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晶子鑑賞
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晶子鑑賞
平野万里
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 5 of 30

5

日本の女の帯の美々しさを、その最も典型的な京の芸子の皷を打つ春著姿にかりて詩化したもの。「百斤」とは男子一人の重さで、又その荷なひうる最大の重さでもある、即ち人を驚かずに足る表現法がここにも用ゐられて効果を挙げてゐる。百斤を用ひた他の例に 百斤の桜の花の溜りたる伊豆のホテルの車寄せかな といふのがある。熱海ホテルでの歌である。

村上の千草の台の秋風を君あらしめて聞くよしもがな

十二年の秋新鹿沢に遊んだ時の作。村上の千草の台とはその名が余りに美しいので、或は作者の命名かも知れない。高原の秋風のすばらしさを故人をかりて述べたもので、この歌には追懐の淋しさなどは少しも見られない。

仁和寺の築地のもとの青蓬生ふやと君の問ひ給ふかな

この歌も京情調を歌ふクラシツクの一つ。天才の口から流れ出た日本語の音楽である。

涼しくも黒と白とに装へる大船のある朝ぼらけかな

十二年の夏伊豆の下田での作。夏の朝早くまた日の昇らぬ港の涼しい爽やかな光景を折から碇泊してゐた白と黒との段々染の様な大船を中心にして描出したものである。涼しくもとあるので夏である事が分るやうになつてゐる。同じ時の作に 安政の松陰も乗せ船の笛出づとて鳴らばめでたかるべし ありし日の蓮台寺まで帰る身となりて下田を行くよしもがな などがある。

秋まつり鬱金の帯し螺を鳴らし信田の森を練るは誰が子ぞ

一分の隙もない渾然として玉の様な歌であるが、なほ古い御手本がなくはない。 白銀の目貫の太刀を下げ佩きて奈良の都を練るは誰が子ぞ といふ歌がそれであるが、換骨脱胎もこれ位に出来れば一人前である。

東海を前にしたりと山は知り未ださとらず藤木川行く

相州湯ヶ原滞在中の作。折からの五月雨で藤木川の水嵩がまし水勢も強い。それを見てゐると自分の行く先を知るものの様には思へない。然しうしろの山々は目があるから知つてゐる。自分達の前には東海が広がつてゐることを知つてゐる。しかし低い処を突進してゆく川には目がない。行く先に東海があらうなどとは夢にも知らずに流れてゆく。先づこんな感じがしたのであらうか。成るほどと教へられる。又同じ時の歌に 梅の実の黄に落ち散りて沙半ば乾ける庭の夕明りかな 山の湯が草の葉色を湛へしに浸る朝も物をこそ思へ などがある。

往き返り八幡筋の鏡屋の鏡に帯を映す子なりし

あああの頃は罪が無かつたと嘆息をさへ伴ふ少女の日の囘顧であらう。更に幼い頃を囘顧したのに 絵草紙を水に浮けんと橋に泣く疳高き子は我なりしかな といふのがあるが、前に比べるとこの方ばずつと余音に乏しいやうだ。

月落ちてのち春の夜を侮るにあらねど窓を山風に閉づ

之も伊豆の吉田の大池の畔でよんだ作。月も這入つた様だし風が寒くなつたので窓を閉めるのであるが、月が落ちたからとて春の夜を侮るわけではありません、山風が出て寒いからですといひわけをせずには居られぬ心、それが詩人の心である。

岡崎の大極殿の屋根渡る朝烏見て茄子を摘む家

これは晶子さんには珍しい写生の歌で、春泥集にある。勿論作者の本領ではないが、何でも出来ることを一寸示した迄の作であらう。しかしその正確さは如何だ、時計の針が時を指すにも似て居る。

梅花の日清和源氏の白旗を立てざるも無き鎌倉府かな

故寛先生の三囘忌を円覚寺で営んだ時の作(二月二十六日)。梅の真盛りの時節であつた。先生は梅を好むこと己れの如く、その嘗て使はれた筆名鐵幹も梅を意味し、又その誕生日はいつも梅の花で祝はれた。 我が梅の盛りめでたし草紙なる二条の院の紅梅のごと といふ如きもので、これは六十の賀が東京会館で催された時の作の一つである。即ち梅花の日は即ち夫の日といふほどの意味で忌日を斥し、その日鎌倉を行くに梅咲かぬ家とてない光景を源氏の白旗を立てざるなしと鎌倉らしく抒した手際など全く恐れ入らざるを得ないが、結びの鎌倉府の府の字の如きも之を使ひこなし得る人もう一人あらうとも思はれない。また同じ景色を詠じて 天地にものの変などありしごと梅連りて咲ける鎌倉 とも又 鎌倉の梅の中道腰輿など許されたらばをかしからまし ともある。お寺では 梅咲く日羅浮の仙女となりて入る万法帰源院の門かな 梅散るや放生会など行はゞをかしかるべき大寺の池 などの作がある。同夜は海浜ホテルに泊られ 鎌倉の梅の中より鐘起る春の夕となりにけるかな の作が残されてゐる。

白牡丹咲かば夜遊の淵酔に君を見んとす春闌けよかし

晶子さんの若い頃の歌は、その取材の上から大別して三つになる。一つは幼時から見聞した京畿の風物を囘顧するもの、京の舞姫に関するものも便宜この中に入れて置く。一つは源氏、栄花等にあらはれてゐる平安朝の生活を自らその中の人物となり、又は三者の立場に立つて詠じたもの。第三はその他であるが、その第二は晶子さん独特の境地で、そこへは当時一しよに作歌に精進した才人達誰もついて行かなかつたし又行けもしなかつた。私は前記秀歌選を作るに当つてこの種の歌らしいものを拾つて仮に源氏振といふ一項を起して見た。鑑賞上その方が便宜が多からうと思つたからで、外に大した意味はない。この歌などがその一例、牡丹が咲いたらそれを機会に夜宴が開かれよう、その時こそ君の御姿が見られよう、春が闌けて早く牡丹の咲く頃にならないかなといふ藤氏の女あたりの心持を詠んだものと察せられる。淵酔は宴会の意味。

山の月雪を照して我が友が四人に分つ振り出し薬

十二年の二月同行四人で箱根早雲山の大雄山別院に泊して珍しい一夜を明かされた時の作。友の一人が少し風気で携行した葛根湯か何か煎じてゐたが、山上の寒さの身にしむ宵とて皆に分けて飲ませる光景、外の山には雪が積つてゐてその上を弦月が照らしてるといふわけである。又その時の作には 山寺は雲に満ちたる二月にて鉛の色す夕暮の庭 雪白き早雲山の頂きに近くゐて聞く夕風の音 などがあり、その帰途十国峠を過ぎては 峠路の六里の間青海を見て枯草の世界を伝ふ といひ、熱海から多賀へ出て一泊されては 海に向き材木積める空地のみ僅に白き夕月夜かな の歌を残しこの行は終る。

み侍み経を艶に読む夜などをかしかりける一人臥しかな

源氏の紫の上などを思つて読まれたものではなからうか。近世の読経は陰気くさくもあり、宗旨の匂ひが紛々として鼻をつくが、平安朝のそれは全く感じが違ひ、著しく音楽的に響いたものの様で、されば艶にとあらはされ、心よくなめらかに響いてくる読経の声を聞くなど君の帰らぬ夜もまたをかしといふ心であらうか。また おこなひに後夜起すなる大徳のしはぶく頃に来給ふものか といふ歌なども同じ姫君の上であらう。 春の宵君来ませよと心皆集めて念ず小柱のもと これは少し違つて花散る里といつたやうな人の歌かもしれない、かういふ歌をよむと、明治三十七八年頃渋谷の御宅で先生の源氏の講義を聞いてゐる学校の生徒達を思ひ出す。私もその一人であつた。夫人は赤ちやんを抱いてわきから助言された。その頃も斯ういふ種類の歌が盛に作られたやうである。

大島が雪積み伊豆に霰降り涙の氷る未曾有の天気

作者には 大昔夏に雪降る日記など読みて都を楽しめり我 といふ歌があり、日記は吾妻鏡を斥すのであらうが、季節はづれの天候を短い歌の中でこなすことは極めて難しいわざで先づ成功は望めない。平生暖かい筈の伊豆に一日寒波が襲来し、椿の大島に雪が積り、伊豆山には霰が降り故人を偲ぶわが涙は為に凍ると遠きより近きに及びその光景を抒しつつ未曾有の天気と結んだ手際のあざやかさ、洵に見事なものである。

捨て書きす恋し恨めし憂し辛し命死ぬべしまた見ざるべし

これも紫の上のやうな若い人の歌で、たとへば草紙に手習ひをしてゐる様子を戯れて詠じたものと見てもよからう。底をついた表現とでもいひたいやうな歌ひぶりが面白い。

戸立つれば波は疲れし音となるささねば烈し我を裂くほど

十二年の晩秋、当時唯一軒よりなかつた網代の湯宿佐野家に滞在中の作。座敷の前は直ぐ海で、今日は波が高い。余り音がひどいので硝子戸を立てて見ると急に音が弱つてまるで人なら疲れたもののやうに聞こえる。それも少しさびしいので、また明けると、まるで私を引き裂く様な勢でとび込んでくるといふわけである。この時の歌には 櫨紅葉燃殻のごと残りたる上に富士ある磯山の台 三方に涙の溜る海を見て伊豆の網代の松山に立つ 故なくば見もさびしまじ下の多賀和田木の道の水神の橋 などが数へられる。

麗色の二なきを譏りおん位高きを嘲み頼みける才

源氏の恋人達の中には一寸見当らない。清少納言は恋愛の対象として如何か。栄花の中の藤氏の実在人物にはあるかも知れない。或は作者自らもし平安時代にあつたら斯う歌ふであらうとも思はれる。私はあの人の様な美人ではない、あの人のやうに位も高くはない。しかし私にはあの人達の持つてゐない才がある。容色と位と才と男はどれを取るだらう、といふのである。作者に才を頼む心があつたので興が深い。

そこばくの山の紅葉を拾ひ来て心の内に若き日帰る

十二年の秋の盛りに日光に遊ばれ、中禅寺湖畔に宿つた時の歌。この時は紅葉の歌が沢山出来てゐる。 水色の橡の紅葉に滝の名を与へまほしくなれる渓かな 掻き分けて橡の葉拾ふ奥山の紅葉の中に聖者もありと といふ様に色々の紅葉、その中には聖者のやうな橡紅葉もあつて、それを持ち帰つて並べて見ると雛でも飾るやうで久しく忘られた若い心が帰つて来た。

牡丹散る日も夜も琴を掻き鳴らし遊ぶ我世の果つる如くに

牡丹散るとそこで切つて読むのである。またしまひは遊ぶ我が世と続くのであらう。咲き誇つた牡丹の花も遂に散つた、それを見た美女が私達は日夜管絃の遊びにふけつてゐるが其の終りもこんな風なのであらうと忽ち無常観に打たれた処であらう。

男体の秋それに似ぬ臙脂虎と云ふものありや無しや知らねど

紅葉の真盛りの男体山を真向正面から抒して、まるで臙脂色の虎――もしそんなものがゐたら――赤い斑の虎のやうだといつたのである。しかし臙脂虎とは紅をつけた虎の意味で悍婦を斥すと辞書にある。従つてありやなしや知らねどといふ言葉の裏には悍婦の意も自ら含まれてゐるのであらう。又同じ時同じ山を詠んだ歌に 歌舞伎座の菊畑などあるやうに秋山映る湖の底 わが閨に水明りのみ射し入れど全面朱なり男体の山 などがあり、又戦場が原に遊んでは 宿墨をもて立枯の木をかける外は白けし戦場が原 さるをがせなどいふ苔の房垂れて冷気加はる林間の秋 といふ様なすばらしい歌もこの時出来てゐる。

男をば謀ると云ふに近き恋それにも我は死なんとぞ思ふ

わたしといふ女はまあ何といふ女であらう。男をはかる位の軽い気持ではじまつたこの度の恋でさへ今私は死ぬほどの思ひをしてゐるとわが多情多恨を歎くのであるが、之も王朝のことにしないと味が出て来ない。

旅の荷に柏峠の塵積り心に古き夢の重なる

柏峠は伊東から大仁へ越える峠で作者が、良人と共にいく度か通つた所である。見ると旅の鞄にほこりが厚くついて居る、柏峠のほこりだ。その様に私の心は往日の思ひ出で一杯だといふ情景を相応せしむる手法の一例である。この行それから湯が島に行かれたが、その道で 大仁の金山を過ぎ嵯峨沢の橋を越ゆれば伊豆寒くなる と詠まれ、又著いては 湯が島の落合の橋勢子の橋見ても越えてもうら悲しけれ と詠まれてゐる。

手に触れし寝くたれ髪を我思ひ居れば蓬に白き露置く

家に帰れば夏の夜は早く明け、蓬には白玉の露が置く。手の先には寝くたれ髪の感覚がそのまま残つて居て、我は呆然として女を思ふ、白露の玉を見ながらといふこれも平安期の情景の一つ。

ほのじろくお会式桜枝に咲き時雨降るなる三島宿かな

御会式桜とは池上の御会式の頃即ち柿の実の熟する頃に返り咲く種類の桜のことでもあらうか。旅の帰りに三島明神のほとりを通ると葉の落ちた枝に御会式桜が返り咲いてゐて珍しい、そこへ時雨が降り出した。それは富士の雪溶の水の美しく流れる三島宿に相応はしい光景である。この歌の調子の中にはさういふ心持も響いてゐる。

輦の宣旨これらの世の人の羨むものを我も羨む

Chapter 5 of 30
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