうな」ゴリオは悲しそうに叫んだ。
「私がにらんだ通りだ」ヴォートランは屈み込んでヴォーケ夫人に耳打ちした。
ゴリオは自分が何を食べているのかにも気づかないで機械的に食事をした。彼がこの時ほど虚けたように我を忘れたようになったことはかつてなかった。
「一体誰が、ヴォートランさん、貴方に彼女の名前を言ったんですか?」ウージェーヌが尋ねた。
「ああ! ほら」ヴォートランが答えた。「ゴリオ爺さんだ。彼がそのことを良く知ってるよ! この私がまたそれを知らないわけないだろう?」
「ゴリオさん」学生が叫んだ。
「えっ! 彼女は昨日もやはり綺麗でしたか?」哀れな老人が言った。
「誰がですか?」
「レストー夫人ですよ」
「貴方見なさいよ、老いぼれのけちん坊が目をあんなに輝かせてさ」ヴォーケ夫人がヴォートランに言った。
「彼はまだ女との関係を続けるのかしら?」ミショノー嬢が声を落として学生に言った。
「あー! そうですね、彼女は恐ろしく綺麗なので」ウージェーヌが答えた。「ゴリオ爺さんときたら、貪るように見てたなあ。もしボーセアン夫人があの場にいなかったら、僕の女神の伯爵夫人が舞踏会の女王になっていただろうな。若い男達は皆彼女のことばかり見ていましたよ。僕は名簿の十二番目に名前が書かれていましたが、彼女はずっとコントルダンスを踊り続けていました。他の女性達の悔しがることといったらなかったですよ。昨日幸せだった女性を一人挙げるとしたら、それはまさしく彼女です。誰でも帆走する三本マストの軍艦、疾駆する馬、踊る女性よりも美しいものはないというのは至極当然です」
「昨日は子爵夫人の邸で栄華を極め」ヴォートランが言った。「今朝は落ちぶれて手形割引屋に駆け込む。パリの女とはこんなもんだ。もし彼女達の夫が彼女達の際限のない贅沢を維持出来なくなったら、彼女達は身を売るんだ。もし彼女達が身を売ることが出来なければ、彼女達は母親の腹を割いて、そこに何か金目の物はないかと探し回る。ついには十万回もの悪事を重ねる。そうさ、そうなんだ!」
ゴリオ爺さんの顔つきは、学生がしゃべるのを聞いて、まるで晴天の太陽のように輝いていたのだが、ヴォートランのこの冷酷な観察を聞いて暗く沈んでいった。
「えーと! ところで」ヴォーケ夫人が言った。「貴方の事件とやらは何処へ行っちまったの? 貴方は彼女と話したの? 貴方は彼女に法律を専攻しないかと頼まなかったの?」
「彼女は僕に気がつきませんでした」ウージェーヌが答えた。「だけどグレ通で九時にパリで一番綺麗な女性、それも舞踏会から朝方二時に帰宅したはずの女性に出会うなんて、これって変だと思いませんか? この手の事件があるのはパリくらいなものでしょう」
「おい! 結構間の抜けたやつが多いんだな」ヴォートランが叫んだ。
タイユフェール嬢はほとんどこの話を聞いていなくて、自分がやろうとしている企てのことで頭が一杯だった。クチュール夫人が彼女に着替えにゆくために立つように合図をした。二人の婦人が出てゆく時、ゴリオ爺さんも後に続いた。
「あら! まあ、見ました?」ヴォーケ夫人がヴォートランをはじめ下宿人達に向かって言った。「彼が例の女達のお陰で破滅するのは間違いないわ」
「決して僕には考えられない」学生が叫んだ。「あの美しいレストー伯爵夫人がゴリオ爺さんと関わりのある人だなんて」
「しかし」ヴォートランが彼を遮って言った。「我々は何も君に考えを強要したりはしていないぞ。君はまだ若いから、パリのことを十分に知ってはいないが、そのうち我々が情人と呼んでいるような連中がいることに気がつく……」(この一言にミショノー嬢は探るような目をヴォートランに向けた。耳慣れた響きに人はつい本性を現す反応を示してしまうものなのだ)「おや! おや!」ヴォートランは彼女に向かって射抜くような目を投げかけながら話を中断した。「我々の間にわずかながら情の共感が芽生えましたかな、我々にも?」(ハイミスはまるで彫像に祈りを捧げる尼僧のように目を伏せた)「それではと」彼はまた言い始めた。「この連中はある考えに夢中になっている、そして絶対にそれをやめようとしない。彼等は唯一つの泉から湧く唯一の水しか飲もうとしない、しかもその水はしばしば澱んで腐っている。しかし彼等は水を飲むために彼らの妻をそして彼等の子供を売ってしまうんだ。彼等は自分の魂さえも悪魔に売ってしまう。ある人にとって、この泉は賭け事、株、絵の蒐集、あるいは昆虫の採集、音楽であり、また別の人にとって、それは砂糖菓子を作ってくれる妻であったりする。前者については、君がありとあるこの世の女性を紹介してあげたとしても、彼等はその女性達にはまったく関心を示さないだろう。彼等は自分の情熱を満足させてくれる女性しか欲しくないんだ。ところが、この遂に巡り会ったその女は大抵、彼等を全く愛さない。君の前でも彼等をこき下ろし、彼等には、ほんの僅かな満足をうんと高く売りつけるんだ。さて! それで! 我等の熱中爺さんはもう一直線だ。彼の最後の一枚の毛布も質屋に入れて、これが最後の銀貨を彼女のところに持ってってやろうというところだ。ゴリオ爺さんというのは、こういう人物なんだ。伯爵夫人は彼を利用しているんだ。というのは、彼は口が固いし、それにほら、華やかな社交界には金がかかるしさ! 哀れなお人好しはただ彼女のことばかり考えているんだな。その情熱を除けば、ほらあの通り、彼は獣のような人間に過ぎない。さっきのことになると彼の顔はまるでダイヤモンドのように光り輝くんだ。この秘密が何かを暴くのは難しいことじゃない。彼は今朝、銀器を鋳造品にしたものを運んでいた。そして私は彼がグレ通のゴプセック親父の店に入ってゆくのを見た。どうだい、これで分かっただろ! 戻ってくると彼はレストー伯爵夫人のところへクリストフのボケを使いにやったんだが、やつは我々に手紙の宛先を見せてしまった。そしてその中には約束手形が入っていたんだ。もし伯爵夫人もあの老いぼれ金貸しのところへ行ってたとすると、緊急事態だったことは間違いない。ゴリオ爺さんは親切にも彼女に融通してやってたんだ。その事実を正確に読み取るのに二つの考えを継ぎはぎする必要なんてない。これは君が証明してくれたんだよ、わが青春の学生さん、つまり、君の伯爵夫人が笑ったり踊ったり、すねて見せたり桃の花のバランスをとってみたり、服をつまんでみたりしている間にも、彼女は言ってみれば、苦境に陥っていたわけで、支払いを拒絶された彼女の約手あるいは彼女の愛人の約手のことで頭が一杯だったというわけだ」
「貴方の話を聞いて、僕はどうしても真実を知りたいという気にならされました。明日、僕はレストー夫人の家へ行ってみます」ウージェーヌが叫んだ。
「そうだ」ポワレが言った。「レストー夫人の家へ行くべきだ」
「君は多分そこで、ゴリオのおっさんに会うと思うよ。先生は色事のこってりしたところを味わいたくて、そこへ行くんだ」
「だけど」ウージェーヌは嫌悪感をあらわにしながら言った。「貴方の言い分では、パリは泥沼でもあるんですよね」
「おまけにとんでもない泥沼だ」ヴォートランが答えた。「そこで馬車ごと泥まみれになるのは正直者で、足だけ泥が付くようなのは詐欺師なんだ。君が頓馬でそこらにあるガラクタを盗んだとする、君は裁判所で首枷をはめられて見世物にされてしまう。ところが百万フランを盗んだ場合はどうか? 君はサロンで勇敢な男として注目されるだろう。わが国民は三千万フランもの予算を憲兵隊と裁判所に費やして、このような道徳を維持しているってわけだ。素敵じゃないか!」
「どうして」ヴォーケ夫人が叫んだ。「ゴリオ爺さんは銀製の食器セットを溶かしちゃったんだい?」
「蓋の上に二羽の雉鳩がいるやつでしたか?」ウージェーヌも尋ねた。
「まさにそれだよ」
「彼はまだそれにうんと愛着を持っていました、だから彼が丼鉢と皿を一緒にこねくり回したときは泣いていました。僕はたまたまそれを見たんです」ウージェーヌが言った。
「彼は命と同じくらいあれに愛着を持ってたものね」未亡人が応じた。
「あの男を見てご覧、何とまあ夢中になってることか。あの女は彼の心をくすぐることを良く心得てるよ」
学生は再び自分の部屋へ上がってしまった。ヴォートランも出かけた。しばらく後で、クチュール夫人とヴィクトリーヌはシルヴィが二人のために手配しに行っていた辻馬車に乗っていった。ポワレはミショノー嬢に腕を貸し、二人は揃って日ざしの良い二時間ばかり、植物園に散歩に出かけた。
「おやー! ほらあの人達夫婦気取りよ」でぶのシルヴィが言った。「あの人達連れ立って出るのは初めてだわ。あの人達って二人ともすっごくカサカサしてるでしょ、だから喧嘩になってごらんなさい、まるでライターのように直ぐに火がつきそうね」
「ミショノー嬢のショールに入っちゃって」ヴォーケ夫人が笑いながら言った。「彼ったら、まるで火口のように燃えそうね」
夕方四時に帰ってきたゴリオはぼんやりした二つのランプの明かりに照らされたヴィクトリーヌの姿を見た。彼女の目は赤くなっていた。ヴォーケ夫人は彼女が午後にタイユフェール氏を訪問したものの、空しく終わった顛末を聞いてやっていた。自分の娘と老婦人の訪問を嫌がっていながら、タイユフェールは彼女達が遂にやってくるまで放置していて、ただただ釈明する羽目に陥ってしまったのだった。
「ねえ奥さん」クチュール夫人がヴォーケ夫人に言った。「想像出来ます? 彼ったらヴィクトリーヌを坐らせてやることさえしなかったんですよ。彼女はずっと立ったままだったんです。私に対しては、別に腹を立てる様子もなく、とても冷静に、彼の家にまで足を運んだことをいたわってくれました。お嬢さんはと、彼は娘とは言わないの、彼を悩ましてばかりいると自分の心を傷つけるだけですよ、だって! 一年に一回きりなのに、なんて男でしょう! そして、ヴィクトリーヌの母は財産持たずに結婚したんだから、彼女は強く要求するようなことは何もないって言うの。結局、話は全く無益だったので、この娘は可哀想に涙を流すしかなかったの。この娘はそれでも父の足もとに身を投げ出して、思い切って言ったんです。自分は母と同じように主張するわけではないと、そして彼女は彼の意向には何も言わずに従いますと。しかし彼女はまた哀れな死んだ母の遺言をどうか読んで欲しいと彼に頼んで、彼女はその手紙を取り出して彼に渡したの。その時の彼女の言葉は世にも美しいものだったわ。私はこんな言葉を彼女はどこで見つけて持ってきたのか知りませんが、神様が彼女に告げたのかもしれません。何故って、可哀想な娘は霊感に満ちていましたので、私はそれを聞いていると、ひどく泣けてくるのでした。この恐ろしい男がやったことは何だと思いますか? 彼は爪を切ってました。そして哀れなタイユフェール夫人が涙で濡らしたその手紙を手に取ると暖炉の上に放り上げて言いました。『もうたくさん!』彼は彼の手を取って接吻しようとした娘から手を引っ込めて、彼女を再び立たせようとしました。これは余りに酷い行為ではありませんか? 彼の大柄な馬鹿息子が入ってきましたが、妹に挨拶もしません」
「そいつもまた酷いやつなのかね?」ゴリオ爺さんが言った。
「そしてそれから」クチュール夫人は人の好い老人の叫び声を無視して言った。「父親と息子は私に挨拶して緊急の用事があるので失礼したいと言って、立ち去ってしまったの。私達の訪問はこんなだったのよ。少なくとも、彼は自分の娘に会ったんだわ。私には彼がどうして彼女を否定することが出来るのか分からない。彼女は彼と瓜二つなんだもの」
寄食者達、それも居住者や非居住者が入れ替わり立ち代りやってくる。彼等はおはようの挨拶を交わしたりしながら、パリジャンのある階級の人々に特有のひょうきんさを醸し出す素となっている日常の些事などを心の中で思い浮かべたりしているのである。その基本的要素はある種の愚かしさであり、とりわけ身振りや発音による表現のおかしさが評価されるのである。この一種のスラングは絶え間なく変化してゆく。そこに含まれる冗談も、流行の主流にある期間は決して一ヶ月と持たない。政治的出来事、重罪裁判所における裁判、路上の歌、役者が演じる笑劇、これら全てが、この頭脳的遊戯を連綿と続けてゆくための材料となっていた。その遊戯とは、思想と言語を自在に操り、かつ、それらをラケットでもって軽やかに打ち合うことを意味しているのだ。最近発明されたジオラマは、パノラマより、もっと最高に素晴らしい光線による幻影を見せてくれるものだが、これは多くの画家のアトリエで、冗談で、何でもかでも『何々ラマ』と言ってしまう語呂合わせをはやらせた。メゾン・ヴォーケに若い画家の食客が一人いたおかげで、この何々ラマという流行語はここでも広まっていた。
「おやおや! ポワレさん」博物館員が言った。「サンテラマ(健康のための散歩)はいががでしたか?」と言っておきながら返事を待たず、「奥さん、ご心配なことですね」と彼はクチュール夫人とヴィクトリーヌに向かって言った。
「まだ夕食間に合いますか?」オラース・ビアンションが叫んだ。医学部の学生でラスチニャックの友人だった。「腹ペコで僕の胃はウスケ・アド・タロネス(かかとにまで縮んでしまった)」
「またまた妙にフルワトラマだぞ!」ヴォートランが言った。「またあんたか、ゴリオ爺さん! 何てやつだ! あんたの足が、ストーブの口を完全に塞いじまってるよ」
「ありゃあ! ヴォートランさん」ビアンションが言った。「どうして貴方はフルワトラマなんて言われるんですか? 一箇所間違ってます。フルワドラマ(寒いラマ)と言うべきです」
「いや、そうじゃない」博物館員が言った。「それは君のラテン語にならった規則には適ってる。フルワト・アド・タロネス(かかとまで寒い)だ」
「あー! あー!」
「ほら、ラスチニャック侯爵殿下がお見えだ。世渡り法博士」ビアンションはそう叫ぶと、ウージェーヌの首を抱えて窒息させかねないほど抱きしめた。「おーい、君はどちらにつくんだ、おーい!」
ミショノー嬢がそっと入ってきて、無言で会食者達に挨拶をすると、三人の婦人達の傍らに席を取った。
「彼女を見ると、僕はいつも震えちゃいますよ。あの蝙蝠婆々にはねえ」ビアンションがミショノー嬢を示しながら、声を落としてヴォートランに言った。「実は僕、骨相学者ガル[25]の提唱する学説を学んでいるんですが、僕は彼女にはユダを示す突起が見られると思います」
「先生はユダのことを良くご存知ですか?」ヴォートランが言った。
「ユダを知らない人っていないでしょう!」ビアンションが答えた。「誓って言いますけど、あのなま白いオールドミスを見ると、僕は簗一本をまるまる食い尽くす蛆虫を連想してしまうんです」
「それだよ、まさにこう言いたいところだろ、君のような若い者は」四十男は頬髭を撫ぜながら言った。
「そしてバラ、彼女はまさにバラ
つかの間の朝だけ咲いた」[26]
「おやおや! ほらあの名高いスーポラマ(残飯スープ)だ」ポワレは恭しくポタージュを持って入ってきたクリストフを見ながら言った。
「ちょっとごめんなさい、皆さん」ヴォーケ夫人が言った。「スーポシュ(キャベツスープ)が来ましたよ」
若者達は皆大笑いとなった。
「ポワレをやっつけろ!」
「ポワレレレレレットをやっちまえ!」
「ヴォーケ・ママに2点献上だ」ヴォートランが言った。
「今朝のすごい靄、こんなの見たことある人いますか?」博物館員が言った。
「あれはねえ」ビアンションが言った。「気違いじみていて見たこともないような靄、陰鬱で憂鬱で緑がかっていて息切れする、そうだゴリオ靄だったよ」
「ゴリオラマ」画家が言った。「だってさ、あれじゃあ何にも見えなかったものね」
「そうだ、ガオリオト卿、彼は視力に問題があったんだ」
人々が出入りする戸口の前のテーブルの端にうつむいて坐っていたゴリオ爺さんが頭を上げた。その時、彼は時々見せる商売人の古い癖を出して、ナプキン越しに、持っていたひとかけらのパンの匂いを嗅いでいたのだった。
「あらまあ!」ヴォーケ夫人が彼に向かって意地悪く叫んだ。その声は、匙や皿の音、更には人々の話し声を抑え込んで響いた。
「貴方、そのパンが気に入らないの?」
「反対ですよ、奥さん」彼が答えた。「このパンはエタンプの小麦粉で作ってます、最高級品です」
「一体、そこで何を見てるんですか?」ウージェーヌが尋ねた。
「白い色をさ、お気に入りの」
「鼻を使ってね、だって貴方は匂いを嗅いじまうんだから」ヴォーケ夫人が言った。「貴方ったら、とてもけちくさくなったので、とうとう台所の空気の匂いを嗅ぐだけで、食事を済ませる方法を考え出したんだわ」
「それじゃあ、発明品の特許を取りなさいよ」博物館員が叫んだ。「貴方は一財産作れますよ」
「まあ様子見ましょうよ。彼がそうしてるのは、彼が製麺業者だったということを我々に説得するためなんだから」絵描きが言った。
「貴方の鼻はコルヌイ(蒸気用レトルト)でもあるわけですな?」博物館員が更に尋ねた。
「コル何だって?」ビアンションが尋ねた。
「コル・ヌイ(角笛馬鹿)」
「コル・ヌミューズ(角笛ぶす)」
「コル・ナリン(紅色玉髄)」
「コル・ニシュ(軒蛇腹)」
「コル・ニション(間抜け)」
「コル・ボー(カラス)」
「コル・ナク(象使い)」
「コル・ノラマ」
この八つの返答が部屋のあちらこちらから矢継ぎ早に束になって返ってきて、いずれもが笑いを誘ったので、哀れなゴリオ爺さんが会食者達をぼんやりと見回した様子は、外国語を理解しようと懸命になっている人のように見えた。
「コル?」彼は自分の横にいたヴォートランに尋ねた。
「コル・オ・ピエ(魚の目)だよ、おっさん!」ヴォートランはそう言うとゴリオ爺さんの頭を帽子の上から軽く叩いて目深に被らせたので、帽子は爺さんの目の上にまで深々と下がってきた。
哀れな老人は、この突然の攻撃に戸惑って、しばらく動くことも出来ずじっとしていた。クリストフはこの人の好い老人が、、もうスープを終えたものと思って、その皿を運び去った。それでゴリオが帽子を被り直し、匙を持った時、彼はそれでテーブルを叩いてしまった。会食者一同がどっと笑った。
「貴方達は」老人が言った。「悪ふざけが過ぎますよ。そして、もし私に向かって、まだこのような嫌がらせを続けるようなら……」
「おやおや! 何だって言うんだね、父ちゃん?」ヴォートランが言葉を遮って言った。
「そりゃ! 決まってるだろ! あんただって、こんなことをすれば、いつかは酷い目に……」
「地獄行きですかね?」絵描きが言った。「この狭っ苦しく陰気な部屋では大人が子供に意地悪をしてるんだからなあ!」
「さあ、どうですかお嬢さん」ヴォートランがヴィクトリーヌに言った。「貴女はまだ食事をしていない。この父っつあんは、いい加減強情過ぎると思わんかね?」
「みっともない人だわ」クチュール夫人が言った。
「彼にはよく言ってきかせにゃならんな」ヴォートランが言った。
「だけど」ラスチニャックが言った。彼はビアンションの直ぐ隣にいた。「お嬢さんは食事の問題について訴訟を起こせるんじゃないですか。だって彼女は食事してないんですからね。ねえ、ねえ、見てよ、ゴリオ爺さんがヴィクトリーヌ嬢をまだじろじろ見てますよ」
老人は哀れな少女を見つめていて、食事をとるのを忘れていた。少女の顔立ちには本当の悲しみ、父親を愛しているのに、その父に認知されない子供の悲しみがはっきりと見てとれた。
「あのさ」ウージェーヌは声を落として言った。「僕達はゴリオ爺さんに関して、思い違いをしていたようだね。彼は馬鹿でもなければ無神経な男でもない。彼にガルの骨相学による判断を当てはめてみてくれないか? そして、君がそこで考えついたことを僕に教えてくれ。僕は昨晩、彼が金メッキの銀皿をまるで蝋で出来ているもののように捻じ曲げているのを見たんだ。そしてその時の彼の顔つきから、ただならぬ深い感情がほとばしり出るのを感じたんだ。彼という人間は知る価値もないものと無視してしまおうとしても、僕にとって余りにも不可思議に見えるんだ。そうだともビアンション、君はとてもおかしそうに笑っているけれど、僕は冗談言ってるんじゃないぜ。」
「あの男は医学的に興味があるよ」ビアンションが言った。「分かったよ、お望みなら、彼のことを詳しく分析してみよう」
「いや、彼の頭を触ってみて調べてくれ」
「あー! それじゃ、彼の痴呆は多分伝染性なんだ」
翌日、ラスチニャックは思い切り綺麗な服を着て、午後三時頃レストー夫人宅へ出かけた。道中で彼は時として若者達の人生を感動でかくも美しく輝かせるあの気違い染みた期待に軽率にも身をゆだねてうっとりとしていた。彼のような若者は障碍も危険も共に察知出来ず、唯々成功した時のことばかり目に浮かべ、ひたすら想像力の働きによって自分の存在を美化するのだが、彼らの気違い染みた欲望の中以外では、はなから実現などあり得ない計画の破綻によって、期待は不運にも裏切られたり、悲しい結末に終わったりするのがよくあるケースなのだ。彼等がウージェーヌほど無知でなくて、逆に内気だったら、社交界というものはもはや耐え難いものになってしまうものなのだ。
ウージェーヌは泥にまみれないように、万全の注意を払いながら歩を進めていたが、彼は歩きながら、レストー夫人に対して、彼が言うべきことをなおも考えていた。彼は機知を仕込み、想像の中の会話で発する素早い返答を編み出し、繊細な言葉や、老練な政治家タレイランが言いそうなせりふを準備した。そして彼の将来がそれにかかっているような宣言をやってのけ、それによって生じるささやかだが好ましい環境が生まれることを、彼は仮定していた。彼の長靴が泥にまみれた。それに気がついて、彼はやむなく長靴を磨き、パレロワイヤルでパンタロンにブラシをかけなければならなかった。
「もし僕が金持ちだったら」彼は運悪く掴んでしまった使い勝手の悪い三〇スー銀貨[27]を両替しながら思った。「僕だって馬車で行きたいよ、そしたら僕だって、ゆったりして色々考えられるのに」
彼はとうとうエルデ通に着いた。そしてレストー伯爵夫人の家を訪ねた。いつかは必ず勝者となることを確信している男の冷たい怒りを心に秘めながら、彼は人々の意地悪い視線を受け止めていた。彼等は彼が徒歩で庭を横切って来るのを見ていたし、戸口に馬車が近づいて来る音も聞いていなかった。ここの庭に足を踏み入れたとき痛感させられた自分への劣等感は今浴びせられる視線によって益々強烈に感じられた。ここでは豪奢で粋な二輪馬車につながれた美しい馬が前足で地面を蹴る姿が見られ、そこには遊蕩の存在の華麗さが誇示され、パリの女達の喜び溢れる習慣が仄めかされているのだった。彼は一人で勝手に機嫌を悪くしていた。彼の頭の中の引き出しが開き、彼はそこに一杯詰まった機知を見出せると当てにしていたが、それは勝手に閉じてしまったので、彼は馬鹿になってしまった。召使が訪問者の名前を伝えに伯爵夫人のところへ向かったが、彼女の返事を待ちながら、ウージェーヌは片足を支えにするようにして控えの間のガラス窓の前に立ち、肘をイスパニア錠の上にのせ、何を考えるでもなく庭の方を見ていた。彼には時間が長く感じられた。もし彼が南フランス人独特の粘り強さに恵まれていなければ、彼はさっさと何処かへ行ってしまったことだろう。彼の粘りは図に当たって奇跡を起こした。
「ムッシュー」召使が言った。「奥様は化粧室にいますが、とても忙しくて、私にも返事をくれませんでした。しかし、ムッシューが広間にお越しになるのでしたら、既に一人、来客がおられます。」
一言でもって、自分の主人を非難したり、裁いたりするこの男の恐ろしい能力に驚嘆しながら、ラスチニャックはこの召使がそこから出て行ったその扉を決然として開いた。それはこの傲慢な召使に彼がこの家の住人の知り合いであることを間違いなく知らしむるためだった。しかし彼は全く思いもかけず小さな部屋に出てしまった。そこにはランプが灯っていて、食器棚が並び、入浴用タオルを暖める機器が置いてあって、その部屋は薄暗い廊下と忍び階段に通じていた。彼は控えの間から聞こえてくる抑えたような笑い声を聞いているうちに心の混乱が頂点に達するのを感じた。
「ムッシュー、広間はこちらでございます」召使がこれ以上ないような嘲笑に似たうわべだけの恭しさで彼に告げた。
ウージェーヌは大急ぎで、そちらへ向きを変えたので浴槽にぶつかってしまった。しかし彼は非常に上手く帽子を掴んで、すんでのところで浴槽の中にそれを落とさずに済んだ。この時、小さなランプに照らされた長い廊下の奥にある戸が開いた。ラスチニャックは今度はレストー夫人の声とゴリオ爺さんの声、それにキスをする音を聞いた。彼は食堂へ戻り、そこを通り抜け、召使に続いて最初の広間に戻り、窓際に落ち着いた。その時、彼は窓から庭を見渡せることに気がついた。彼は今ここにいるゴリオ爺さんが、本当に彼の知っているゴリオ爺さんであるのか確かめたく思っていた。彼の心臓は異常なまでに高鳴り、彼はヴォートランが言っていた恐ろしい考察を思い起こしていた。召使は広間の戸口のところでウージェーヌを待っていたが、突然、優雅な身なりをした若い男が現れ苛々した様子で言った。
「私は帰るよ、モーリス。伯爵夫人には、私が半時間以上も彼女を待っていたと言ってくれ」
この傲慢な態度は間違いなく彼に許されているもののようで、彼はイタリアの円舞曲を口ずさみながら、ラスチニャックが佇んでいる窓際の方に向かって歩いてきた。彼は庭を眺める積りだったが、そこで学生風の人物に出会ったのだった。
「しかし伯爵様、もう少し待って頂けたらと思うのでございます。奥様は今、用事を済まされました」モーリスは控え室に戻ってきて、そう言った。
この時だった、小階段を降りて出てきたゴリオ爺さんが馬車の出入り口となる両開きの大門の前に突然現れた。爺さんは傘を取り出し、それを広げようとしていた。彼は気がつかなかったが、大門は一人の着飾った若者が二輪馬車に乗ってきたのを通すために開いていた。ゴリオ爺さんは轢かれてぺしゃんこにされそうだったが、辛うじて後ろへ飛び下がって難を免れた。傘の布地が馬を驚かして、馬は正面階段の方へ軽く避けながら突き進んだ。この若者は怒りを含んだ様子で目を脇に向けゴリオ爺さんを見ると、彼が出てゆく前に挨拶をした。その挨拶は、例えば人が必要に迫られたとき金貸しに対してするような、あるいは酷く欠陥のある男に対する尊敬を強く要求されてやるような、そうした強制された配慮といった印象の強い挨拶だった。このような挨拶は後で思い返すと、人はそれを恥ずかしく感じるものなのだ。ゴリオ爺さんは人の好さをいっぱいに表し、親しげな様子で軽く挨拶を返した。この出来事はまるで電光のような速さで通り抜けていった。その光景に気を取られて、自分一人だけでいるのではないことをすっかり忘れていたが、ウージェーヌは突然伯爵夫人の声を聞いた。
「あー! マクシム、貴方は行ってしまうのね」彼女が少し口惜しさの混じった非難がましい声音で言った。
伯爵夫人は二輪馬車が入ってきたことを気にも留めなかった。ラスチニャックが急いで振り向くと、白いカシミアの化粧着を色っぽくまとった伯爵夫人が見えた。結び目が薔薇色でしどけなく髪を結った様子はいかにも朝方のパリ女の姿だった。彼女は香気を漂わせ、彼女は間違いなくたった今入浴したはずで、彼女の美貌は明け透けに言ってしまえば、最も扇情的なものと思われた。彼女の目は濡れていた。我等の主人公の若者の目は全てを読み取る力を持っていた。ちょうど植木が適度の成分を含んだ空気を吸い込むように、この女性が発する光線を受けて彼の精神が彼女に向かって見事に焦点を絞っていた。ウージェーヌは彼女の腕にあえて触れてみるまでもなく、伸びやかなみずみずしさを感じた。彼はカシミアを通して彼女の薔薇色の胴体を見たが、それは軽く半開きになった化粧着が、時としてむき出しのまま放置しているので、彼の視線はおのずからそちらへ向けられるのだった。コルセットの類は伯爵夫人にとって役にも立たないし、帯は彼女の胴体の柔軟さを強調するだけだった。彼女の首は愛へと人を招き、彼女の足は上履きの中でとても綺麗だった。マクシムが彼女の腕を取ってキスしようとした時、ウージェーヌはやっとマクシムの存在に気がつき、伯爵夫人もウージェーヌに気がついた。
「あー! 貴方だったの、ラスチニャックさん、貴方に会うと何だか楽しいわ」機知に富んだ男には敏感に反応出来る様子で彼女が言った。
マクシムは闖入者を早く立ち退かせたい気持ちを露骨に表しながら、ウージェーヌと伯爵夫人を交互に見やった。『さあさあ! ねえ、この小生意気なやつを戸口まで送って行きたいんだけど、いいんだろ!』このセリフは伯爵夫人アナスタジーがマクシムと呼んだその若い男が無礼にも投げつけた高慢そのもののあからさまで分かりやすい眼差しを翻訳したものである。そして彼女は全く疑うことなく従順な気持ちで女の全ての秘密をこの男に話し、この男の顔色をうかがっているのである。ラスチニャックは烈しい憎しみをこの若い男に対して抱いた。第一にマクシムの美しい金髪と綺麗なカールは彼自身の髪が実にみっともないことを彼に自覚させた。更にマクシムの長靴は精妙かつ清潔だったが、逆に彼のものはといえば、歩く時は気をつけているのだが、いつの間にか薄い泥の痕が付いているのだった。とどめはマクシムが着ていたフロックコートが彼の体に優美に合っていて彼を美しい婦人に相応しい男にしていたのに対してウージェーヌは昼の二時半だというのに黒い夜会服を着込んでいた。このシャラント県出身の機知に富んだ少年は、美神がこのすらりとした長身で明るい瞳を持ち青白い顔色の美男子に優位性を与えるであろうことを察知した。この男は哀れな孤児を破滅に追い込むことだって出来る、そういう人間だった。ウージェーヌの返事を待たずに、レストー夫人はまるで羽ばたきするようにして別の部屋に立ち去ってしまった。彼女の化粧着の裾が閉じたり開いたりして空中にたなびくその様は彼女が蝶になったような印象を与えた。そして、マクシムが彼女についていった。ウージェーヌは怒り狂って、マクシムと伯爵夫人を追った。この三人の人間は大広間の真ん中の暖炉のところで、また向かい合って立っていた。学生は自分がこの不愉快なマクシムの邪魔をしてやろうとしていることを良く心得ていた。しかし、レストー夫人の機嫌を損ねるのではという危険を冒してでも、この二枚目を困らしてやりたいと思った。突然この美男子をボーセアン夫人の舞踏会で見たことを思い出した時、彼はマクシムとレストー夫人の関係を見抜いてしまった。そしてとんでもない愚行をやらせてしまうか、あるいは大成功を収めさせてしまうかする、あの若者特有の大胆さをもって、彼はつぶやくのだった。
「こいつは俺のライバルだ。俺はこいつに勝ちたい。この女たらしめ!」
彼はマクシム・ド・トライユ伯爵が調子に乗った相手に侮辱されるに任せておいて決闘になると最初の一発でこの男を仕留めたことがあるのを知らなかった。ウージェーヌは器用な狩人ではあったが、射的で二二体中二〇体の人形を射抜いたことは一度もなかった。若い伯爵は暖炉の隅にあるソファーにどっかと坐ると、火箸を手にとって暖炉の火を起こしにかかった。しかしその動きが激しくて不細工だったので、アナスタジーの美しい顔にたちまち困惑の色が広がった。若夫人はウージェーヌの方を向くと、冷たく問い質すような視線を投げかけた。それはまるでこう言いたげだったのだ。『どうして貴方は立ち去らないでいるの? 立派な教育を受けた人なら、直ぐにきっかけを見つけて、お暇の言葉を言ってくれるものなのよ』
ウージェーヌは心地良げな様子で言った。「奥様、私は早く貴方に会いたくて……」彼はそれだけで言うのをやめた。扉が一つ開いた。二輪馬車で乗りつけた男が突然姿を現した。彼は帽子を被ってなくて、伯爵夫人には挨拶をしないで、ウージェーヌの方を気遣わしげに見た後、マクシムに手を差し出して言った。「こんにちは」それが親密さを感じさせる調子で言われたので、ウージェーヌは酷く驚かされた。田舎から出てきた若者は、社交界の人々にとって三角関係がいかに甘美なものであるかを知らない。
「夫のド・レストーです」伯爵夫人は学生に夫を紹介して言った。
ウージェーヌは深々と頭を下げた。
「この方は」彼女は続けて、ウージェーヌをレストー伯爵に示しながら言った。「ボーセアン子爵夫人とは、マルシャックの家系の親戚筋に当たられます。そして、この前、彼女が催した舞踏会で、私は彼に出会って楽しませて頂きましたわ」
マルシャックの家系でボーセアン子爵夫人の親戚! この言葉、それは伯爵夫人が誇張して発したとさえ言えるのだが、邸を取り仕切る女主人としては、自分のもとに選りすぐりの人間しか入れないということを証明してみせたいというある種の自尊心に導かれたものであったが、魔術的な効果をもたらし、伯爵は冷淡で儀式ばった態度を改め、学生に向かって挨拶をしてくれた。
「初めまして」彼が言った。「貴方にお会い出来て嬉しいです」
マクシム・ド・トライユ伯爵はと言えば、ウージェーヌに不審げな目を向けていたが、急に傲慢な態度を取り下げた。この魔法の杖、名前が持つ絶大な効果のおかげで、南仏人の脳の中の三十もの金庫の蓋が開き、彼はあらかじめ準備していた機知を取り戻した。突然射した明かりが、彼にとってどんよりと曇っていたパリの上流社会の空気の中で彼にはっきりと行く手を示してくれた。メゾン・ヴォーケ、ゴリオ爺さんは今や彼の思考から遠く離れた存在だった。
「私はマルシャックの家系は廃絶されたのかと思ってたんですが、違ってましたか?」レストー伯爵がウージェーヌに言った。
「はい、伯爵」彼は答えた。「私の大叔父、シュヴァリエ・ド・ラスチニャックはマルシャック家の跡取り娘と結婚したんです。彼にはたった一人だけ娘が生まれました。彼女はクラランボール元帥と結婚しました。その元帥がボーセアン夫人の母方の祖父なのです。我々は末子の家系です。私の大叔父、海軍少将でしたが、王家のための軍役で全てを失ってしまったので、我々の家系は益々貧しくなってしまいました。革命政府はインド会社を清算しながら、我々の債権を認めようとしなかったんです」
「貴方の大叔父様はもしや一七八九年以前にル・ヴァンジェール号の指揮をされてましたか?」
「その通りです」
「それなら、彼は私の祖父をご存知のはずです。祖父はル・ワルウィック号の指揮を執っていました。」
マクシムはレストー夫人の方を見ながら軽く肩を上げ、彼女にこんな風に言いたげだった。『ねえ、彼等があっちで海軍の話に盛り上がるんだったら、我々は消えようぜ』アナスタジーはド・トライユ氏の目配せを読み取った。女性特有のこの驚くべき能力をもって、彼女は微笑の中に言葉を込めて答えた。『いらっしゃい、マクシム。私、貴方にお願いしたいことがありますのよ。こちらのお二人様、どうぞご自由にル・ワルウィックやル・ヴァンジェールの両方で航海を楽しんで下さいな』彼女は立ち上がると、あちらの二人の会話を冷笑する気持ちを込めた合図をマクシムに送り、彼は彼女と共に閨房へ向かった。モノグラナティックという綺麗なドイツ語に厳密に対応するフランス語はないが、敢えて言えば、不義の関係にあるこのカップルが戸口近くまで行った時、伯爵はウージェーヌとの会話を中断した。
「アナスタジー! まあ、ちょっと待ちなさい」彼は冗談っぽい調子で叫んだ。「貴女も知ってるように……」
「私、戻ってきます、戻ってきます」彼女は彼を遮って言った。「ほんの少しの間でいいんです。マクシムに頼むことは直ぐに済みます!」
彼女は直ぐに戻ってきた。自分の空想の世界に遊ぶことが出来るように、夫の性格を観察するように強いられた妻が全てそうであるように、大事な夫の信頼を失うことのないようにするには、自分はどこまで進んでゆけるのかを見定めるすべを彼女は知っていた。そうした妻達はまた人生におけるつまらない事で夫を刺激するようなことも決してやらない。伯爵夫人は夫の声の調子の変化に気づき、閨房に留まることには何の安全もないことを知ったのだった。この思いがけない不都合はウージェーヌのせいだった。伯爵夫人もまた悔しさをいっぱいににじませ、素振りで学生の方をマクシムに示すのだった。マクシムは思いっきり皮肉をこめて伯爵、その夫人、そしてウージェーヌに向かって言った。「すいません、皆さんお忙しそうなので、私はお邪魔したくありません。失礼します」彼は立ち去った。
「もっと居ろよ、マクシム!」伯爵が叫んだ。
「夕食一緒にしましょう」伯爵夫人はまたもウージェーヌと伯爵を放りっぱなしにして、マクシムを追って大広間に入って行った。そこで二人は暫く一緒に留まっていた。彼等は伯爵がウージェーヌを追っ払ってくれるのを期待していたのだ。ラスチニャックには彼等が突然笑い出したり、話したり、また黙り込んだりするのが代わる代わる聞こえてきた。しかし、茶目っ気のある学生はありったけの機知をレストー氏に対して使って、彼を持ち上げたり、色々な話題に彼を乗せようと試みたりした。それもこれも伯爵夫人にもう一度会いたい、そして彼等とゴリオ爺さんとの関係がどうなっているのかを知りたい一心からだった。この女、明々白々たるマクシムの愛人、この女、夫の正妻でありながら、密かに老製麺業者と繋がりを持っている。彼にとって、この女は謎だらけに見えるのだった。彼はこの秘密を見破り、同時にパリジェンヌの中の最高の華であるこの女性をまるで王のごとく支配出来ないものかという野望に燃えるのだった。
「アナスタジー」伯爵は改めて妻の名を呼んだ。
「行きましょ、私のマクシム」彼女は若者に言った。「仕様がないわ。今晩また……」
「君にお願いしたいんだが、ナジー」彼は彼女の耳に囁いた。「君はあの可愛い若者には来させないようにしてくれないか? 彼の目は君のガウンが半開きになった時、まるで炭火のように燃え上がっていたぜ。彼は君に愛を告白することになる、そして君の名を汚すことになる、そして君は、僕に彼を殺してくれと頼むことになるんだ」
「貴方って頭がおかしいんじゃない、マクシム?」彼女が言った。「あの手の純真な学生って、逆に彼等はちょうどいい避雷針になるんじゃない? 私きっとレストーにあの子に対する嫌悪感を植えつけてやるわ」
マクシムは大笑いして、伯爵夫人に送られて出て行った。夫人は窓際に立って、彼が馬車に乗るのを眺めた。馬に前足で地面を蹴らせると、彼は鞭を振るった。彼女は大門の扉が閉まるまで戻ってこなかった。
「ねえアナスタジー、想像出来るかね」彼女が戻ってくると伯爵が叫んだ。「彼氏の家族が住み着いてる土地は同じシャラント県の中で六キロと離れてないんだよ、彼氏の大叔父と私の祖父はお互い良く知ってるよ」
「同郷人だと知って嬉しいわ」伯爵夫人はうわの空で答えた。
「貴女が思いも及ばないようなことが、まだあるんですよ」低い声でウージェーヌが言った。
「何ですって?」彼女はびっくりして言った。
「と言いますのは」学生は答えて言った。「僕はたった今、あなたの屋敷からある人が出てゆくのを見たんですが、彼とは同じ下宿で隣り合った部屋に住んでるんですよ、ゴリオ爺さんとはね」
爺さんという言葉をつけられたこの名前に、火を掻き立てようと、火箸を炉に突っ込んでいた伯爵は、まるで手にやけどでもしたように急に立ち上がった。
「貴方ね、ゴリオ氏と言えんものかね!」彼が叫んだ。
伯爵夫人は夫のかんしゃく玉が破裂するのを見て、さっと顔が青褪めた、そして次に顔を赤らめ、明らかに困惑の色を浮かべた。彼女は平常心を取り戻そうとするような声音で、うわべは屈託無げな様子で答えた。「私達が誰よりも愛している人ですわ……」彼女は言葉を止め、彼女のピアノを見つめた。彼女の中の何かの空想から目覚めたように彼女が言った。「貴方、音楽はお好きですか?」
「大好きです」ウージェーヌは答えたものの赤くなり、何かとても酷く愚かなことを仕出かしてしまったという思いにうろたえて、どうしてよいのか分からなくなった。
「お歌いになります?」そう叫んで彼女はピアノに向かい、低いC音から高いF音まで、巧みな指使いで実に活き々々とした様子で弾き始めた。「ララララ!」
「いえ、奥様」
レストー伯爵はそのあたりを行ったり来たりしていた。
「貴方は歌えればきっともてるのに、残念だわ。カーロ、カーロ、カーアーロー、ノン・ドゥビターレ」[28]伯爵夫人が歌った。
ゴリオ爺さんの名前を口にしたことで、ウージェーヌは魔法の杖を一振りしたことになるのだが、その効果は彼女が先に口にした言葉、すなわちボーセアン夫人の親戚だというあの言葉がもたらした効果とは全く逆のものとなってしまった。彼は好意で骨董愛好家の家に招かれ、そこで不注意に彫像がいっぱい置かれていた棚に手を触れてしまい、くっつきの悪い彫像三、四個の頭を落としてしまったのと、まるで同じような立場に置かれている自分に気がついた。彼はいっそ穴があったら入りたいような気持ちだった。レストー夫人の表情は乾き切って冷淡で、彼女の目はあいにくな学生の目を無関心を装うように避けていた。
「奥様」彼は言った。「どうかレストー様とお話ください。そして私の心からの敬意をお受けください。そして私をお許しください……」
「貴方が来てくださるのなら、いつだって」伯爵夫人はウージェーヌを止める仕草をして大急ぎで言った。「貴方はきっと私達、私は勿論レストー伯爵にとっても何だかこれまでなかったような楽しみを与えてくれそうだわ」
ウージェーヌは夫妻に対して深々とお辞儀をし、レストー氏に付き添われて部屋を出た。レストー氏はラスチニャックが遠慮するのに構わず、控えの間まで彼を送ってきた。
「やつがまたやって来たら、今後はいつも、奥様も私も、私達はいないと言うんだ」
伯爵が召使のモーリスに言った。
ウージェーヌが玄関の階段を降りようとした時、彼は雨が降っているのに気がついた。
「そーら」彼は思った。「へまやっちまったな、でもって、その原因も結果も未だに解らねえ、おまけに服も帽子も台無しだ。俺は当分、隅っこにじっとしていて、何をすべきかを見つけ出さなきゃなんない。超有名な裁判官にどうすりゃなれるかだけを考えときゃいいんだ。それが上手くゆけば、俺は社交界にデヴューだ。でもって、そこで上手く立ち回るには幌付二輪馬車が何台か要るし、磨き上げた長靴も要る。まだまだ欠かせない道具がある。金の必要も次々に起こってくるし、六フランで買ったスエードの手袋も、朝は真っ白でも、夜会の頃にはいつも黄色に汚れていたりしてるんだろな、たまんねえ! ヒヒ爺のゴリオ爺さんか、くそっ!」
彼が大通りの門の下に着いた時、つい今しがた、新婚夫婦を降ろしたばかりの貸し馬車の御者がいた。彼は次の客の指示を主人に訊くよりも、こっそりと闇取引の客を乗せてしまおうと企んでいた。御者は、雨傘もなく黒い服に白いチョッキ、黄色い手袋に泥まみれの長靴といういでたちのウージェーヌを見て、合図を送ってきた。ウージェーヌはここまでの怒りに支配されて、人に耳を貸さない状態になっていた。それはしばしば若者に、偶然ぶつかった深淵をまるで探し求めていた幸運を見出したかのように見誤らせて、その中に益々深くはまり込ませるという心理状態だった。彼は御者の誘いにうなづいて同意した。ポケットの中に二十二スーしかないのに彼は馬車に乗り込んだ。そこにはオレンジの花のかけらと帽子飾りの薄片が散らばっていて、新婚カップルが乗っていた名残をうかがわせていた。
「旦那、どちらへやりましょう?」御者が尋ねてきたが、彼の手袋は既に白いとは言えない状態だった。「勿論、自分で撒いた種なんだから、少なくとも何らかの影響が俺に及んでくるだろう!」ウージェーヌはまだ一人で考えていた。
「ボーセアンの邸へ行ってください」彼は高い声で御者に言った。
「どちらのボーセアンですか?」御者が尋ねた。この絶妙の言葉がウージェーヌを戸惑わせた。この見慣れないきざな男はボーセアンの邸が二ヶ所あることを知らなかったし、むこうでも彼の存在を知らない親類がパリにまだどれくらいいるのかも知らなかった。
「ボーセアン子爵、通りは……」
「ド・グルネル」御者は頭で頷き彼の言葉を遮って言った。「ところがですね、まだ他にもボーセアン伯爵と侯爵の邸があるんですよ。サン・ドミニック通」彼はステップを引き上げながら付け加えて言った。
「僕は知ってますよ」ウージェーヌは憮然として答えた。「今日もまた皆が俺を馬鹿にしやがる!」彼は前の座席に帽子を投げ捨てながら思った。「またまた恥さらしをしては、王様の身代金を払って脱出となるんだろうな。しかし少なくとも、俺は俺のいわゆる従姉のところに、ちゃんとした貴族らしい様子で訪問してやるんだ。ゴリオ爺さんはもう少なくとも一〇フランは俺に使わせやがった。忌々しい爺いめ! そうだ、俺は俺の冒険をボーセアン夫人に話してやろう、多分彼女を笑わせられるだろう。彼女なら、この尻尾のない老いぼれ鼠とあの美しい夫人との罪深い関係の秘密もきっと知っているだろう。あの背徳的で俺にとってはひどく高くつきそうな人妻にぶつかってゆくよりも、従姉に気に入ってもらう方がよさそうだな。あの美しい子爵夫人の名前が、かくも強い影響力を持っているんだから、彼女自身はまだもっと力を揮えるに違いない。そうだ、彼女の助けを借りて俺は高みを目指してやろう。誰だって、天空で何かを獲得しようと思ったら、当然、神のお助けを願うしかないよな!」
こうした言葉は無数の雑多な考えにもまれて漂ったあげく、ようやく彼が短くまとめた感想だった。彼は降る雨を見ているうちに、いくらか落ち着きと自信を取り戻した。彼は思った。もしまだ残っている大事な百スー貨幣二枚を使ってもいいのなら、彼は喜んでそれで、服、長靴、それに帽子を買い揃えるだろう。彼は御者が「門を開けてください!」と叫ぶのを聞いた時は、何故かこみ上げてくる嬉しさを抑えられなかった。赤に金モールの服の守衛が邸の門の蝶番に向かってぎしぎしと音を立て、それから彼の乗った馬車がポーチの下を通り、庭の方に曲がって、階段の庇の下で停止したのを見ると、ラスチニャックは何か快い満足感を覚えるのだった。赤い刺繍を施された青い幅広外套を着た御者は馬車のステップを降ろした。馬車から降りる時、ウージェーヌは忍び笑いを聞いたが、それは柱廊の下に消えていった。三、四人の召使が早くも俗悪な結婚に使われたこの馬車について冗談を言っていた。その笑い声を聞いた瞬間、学生は自分が乗ってきた馬車とパリでも最高に優美な一台の二輪馬車を引き比べていた。二輪馬車は薔薇の耳飾をしてしっかりとはみを噛んで今にも飛び跳ねそうな二頭の馬にひかれていて、御者も白粉を塗り綺麗なネクタイを締め、まるで馬が逃げ出そうとするのを止めるかのように手綱を握り締めていた。新興ブルジョワ階級地域のショセ・ダンタンではレストー夫人は庭内に二十六歳の青年の美麗な二輪馬車を置いていた。伝統的貴族階級地域のフォーブール・サン・ジェルマンでは大貴族の華やかさが彼を迎えてくれた。そこに停まっている馬車の装備一式は三万フランでも買えるかどうかといったしろものだった。
「あの馬車の持ち主は誰なんだろう?」ウージェーヌはつぶやいた。彼は遅まきながら、一人前の女性で誰とも付き合っていない女とパリで出会うことは極めて難しいことを知った。そして、血縁以外で、この手の女王様を征服することは実に価値の高いものであることも知った。「そうだ! 俺の従姉だって、間違いなくマクシムのような愛人を持っているはずだ」
彼は真実を悟りぶちのめされた心持で玄関の階段を上った。彼の様子を見ていたのか、ガラス戸が開けられた。彼はそこで櫛を入れてもらったロバのようにきちんとした様子の召使がいるのに出会った。彼が出席したあのパーティはボーセアン邸の一階を占める広い接客用のアパルトマンで催されたのだった。招待を受けてから舞踏会まで間がなかったので、彼は従姉を訪問しておくことが出来ず、彼は未だボーセアン夫人のアパルトマンの奥深くまで立ち入ったことがなかった。それ故に彼は卓越した夫人が、その魂と品性によっておのずから醸し出す極上の優美さを一度はこの目で見ておこうとやってきたのだった。レルトー夫人のサロンが彼に比較する材料を提供していたので、彼の探究心は一段と好奇心を高めていた。四時半には子爵夫人が姿を現した。もう五分早ければ、彼女は自分の従弟の来訪を断っていただろう。ウージェーヌ、そう、彼はパリジェンヌの様々なエチケットを全然知らなかったのだ。ともかくも彼は花でいっぱいの白っぽい色調の大きな階段に導かれ金色の欄干、真紅の絨毯を目にしながらボーセアン夫人の前に辿りついた。がしかし、彼は口伝の伝説、パリのサロンで毎晩のように人々の耳から耳へ語り伝えられるあの移り気な話題の数々を全く知らなかった。子爵夫人はこの三年来、最も高名で最も金持ちのポルトガル人の貴族ダジュダ・ピント侯爵と付き合っていた。それはある種の害のない男女関係で、こうした結びつきをしている二人には大いに魅力があるだけに、彼らには第三者の存在が耐えられないのだ。そしてまたボーセアン子爵自身が、好むと好まざるとに関わらず、こうした身分違いの男女の結びつきに対しても尊重する姿勢を、世間に対する模範として見せていた。彼等の友情が始まった最初の頃、子爵夫人のところへ二時に会うために来た人達は、ダジュダ・ピント侯爵がそこにいるのを見かけることが多かった。ボーセアン夫人は部屋のドアを閉めるわけにもゆかず、それがどうにも不便なことだったので、来た人達をいともよそよそしく通した後は、部屋の蛇腹を一生懸命に見つめるばかりだったので、誰もが自分が彼女にどんなに気詰まりな思いをさせているのかを悟るのだった。パリでボーセアン夫人を二時から四時の間に訪問することは彼女には迷惑だということが知れ渡ると、彼女は完璧な孤独の中にいる自分を発見した。彼女はド・ボーセアン氏やダジュダ・ピント氏と一緒にブフォンあるいはオペラ座へ行った。しかし、ド・ボーセアン氏は心得たもので、潔くいつもポルトガル人を置いて何処かへ行ってしまい、その後二人はそこで落ち着いて過ごせるのだった。ところが、ダジュダ氏は近く結婚することになっていた。彼はロシュフィード家の令嬢と結婚する積りだった。上流社交界にあって、この結婚話をまだ知らない唯一の人物、その人物こそ実はボーセアン夫人だったのだ。彼女の友人のうちの誰かが、このことについて巧みに仄めかしたことはあった。彼女はそれを笑い飛ばした。その友人が彼女の幸せを妬んで、困らせてやろうとしたものだと彼女は考えたのだ。しかしながら、結婚は間もなく公示されることになっていた。ダジュダ氏はこの結婚のことを子爵夫人に知らせるためにやってくるのだが、この気立ての好いポルトガル人は未だに裏切りの言葉を敢えて口にすることが出来ずにいた。何故か? 疑いもなく、ひとかどの婦人に対して、この種の最後通牒を告げるほど難しいことはないのだ。ある種の男は戦場で心臓めがけて刃を突きつけてくるような男と相対している方が、二時間も泣き言を言ったあげく黙り込んで、なおかつ、お望み通りの言葉を待っているような女と対しているより、まだずっと気楽に思えるものなのだ。この時に到ってもまだ、ダジュダ・ピント氏は針の筵の上にいて、何とかしてここから脱け出したいと思っていた。そしてボーセアン夫人は、このニュースをやがて知るだろうと考えていた。彼は彼女に手紙を書き、直に言うより、より易しい方法、つまり文通でもって色恋沙汰のかたをつける積りでいた。子爵の召使がウージェーヌ・ド・ラスチニャック氏の名前を告げた時、それを聞いたダジュダ・ピント侯爵は、嬉しさにぞくぞくしてしまった。ご理解願いたいのは、恋する女は、新しい楽しみを見つけるよりも、往々にしてもっと遥かに賢く疑惑を抱くことに巧みなのだ。だから、彼女がまさに捨てられようという瞬間に立ち至って、彼女は、あのウェルギリウスの使者が、遠くからの風の中に愛を嗅ぎつけた[29]よりも、もっと素早く、侯爵の仕草の中に真意を見抜いたのだった。更にボーセアン夫人は、侯爵の身震いを微かなものだが、心底から恐ろしいものと感じたのだった。ウージェーヌは、誰の家であれ、パリでは決してうかつに人の家に立ち入ってはいけないということを知らなかった。へまなことをして恥をかかないためには、まず、その家の友人のような人から、家の主人の経歴、あるいは妻や子供達のことなども聞き知っておかねばならない。ポーランドでは『あなたの荷車には五頭の牡牛を繋いで引かせなさい』という諺があるそうだが、さしずめ、五人の友人から話を聞いておけば、他人の家のぬかるみに足を取られないですみそうではないか。もしも、このような不運についてフランスではまだ特に範例としてすら挙げられていないとすれば、それは、誹謗中傷が常に圧倒的に流布されるわが国の現状では、それを抑えることは全然無理な話だと我々が思ってしまっているからであろう。ウージェーヌが車に五頭の牛を繋ぐだけの時間すら与えなかったレストー夫人のところで泥沼にはまってしまった後、彼はボーセアン夫人のもとへ立ち寄って、牛飼いの仕事をやり直すしか、どうにも仕様がないのだった。とはいえ、彼はレストー夫人とド・トライユ氏をひどく苛立たせたものだが、ダジュダ氏を窮地から救い出してやったのだった。
「さようなら」このポルトガル人は急いでドアの方へ向かっていたが、ウージェーヌが瀟洒な小さな部屋へ入ってくるのを待っていたかのようだった。そこはグレーとローズ色の控え目な印象だけで豪奢そのものに見える部屋だった。
「だけど今夜は」ボーセアン夫人は振り向いて、侯爵に視線を投げかけながら言った。
「私達、ブフォンには行かないの?」
「私は行けそうもない」彼はドアの把手を掴みながら言った。
ボーセアン夫人は立ち上がり、彼に傍に来るように呼び戻したが、ウージェーヌのことは気にも留めなかった。ウージェーヌはアラビアのおとぎ話を現実に見ているような、目を見張る富裕の輝きの前に立ちすくみ呆然としていたが、この貴婦人に気づかれもしないで、その面前にいる自分を身の置き場もないように辛く感じるのだった。子爵夫人は右手の人差し指を上げて、可愛い仕草で自分の前の場所を侯爵に指し示した。この様子には情熱がもたらす暴虐的力がこもっていたので、侯爵はドアの把手を放して戻ってきた。ウージェーヌは彼を見て羨望の念を抱かずにはいられなかった。
「ほら」彼は思った。「二人乗りの馬車の男だ! だがパリの女から、見つめられるには、やっぱり前足を蹴上げる様な馬、従僕、そして沢山の金が要るんだろうか?」贅沢の悪魔が彼を蝕んだ。勝ちたいという熱気が彼を捉え、金への渇望の余り彼の喉はからからに渇いた。彼は学期の支払い分の一三〇フランを持っていた。彼の父、彼の母、彼の兄弟、彼の姉妹、彼の叔母、彼等全部の分を合わせても、月に二〇〇フランも使っていなかった。彼の現在の状況とこれからどうしても辿りつかなければならない目標との間の懸隔の激しさに彼は呆然としてしまった。
「どうして」子爵夫人が笑いながら言った。「貴方はイタリア座へ行くことが出来ないのかしら?」
「仕事ですよ! 私はイギリス大使館で夕食することになってるんです」
「貴方、それは断りなさいよ」
男というやつは嘘をつき始めると、もうどうしようもなく嘘の上にまた嘘を積み重ねていかざるを得なくなるものなのだ。ダジュダ氏もまた笑いながらこう言った。「貴方の命令ですか?」
「そう、その通りよ」
「そりゃまあ、私だってご命令には従いたいですよ」彼は大抵の女なら安心させてしまったであろう綺麗な流し目を送りながら答えた。彼は子爵夫人の手を取ると、それにキスをして出て行った。
ウージェーヌは手で髪をかきあげ挨拶するために身をよじらせた。ボーセアン夫人が自分に気がついてくれるものと思ったのだ。突然、彼女は駆け出し廊下に飛び出し窓のところへ飛んでいった。そしてダジュダ氏が馬車に乗り込むのを見ていた。彼女は彼の命令する声に耳を澄ませた。そして従僕が御者に命令を繰り返すのを聞いた。ド・ロシュフィード家へと言うのを。この言葉とダジュダが馬車に飛び乗る様子はこの女性にとって閃光と落雷だった。彼女は致命的結果への不安に再び苦しめられていた。上流社会においてはこれ以上に恐ろしい惨事はない。子爵夫人は彼女の寝室へ戻ってくると、机に向かい綺麗な便箋を手に取った。
〈その時〉彼女は書き始めた。〈つまり貴方がロシュフィード家で夕食をとり、イギリス大使館には行かなかったその時から、貴方は私に理由を説明する義務が出来たのです。私は貴方を待っています〉
彼女の手が痙攣的に震えたためゆがんだ幾つかの文字を修正した後、彼女はCの一文字を記して、娘時代のクレール・ド・ブルゴーニュの署名と知らしむる積りだった。それから呼び鈴を鳴らした。
「ジャック」彼女は直ちにやってきた召使に言った。「貴方は七時半にド・ロシュフィードさんのお宅に行きなさい。貴方はそこでダジュダ侯爵がいるかと尋ねるのよ。もし侯爵様がおられたら、この手紙を彼に届けるように言って、ただし返事は要らないわ。彼がいないようだったら戻ってきなさい、そして私の手紙は持って帰ってきてちょうだい」
「子爵夫人には、お部屋にどなたかが来られてます」
「ああ! 本当ね」彼女はドアを押しながら言った。
ウージェーヌはとても居心地悪く感じ始めていた。彼はやっと子爵夫人に話しかけられたが、それは彼の心の琴線に触れ、彼の感動を誘う響きを持っていた。「ごめんなさい、貴方、私ちょっと手紙を書いてたものだから。でも、もう貴方のお相手をするわよ」彼女は自分が何を言っているのか分かっていなかった。つまり、彼女が考えていたのはこんなことだった。『あー! 彼ったら、ド・ロシュフィード嬢と結婚したいんだわ。だけど彼ってそんなに好きに出来るの? 今夜にでもその結婚話は壊れるんじゃないかしら、それとも私……だけど明日になれば、そんなこと問題にもなってないでしょうよ』
「ねえさん」ウージェーヌが答えた。
「えっ?」子爵夫人はそう言うと彼の方を見たが、視線にこもった無礼さが学生の心をくじいた。
ウージェーヌはこの「えっ?」を理解した。今日の午後三時から彼は多くの事を学んできた。だから彼は警戒してかかっていた。
「奥様」彼は顔を赤らめながら言った。彼はためらった、しかし続けて言った。「お許しください。私は沢山の庇護を必要としています。こんな遠縁なのに親切にして頂いて、尚更嬉しく思っております」
ボーセアン夫人は微笑したが、寂しさは隠せなかった。彼女は自分の周辺に迫っている不幸を既に察していた。
「もし貴女が、私の家族が現在置かれている状況を知って下さったなら」彼は続けて言った。「貴女も恐らく、その名づけ子達の周りにあった邪魔物を吹き払ってやったというあの伝説の妖精の役割を、喜んで引き受けて下さるでしょう」
「あ、そうねえ、坊や」彼女が笑いながら言った。「どうして私が、そんなに貴方の役に立てるの?」
「いや私に分かることでしょうか? 貴女は今では陰に隠れて見えなくなっているものの、かつては本当に財宝のような価値のある絆によって結ばれた親戚筋に当たられる方です。私は貴女に何か言いたくて来たのに、いざ貴女にお目にかかると、それを忘れてしまいました。貴女はパリで唯一私の知り合いと言える人です。あー! 私は貴女に相談に乗ってもらいたいのです。どうか私を、貴女のスカートにすがりつきたいと願い、貴女のためなら死んでもいいと思っている哀れな子供と思って、受け入れてやってください」
「貴方、私のためだったら人一人殺せる?」
「それが二人いたって殺してみせます」
「子供ねー! そうだわ、貴方って子供なんだわ」そう言うと彼女はこみ上げてくる涙を堪えた。「貴方だったら心から愛してくれるでしょうね、貴方なら!」
「おー!」彼はうなづきながら叫んでいた。
子爵夫人はこの学生の野心的な返答振りに強く惹かれていた。この南仏出の学生は彼が最初の目標としたところには達していた。ド・レストー夫人の青色の閨房、そしてド・ボーセアン夫人の薔薇色の広間を行き来するうちに、彼はパリジャン法の三年分を一気に学んでしまった。それは口に出して言われるわけではないが、広く理解され実施されている高度の法解釈、そしてそれはあらゆる場面で通用するものなのだが、彼はしっかりと心の中に打ち立てた。
「あー! 分かります」ウージェーヌが言った。「私は貴女主催の舞踏会でド・レストー夫人に魅了されました。私は今朝、彼女の家を訪ねてきたのです」
「貴方が押しかけて行って、彼女結構困ってたでしょ」ボーセアン夫人は微笑みながら言った。
「えーと! そうですね、私は間抜けなもんだから、貴女が助けてくださらないと、皆から嫌われるようなことばかりやってしまうでしょうね。私は思うんですが、パリで若い御婦人で綺麗で金持ちで上品で、それでもって決まった相手がいないなんて人に出会うのって、ほんとに難しいですね。だけど私にはそういう人が一人いて、世の中のことを教えてくれることが必要なんです。貴女はそういう人なんです。人生のこととか何でも教えてくれることが出来る人なんです。私は至る所でド・トライユ氏のような人にぶつかるでしょう。そうすると私はまた謎めいた出来事の意味を貴女に尋ねに来て、私が当たり前のようにしてきたことがやってはいけない愚かな行為であるなら、その事を言って下さるようにお願いしたいのです。私はさっき、ある爺さんのことを……」
「ランジェ公爵夫人です」ジャックが学生の言葉を遮って言ったので、彼はひどく苛立ったような仕草をした。
「貴方ね、成功したいんだったら、まず感情を表に出さないことも大事よ」子爵夫人は声を低めて言った。
「あーら! こんにちは、あなた」彼女は立ち上がり、公爵夫人の方へ近づきながら言った。そして彼女はまるで姉妹同士で見せるような優しい心情に溢れた様子で手を差し出した。これに対して公爵夫人の方も、この上なく可愛く甘ったれた様子で応じるのだった。
「やれやれ仲良し二人か」ラスチニャックは思った。「僕はこうなったら二人とも保護者になってもらおう。この婦人達は二人同じような愛情を持っているはずだから、あの婦人だって間違いなく僕に関心を寄せてくれるだろう」
「あなたに会えるなんて一体どういう風の吹き回しなの、アントワネットったら?」ボーセアン夫人が言った。
「そうよ私ダジュダ・ピント氏がド・ロシュフィードさんのお宅へ入って行くのを見たのよ、それで、だったらあなたが一人でお宅にいると思ったのよ」
ド・ボーセアン夫人は唇を噛む様子もなく、顔を赤らめもせず、その眼差しも変わらなかった。公爵夫人が彼女にとっては致命的なこの言葉を口にした時も彼女の額はつややかに輝いて見えた。
「あなたにお客さんがいらっしゃると知っていたら……」公爵夫人はウージェーヌの方を振り返って付け加えた。
「この方はウージェーヌ・ド・ラスチニャックさんです。私の従弟なの」子爵夫人が言った。「あなたはモンリヴォー侯爵のことで何かお聞きになった?」彼女が続けて言った。「セリジーが昨日私に言ったんだけど、誰も彼を見ていないらしいの、あなたんとこへ今日あたり彼が来たんじゃないの?」
公爵夫人はド・モンリヴォー氏に捨てられたと言われているのに、彼女の方は狂ったように惚れ込んでいるのだった。この質問は心臓に突き刺さるように感じられて彼女は顔を赤らめて答えた。「彼は昨日エリゼー宮にいたわ」
「お仕事だったのね」
「クララ、あなたきっと知ってるはずなんだけど」公爵夫人は悪意が溢れ出さんばかりの眼差しを投げかけながら切り返した。「明日ダジュダ・ピント氏とド・ロシュフィード嬢のことで公示が出るんでしょ?」
この一撃は実に手ひどいものだった。子爵夫人は青褪めたが笑いながら答えた。「そんな騒ぎなんて、下らない連中が勝手に楽しんでるだけよ。どうしてポルトガルで一番美しい名前をダジュダ氏がロシュフィード家に持ってゆくのよ? ロシュフィード家ってのは、昨日今日爵位を貰ったばかりの連中じゃない」
「だけど、ベルトが持ってる国債は合わせて二〇万リーヴルに達すると言われてるわよ」
「ダジュダ氏はお金持ち過ぎて、その辺の計算が出来ないのね」
「だけどあなた、ド・ロシュフィード嬢は魅力的だわ」
「そうかもね!」
「とうとう彼は今日あそこで夕食をとる。条件が決まる。私、あなたがこのことを知らなさ過ぎるのが不思議でびっくりしたわ」
「こういう馬鹿々々しいこと、貴方もやっちゃうのかしらね?」ド・ボーセアン夫人がウージェーヌに言った。「この可愛い坊やは、たった今、社交界に投げ入れられたもんだから、彼にはちんぷんかんぷんなのよ、ねえアントワネット、私達が話してることについてはね。彼に悪いからこの話は明日にしましょう。明日よ、いいわね、何もかもきっと正式なことが分かるわ。そして、あなたの言ってることは必ず間違いだと判るはずよ」
公爵夫人はウージェーヌに視線を向けたが、それは一人の男を頭のてっぺんからつま先まで眺めやって、男をぺしゃんこにして無価値たらしめてしまうような、そんな無礼さに満ちたものだった。
「奥様、私は何も知らないままド・レストー夫人の心にナイフを突き立ててしまいました。何も知らずに……まさに私の過ちでした」
学生はその天分を遺憾なく発揮して、二人の婦人の情愛溢れる言葉の下に隠された寸鉄人を刺す警句の辛辣さをも暴いてみせた。「貴女は沢山の人とお会いになってこられ、その中には多分、貴女の不幸にも密かに関わっている人間もいるのではないかと心配もなさっているのでしょう。でも他方、自分が人に与えた傷の深さに気づかないまま、人に危害を加えるような輩は、自分を生かす方法も知らない愚かな粗忽者と、皆に軽蔑されるのがおちです」
ド・ボーセアン夫人は学生に向かって、あの高邁な心の人のみが放つ視線、そこには感謝と尊厳が同時にない混ぜになったあの視線を投げかけたのだった。その眼差しは公爵夫人が来訪者を値踏みする守衛のような一瞥で傷つけた学生の心を優しく慰めてくれた。
「想像出来ますか、私がたった今」ウージェーヌが続けた。「ド・レストー伯爵が私の未熟さを大目に見てくれたことに気づいたんです。何故って」彼は公爵夫人の方に向かって謙虚に、だがいたすらっぽい様子で言った。「これは是非聞いてください、奥様、私はまだ哀れな学生の分際に過ぎません。いかにも孤独で、いかにも貧乏です」
「それは口にしないで、ド・ラスチニャックさん。私達女というのはね、誰も受け入れないその手の人のことなんて絶対に聞きたくもないのよ」
「へえ!」ウージェーヌは驚いてみせた。「私はまだ二十二歳です。年齢の不利をカバーすることを考えないといけませんね。確かに私は今、告解室にいます。しかも、これほど美しい告解室で膝まづくことなんて他にはないでしょう。ここでは私達は他所でなら咎めたであろうような罪を犯してしまうことでしょう」
公爵夫人はこの信仰心の薄い議論に冷淡だったので、子爵夫人に悪趣味な話を止めさせようと持ちかけるところだった。「この方の話って……」
ド・ボーセアン夫人は従弟のことを、そして公爵夫人のことをいかにもおかしそうに笑い始めた。
「彼はこのために来たんだわ、あなた、つまり良い趣味を教え込んでくれる女性教師を探しに来たってわけよ」
「公爵夫人の奥様」ウージェーヌは言った。「私達を魅了するものの秘密を学ぼうと望むのは自然なことではないでしょうか?」彼は自分で感じていた。「ちっ! 俺って、彼女達にお上手ばかり言って、これじゃ、美容師と全然同じじゃないか」
「でもド・レストー夫人って、私思うんだけれど、ド・トライユ氏とは付き合い始めたばかりでしょ」公爵夫人が言った。
「私はそれについては何も知りません、奥様」学生が答えた。「そのため私は軽率にも、彼等二人の間に飛び込んでしまったのです。最後には私はあの御主人と何とか理解し合えるようになりました。あの夫人にとって、私というものがある瞬間ずいぶん厄介な存在になっていたと思います。それは私が彼等に向かって、とんでもないことを言い出したからです。私がそこへ行く前に、ある人物が忍び階段から出てゆくのを見たのですが、その男のことを知っていると彼等に言ったのです。しかも、その男は廊下の突き当たりで伯爵夫人を抱いたりもしていたんです」
「それって誰なの?」二人の婦人が同時に尋ねた。
「一ヶ月二ルイでサン・マルソー街の奥に、この貧乏学生の私と同じように住んでいる老人ですよ。本当に不幸せな人で、皆に馬鹿にされて、僕達は彼のことをゴリオ爺さんて呼んでるんです」
「あらまあ、貴方みたいなまるで子供にまで」子爵夫人が叫んだ。「ド・レストー夫人はゴリオのお嬢さんの一人なのよ」
「製麺業者とかの娘ね」公爵夫人も言った。「卑しい身分の娘が、ケーキ屋の娘が申し込みをしたのと同じ日に、自分も結婚の申し込みをしたのよ。あなたもあの事覚えてるかしら、クララ? 王様がこのことを最初に茶化したのよ、それは小麦粉にちなんだことで何かラテン語で上手い言葉で。民衆から、ねえどう言ったかしら? 民衆から……」
「エユスデム・ファリナエ(素は同じ小麦粉)」ウージェーヌが言った。
「そっ、それよ!」公爵夫人が言った。
「あー! 彼は彼女の父だったのか」学生は恐ろしげな身振りをして言った。
「その通りよ。あのお爺さんには二人の娘さんがいて、彼はその二人にはもう夢中なのよ。だけど二人とも彼に対してはほとんど知らん顔してるんだわ」
「次女はあれじゃない?」子爵夫人はド・ランジェ夫人を見ながら言った。「ドイツ風の名前の銀行家と結婚したのね、ド・ニュシンゲン男爵とか言ったかしら? 彼女はデルフィーヌとか言うんだったわね? 金髪の娘でオペラ座の近くに家があるのね、そしてブフォンにも来てるんだけど、とても高い声で笑って目立ってる娘じゃなかった?」
公爵夫人は笑って、こう言った。「だけど貴方、私、貴方には感心してしまうわ。貴方って、どうしてあの人にそんなに一生懸命に関わってるの? アナスタジー嬢に粉まみれになるまで付き合うんなら、レストーのように心底惚れ込んでしまわなきゃね、あー! 彼もそのうち小麦粉まみれの商売人に嫌気がさすでしょうね! 彼女はド・トライユ氏の掌のうちにあるんだけれど、続かないでしょうよ」
「彼女達はその父親に知らん顔をしている」ウージェーヌが繰り返した。
「まあ! そうね、彼女達の父親、あの父親、父親ってやつ」子爵夫人が答えた。「あの優しい父親が彼女達にあげちゃったって噂よ、それぞれに五十万とか六十万フランをね。娘達に良い結婚をさせて幸せをつかまえさせてやるためよ。そして彼自身には年利八千から一万リーヴルまでの年金しか残してないの、それというのも娘達はずっと彼の娘でいてくれると思っていたし、彼は二人の娘達にとって存在し続け、彼が愛され優遇される二軒の家があるものと思い込んでいたのよ。二年もすると娘の婿達は彼等の社交界から、彼のことを最低に惨めったらしい人間のように追っ払うようになったんだわ……」
ウージェーヌの目に数滴の涙が溢れ出した。彼は家族への純粋で聖なる思いを今更ながら新たにし、一方で若者らしい思考の魅力に未だ支配されていた。そして彼はパリ文明の戦場に足を踏み入れてまだ最初の日々を過ごしただけだった。真の感動が互いの心を揺さぶり、三人は一瞬黙って互いに見つめあった。
「あー! 本当に」ランジェ公爵夫人が言った。「そうね、これは恐ろしい話だわ。それなのに私達は毎日のようにこんなことを見てるんだわ。これって何か理由があるのかしら? ねえ教えてよ、あなた、このお婿さんとかのこと一度でも考えたことあって? お婿さんという人種ね、この人種の男のために私達女は育てられる、あなたや私もね、綺麗な可愛い女の子ってやつよ、この娘に家族は千本もの絆を結びつける、この娘は十七年もの間、多分、家族にとって喜びでしょうし、家族の無垢の魂の象徴でもあると、ラマルティーヌ[30]ならそう言うことでしょう、そのくせやがて彼女は手に負えない嫌な女になっちゃうのよね。この男が我々から彼女をひとたび連れ去ってしまうと、彼はその愛をまるで斧のように振り回して、天使の様な心で彼女が家族と深く結ばれていたあの感情の全てを断ち切ってしまおうとするのよ。昨日は我が娘は完全に我々家族のものだった、そして、我々もまた完全に彼女のものだった。ところが翌朝になると、彼女は我々の敵となってしまう。こんな悲劇が毎日のように起こっているのを、我々は知らないなんて言える? 言えないわよね。こちらでは嫁が義父に向かって最低の無礼を働いている、しかも義父はその息子のために全ての犠牲を払ったというのによ。最も酷いのは、婿が義理の母親を追い出すってやつ。私は何が一体この社会の中で今日の悲劇を生む原因になっているのか訊きたいわ。だけど、結婚後の些細な茶番劇までは言わないけど、婿をテーマにした劇は恐ろしいものよ。私にはあの老製麺業者に起こったことがはっきりと分かったわ。私はあのフォリオのことを覚えているような気がする」
「ゴリオです、奥様」
「そう、あのモリオは革命の時、彼の地区の委員長だったんだわ。彼はあの有名な食料不足の内情を良く知っていたのよ、それであの時に自分が仕入れた値の十倍もの値をつけて小麦粉を売ったんだわ。それから彼は財を築き始めたのよ。私の祖母の家の執事が彼に大変な量の食糧を売ったの。このゴリオは間違いなくあの手の連中と同じように公安委員会に[31]属していたんだわ。私が覚えているのは、私の祖母は小麦を供出したおかげで、どこにでも通用する住民カードを手に入れたようなものなので、グランヴィリエでは完全に安全に過ごせるんだって執事が言ってたことよ。とにかくよ! このロリオ、彼は小麦を首切り人達に売りまくったんだけど、唯一つだけの情熱を持っていただけなの。彼は自分の娘達を溺愛してたって言われてるわね。彼は上の娘をレストー家へ嫁がせ、もう一人の娘はド・ニュシンゲン男爵にくっつけることが出来たの。これは大金持ちの銀行家で王党派の人よ。貴方よく分かるでしょ、帝政下で二人のお婿さんにとって、この九十三年時代[32]の老人を迎え入れることは、そんなに嫌でもなかったのよ。それはブゥオナパルトとも上手くやってゆくのに役立ったのでね。だけどブルボン王朝が復活すると、この親父はド・レストー氏には邪魔になってくるし、銀行家にとっても更に困った存在になってしまったの。娘達は多分ずっと父親を愛していたんだけれど、ここで二股をかけることにしたんだわ、父親と夫にね。彼女達は家に誰もいない時にゴリオに来させたの。彼女達はそれを優しさを見せるいい機会だと思っていたのね。『パパ、いらっしゃい、私達嬉しいわ、だって、私達には誰もいないのよ!』とか何とか。私はね、本当の愛とは慧眼であって英知だと思うの。だからこの哀れな九十三年爺の心はすっかり傷ついていたんだわ。彼は娘達が彼のことを恥じていることに気づいていた。彼女達が夫を愛するならば、彼は婿達にとって障害になることも。だから彼はみずから身を引くしかなかったの。彼は犠牲を払ってきた、何故なら父親だったから。彼は自分で離れていったの。娘達が満足しているのを見ると、彼は自分が上手くやったなと思えるのね。父親と子供がこの小さな罪で共犯者になってたのよ。こんなことって、私達、どこででも見るわね。このドリオ爺さんていう人、自分の娘達のサロンでも、汚れた油のしみのようなものだったのかしらね? 彼はそこで邪魔になっているのではないかと心配になってきたの。この親父に起こったことは、たとえば、飛び切り綺麗な女性が、一番好きな男と一緒になった場合にだって起こり得るのよ。どういうのかって言うと、彼女が彼を愛し過ぎて、うんざりさせてしまったら、彼は姿をくらましちゃう、卑怯にも逃げ出しちゃうのよ。人の感情なんて、みんなそんなものよ。私達の心というのは言ってみれば宝庫なのよ。だから、それを一遍に空にしてしまうと、それは貴方の破滅よ。私達が、すっかり明からさまに晒け出してしまえるのは、せいぜい一つの感情だけで、それも、何の不安も抱かずに打ち明けられるたった一人の人にのみ、そうすることが許されるのよ。私達のテーマのこの親父は総てを与えてしまったわね。彼は二十年間にわたって、心の総てを、彼の愛を、与え尽くしたの。彼は一日にして、彼の財産も与えてしまったの。レモンは十分に搾り切られ、彼の娘達は、その皮だけを道端に捨てて立ち去ったのよ」
「世の中って汚いものね」子爵夫人はショールの端をいじくりながら、目を上げることもなく言った。というのは、ランジェ夫人が彼女に向かってこの話をした時、語ったその言葉が、彼女をひどく傷つけたからだった。
「汚らしいですって! いいえ」公爵夫人が答えた。「当たり前に言ってるのよ、それだけだわ。私があなたにこんな風に話すのは、私は世の中で騙されやすい人間ではないことを言いたいためよ。私はあなたと同じように考えてるわ」彼女は子爵夫人の手を握り締めながら言った。「世の中は泥沼よ、高見の見物とゆきたいものね」彼女は立ち上がり、ボーセアン夫人の額にキスすると、こう言った。「今のあなたって、とても綺麗だわ、ねえ、これまで見たことがないくらい美しい顔色だわ」それから彼女は従弟といわれる若者に軽く頭を下げて出て行った。
「ゴリオ爺さんて、偉いんだ!」ウージェーヌは夜中に銀メッキの皿を折曲げていた彼を見たことを思い出しながら言った。ボーセアン夫人は聞いていなかった。彼女は物思いにふけっていた。どのくらい沈黙のときが流れただろうか。哀れな学生は何かばつの悪さがあって、どうしてよいのか分からず、出てもゆけず留まってもおれず、話すことも適わなかった。
「世の中って汚らしくて意地悪だわ」子爵夫人がやっと口を開いた。「何か不幸があると、直ぐにそのことは友達に分かっちゃうのね、それでまた直ぐに、私にそれを話に来るんだから、しかも、私の心を短刀で刺すようにしてねちねち調べるんだから、そして、私の間抜けぶりにたまげて見せるのね。そう言えば前々から皮肉とか冷笑とかがあったわ! あー! 私は防げたはずなのに」彼女はかつてそうであった大貴族の婦人らしく頭を上げた。誇り高いその両眼がきらきらと輝いていた。彼女はウージェーヌに気がついて言った。「あー! 貴方いらしたのね」
「まだ、いました」彼は情け無さそうに言った。
「そうねえ、ラスチニャックさん、この社交界というものは、せいぜい役立つように利用することね。貴方はその中に飛び込んでゆくお積りのようだから、私お助けする積りよ。貴方は女達の腐敗がどれほど深いかを測り、虚栄に満ちた男達の悲惨の大きさも目の当たりにすることでしょう。私は社交界を描いた本があるとすれば、結構よく読んできた積りなんだけれど、その私にもまだ知らなかったような頁もあったんだわ。今になって私は全てを知ったのよ。より冷静に計算すればするほど、貴方はよりいっそう前へ進めるのよ。情け容赦なく人をぶって御覧なさい、後が心配になるわ。男も女も中継駅ごとに乗り捨てにする郵便馬車のようにお付き合いなさい、そうすれば貴方は遂にはお望み通り頂上に達することが出来るでしょう。ところがね、そこまでいっても貴方に好意を持ってくれる何処かの婦人が貴方の女になってくれない限り、貴方はそれっきりよ。彼女は若くて金持ちで上品でなきゃいけないわ。だけど、もし貴方が本当の感情を抱いたなら、それは宝物として隠しておきなさい。決してそれを感づかれないようになさい、でないと貴方はそれを失くすわよ。それから、貴方は処刑人にもならないこと、でないと貴方が処刑される人間になってしまうわ。もし貴方がまだ本当の愛に出会ったことがないなら、当面は貴方の秘密はしっかりと自分一人で守りなさい! 貴方が心を打ち明けられると十分確信出来る人に出会うまでは、秘密は決して漏らさないこと。まだ存在していないこの真実の愛をあらかじめ担保しておくには、この社交界を信用しないことを貴方は学ぶべきだわ。聞いてねミゲル……(彼女は思わず名前を取り違えたが、それにも気づかなかった)何とも恐ろしいことがあるものねえ、だってあの親父なんて死んだ方がいいなんて思ってるあの二人の娘によって捨てられた父親の話だって、まだましだって言うくらいよ。何が怖いって、それは彼女達の間にある姉妹のライバル意識よ。レストーには貴族の家柄というのがあるの、彼の妻は養女として迎えられた、彼女は贈り物だったのね。一方彼女の妹、金持ちの妹、あの綺麗なデルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人は金融業者の妻なんだけど、悲しみに沈んでいる。嫉妬心が彼女を虜にしていて、姉とは全く没交渉の状態ね。彼女にとって最早、姉なんていないようなものよ。唯この二人の女も父親を通じてだけ、お互いに合流することがあるのよ。その上、ニュシンゲン夫人ときたら、私のサロンに入るためだったら、サン・ラザール街とグルネル街[33]の間の泥水だって飲み干してもいいくらいに思ってるはずよ。彼女はド・マルセイのハートを射止めたと思って、ド・マルセイの言いなりになったの。ところがド・マルセイはうんざりしちゃったのね。ド・マルセイは彼女のことなんか、ほぼ眼中になかったのよ。もし貴方が仲介して彼女を私のところへ来させてあげれば、貴方は彼女のお気に入りになって、彼女は貴方を熱愛することになるわ。貴方が二番手でもいいのなら、彼女を愛してあげて、でなくても彼女を利用することよ。私は彼女に一度か二度会ったわ、大きな夜会で混雑してる時にね。だけど私が彼女と日中に会ったことは全然なかったわ。私がそのうち彼女に挨拶しとけばそれで済むことだわ。貴方はゴリオ爺さんの名前を言ってしまったばかりに、レストー伯爵夫人の戸口から締め出されたのよ。ね、そうでしょ、貴方はレストー夫人を訪ねて二十回行って御覧なさい、貴方は二十回とも留守だって言われてしまうわ。貴方は出入り禁止ってわけよ。仕様がないわ! じゃあね、ゴリオ爺さんが貴方をデルフィーヌ・ド・ニュシンゲン夫人のそばへ案内してくれるっていうのは、どお? あの綺麗なニュシンゲン夫人なら、貴方にとって格好のお飾りになるわ。男達は彼女に目を引かれてしまうでしょうし、女達は貴方に夢中になるわ。彼女のライバル、彼女の友達、彼女の親友達までもが、彼女から貴方を奪おうとするでしょう。世の中の女は他の女に好かれている男を愛するものなの、ちょうど哀れな市民階級の人が我々の帽子を奪って、我々の物腰態度を手にいれようとするようなものよ。貴方、もてることよ。パリでは、もてるかどうかが大切なの、何をするにもそれが鍵になるのよ。もし女達が貴方を機知と才能に富んだ人だと思ったら、男達も、そうだと信じるようになるの、貴方が敢えて誤りを正さなければね。そしたら貴方は何でも思いのままよ、どんな高貴な場所にも足を踏み入れることが出来るのよ。そして貴方は社交界とは騙される人間と騙す人間の寄り集まりだってことを知るでしょうよ。騙される方にも、また騙す方にも入っちゃ駄目よ。私は貴方がこの迷宮に入って行くに際して、アリアーヌの導きの糸[34]として私の名前を使うことを許すわ。それを汚さないようになさい」彼女は首を曲げて女王の眼差しを学生に放ちつつ言った。「それは真白なままで返してね。もう、行って、私を一人にさせて。私達女はね……私達にもまた、女の戦いが待っているのよ」
「貴女のために地雷を仕掛けるくらいのことなら、喜んでやる男が必要なのではありませんか?」ウージェーヌは彼女を遮って言った。
「さあ! どうかしらね?」彼女が言った。
彼は自分の胸をドンと叩いて見せて、従姉の微笑に微笑みを返して、部屋を出た。五時だった。ウージェーヌは腹が減っていて、夕食の時間に間に合わないのではないかと心配だった。パリに来て間もないのに、陣地を獲得した幸運があるからこそ、こんな心配もしなければならないのだと彼は感じた。純粋に無意識的なこの喜びで、彼はすっかり物思いにふけっていた。彼の歳の若者というのは軽蔑され傷つけられると、かっとなって、怒り狂い、社会全体に対してこぶしを振り上げ、復讐してやると思いつつも、自分自身にもまた疑いを抱いてしまうものである。ラスチニャックは今のこの瞬間まさにあの言葉に押しつぶされそうになっていた。『貴方は伯爵夫人の戸口から締め出されたのよ』「やるぜ!」彼は心に叫んだ、「例えボーセアン夫人が正しく、俺が出入り禁止を食らっているにしても……俺は……レストー夫人が行く先々のサロンの何処にでも俺はいてやるんだ。俺は武器の使用法を習い、ピストルの撃ち方も習い、俺はあいつを殺す、あのマクシムを! そして金だ!」日頃の思いが口をついて出た。「どうやって、お前はそれを手に入れるんだ?」突然レストー伯爵夫人の邸に満ちていた豪華さが彼の目の前に輝くように見えた。彼はまさにその中で、ゴリオ嬢の一人が愛人となっている豪華絢爛や、金の飾り物、人目につく高価なオブジェ、成金趣味の愚かしい贅沢、囲われた女の浪費振りを既に目にしていた。その目くるめく印象はボーセアンの荘厳な邸の前にあっという間に打ち砕かれてしまった。パリの社交界の上流階級に投げ込まれて、彼の想像力は彼の心の中に無数の悪しき考えを吹き込んだ。彼の頭の中と意識はそれらでいっぱいに膨らんだ。彼は世の中のあるがままを見た。すなわち、法と道徳は富の前には無力である。そして富の中にこそ究極の王者の論拠を見出せるのである。
「ヴォートランが正しい。富こそが美徳だ!」彼はそう思った。
ネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通へ着くと、彼は急いで自分の部屋に行き、御者に二〇フラン払うためにまた降りてきた。途中でいつもの吐き気を催させる食堂をのぞくと、そこには飼い葉桶の前に並んだ動物のように十八人の会食者がたらふく食べている姿が見えた。この惨めったらしい光景とこの部屋の眺めが彼には恐ろしかった。変化はとても唐突で環境の違いが余りにも際立っていたので、彼に野心的感情を過度に膨らませるなと言っても無理な話だった。一方には優美を極めた社交界が自然に放つ新鮮で魅力的なイメージ、若く活発な姿、最高の美術や豪華さに縁取られ、詩情に溢れた情熱的な頭脳がある。他方には泥で囲まれたような不吉な絵があるかと思えば、人々の顔にも情熱は擦り切れた織り糸と骨組みだけをかろうじてうかがえるに過ぎない。捨てられた女の怒りがボーセアン夫人の口をついて出て来させた教訓、その言葉巧みな教育は彼の記憶の中に刻まれ、そこにある悲惨さも彼に知らしめた。ラスチニャックは富に辿りつくために、二本の堀を平行して掘ることを決意した。学問と愛の双方に賭ける、つまり、知識を極めて博士となる一方で、流行を追って時代の寵児でもありたいと思った。彼はまだまだ子供だった! この二本の堀は、決して合流しない漸近線のようなものだった。
「あんたはえらく暗い顔つきですね、侯爵殿」ヴォートランが彼に、まるで胸に秘めた秘密を探り出そうとするかのような視線を投げつつ声をかけてきた。
「僕は僕のことを侯爵殿と呼ぶような人の冗談には気持ちよく応じる気分じゃあないです」彼は答えた。「ここで本当に侯爵だというんなら、その人は一〇万リーヴルの年金を持っているはずです。ところが、メゾン・ヴォーケを見回しても、皆、間違いなくお金に縁のない人達です」
ヴォートランはラスチニャックを父性的な、それでいて意地悪な様子で眺めやった。あたかもこう言っているようだった。『がきめ! お前なんかいつだって片付けちまうぜ!』それから彼はこう答えた。「あんたはご機嫌が宜しくないようですな、多分あんたはあの美しいレストー伯爵夫人と上手くゆかなかった、それでですね」
「彼女は僕を締め出した、それというのも、僕が彼女に彼女の父親が我々と同じテーブルで食事をしていると言ったからなんです」ラスチニャックは叫んだ。
会食者は皆お互いを見つめあった。ゴリオ爺さんは目を伏せ、次いでそれを拭うために横を向いた。
「貴方の煙草が目にしみました」彼は隣の人にそう言った。
「ゴリオ爺さんを怒らせた人は、これからは僕にその言い訳でもしてもらわねばならないでしょうね」ウージェーヌは昔の製麺業者の隣の人を見ながら答えた。「まあ我々全部寄せ集めたよりも彼は偉いんだから。あ、僕はご婦人方のことを言ってるんじゃありませんよ」彼はタイユフェール嬢の方に向かって言った。
この言葉で話は落ち着いた。ウージェーヌが会食者達に静粛を求める声音で話したからだ。ヴォートランだけは冷やかすような調子で彼に言った。「ゴリオ爺さんのことをあんたが引き受けて、彼について責任ある情報局となる積りなら、剣を上手に使うことやピストルを上手く撃つことを習わなければなりませんよ」
「そうします」ウージェーヌが言った。
「あんたは今日既に戦いを始めたのかね?」
「恐らくね」ラスチニャックが答えた。「しかし、僕のことについては誰にも説明する義務はないですよね。だって僕も他人が夜中にやってることを探ろうなんて思いませんからね」
ヴォートランはラスチニャックを横目でにらんだ。
「あんたね、操り人形に騙されたくなかったら、すぐさま見世物小屋に入ることだよ。幕の穴から覗いて、何も見えなかったなんてことのないようにな。その話はもうやめよう」彼はむかっ腹を立てそうなウージェーヌを見て付け加えた。「あんたがよければ、我々二人で少し話し合おうじゃないか」
夕食は暗くて冷たい雰囲気になった。ゴリオ爺さんは学生の言葉によって深い憂愁の中に沈んでしまっていたので、人々の彼に対する思い様が変化したこと、そして若者が非難の声を沈黙させ、彼を守ってあげたことにも気がつかないでいた。
「ゴリオさん」ヴォーケ夫人が声を低めて言った。「近々、伯爵夫人の父親を名乗られるんですか?」
「そして、男爵夫人のもね」ラスチニャックが彼女に応じた。
「彼が考えてるのはそれだけだね」ビアンションがラスチニャックに言った。「僕は彼の頭に注目してるんだ。特徴的な隆起は唯一つだけなんだけど、父性愛ってやつだよ、一種、父性の権化ってとこかな」
ウージェーヌはとても生真面目だったので、ビアンションの冗談にも笑えなかった。彼はボーセアン夫人の忠告を生かしたいと考えていて、どこでどうやって資金を確保したらよいものか自問自答していた。彼は社交界の大草原を見ていると、それは彼の目にはものすごい速さで沢山の事がいっせいに展開されているように見えて、何か不安にもなってきた。夕食が終わった時、彼と同じように食堂に残っていた人が一人いた。
「お話では、貴方は私の娘に会われたんですか?」ゴリオが彼に感情のこもった声で尋ねた。
爺さんの声で瞑想から我に返ったウージェーヌは彼の手を取り、ある種の感動をこめて爺さんの顔を見つめた。「貴方は勇敢で実に立派な人物だったんですね。貴方の娘さん達のことは、また後で話しましょう」彼はゴリオ爺さんの返事を聞こうとはしないで、立ち上がり部屋へ戻り、母に次のような手紙を書いた。
〈愛する母さんへ。僕に恵んでくれるためのへそくりを母さんは持っていないかなあ。僕は急いでちょっとした金を作らなければならない立場にあります。僕は一二〇〇フラン要ります、どうしても必要なのです。僕のこのお願いについては父さんには何も言わないで下さい。彼は恐らく反対するでしょう。そして僕はこのお金を手に入れることが出来なければ、僕はすっかり絶望に陥ることになり、僕の頭は燃え狂ってしまうことでしょう。僕の目的は今度会った時に説明します、何故なら僕が今置かれている立場をお母さんに分かってもらうには、大変な量のことを書かねばならないからです。僕は遊んでいたわけではありません、母さん、僕は借金も全然していません。しかし、母さんがこれまで僕に与えてくださったような人生を僕に続けさせてやろうとお考えなら、僕にはこれだけのお金が必要なのです。ところで、僕はボーセアン子爵夫人の家へ出入りするようになり、彼女は僕の面倒を見てくれることになりました。僕は社交界に出なければなりません、しかしながら、恥ずかしくないような手袋を買うにも一スーの金もないのです。僕はパンだけ食べ、水だけ飲み、必要とあらば絶食さえ出来ます。しかし、僕の目の前に道具があって、誰もがその道具を使ってこの国の葡萄畑で働いている、それを黙って通り過ぎるわけにはゆきません。僕にとって今は自分の道を切り開くか、ぬかるみの中に留まっているかの分かれ道にいるのです。僕はあなたが僕にかけて下さった大きな期待のことを知っています。それだけに、早くそれを実現したいと思うのです。お母さん、お持ちの古い宝石類のどれかを売ってもらいたいのです。いつの日か、僕が新しく買って償います。僕は家族の境遇をよく知っているだけに、このような大きな犠牲には感謝してもし切れないと思っています。そして母さんは僕がお願いしたからには、それらを無駄にはしないだろうと考えてくれるものと思っています。そうでなければ、僕なんてとんでもないやつです。どうか僕のこのお願いはやむを得ない必要に迫られた叫びだと聞いてください。我が家の将来は本当にこの援助金にかかっていると言えるでしょう。僕はこれを使ってキャンペーンを始めなければなりません。というのは、パリにおけるこの人生は果てしない戦いだからです。もし金額を満たすためには叔母さんの店でレースを売る以外に方法がなければ彼女に言ってください。僕が彼女のところへ最高に綺麗な品物を送りますから。云々〉
彼は彼の妹達にも、それぞれに宛てて彼女達の貯金を回して欲しいと頼む手紙を書いた。そして彼女達が兄のためには喜んで払ってやろうという犠牲のことを家族の中ではしゃべらせないで貯金を巻き上げてしまうために、彼は彼女達の若々しい心に特に見事に張られて強く響く名誉心の琴線に触れることで、彼女達の心遣いを引き出すことが出来た。しかしながら、彼はこれらの手紙を書き終えた時、無意識のうちに心がわななくのを感じた。彼は動悸した。彼は震えた。この若き野心家は静寂の中に隠れている彼女達の魂の無垢な気高さを知っていた。彼は二人の妹達にどれほどの苦労をかけるのか、その一方で、それは彼女達にとってどれほどの喜びとなるのかも知っていた。彼女達はどんなに楽しく最愛の兄を葡萄畑の奥に秘密にかくまおうとしているのだろうか。彼の鋭敏な知覚は彼女達が秘密でささやかな宝物を隠し持っていることを探り出していた。そして彼は若い娘達が天才的ないたずらっ子振りを見せながら、彼にこの金を届けるために、生まれて初めての巧妙極まる欺瞞を試みるのを目にした。「姉妹の心は一個の純粋なダイヤモンドだ、測り知れないほどの大きな優しさだ!」彼は思った。彼は手紙を書いたことを恥ずかしく思った。彼女達の祈りは何と力強いのだろう、天に向かっての彼女達の魂の迸りの何と純粋なことだろう! かくも卑しい欲望で彼女達を犠牲にすることが許されようか? 母が全額を送ってやることが出来ないとしたら、彼女はどんなにひどい悲しみに襲われることだろう! 彼女達の美しい気持ち、この恐ろしい犠牲は彼にデルフィーヌ・ド・ニュシンゲンに達するための梯子を提供しようとしていた。家族の聖なる祭壇に撒かれた香料の最後の一粒が、彼の目からどんなに多くの涙を溢れ出させたことだろう。彼は絶望でいっぱいになり、興奮して一人で部屋を歩き回っていた。ゴリオ爺さんがそのような彼を半開きになっていた扉越しに見つけ、入ってきて彼に言った。「どうかされたんですか、貴方?」
「あー! お隣さん、貴方が父親であるように、僕の方は息子であり兄弟でもあるんですね。貴方が伯爵夫人アナスタジーのことをひどく心配なさるのは当然ですよ。彼女はマクシム・ド・トライユとか言う男の恋人ですが、彼は彼女を捨てるでしょう。」
ゴリオ爺さんは何かを口ごもりながら立ち去ったが、ウージェーヌには彼の言葉にこもる感情が良くつかめなかった。翌日、ラスチニャックは手紙を郵便局に出しに行った。彼は最後まで迷ったが、俺は成功するんだ! と心の中で言いつつ投函した。それは賭博者の言葉、名将の言葉であり、あるいは人を救う以上に多くの人を破滅させた運命論者の言葉でもあった。
何日か経ってウージェーヌはレストー夫人を訪ねて行ったが、家へ入れてもらえなかった。三回そこへ行ったが、三回とも門は閉ざされていた。彼はマクシム・ド・トライユ伯爵がそこにいないはずの時間を見計らって行ったにもかかわらずだ。子爵夫人が言ったことは正しかった。学生はもう勉強をしなくなった。彼は出席をとられたら返事をするために授業に行った。そして出席の証明が終わると直ぐにずらかった。彼は大部分の学生がとっている理屈に従って行動した。彼は試験を通過する肝心な時だけ勉強をした。彼は二年目、三年目の授業も申し込む決心をし、それから最後に一挙に真剣に法律を学ぼうと思った。彼はそのようにして、十五ヶ月間というもの自由にパリという海を航海する時間を持った。彼はその間、女性との付き合いにふけり、あるいは思わぬ財産も得た。この一週間に彼はボーセアン夫人とは二度会ったが、彼女の家に行くのはダジュダ侯爵の馬車が出て行った後の時間に限っていた。まだ幾日かの間、この華やかな女性、フォーブール・サンジェルマンで誰よりも詩情を誘う人物は勝ち誇っていて、ロシュフィード嬢がダジュダ・ピント侯爵と結婚式を挙げるのを差し止めていた。しかしこの最後の日々に幸せを失うことを恐れる気持ちが何よりも熱く燃え上がったために、破局を早める結果となった。ダジュダ侯爵はロシュフィード家と協調して、この仲違いも仲直りも環境としては幸運だとみなしていた。彼等はボーセアン夫人が今回の結婚という概念になれてしまい、彼女の人生で予想される将来のある時期に芝居の昼興行に行く楽しみを放棄してしまうことを期待していた。意に反して、実に敬虔な約束が毎日繰り返されるのだが、ダジュダ氏は相変わらずコメディを演じてしまい、子爵夫人も敢えて騙され続けているのだった。「潔く窓から飛び降りる代わりに、彼女ったら階段を転がり続けているのよ」彼女の最愛の友であるランジェ公爵夫人はそう言った。しかしながら、この最後の栄光が意外に長く輝き続けたので、子爵夫人はパリに留まり、彼女の若い親戚の面倒を見てやった。彼女はこの若者が持つ一種の強運のようなものに愛着を抱いていたのだ。ウージェーヌは彼女に対しては全霊をあげて忠誠と全面奉仕を誓った。だが彼女の環境に、女達が注ぐいずれの目にも憐れみの色はなく心からの慰めもなかった。仮にある男が彼女達にこの件で優しげな発言をすることはちょっと危険なことだった。
勝負の舞台を隈なく完全に知っておきたいと思ったので、ニュシンゲン家に接触を試みる前に、ラスチニャックはゴリオ爺さんの人生の過去の事情を探り、確かな情報を集め、何が彼を今日の状態に追い込んだのかを知りたいと思った。
ジャン・ジョアシン・ゴリオは革命前はごく普通の製麺職人で、熟練し倹約家で、とても独立心が強く、主人の暖簾を買い取りたいと望んでいた。ところが偶然にもこの主人が一七八九年の最初の動乱の犠牲になってしまった。ゴリオはジュシエンヌ通に居を定め、そこは小麦卸市場にも近かった。彼は非常に目端のきく男だったので、この危険な時代に少しでも影響力のある人物となって、自分の商売を守るために居住地区の議長の座に着いた。この周到さは彼が資産を持っていたゆえのことだったが、それは嘘か本当か、あの穀物価格がパリで異常な値上がりとなった時の飢饉以来膨れ上がったものだとされていた。その頃、パン屋の戸口で自殺する人がいたかと思えば、ある人達は冷静に食料品店に行きイタリアのパスタを求めた。この年に市民ゴリオは資本を集中し、それがやがて彼が商売を無類の優越性で進める上で役に立ち、商売は彼に更に莫大な金をもたらした。やがて彼はまずまずの能力の人間には必ず起こるある現象に見舞われた。しかし彼は凡庸さによってかえって救われた。第一に彼の財は金持ちではあっても、さして危険というほどではなかった。短期間だけ知られていたに過ぎないので、彼は人に羨ましがられることはなかった。彼は知力を総て穀物取引に向かって集中しているように見えた。彼の関心事といえば、小麦、小麦粉あるいは飼料、そしてそれらの品質を、あるいは出所を知ること、それらの保管に注意すること、相場を予想すること、収穫が豊作か凶作か予測すること、安値で穀物を手に入れること、シシリーあるいはウクライナから仕入れをすること、等々であった。しかしながらゴリオには助手はいなかった。事業を推し進める彼を見ると、穀物の輸出や輸入についての法律について詳しく説明したり、その基本理念を学んだり、その抜け道を把握したりする様子から、人は彼のことを国家大臣にすらなれるように考えたかもしれない。忍耐強く、行動的で、精力的で、継続性を持ち、商品の発送は迅速だ。彼はまた鷲の目を持ち、常に人の先を越し、総てを予測し、総てを知り、総てを内に秘めていた。着想を得るために外交官のごとく駆け引きし、進み始めると兵卒のごとく一直線だ。彼の専門を離れると、簡素で薄暗い店の戸口のところで彼は暇な時間を過ごし、肩を扉にもたせ掛けていた。彼はそんな時、愚鈍で粗野な職工に戻って、理屈など理解できず、機知に富んだ遊びなどには無感覚で、劇場では眠ってしまう男、ちょうどそう、あの下らないことばかりで力を発揮するパリジャン、あのドリバン父さん[35]のようなものだった。彼等の本質はほとんど総てにおいて似ている。読者よ、貴方が彼等の心の中を見た時、ほとんどの場合、愚鈍さと共に崇高な感情を見出すことになるだろう。崇高と愚鈍、二つの相反する感情が、この製麺業者の心をいっぱいにしていたので、それ以外の感情は消え去っていた。ちょうど穀物取引が彼の頭の中の知性という知性を使い尽くしてしまった状態に似ていた。彼の妻はブリ地方の裕福な農家の一人娘で、彼にとっては宗教的崇敬、言い換えれば限りない愛の対象であった。ゴリオは彼女の中に生来のか弱さと強さ、感じやすさと可愛さを見て、自身の性格とひどく対極的な彼女のそれを称賛せずにはいられなかった。こうした傾向が、男の心の生来の感情だとすれば、相手を保護してやろうといった矜持はいつだって女に有利なように働くのではないだろうか? ここに愛が加わったなら、あの感謝の気持ちが、真摯な魂の中に、何よりも大切な喜びとして存在することになる。そして読者はやがて、精神的に異常なまでの熱狂をつぶさに見ることになるだろう。
翳りない幸福が七年続いた後、ゴリオは悲しいことに妻を亡くした。彼女は感情の世界以外では、彼のうえに影響力を持ち始めていたところだった。恐らく彼女は自然のように動かないこの男に何等かの変化を与えたことだろう。恐らく彼女は、世間一般の、そして人生の常識を注ぎ込んでくれたはずだった。しかしこの不幸に襲われた後、父性的感情が、ゴリオにあっては狂気と言われるまでに増大した。彼は妻の死によって裏切られた彼の愛を、二人の娘達の上に向け直した。二人は最初のうち、彼の気持ちに十分満足していた。彼のところに自分の娘を後妻として嫁がせたいと思っている卸業者や農家が、彼に持ってくる縁談は輝かしいものに見えたが、彼は男やもめの暮らしを望んだ。彼の義父は彼が話せる唯一の人間だったが、ゴリオの判断は亡くなってしまった妻に対する不誠実をしたくないためなのか、正確なところを知らせて欲しいと彼に望んだ。このような気違い染みた崇高な思いなど理解出来ない穀物取引所の連中は、これを茶化してゴリオに何ともひどいあだ名をつけた。ところが、市場でワインを飲んでいた時、彼をあだ名で呼ぼうと最初に思いついた男は、ある日、製麺業者から肩に猛烈なパンチを食らい、頭から境を接している隣町のオブリン通[36]の道標まで吹っ飛ばされてしまった。ゴリオはなりふり構わぬ献身、猜疑心の強い細やかな愛を娘達に抱いていたが、それらは広く知られていたので、またある日、彼の競争相手の一人が相場の主導権を握るため、ゴリオを市場から撤退させようと思い、彼にデルフィーヌが二輪馬車に衝突されたと告げた。製麺業者は真っ青になり直ぐに市場を後にした。その後数日、彼はこの嘘の通報によって受けた感情の動顛のために病気になってしまった。、彼はこの男の肩にもぶち殺すほどの一撃を加えることはしなかったが、彼を経済的に追い込んで破産させ、力づくで取引所から追い出してしまった。二人の娘に対する教育は当然のことながら常軌を逸していた。六万リーヴルを超える年金を持つ裕福な身の上で、彼自身のためには一二〇〇フランも使わなかったので、ゴリオの幸せは娘達の好き勝手を満足させてやることだった。優れた先生達は、彼女達の才能を開花させるべきだと彼に迫り、それには良い教育が欠かせないと指摘した。彼女達には付き添いの女性も一人いた。彼女達に幸運だったのは、この女性が機知に富み趣味も良かったことだ。彼女達は馬に乗って出かけた。彼女達は馬車も持っていた。彼女達は昔の裕福な領主の奥方のような体験をして暮らした。彼女達は、一番高くつく望みを言いさえすれば、父がいそいそとその望みを叶えてくれる様を見ることが出来るのだった。彼は贈り物に対して、優しい言葉を返してもらうことなど一度もなかった。ゴリオは娘達を天使の列に加えたのだ。当然そこは彼の上方になる。何と哀れな男だろう! 彼の愛は行き過ぎて、ついには彼女達が彼に害悪をもたらす程度にまで達した。娘達が結婚適齢期になると、彼女達は夫を自分の好みで選べると考えた。それぞれが父の財産の二分の一を持参金として持ってゆく積りでいた。アナスタジーはその美貌に惹かれたレストー伯爵に口説かれ、貴族趣味への傾向が強くなり、父の家を出て上流社交界に一目散に突進することになった。デルフィーヌはお金を愛した。彼女はドイツ出身の銀行家で神聖ローマ帝国で男爵の称号を得たニュシンゲンと結婚した。ゴリオは製麺業者のままだった。彼の娘達や婿達は暫くして相変わらずこの商売を続けている彼を見て気を悪くした。もっとも、これだけが彼の人生だったのだ。五年間にわたって、彼等から懇願され続けた末、彼は引退することに同意した。彼の蓄えからの収益と最終年度に上げた収益が生活の糧だった。彼がヴォーケ夫人のところに居を定めたとき、彼女は彼には、年に八千ないし一万リーヴルの年金収入があると見込んでいた。彼がこの下宿に飛び込んできたのは、二人の娘達が夫たちの差し金で、彼を彼女達のもとへ引き取ることを拒絶したばかりか、外見だけでも彼を受け入れることさえしなかった、それを見て絶望感に打ちのめされての結果だった。
こうした情報はゴリオ爺さんの相談を受けたミュレ氏とかいう人から伝わったもので、この人はゴリオの店を買い取った男だ。ラスチニャックがランジェ公爵夫人から聞いた推測はほぼその通りだと確認された。この不可解で謎に満ちた貴婦人風訪問者に絡む悲劇の導入部のあらましはこのようなものであった。