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平凡
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二葉亭四迷
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翻訳 Pagera AI
原文 Public Domain
Chapter 7 of 16

7

斯ういう事情で此様な心持になっていたから、中学卒業後尚お進んで何か専門の学問を修めようという場合には、勢い政治学に傾かざるを得なかった。父が上京して何を遣りたいのだと言った時にも、言下に政治学と答えた。飛んだ事だといって父が夫では如何しても承知して呉なかったから、じゃ、法学と政治学とは従兄弟同士だと思って、法律をやりたいと言って見た。法律学は其頃流行の学問だったし、県の大書記官も法学士だったし、それに親戚に、私立だけれど法律学校出身で、現に私達の眼には立派な生活をしている人が二人あった。一人は何処だったか記憶がないが、何でも何処かの地方で代言をして、芸者を女房にして贅沢な生活をしていて、今一人は内務省の属官でこそあれ、好い処を勤めている証拠には、曾て帰省した時の服装を見ると、地方では奏任官には大丈夫踏める素晴しい服装で、何しても金の時計をぶら垂げていたと云う。それで父も法律なら好かろうと納得したので、私は遂に法学研究のため斯うして汽車で上京するのだ。

二十六

東京へ着いたのは其日の午後の三時頃だったが、便って行くのは例の金時計をぶら垂げていたという、私の家とは遠縁の、変な苗字だが、小狐三平という人の家だ。招魂社の裏手の知れ難い家で、車屋に散々こぼされて、辛と尋ね当てて見ると、門構は門構だが、潜門で、国で想像していたような立派な冠木門ではなかった。が、標札を見れば此家に違いないから、潜りを開けて中に入ると、直ぐもう其処が格子戸作りの上り口で、三度四度案内を乞うて漸と出て来たのを見れば、顔や手足の腫起んだような若い女で、初は膝を突きそうだったが、私の風体を見て中止にして、立ちながら、何ですという。はてな、家を間違えたか知らと、一寸狼狽したが、標札に確に小狐三平とあったに違いないから、姓名を名告って今着いた事を言うと、若い女は怪訝な顔をして、一寸お待ちなさいと言って引込んだぎり、中々出て来ない。車屋は早く仕て呉れという。私は気が気でない。が、前以て書面で、世話を頼む、引受けたと、話が着いてから出て来たのだし、今日上京する事も三日も前に知らせてあるのだから、今に伯母さんが――私の家では此家の夫人を伯母さんと言いつけていた――伯母さんが出て来て好いように仕て呉れると、其を頼みにしていると、久らくして伯母さんではなくて、今の女が又出て来て、お上ンなさいという。荷物が有りますと、口を尖がらかすと、荷物が有るならお出しなさい、というから、車屋に手伝って貰って、荷物を玄関へ運び込むと、其女が片端から受取って、ズンズン何処かへ持ってッて了った。

車屋に極めた賃銭を払おうとしたら、骨を折ったから増を呉れという。余所の車は風を切って飛ぶように走る中を、のそのそと歩いて来たので、些とも骨なんぞ折っちゃいない。田舎者だと思って馬鹿にするなと思ったから、厭だといった。すると、車屋は何だか訳の分らぬ事を隙間もなくベラベラと饒舌り立って、段々大きな声になるから、私は其大きな声に驚いて、到頭言いなり次第の賃銭を払って、東京という処は厭な処だと思った。

車屋との悶着を黙って衝立って視ていた女が、其が済むのを待兼たように、此方へ来いというから、其跟に随いて玄関の次の薄暗い間へ入ると、正面の唐紙を女が此時ばかりは一寸膝を突いてスッと開けて、黙って私の面を視る。私は如何して好いのだか、分らなかったから、

「中へ入っても好いんですか?」

と狼狽して案内の女に応援を乞うた時、唐紙の向うで、勿体ぶった女の声で、

「さあ、此方へ。」

私は急に気が改まって、小腰を屈めて、遠慮勝に中へ入った。と、不意に箪笥や何や角や沢山な奇麗な道具が燦然と眼へ入って、一寸目眩しいような気がする中でも、長火鉢の向うに、三十だか四十だか、其様な悠長な研究をしてる暇はなかったが、何でも私の母よりもグッと若い女の人が、厚い座布団の上にチンと澄している姿を認めたから、狼狽して卒然其処へドサリと膝を突くと、真紅になって、倒さになって、

「初めまして……」

二十七

伯母さん――といっては何だか調和が悪い、奥様は一寸会釈して、

「今お着きでしたか?」

「は」、と固くなる。

「何ですか、お国では阿父さんも阿母さんもお変りは有りませんか?」

「は。」

と矢張固くなりながら、訥弁でポツリポツリと両親の言伝を述べると、奥様は聴いているのか、いないのか、上調子ではあはあと受けながら、厭に赤ちゃけた出がらしの番茶を一杯注いで呉れたぎりで、一向構って呉れない。気が附いて見ると、座布団も呉れてない。

何時迄経っても主人が顔を見せぬので、

「伯父さんはお留守ですか?」

と不覚言って了った顔を、奥様はジロリと尻眼に掛けて、

「主人はまだ役所から退けません。」

主人と厭に力を入れて言われて、じゃ、伯父さんじゃ不好ったのか知ら、と思うと、又私は真紅になった。

ところへバタバタと椽側に足音がして、障子が端手なくガラリと開いたから、ヒョイと面を挙ると、白い若い女の顔――とだけで、其以上の細かい処は分らなかったが、何しろ先刻取次に出たのとは違う白い若い女の顔と衝着った。是が噂に聞いた小狐の独娘の雪江さんだなと思うと、私は我知らず又固くなって、狼狽てて俯向いて了った。

「阿母さん阿母さん」、と雪江さんは私が眼へ入らぬように挨拶もせず、華やかな若い艶のある美い声で、「矢張私の言った通だわ。明日が楽だわ。」

「まあ、そうかい」、と吃驚した拍子に、今迄の奥様がヒョイと奥へ引込んで、矢張尋常の阿母さんになって了った。

「厭だあ私……だから此前の日曜にしようと言たのに、阿母さんが……」といいながら座敷へ入って来て、始めて私が眼へ入ったのだろう。ジロジロと私の風体を視廻して、膝を突いて、母の顔を見ながら、「誰方?」

「此方が何さ、阿父様からお話があった古屋さんの何さ。」

「そう。」

といって雪江さんは此方を向いたから、此処らでお辞儀をするのだろうと思って、私は又倒さになって一礼すると、残念ながら又真紅になった。

雪江さんも一寸お辞儀したが、直ぐと彼方を向いて了って、

「私厭よ。阿母さんが彼様な事言って行かなかったもんだから……」

「だって仕方がなかったンだわね。私だって彼様な窮屈な処へ行くよか、芝居へ行った方が幾ら好いか知れないけど、石橋さんの奥様に無理に誘われて辞り切れなかったンだもの。好いわね、其代り阿父様に願って、お前が此間中から欲しい欲しいてッてる彼ね?」と娘の面を視て、薄笑いしながら、「彼を買って頂いて上げるから……仕方がないから。」

「本当?」と雪江さんも急に莞爾々々となった。私は見ないでも雪江さんの挙動は一々分る。「本当? そんなら好いけど……ちょいとちょいと、其代り……」と小声になって、「ルビー入りよ。」

「不好ません不好ません! ルビー入りなんぞッて、其様な贅沢な事が阿父様に願えますか?」

「だってえ……尋常のじゃあ……」と甘たれた嬌態をする。

「そんならお止しなさいな。尋常ので厭なら、何も強いて買って上げようとは言わないから。」

「あら! ……」と忽ち機嫌を損ねて、「だから阿母さんは嫌いよ。直ああだもの。尋常のじゃ厭だって誰も言てやしなくってよ。」

「そんなら、其様な不足らしい事お言いでない。」

「へえへえ、恐れ入りました」、と莞爾して、「じゃ、尋常のでも好いから、屹度よ。ねえ、阿母さん、欺しちゃ厭よ。」

「誰がそんな……」

「まあ、好かった!」と又莞爾して一寸私の面を見た。

二十八

私は先刻から存在を認めていられないようだから、其隙に窃そり雪江さんの面を視ていたのだ。雪江さんは私よりも一つ二つ、それとも三つ位年下かも知れないが、お出額で、円い鼻で、二重顋で、色白で愛嬌が有ると謂えば謂うようなものの、声程に器量は美くなかった。が、若い女は何処となく好くて、私がうッかり面を視ている所を、不意に其面が此方を向いたのだから、私は驚いた。驚いて又俯向いて、膝前一尺通りの処を佶と視据えた。

雪江さんは又更めて私の様子をジロジロ視ているようだったが、

「部屋は何処にするの?」

と阿母さんの方を向く。

「え?」と阿母さんは雪江さんの面を視て、「あの、何のかい? 玄関脇の四畳が好かろうと思って。」

「あんな処 ……」

と雪江さんが一寸驚くのを、阿母さんが眼に物言わせて、了解ませて、

「彼処が一番明るくッて好いから。」

「そう」、と一切の意味を面から引込めて、雪江さんは澄して了った。

「おお、そうだっけ」、と阿母さんの奥様は想出したように私の方を向いて、「荷物がまだ其儘でしたっけね。今案内させますから、彼方へ行って荷物の始末でもなさい。雪江、お前一寸案内してお上げ。」

雪江さんが起ったから、私も起って其跟に随いて今度は椽側へ出た。雪江さんは私より脊が低い。ふッくりした束髪で、リボンの色は――彼は樺色というのか知ら。若い女の後姿というものは悪くないものだ。

椽側を後戻りして又玄関へ出ると、成程玄関脇に何だか一間ある。

「此処よ。」

と雪江さんが衝と其処へ入ったから、私も続いて中へ入った。奥様は明るいといったけれど、何だか薄暗い長四畳で、入るとブクッとして変な足応えだったから、先ず下を見ると、畳は茶褐色だ。西に明取りの小窓がある。雪江さんが其を明けて呉れたので、少し明るくなったから、尚お能く視廻すと、壁は元来何色だったか分らんが、今の所では濁黒い変な色で、一ヵ所壊れを取繕った痕が目立って黄ろい球を描いて、人魂のように尾を曳いている。無論一体に疵だらけで処々鉛筆の落書の痕を留めて、腰張の新聞紙の剥れた蔭から隠した大疵が窃と面を出している。天井を仰向いて視ると、彼方此方の雨漏りの暈したような染が化物めいた模様になって浮出していて、何だか気味の悪いような部屋だ。

「何時の間にか掃除したんだよ。それでも奇麗になったわ」、と雪江さんは部屋の中を視廻していたが、ふと片隅に積んであった私の荷物に目を留て、「貴方の荷物って是れ?」と、臆面もなく人の面を視る。

私は狼狽てて壁を視詰て、

「然うです。」

「机がないわねえ。私ン所に明いてるのが有るから、貸て上ましょうか?」

「なに、好いです明日買って来るから」、と矢張壁を視詰めた儘で。

「私要らないンだから、使っても好くってよ。」

「なに、好いです、買って来るから。」

「本当に好くってよ、然う遠慮しないでも。今持って来てよ」、と蝶の舞うように翻然と身を翻して、部屋を出て、姿は直ぐ見えなくなったが、其処らで若い華やかな声で、「其代り小さくッてよ」、というのが聞えて、軽い足音がパタパタと椽側を行く。

私は荷物の始末を忘れて、雪江さんの出て行った跡をうっかり見ていた。事に寄ると、口を開いていたかも知れぬ。

二十九

荷物を解いていると、雪江さんが果して机を持って来て呉れた。成程小さい――が、折角の志を無にするも何だから、借りて置く事にして、礼をいって窓下に据えると、雪江さんが、それよか入口の方が明るくッて好かろうという。入口では出入りの邪魔になると思ったけれど、折角の助言を聴かぬのも何だから、言う通りに据直すと、雪江さんが、矢張窓の下の方が好いという。で、矢張窓の下の方へ据えた。

早速私が書物を出して机の側に積むのを見て、雪江さんが、

「本箱も無かったわねえ。私ン所に二つ有るけど、皆塞がってて、貸して上げられないわ。」

「なに、買って来るから、好いです。」

「そんならね、晩に勧工場で買ってらッしゃいな。」

「え?」と私は聞直した、――勧工場というものは其時分まだ国には無かったから。

「小川町の勧工場で。」

「勧工場ッて?」

「あら、勧工場を知らないの? まあ! ……」

と雪江さんは吃驚した面をして、突然破裂したように笑い出した。娘というものは壺口をして、気取って、オホホと笑うものとばかり思ってる人は訂正なさい。雪江さんは娘だけれど、口を一杯に開いて、アハハアハハと笑うのだ。初め一寸仰向いて笑って、それから俯向いて、身を揉んで、胸を叩いて苦しがって笑うのだ。私は真紅になって黙っていた。

Chapter 7 of 16
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